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魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

“場所”を心地好く感じます。

 

これは「心地好い“場所”が有る」という意味ではなくて、「“場所”(という言葉)が心地好い」という意味です。

 

何の変哲もないありふれた言葉であるはずの、“場所”という言葉が心地好いのですね。

 

“パワースポット”と呼ばれる所が幾つか有りますが、本当の“パワースポット”は己の内に在ります。

 

つまり、己自身が“パワースポット”なのです。

 

「私は“それ”である」という言葉にある通り、「私は“パワースポット”である」なのですね。

 

 

 

私が今考えているのは、「“場所”は何を語るのか?」という事です。

 

「私は“場所”である」という事は、「私はその場の全てである」という事です。

 

名前・肩書き・肉体・思考・感情・欲求・観念等の部分ではなく、「目に見えるものとそうでないものを全てを含むのが私」という認識です。

 

“場所”の中に全て有る…という事は、「“場所”が何を言っているのか?」という事が分かれば、全てを理解出来るのではないでしょうか。

 

“場所”の全てを理解出来る一言、“場所”の中に有るものも全ての本質を理解出来る一言が有るのではないか?

 

…そういう事を考えているのです。

 

 

 

 

 

 

「自分で部屋を借りて刈谷市に住み、刈谷市内で働く」というパターンは、実は人生で初めてのパターンです。

 

前職は「会社の寮で刈谷市に住み、刈谷市外で働く」というパターンでしたし、それよりも前は「自分で部屋を借りて刈谷市に住み、何処にも働きに出ない」というパターンでした。

 

今回は「住むのも働くのも刈谷市内で、働くのでお金も入る」という、ほぼ完璧なパターンと言えます。

 

先に恋愛を終わらせていた事も大きく、純粋に近場のみで探す事が出来ました。

 

恋愛の問題が残っていたら、仕事を探す条件に「女性が多い所」を組み込んで、それが「刈谷市外にしか見付かりません」という事になったかも知れません。

 

 

 

もしかすると、刈谷市=お金になるかも知れません。

 

刈谷市に感じているもの=お金という事ですね。

 

実際、刈谷市は裕福な街らしいのですが、それを理由に刈谷市を選んでいるわけではなくて、「刈谷市以外に住めない」と感じる何かが在るから、刈谷市を選んでいるのです。

 

スピリチュアルを知らなかった頃の私でさえ、「前世で此処に居た」と感じたくらいですからね。

 

外的な条件ではなくて“場所そのもの”に惹かれたのは間違い有りません。

 

 

 

「刈谷市って何?」と聞かれて、パッと思い浮かぶのは“幸せ”です。

 

「心が洗われる」とか、「魂が癒される」とか、そういう表現をしても良いです。

 

「ここでないと私は生きた心地がしない」とか、他の“場所”に居れば「何で私は此処に居るんだ?」と違和感を覚えるような、そういう感じなのです。

 

「刈谷市の中で更にピンポイントに“場所”を探しているんじゃないか?」と思っていて、次に行く会社がそうなのかも知れません。

 

 

 

ちょっと面白い事が有りまして、今回決まった会社の前に別の会社も受けていたのですが、私は「そこには行きたくない」と感じていました。

 

しかし、あまり悠長にしても居られなかったので、仕方無くそこに行こうとしたのです。

 

「そこで働かせて欲しい」と心にも無い事を言って、「決まったら連絡しますので」という事になったのですが、やっぱり「行きたくないな~」と思い続けていました。

 

すると、2週間を過ぎても連絡が来ませんでした。

 

その時に思ったのは、「これはもう別の“場所”を探した方が良いな」です。

 

連絡が無い事を不快にも感じませんでしたし、「行かなくて良かった」とも思いませんでしたが、結果的に「行かなくて良かった」と思う事になりました。

 

 

 

やっぱり、「何を感じているのか?」という事は重要です。

 

「違和感の無い選択をする事」ですね。

 

その為には、自分自身の価値観を良く知っておく必要が有ります。

 

自分自身の価値観とは、「それさえ在れば他の条件は不問」と言えるようなものですが、他者の価値観を持ってしまっていると、それが非常に分かり難くなります。

 

他者の価値観を自分の価値観と勘違いして、違和感が強いにも関わらずその選択をしてしまう事だって有ります。

 

「今回はその事を学べたのではないか?」と思います。

 

