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魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

私は豊かさを知りません。

 

少しの学びも無い状態からのスタートになります。

 

その為、思い付く事は全て試行しながらの模索となります。

 

今の私が考えているのは、「私の中のお金を受け取ろうとしたらどうなるのか?」という事です。

 

その考えは「真の豊かさを指向する」と決めてから出て来たものなので、「まずはこれ」という事なのだと思います。

 

 

 

最初はストレートに“お金が欲しい”で行ってみます。

 

「それでは欲しい状況が続いてしまうではないか」という突っ込みは抜きにします。

 

「“お金が欲しい”を純粋に感じる」という事をしてみるのです。

 

「それに反応は在るか?」と言うと、「強くはないが、割と心地好いものを感じる」と言う事が出来ます。

 

少なくとも欠乏ではなく、豊かさに向かっていそうではあります。

 

 

 

反応を引き出す事が出来たので、後はその反応を観ます。

 

今回の記事として書けるのはここまでですが、こういう感じの事を繰り返して真の豊かさに近付いて行こうと思います。

 

今にして思えば、“働きたくない”という願望を通して学べた事も少なくないと思います。

 

真の豊かさに辿り着いた暁にはシェアするつもりでいるので、「その時に活かせるんじゃないか」と思うのですよね。

 

例えば、願望のブロックの正体は過去に願って既に実現している古い願望だったりするのですが、その事も詳しく話せると思います。

“働きたくない”が叶っている事に気付く少し前、私は社会を見限りました。

 

「真に安心、幸福、豊かな社会を築くのは不可能だ」と悟ったわけです。

 

その社会とは専ら現代日本を指しているのですが、おおよそ経済的に発展している国全て含むと考えて良いでしょう。

 

私は随分前から社会に適合しない事は分かっていたのですが、完全に「そうだ」と悟ったわけです。

 

その根本に有るのはお金です。

 

お金が土台になっている限り、世の人が訴えている社会が実現するなど有り得ないのです。

 

“働きたくない”という願望もその社会ありきの願望なわけでして、それが叶って消滅した以上は社会からも独立し、新たな道を模索しなくてはなりません。

 

 

 

焦ってもいないし、急いでもいませんが、私は「今直ぐに」という意識でした。

 

悠長に待つつもりは無かったのです。

 

「待つ意味が無いから」です。

 

その甲斐有ってか、「真の豊かさを指向する」という目標が定まりました。

 

こうやって方向を定める事が出来たのは幸いな事です。

 

 

 

私は豊かさを知りません。

 

言葉は知っていても、今まではそれを求める事も出来ませんでした。

 

その理由は分かっていて、「既に叶っている願望に気付く(受け取る)事が優先だったから」です。

 

先に“働きたくない”を受け取ってからでないと、真の豊かさを指向する事が出来ない状態に在ったわけです。

 

思えば“働きたくない”もその根底は豊かさを目指しての事だったのかも知れませんが、豊かさとは程遠いものである事は感じて理解しました。

 

 

 

私は「豊かさを知らない」と今の私をありのままに評したのですが、数年前にも似た文言を用いた事が有ります。

 

その時私は「愛を知らない」を言ったのですが、ちゃんと知る事が出来たのですね。

 

今の私の豊かさと同じように、欠片も感じる事が出来なかったにも関わらずです。

 

そういう前例があるので、豊かさにもチャンスは有ると思うのです。

 

私は既に「あらゆるもの全てが自分自身の中に在る」という事自体は完全に事実としています。

 

ここまで豊かさを迎える土台が整っていれば期待してしまいますね。

“働きたくない”という願望は内も外も実現していた事が分かったのですが、本当に望んでいた事ではない事も分かりました。

 

この願望は私が20代前半の頃、即ち今から20年以上も前に抱いたものだと思うのですが、今の私とその頃の私は全く違います。

 

その頃の私は相当に低い基準で自分自身を観ていたので、今の私がその基準で満足出来るわけがありません。

 

私はこれを叶え続けるつもりはありません。

 

