魂の世界に生きる -2ページ目

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

「“お金”を出して良い」みたいな感じだと思います。

 

黙っていても出ようとする“お金”が在って、それが出て来る事を許可するイメージです。

 

「“お金”のブロック」という概念が有りますね。

 

私はこれを「入って来る“お金”に対して」だと思っていたのですが、「私の中から出ようとする“お金”に対して」と解釈した方が正しい気がします。

 

「入って来る」みたいな、私が受け手になるような表現って「何処かおかしい」と思うのです。

 

「私の中から外に向かって」というのが正しい方向だと思っているので、「外から私の中に向かって」となると方向が逆なのですね。

 

 

 

出せば私の肉体が四散するとしても、私は「どんどん出せや」と思います。

 

私はパイプや管、ホースや電線のようなもので「通してナンボ」だと思うのです。

 

それで破裂したとしても通そうとした結果なのだから、それはそれで仕方がない事です。

 

昨日よりは遥かにマシな感じがしていますが、まだ「完成に解放された」とまでは言えません。

 

「“お金”が出る」の意味が分からないのですね。

 

「使う」という感じではなくて、得る為の言動のような感じがします。

 

ここをハッキリさせないといけません。

「出したくないものの筆頭が“お金”だ」と思うのですが、そう思うが故に私も「“お金”を出したくない」と思っているかも知れません。

 

本当に“お金”を出したがる人を見た事が無いし、何処の何を見ても「“お金”を出したくないのだな」と思い、それが私の信念として強化され続けていたとしても不思議ではありません。

 

前置きはこのくらいにして、先程の記事を投稿して直ぐに「あれ?もしかして、“お金”はもう出ているのではないか?」と思ったのですね。

 

「既に“お金”が出ている状態なのではないか?」という事です。

 

これは充分に有り得ますが、誤解を防ぐ為に「現金や資産を一方的に失い続けている」という意味ではない事を付け加えておきます。

 

 

 

立ち位置を「既に“お金”は既に出ている」に設定します。

 

私が求めている状態と一致するので、その方が私も受け入れ易いと思います。

 

もう「出したくない」とは言いません。

 

限りの有る物理的な現金ではないのだから、幾ら出ていても問題は有りません。

 

「既に“お金”は出ている」というのは、いわば「“お金”の解放」です。

 

「私の中の“お金”が出る事を許す」という事です。

 

私はその先に在るものを知りたいのです。

私は今まで何度も同じ事を言っていますが、そんな事は気にせずに言います。

 

「今、私の中に在るのは“お金”ではないか?」と思っています。

 

鳩尾に詰まりのようなものを強く感じていて、それに対する“お金”という言葉の反応が「当たらずとも遠からず」という感じなのですね。

 

昨日の「“お金”を欲しがっているのは私ではない」という気付きから翌日の事なので、それも何かしら効いているのかも知れません。

 

「明らかに違う」とか、「今は必要無い」と感じている事は、「文章に起こそう」という発想も意欲も出ないのが常なので、今の私には意味が有る事だと思います。

 

 

 

何度も確認していますが、その度に「これは“お金”っぽい」と思います。

 

かなりボヤけた感じではあるものの、「他の何かだ」と思う事が出来ません。

 

さっきからずっと「これって“お金”だよな~」と頭の中で言い続けていて、感じるものとの違和感もほとんど有りません。

 

よく分からないのですが、「“お金”に関する許可のようなもの」という印象がうっすらと在ります。

 

例えば「存分に使って良い」とか、出す方向のものですね。

 

人に「ください」と求めるような、入る形ではないと思います。

 

 

 

「出すと入って来る」というのは、スピリチュアルで良く言われます。

 

この「出す」というのは在り方であって、行為ではないと思います。

 

“愛”に例えるなら“愛している”ですね。

 

“愛している”は、「“愛”を出している」と言えます。

 

それを鑑みると、「“お金”を持っている状態を何と言うか?」ではなくて、「“お金”を出している状態を何と言うか?」を求めた方が良いかも知れません。

 

 

 

“愛している”は自分に対するものです。

 

本当に“愛している”のは自分であって、他の誰でもありません。

 

それが結果として“愛されている”事にもなるのです。

 

“お金”も同じ理屈なら、本当に“お金”を出しているのは自分自身に対してであって、他の誰でもない事になります。

 

そうする事で、結果的に私は“お金”を受け取る事になる筈です。

 

一先ずこの線で詰めてみます。

 

 

 

 

今も時々お金について考える事が有ります。

 