「仕事は“場所”選ぶ」という私の考えは正しいかも知れません。

 

就活の結果、私が住んでいる部屋から非常に近い場所に有る会社へ行く事になりました。

 

私の場合、就活よりも場活と言った方が良いと思いますが、物理的な距離の近さもさる事ながら、「その場所自体が気に入った」と言って良いです。

 

勤務条件だけを見るなら真っ先に排除していた事ばかりなのですが、場所の良さがその全てを帳消しにしました。

 

素直に「是非此処で」と思ったのは初めての事だと思います。

 

「何処に行くのか?」や「何処に居るのか?」、そして、「そこに“行きたい”と感じるか?」や「そこに“居たい”と感じるか?」が、私の仕事選びの価値観なのでしょう。

 

「どうして自宅では駄目なのか?」という事は分からないのですが、その会社に居ると何かしら得られるものが在るのかも知れません。

 

 

 

“行きたい(居たい)”と感じるか?

 

これって結構難しい事だと思います。

 

給料の高低や知名度、福利厚生の良さと言った条件とは全く関係が無いので、そうだと分かっていないと採用しようもない価値観です。

 

採用する側からすると、「“来て(居て)欲しい”と感じるか?」になると思うのですが、学歴や経験や年齢と言った条件だけで選ぼうとすると、これまた無理な話です。

 

そもそも、「“来て(居て)欲しい”と感じる」という事自体、一定の感性が要るわけです。

 

外的条件ではなくて、お互いに本質のみで選ぶという事は、お互いに己の本質を理解していないと出来ない事です。

 

 

 

会社に行くわけですので、必然的にお金も付いて来ます。

 

「“場所”がお金を生む」という形になるので、「お金の本質は“場所”である」とも言えます。

 

…という事は、「“場所”に何を感じているのか?」という事を知る価値が出て来ます。

 

女性から感じるものは幾つも在りますが、その最上位は“愛”です。

 

「では、“場所”から感じるものの場合、その最上位は“何”になるのか?」という事ですね。

 

その“何”がお金の本質かも知れません。

値段の“高い”、“安い”が有りますね。

 

あれもちょっと不思議なのですが、10万円でも“高い”と感じない事が有るのに、100円でも“高い”と感じる事が有るのです。

 

そして、今まで働いて得た給料の大半が“安い”と感じていて、「この“高い”や“安い”は何を基準にしているのか?」という事を考えていたのです。

 

そうすると、“高い”と感じる場合は大半が“支払う時、“安い”と感じる時は大半が受け取る時である事が分かりました。

 

支払う時に“安い”と感じる事や、受け取る時に“高い”と感じる事はほとんど無いわけです。

 

「これは一体何なのだろうな?」と疑問に思っていました。

 

 

 

そうやってこの記事を書いていると、「おそらく原因は過去との比較だ」という事に気付きました。

 

“高い”と感じるものは、過去は安かったものです。

 

“安い”と感じるものは、過去は高かったものです。

 

“高い”とか“安い”とか、それらは過去の記憶の中に在る金額と、今の金額との比較によって生じるものです。

 

つまり、“高い”とか“安い”とか言っている時は過去に居るわけです。

 

今だけを見るなら、“高い”も“安い”も無いはずです。

 

 

 

しかし、それだけでは根本的な解決にはなりません。

 

「過去と比較しなければ良い」と言ったところで、意思とは無関係に過去との比較が生じてしまいます。

 

ならばいっその事、思う存分に“高い”とか“安い”とかを感じたら良いと思います。

 

確かに意識は過去に行っているとしても、“高い”とか“安い”とかを感じているのは今です。

 

今感じている以上、それは過去の事ではありません。

 

 

 

支払う時には“高い”、受け取る時には“安い”。

 

これは両方とも自分にとって都合が悪い事です。

 

支払う時には“安い”、受け取る時には“高い”。

 

これは両方とも自分にとって都合が良い事です。

 

私の“高い”と“安い”は前者なのですが、結局これは何を言いたいのでしょうか?

 

“高い”は本当は何と言っていて、“安い”は本当は何と言っているのでしょうか?

 

「そんなに出せない」とか、「もっと寄越せ」とか、そういう事を言いたいのでしょうが、それはつまり、「私が“何”だから」なのでしょうか?