思っていたのとは大きく違ったとは言え、それを望んだ事自体は確かなので、ちゃんと受け取ってから次に進みたいと思います。

 

 

 

もう“働きたくない”という言葉には興味も関心も示されていません。

 

良くも悪くも、“働きたくない”が人生の行動指針になっていたわけでして、それが実現したとなると行動指針が消滅した事になります。

 

願望が願望として、願望が行動指針として存在し続ける為には、願望が実現しない事が必要だからです。

 

今はそれが何か分からないのですが、内的状況は昨日とは明らかに異なっているのは分かるので、次の願望なり行動指針は追々観えて来ると思います。

 

少なくとも“働きたくない”よりは遥かに良いものが出て来るでしょう。

 

 

 

今、私が言えるのは「今の私の基準で願望の設定をし直す」という事です。

 

過去の私からすると意味不明なほど高い基準になると思いますが、今の私ならそれが相応しくて当たり前と思えるものになるでしょう。

 

「設定し直す」と言うよりも、「元々設定されていた願望に戻す(願望を思い出す)」と言った方が良いかも知れません。

 

今感じているものは、昨日感じていたものとは大分違います。

 

その内容は読み解けていませんが、その水準は比較するべくもなく高いものだと思います。

「“働きたくない”は叶っている」と認めざるを得ません。

 

その上で「全く良いものではない」と言わざるを得ません。

 

「願望として持ち歩く(外の世界で叶える)べきものでは決してない」と思います。

 

少なくとも、今感じている限りにおいてはそうです。

 

なので、「“働きたくない”を叶える事は絶対にお勧め出来ません」と書こうと思ったのですが、この後がどうなるか分かりません。

 

“働きたくない”が好ましい何かに変化する可能性が有ります。

 

お金の1つの側面として愛(女)が在るのは確認しているので、それとは異なる側面を観る事が出来るかも知れません。

 

それ次第では「“働きたくない”は本当に素晴らしい」となるかも知れませんし、「これこそ私が真に求めたお金です」と言う事になるかも知れません。

 

 

 

 

私はちょっとやらかしたかも知れません。

 

私がお金を求めた理由は、「女が欲しい」と「働きたくない」です。

 

「お金が欲しい」と言った時、その2つがそれぞれ独立して存在していたのです。

 

「お金が欲しい」はそれらの遠回しな言い方で、「女が欲しい」の「お金が欲しい」と、「働きたくない」の「お金が欲しい」は、同じ「お金が欲しい」でも全く違うわけです。

 

今は「女が欲しい」は消えているのですが、よくよく観てみると「働きたくない」はまだ残っているのですね。

 

 

 

なので、今は「お金が欲しい」と言ったら「働きたくない」という意味しか無いのですが、やらかしているのは「それを外の世界に求め続けていた」という事です。

 

実際に外の世界では何度も実現させているのですが、私の本当の叶え方からすると間違っているかも知れないのです。

 

恋愛に例えるならば、恋そのものを感じてこその恋愛の実現なのに、「意中の人と交際する」という外側の実現だけに的を絞っているようなものですね。

 

この場合ですと、働こうが働くまいが(お金が有ろうが無かろうが)同じなのですね。

 

私的には「意味が無い」のです。

 

 

 

「ではどうすれば良いか?」と言うと、私の中に在る“働きたくない”にアプローチする必要が有ったのです。

 

実際に私の中にポツンと“働きたくない”が在るのです。

 

それは“働きたくない私”なのかも知れませんし、働きたくない何かしらの理由かも知れませんが、本当の意味で今叶えようと思ったら、焦点はそこに当てるべきです。

 

私は今、それを叶えようと思います。

 

“働きたくない”に向かって「今、叶える」とだけ伝えます。

 

現に叶っているわけですからね。

 

これが叶っても尚お金を欲すると言うのであれば、その時はその時で再びお金そのものにアプローチしましょう。

今の私に起こっている行動は、端的に言うと「お金の事で、人に頭を下げて回っている」です。

 

この経験は今までにした事がありませんが、もちろん全く楽しいものではありません。

 