それで何時も「要るのか要らないのかよく分からないな」と思っているのですが、「皆が使っているから」という言葉を目にした時です。

 

「お金を欲しがっているのは私ではない」と思ったのです。

 

では、「誰が欲しがっているのか?」と言うと、その“皆”です。

 

更に深堀して「その“皆”とは誰の事か?」と言うと、「私が他人に抱いている思い込み」です。

 

このブログを読んでいるあなたも、きっとお金を欲しがっている筈だ。

 

…という思い込みです。

 

かなりの確率で当たっていると思うのですが、外的な事実がどうであれ、私の中にそのような思い込みが在る事自体に変わりはありません。

 

 

 

皆がお金を欲しがっている。

 

この言葉には私の期待したものに近い反応を感じます。

 

「この思い込みが正しい事を証明したかった」と仮定します。

 

そうしますと、正しい場合は何しから私に都合の良い事が有って、誤っている場合は何かしら私に都合の悪い事が有る筈です。

 

「あなたもお金が欲しいですよね?」と訪ねた時、あなたが「はい」と答えれば、私は「やっぱりそうですよね」と安心します。

 

しかし、あなたが「いいえ」と答えれば、私は「嘘言わないでください」と疑います。

 

ここに何かヒントが有ると思うのです。

 

 

 

「人がそれを欲しがっている」と知った時、私は与えたくなります。

 

実際に持っていて、「渡しても良い」と思うなら、見返りを求めずに渡すと思います。

 

これは結構意外な事なのですが、心の何処かで「人を喜ばせたい」という気持ちが有るのかも知れません。

 

ただし、むやみやたらに節操無くばら蒔くような真似はせず、ある程度心の深い部分で「与えたい」と思った時に限ります。

 

そして、その為には「私自身の分は既に持っている事」が必要になります。

 

この「持っている」が物理的な量なのか、内面的な充足度なのかは今は分かりませんが、ここもヒントになると思います。

 

 

 

改めて「お金を欲しがっているのは私ではない」という言葉を見詰めると…いや感じると、本当の事のように思えて来ます。

 

「皆が欲しがっている」というのは思い込みだったとしても、「お金を欲しがっているのは私ではない」というのは思い込みではない気がします。

 

むしろ、「皆が欲しがっている筈だ」という思い込みに乗せられて、「私自身もお金を欲しがっている」と思い込んでしまったのかも知れません。

 

冷静になるとやっぱり私はお金を欲しがっていないのですが、お金を欲しがらない事に後ろめさを感じた経験が過去に有ったのかも知れません。

 

 

 

お金を欲しがらない事はおかしい事でしょうか?

 

私は人に「おかしい」と思われたくなかったのでしょうか?

 

そもそも、“おかしい”とはどういう事なのでしょうか?

 

“おかしい”にもまた、興味深い反応を感じる事が出来ます。

 

この“おかしい”はスピリチュアル的な違和感ではなくて、「社会の常識から外れている」という感じのように思えます。

 

“おかしい”と思われて困る事が有るのか?

 

“おかしい”が意味する事は?

 

そういう事を考えたくなりますね。

 

“悔しい”を読み解こうとすると、「本当ならそれが出来るのに」みたいな感じになります。

 

出来る事が前提なのですね。

 

ただ出来るだけでは意味が有りません。

 

それが出来ても何も感じなければ、「それが出来るようになりたい」と思っていない事を出来ても仕方がありません。

 

「自分が意味を感じている事が出来る」のです。

 

二極一対の現世においては、どうしても“成功”と“失敗”に分かれますが、「“悔しい”は“成功”が前提である」という事です。

 

“成功”を前提にしているのと、“失敗”を前提にしているのとでは、過程や結果の質が全く異なるものになる事は想像に難くありません。

 

 

 

私としての本題はここからになります。

 

「つまり、私は“何”なのか?」という事です。

 

「つまり、どういう事なのか?」の方が語感が良いでしょうか?

 

“優秀”とか、“有能”とか、“天才”とか、「端的に言えば“何”」という事です。

 

私が知りたいのはそう言った、「これ以上掘り下げる事が出来ない本質」なのです。

 

「その一言でそれの全てを理解出来るもの」ですね。

 

「それだけで私自身に説明が付くのと同時に、私自身が納得出来るもの」と言い換えても良いでしょう。

 

 

 

成功者と呼ばれる人は本当に沢山居ますね。

 

成功者を装っているのではなく、本当に“成功”をした人達です。

 

野球で言うならイチロー氏や大谷翔平選手のような人達ですね。

 

彼らを端的に“何”と言うでしょうか?