 

 

 

その“何”が重要な気がします。

 

それが分かれば、過去と今の金額を比較して“高い”だの“安い”だの感じなくなると思います。

 

やっぱり、金額は「感じるもの」なのですね。

 

もし、“高い”も“安い”も感じなければ、給料や物の値段はただの設定です。

 

「ただ、そういう金額である」と言うだけで、内面的に何の不満も不足も生じないのではないでしょうか?

私が求める結論は常に、一言で済むようなシンプルなものです。

 

その一言で私自身に説明が出来て、その説明に私自身が納得出来ればそれで良いのです。

 

私が他者に対して理解を求める気持ちがほとんど無いのは、「本当に理解を求めている相手も、本当に理解を求められている相手も、他ならぬ自分自身である」という事を知っている為です。

 

こういう考え方を端的に言うなら「価値観」になると思うのですが、金銭感覚というのはお金に対する自分自身の価値観です。

 

なので、似たような形の価値観がお金に対しても在るはずです。

 

それを探してみようと思っています。

 

 

 

私はおそらく、「自分自身のお金の価値観に自信が無いのだ」と思います。

 

それは単に「よく知らないから」というだけの事だと思いますが、知らないと他者の価値観に触れた時にそれに惑わされて、己の価値観を見失ってしまいます。

 

「己の価値観を見失う」という事は、「それを失っている」という事に等しいです。

 

今の私で言うなら、「お金を失っている」という事になるでしょう。

 

少しずつで良いので、私自身の金銭感覚に対する理解を深めて行こうと思います。

 

そうしている内に、私の金銭感覚の本質に辿り着けるかも知れません。

 

「金銭感覚の本質」とは、「その一言だけでお金の全てが理解出来る言葉」です。

 

冒頭で述べた通りの事ですね。

 

 

 

私はまず、「お金を増やそう」という考えは有りません。

 

そうする理由が全く理解出来ないのです。

 

「お金を沢山持とう」という考えも有りません。

 

同じく、そうする理由が全く理解出来ません。

 

つまり、「私の金銭感覚にはそれらの考えが合わない」という事になります。

 

「多ければ多い程良い」という価値観ではないのでしょう。

 

 

 

「人の為に使おう」という考えも有りません。

 

同時に、「私の為に使って欲しい」という考えも有りません。

 

「自分の為に使う」という考え方をしていて、それ故に他者にもそうするように希望します。

 

よく「食事は男性が奢るべき」みたいな話が有りますけど、この場合は「自分が誘った時は自分が出し、相手が誘った場合は折半」という考え方をしています。

 

誘う時は「自分が出す」という事を先に伝え、誘われた時は「折半なら行く」と伝えます。

 

本当に本当の事を言うと、「飯なんて一人で食えば良いじゃねーか」なので、そもそもそういう機会が無いのですが。

私は今の今まで金銭感覚という言葉が有った事を忘れていました。

 

何故か急に思い出したのですが、もしかするとこれが私の求める本当のお金でしょうか?

 

お金は未だに何の事かハッキリしませんが、私なりの金銭感覚ならちゃんと在ります。

 

その金銭感覚がお金そのものだとするなら、「お金を観る」という事は可能だと思いますし、「お金を持っている」と言えるでしょう。

 

本当かどうか試してみないと分かりませんが、「何だよ…」という感じですね。

 

金銭感覚は在る。

 

これは間違いの無い事なので、ここを基点に模索しようと思います。

 

 

 

最初に金銭感覚の言語化を試みようと思います。

 

「金銭感覚は何を言っているのか?」という事ですね。

 

私にとって感じられるものは、全て言語なのですよ。

 

もちろん、日本語ではありません。

 

何言語と呼ぶべきか困るところですが、それを日本語に直して初めて私が理解出来るのです。

 

金銭感覚が言っている事が有るとしたら、それこそが「私の求めたお金」と呼ぶに相応しい事でしょう。

 

 

 

派手さは全く有りません。

 

かなり地味だと思います。

 

何だって構いません。

 

それが私のお金であるならば…です。

この度は就活の為、色々と考えたり感じたりしながら動き回った結果、「仕事はお金を稼ぐ為だけのものではない」という事と、「私は“行きたい”と思う場所で仕事を選んでいる」という事が洗い出されました。

 

「表面的な条件や待遇よりも、私の“行きたい”を選ぶ」というのが私の基準であり、価値観なのです。

 

“行きたい”と思った場所にその仕事が有って、他にも何かそう思うに値する理由もそこに在るのだと思います。

 