内なる目的を見据えていなければ、失望やら罪悪感やら自己嫌悪やらでとても耐えられたものではなかったと思います。

 

私はそれらを感じてはいません。

 

不安も焦りも有りません。

 

「何とかなるだろう」という楽観もしていません。

 

誰と話している時でも、何をしている時でも、「自分が何を感じているのか?」という事だけを観ています。

 

端から見れば経済的に困窮しているようにしか見えないと思いますが、私は自らの内のお金を常に観ようとしているのです。

 

 

 

暫定的な表現になりますが、「私はお金に値する」と思っています。

 

自分自身の価値をお金で計る意味で、そういう表現を用いているわけではありません。

 

「お金を感じる権利が有る」とでも言った方が良いでしょうか?

 

もっと砕けた言い方をすると、「お金を感じて良い(と許可する)」ですね。

 

感じる分なら幾ら感じてもタダです。

 

私が言う「お金が欲しい」は、そういう意味ですからね。

 

「これなら今の状況とは無関係に叶う」と思うのですよね。

 

 

 

私が求める経験、あるいは体験と言うのは「それを感じる(味わう)事」に他なりません。

 

恋愛ならば「意中の人と交際する事」ではなくて、「恋そのものを感じる事」が私の恋愛経験となります。

 

なので、その事を予め知っていれば、恋に落ちた瞬間に叶うわけですね。

 

そうとは知らずに、「意中の人と交際する」という方向に行っちゃうと、私の場合はアウトなのです。

 

「お金を感じてはいけない」なんて、誰も言いません。

 

私がどれだけお金を感じたところで、他の人の取り分には些かの影響も与えません。

 

目に見えるお金を片っ端から独占すれば「おい、ちょっと待てや」となり得ますが、私が内で感じている分には「まあ、君がそれで良いならご自由に」となるでしょう。

 

 

 

「お金を感じて良い」という言葉は、私に意欲を与えます。

 

きっと今の私に必要な言葉なのでしょう。

 

なんなら「お金を感じろ」と命令しても良いくらいです。

 

きっと、私のお金はそれで終わります。

 

1人で居ても恋愛に不自由していないように、文無しでもお金に不自由しないと思うのですよね。

このブログが始まって以来、お金に関連する言葉でまだ使った事が無いものに“はした金”が有ると思います。

 

やたら苦しいので、かなり真剣に「早くどうにかしてぇなぁ(余裕を失うとこういう言葉遣いになります)」と思っていると、出て来た言葉がそれなのですね。

 

出て来た…というよりは思い付いたという感じですね。

 

「出て来た」だと「そうとしか思えない」と言えるくらい確度が高いのですが、「思い付いた」だと「その可能性が有る」程度にまで確度が下がります。

 

なので、「感じていたのは“はした金”ではないか?」という事を模索してみたいと思います。

 

 

 

率直な気持ちを述べると「要らない」なのですね。

 

「こんな“はした金”なんか要るか!」という感じですね。

 

以前は受け取り拒否をしているような感覚が在った事、密かに自己評価が極めて高い事を自覚している事、今まで非常に苦しいものを感じていた事を鑑みると、それほど間違った事は言っていないと思っています。

 

実際、感じていた苦しさが嘘のように和らぎました。

 

過去の私は今と違って非常に自己評価が低かったので、その“はした金”で我慢したり、「自分はこの程度」と評価したのかも知れませんが、今の私は全然違います。

 

「先程まで感じていたもの(“はした金”)は全く私に相応しいものではない」と断ずる事が出来ます。

 

 

 

私は常々、「自分の中に在るものは、逃げる事も回避する事も出来ないので、受け入れざるを得ない」と考えています。

 

「在るものは在る」と認める事には変わりないですが、今回は明確な拒否をしてみます。

 

本当に要らないですからね。

 

これは「もしも」の話ですが、「その“はした金”を握り締めていたせいで、“大金”が掴めなかった」という事が考えられるのです。

 