 

もしくは、彼らに“何”を感じるでしょうか?

 

それを感じて理解する事が出来るなら、私も本質的には彼らと同じになります。

 

もちろん、私は野球どころか運動自体がまともに出来ませんが、彼らと同じ“中身”を持つ事は出来るのですね。

 

 

 

私は結構「“中身”さえ得られたらそれで良い」と思う事が有ります。

 

恋愛もそうですし、恋愛にまで至らなくても女性が持つ“中身”を自身の中に観る事が出来ます。

 

大変“美しい”と感じる女性が居るとしますね。

 

普通の認識だと「その人が“美しい”のだ」になり、“美しい”を得る為にその人を得ようとします。

 

しかし、私は「その人を“美しい”と感じる、私が“美しい”のだ」という認識になります。

 

これは「そういう事にしている」のではなくて、「そうである事」なのです。

 

「そういう事にしている」は建前ですが、「そうである事」は事実です。

 

事実としてそうであると、私は“美しい”を得る為にする事は何も無くなります。

 

「もうここ(私の中)に在るから」で、後はその事実を受け取れば良いだけだからです。

 

 

 

 

つい先程、強く「“失敗”した!」と感じる出来事が有りました。

 

「そう言えば以前、“失敗”の事を何か書いてたな」と冷静に思い出している反面、かなり腹立たしい気持ちになりました。

 

その時の私は人のせいにしたくなったり、「取り返したい」という気持ちも出ましたが、ふと「これは“悔しい”だな」と思ったのです。

 

早速調べてみると、特徴的に“悔しい”でほぼ間違いありません。

 

私の中に“悔しい”という、未消化の感情が残っていたようです。

 

とっくに寝る時間を過ぎていますが、これを味わわずには居れません。

 

 

 

折角なので、本日(日付としては昨日)書こうと思っていた事を今書きます。

 

私はちょっと先走っていたようなので、今に帰ります。

 

「今、私の中に在るものは何か?」という事に…です。

 

一番重要なこれを放置して、他にどんな真実を得られたとしてもあまり意味が無いからです。

 

今は“悔しい”が前面に出てしまっていますが、確かに私の中に何か在ったのです。

 

今まで進めて来た事は一旦置いて、「まずはそこに戻ろう」と思います。

 

それが“悔しい”とは思っていませんが、割と近いタイミングで出て来たので無関係ではないかも知れません。

 

 

 

「“失敗”を感情で表現すると“悔しい”」という事で良いでしょう。

 

では、“悔しい”は何と言っているのでしょうか?

 

私の何かを指し示している筈なのですね。

 

例えば、「本当は上手くやれる」とか、「本当はそれが出来る」みたいな事です。

 

その為には“悔しい”を感じ切る必要が有ります。

 

「感じ切る」という言葉を久し振りに使った気がしますね。

 

感情を味わうのも久し振りなので、やっぱり感情は味わうものなのでしょうね。

 

 

 

 

物事は二極一対です。

 

大抵の場合は都合の良い方を求めるのですが、真にそれを理解しようと思ったら都合の悪い方を求める必要が有ります。

 

どうしてそうなのか私も分かりませんが、「電気の極のように決まった方向が有るんじゃないか?」と思っています。

 

ちょっと調べてみたところ、「電流は回路図や一般的な定義では+極から-極へ向かう」とありますが、「実際の物質中では負の負荷を持つ電子は-極から+極へ向かう」とあります。

 

一体何の事を言っているのかサッパリですが、こういう感じの方向が有ると思うのですね。

 

 

 

私が特定の物事を本当の意味で理解する時、「ネガティブから入ってポジティブに抜けて行く」という方向でほぼ一貫しています。

 

「ほぼ」という逃げ道を作っていますが、経験上例外は有りません。

 

従って、「“幸せ”を真に理解しよう」と思うなら、その対極の概念を理解する必要が有るのです。

 

素直に考えるなら“不幸”ですね。

 

しかし、私の場合は必ずしもそうとは断定出来ません。

 

例えば、“自由”の対極は“責任”になりますし、“愛”の対極は“恋”になります。

 

他で言われるような、“制限”とか“無関心”ではないのですね。

 

 

 

「“幸せ”を得ようと思ったら、同時に受け入れる必要が有る“何か”」とは何でしょうか?