恋愛が良い例ですが、他にも何か在るのかも知れません。

 

 

 

全然違う話になりますが、“悟り”と“差取り”は範囲が異なるものと思います。

 

日本という国を“悟り”とするなら、“差取り”は都道府県の中の1つ、あるいはもっと小さくて市町村の1つと言った感じです。

 

「愛知県は日本か?」と言うと正しいのですが、「日本は愛知県か?」と言うと違います。

 

日本には愛知県以外の都道府県が存在しています。

 

“差取り”というのは、簡単に言うと「見下すのを辞める(彼我の差を作らない)事」ですが、「それが“悟り”の全てを指しているか?」と言うと、全然違うと思うのですね。

 

 

 

私が思っている“悟り”とは、「本当の事を知る」という感じのものです。

 

本当の事は数多に存在しますが、「その中で一番のもの」とか、「それだけで全てを理解し得るもの」とか、“悟り”にはそういうニュアンスが在るように思います。

 

“差取り”も本当の事では有るのですが、“差取り”だけでは全てを理解する事は出来ません。

 

“差取り”は“空間”の中に有る2つを切り取って、「区別はすれど差別は無い(その2つは同じ)」という感じなのですが、「“悟り”はそもそも切り取らないのではないか?」と思うのですね。

 

言葉にするなら「私は“空間”そのものだ」みたいな感じですね。

 

「目に見える見えないを問わず、“空間”の中に在るもの全て」、もしくは「“空間”を成り立たせている何か」です。

 

 

 

…が、それが今の私に何の役に立つのか分からないし、「積極的に追及しよう」という気も起こらないので、今は日々を淡々かつ丁寧に過ごす事にします。

 

「淡々かつ丁寧に過ごす」というのは、「現時点で構成されているその“空間”の範囲内で、出来る限りの最善を尽くす」という事です。

 

多分、“悟り”は“空間”も超える気がしますね。

 

 

 

 

 

 

「“場所”って何の事を言っているのか?」という事を考えていたのですが、おそらく“空間”を指していると思います。

 

その“空間”の中に居て、感じているものを“場所”と呼んでいるのですね。

 

「“場所”とは感じるものであって、物理的に居る所ではない」という事になります。

 

“場所”に求めるものは“心地好さ”です。

 

それが“場所”の本質になります。

 

私は嫌と言う程その反対の“心地悪さ”を感じて来たので、その“場所”に行けば良いか悪いかは直ぐに分かります。

 

よくよく考えると、人に対するそれと何ら変わりないですね。

 

 

 

もっと突き詰めると、“空間”は“情報”とも言えます。

 

“空間”の中には、見に見える物とそうでないものが混在し、実に多様な要素が同居しています。

 

それらが複合して1つの“情報”となり、その“情報”を感知して「ここは心地好い」とか、「ここは微妙」とか、「ここには居られたものではない」と感じるのだと思います。

 

刈谷市の、取り分け私が今住んでいる辺りの“空間”は、私にとって“心地好い”と感じるような“情報”が在るのでしょう。

 

これはお金と引き換えに出来るものではありませんし、考え方によっては“豊かさ”と言えなくもありません。

 

“豊かさ”とは「その“空間”に何を感じているか?」というところ、つまり、“情報”の質に在るのかも知れません。

 

 

 

私はそこまで悟り切れませんが、「その“空間”そのものが自分自身である」と言っても良いのかも知れません。

 

「感じているものが自分自身である」という事はハッキリしているので、そういう事になるのですよね。

 

私は今まで、“空間”の中に在る1つの要素のみを切り取って、ピンポイントにそれを感じ、「これは自分自身だ」と言い続けて来ました。

 

最たる例が女性ですね。

 

全体的には「何か居心地悪いなぁ」と感じながらも、そこに“愛”という名の一輪の花が咲いていて、その花だけを見ればこの上無いものを感じていたわけですね。

 

興味も必然性も感じないので、「“空間”全体を自分自身として捉える」という事は考えていませんが、その内試みる事になるのでしょうか?