「“はした金”と“大金”、どちらが良いか?」と言えば“大金”に決まっていますよね。

 

「握り締めた“はした金”を手放して、空いた手で“大金”を掴む」という結論にしかならないと思います。

 

 

 

「今の私に“はした金”は似合わない」と言う事は出来ます。

 

しかし、「“大金”が相応しい」と言えるかどうかは今後の経過待ちです。

 

今試しにその文言を思い浮かべると、「確かにその通りだな」と思う事は出来るのですが、それが「深いところからのものである」とまでは断じる事が出来ないのですね。

 

「そうなって行きそうだ」という微かな予感みたいなものは有るのですが、取り敢えず今日は行動が起こった事も含めて「よくやった」という事にしておこうと思います。

私は時折、「お金の概念を利用している」と考える事が有ります。

 

「何の為に利用しているのか?」と言うと、「自分自分を知る為に」です。

 

この観点から「お金は何の道具か?」という事を考えると、「自分自分を知る為の道具」という事になるのですね。

 

「自分自身を学ぶ為の道具」でも良いです。

 

要はお金とは“教材”なわけです。

 

 

 

しかし、私の知りたいお金はそれではありません。

 

お金を教材として知りたい自分自身こそ、私の知りたいお金なのです。

 

既に今の時点でも「私はお金そのものだ」と言い切っても良いのですが、それだと全くと言って良い程意味が無いのですね。

 

私が本当に求めているのは、「私が今感じている“これ”は何なのかを知りたい」という事です。

 

私がそれを「お金っぽいな」と思っているからお金を求めているわけで、初めから全く違う事が分かっていたらお金を求めません。

 

恋愛の時が良い例で、明らかに特定の異性を求めていましたから、「何億積まれてもその人を選ぶ」くらいに思っていましたね。

 

 

 

今の私は目に見える形としてはお金が無いのですが、「本当に無いと思っているか?」と言うとそうではありません。

 

何故なら、今感じているものはそうとは言っていないからです。

 

お金が有るとか無いとか、それが意味を持つのは今感じているものと一致している時だけです。

 

渇望している…とまでは言いませんが、本当に知る事を求めているのは確かです。

 

 

 

「近日中に何かしらの行動が起こる」と言った通り、その可能性が有りそうな行動を起こるがままに観てみました。

 

その間はずっと出来事を見ないで内なる反応を観ていたのですが、何か全然合わないのですね。

 

随分的外れな事をしている気がしてなりませんでした。

 

これは感じた記憶が無い妙な感覚です。

 

言葉にするなら「何だこれ?」ですね。

 

感じているもの自身がそう言っているかの様に、本当にその言葉が適切だと思います。

 

 

 

起こった行動によって、作られてしまった流れには取り敢えずは乗っかってみますが、本命は「感じているものは何か?」です。

 

私が本当に従うのは“それ”だけです。

 

「乗っかってみる」と言うのも、“それ”に繋がると思うからであって、そうではないと分かったら直ちに降ります。

 

今感じているものが何なのかは分かりませんが、確実なのは私は既にそれを得ている(初めから持っている)事です。

 

内なる反応はそれを示しているのです。

今かなりの負荷を鳩尾で感じています、

 

これだけの負荷を感じているのに思考や感情が大人しいのは不思議ですが、それでも食欲がほとんど湧かないくらいのレベルです。

 

余程の何かが在るのでしょう。

 

「逃げようとするだけの事はある」と思います。

 

歴代の中でもトップクラスにキツいです。

 

 

 

今はどんな言葉も通じません。

 

「お金に直結する何かだ」と思うだけで、それ以外の事は何も分かりません。

 

「近々行動が起こる」と予想していますが、「この状態で動いて大丈夫なのだろうか?」と思ってしまいます。

 

いや、誠にしんどいです。

 

「上手く行ったらシェアをする」と言ったものの、とてもオススメ出来る代物ではないかも知れません。

 

結果が余程素晴らしいものでない限り、「悪い事は言わないので、実践するのはやめておいた方が良いです」とか言い出すかも知れません。