今の私が追及しているのは、「“お金を持っている”と言えるのはどんな状態に在る時か?」という事です。

 

私はつい最近、「偽物のお金持ちが持っているのは劣等感であって、劣等感は“お金を持っている”とは言えない」と納得したわけなのですが、「では、本物のお金持ちは本当は何を持っているのか?」という事を追及しているのです。

 

その過程で「“仕事”かも知れない」という可能性を観ているからこそ、就活をしているわけです。

 

ですので、厳密に言うと“仕事”を見付けたいわけではないのですね。

 

「“お金を持っている状態”を知りたい(味わいたい)」というのが、今回の追及の根幹になります。

 

就活のプロセスに入ってしまっているので、それはそれでこのまま流れに任せるとして、平行してその根幹自体の追及もして行きます。

 

 

 

「今、私は“お金を持っている状態”と言えるか?」と言うと、全く言えないと思います。

 

今感じているものを、とても「そうだ」とは言えません。

 

しかし、その問いは強く感じられていた内なる反応を鎮めました。

 

代わりに、腕にピリ付くような反応が現れました。

 

やっぱり、“お金を持っている状態”は身体感覚の中に在るのでしょうか?

 

皮膚と潜在意識は関係が深いらしいので、潜在意識の中に“お金を持っている状態”が在るのかも知れません。

 

 

 

話は変わるのですが、「仕事を“何”で選んでいるか?」という事について、「それっぽい」と思う事が有るので記したいと思います。

 

おそらく、私は仕事を“場所”で選んでいると思います。

 

“場所”というのは結構トータルな概念で、早い話が「そこに“行きたい”と思うか?」という事なのですが、そこには様々な要素が有って、言葉で説明し切るのは今の段階では無理です。

 

“やりたい”も“行きたい”に含まれているか、ほぼ同じ意味合いらしく、“行きたくない”が在る時は“やりたい”は絶対に出て来ないのですね。

 

これは私にもちょっと意外な事でした。

 

 

 

今の私は「近場が良い」と思っていて、それを条件に就活をしています。

 

「近さで選ぶのか?」と言うと、そうではありません。

 

札幌市に居た時は、何百キロも離れた刈谷市に行きたがっていたわけですし、近場を求めているのは今はその刈谷市に居るからこそです。

 

なので、正確に言うなら「刈谷市の中で働きたい」という事であって、「同じ刈谷市内なら近場が良い」という事なのでしょう。

 

「住むのは刈谷市だが、仕事をするのは刈谷市外」というのは許容出来なくて、「住むのも仕事をするのも刈谷市で」という事かも知れません。

 

 

 

私は見た目上、就活を行っています。

 

本当の意味で本気で行っていますが、その内容は著しく通常の就活からは逸脱しています。

 

現状では女性には用が無いので行う理由も有りませんが、私が婚活するとしたら今の就活と同じ目的で行うと思います。

 

私が婚活をする場合、結婚する事を目的とはしません。

 

全部分かってしまっているので結論から言うと、私の中の理想の女性(“愛”)と出会う事を目的とします。

 

ですので、幾ら高望みしても問題有りません。

 

…と言うより、高望みしないと意味が有りません。

 

“愛”という名の理想の女性に会う為には、「これ以上無いレベルで」という気構えが必要になるのです。

 

 

 

私の就活の目的も、就職する事ではありません。

 

片っ端から受けて、片っ端から落ちても何も問題は有りません。

 

一度それを見て、「探していた“仕事”はこれだ」と感じられれば就活は成功したも同然です。

 

それが外の世界で言う内定ですね。

 

「本採用はどうするか?」と言うと、私がその事に気付いて統合の意思を示せばそうなります。

 

婚活の場合は恋(この人超タイプ)から初まり、「私の中に在るのは何だ?」→「これは“愛”ではないのか?」→「これは“愛”だ」→「私の中に“愛”が在る」→「私はこの“愛”を受け取る」という流れを経て成婚となりますね。

 

婚活で言うなら恋すらしていない状態かも知れませんが、就活において私はそういうプロセスの中に居ると思います。

 

 

 

「仕事は“何”で選ぶのか?」の“何”が重要なのですね。

 

私はずっと「お金で選んでいる」と思っていたのですが、どうやらそうではないらしいのですね。

 

女性は(中身と勘違いされている)性格じゃなくて、見た目で選ぶのが私の正解です。

 

その見た目が何を意味するかもちゃんと分かっていて、見た目の評価が即ち中身の評価である事も知っています。

 

仕事にもそれが在ると思うのです。

 

それを知らないと私は本当の意味で仕事をする事が出来ません。

 

「愛してもいないのに愛している振りをする結婚」とか、「そもそも愛を度外視している結婚」などは「結婚出来ている」と言えないのと同じです。