 

“苦労”や“覚悟”と言った、何処となく泥臭さを感じるようなものかも知れません。

 

そういうものを私で中で見付ける必要が有ります。

 

そう言えば「何も知らない事は“幸せ”だ」と思った事が有ります。

 

この場合、“知らない”=“幸せ”という事になりますが、それはただ気持ちの良い夢を見ているだけで、真実を観ているわけではありません。

 

私の求めている“幸せ”は、それとは真逆の“知っている”の中に在るものです。

 

 

 

私は“幸せ”を知りません。

 

まず、最初にこの事をハッキリさせておきます。

 

「私は“幸せ”を知らない事を知る」、所謂無知の知から始めます。

 

しかし、感じた事は有ります。

 

その経験を元にすれば、劣等感と同じく論理的思考によっても知る事が出来るかも知れません。

 

「“幸せ”を感じたい」のではなく、「“幸せ”を知りたい」です。

 

ここもハッキリさせておきます。

 

 

 

今の私にとって、“幸せ”はあまりに漠然とし過ぎています。

 

「何だか凄く良いものらしい」という事しか知りません。

 

本当に凄く良いものなのかどうかも知らないので、それすら「知っている」と言えないでしょう。

 

「何が“幸せ”なのか?」という事を知らずして、“幸せ”を求める事は出来ません。

 

唯一知っている事が有るとするならば、「私自身が“それ”である」という事です。

 

「あらゆる物事の結論は必ずそうなる」という事と、「外には無い」という事を知っています。

 

「幸せの青い鳥を探している張本人が、幸せの青い鳥である」という事ですね。

 

 

 

“幸せ”とは何か?

 

なかなか求め甲斐の有る問いです。

 

「“愛”とは何か?」を問うていた事を思い出します。

 

その時も「“愛”を知らない」という事から始めた記憶が有ります。

 

「何かを知ろう」と思ったら、「それを知らない」という事をハッキリさせておくのは大切なのかも知れません。

 

“知らない”の反対は“知っている”ですからね。

 

「“知らない”を受け入れると、“知っている”も受け取れる」という、何時ものスピ論理がここでも作用すると思います。

“場所”に対する言葉として思い付くものとなると、やはり“幸せ”が一番近い気がします。

 

改めて思い返すと、私は“幸せ”を感じた事は有るのですが、「その意味を深く理解している」とは言い難いです。

 

なので、これを機に「“幸せ”とは何か?」を突き詰めてみようと思います。

 

“お金”を持っても不幸だったり、不幸な“愛”は存在し得る事を考えると、「“幸せ”はそれらを包括すると考えても良い」と思います。

 

「“幸せ”は“お金”と“愛”の完全上位互換であり、“幸せ”を知れば“お金”と“愛”を同時に、かつ好ましい形で得られる」という前提で模索してみます。

 

 

 

“幸せ”という言葉を私の内に投げ掛けてみますと、これまた何とも言えません。

 

「何度も関心を持って投げ掛け続ければ、何かしらの反応は引き出せるかも知れない」と思うに留まる程度です。

 

私は“幸せ”だと思っているので、「“幸せ”を理解したい」という意思を以て繰り返し投げ掛け続けたいと思います。

 

こうしてブログを書きながらも、私の中ではそれが行われています。

 

そして、繰り返す度に少しずつ「やっぱり“幸せ”だよな」という確信度合いが強くなっている気がします。

 

しばらく続けてみましょう。

私が物事を理解する為には、「感じている事」と「言っている事」を一致させる必要が有ります。

 

一致して初めて「分かった」となって、分かった事に関しては思いのままに出来ます。

 

何をすれば良いのか分かっているわけですから、迷い無くその為に動く事が出来るのです。

 

「感じている事」は「思っている事」とは違います。

 

「思っている事」と「言っている事」を一致させて動いたとしても、「感じている事」からズレていれば思いのままにはなりません。

 

「思いのまま」とは、「感じるまま」という意味として捉えた方が適切かと思います。

 

 

 

私の基準は“場所”と見て正しいと思います。

 

「何をしているか?」ではなくて、「何処に居るのか?」という事の方が重要なのです。

 

これがやりたい事を探しても見付からない理由だと思っています。

 

私はきっと、行きたい所や居たい所を探す必要が有ったのです。

 

その“場所”にはやりたい事や他の事も全て含まれている事でしょう。

 

単品で望むより、その方が絶対に良いですよね。

 

 

 

私も結構あちこちの土地や会社に行っています。

 

“場所”に対して何かしらの基準を持っていて、今まで行った所は全てその基準に満たなかったわけですね。

 

その基準は非常に高いものだと推測されるのですが、それこそが“場所”に対して言っている事だと思います。

 

「その“場所”に対する非常に高い基準を一言で言うなら?」という事ですね。

 

その一言が私そのものを現すのです。

 

私はそれを知りたいのですね。

 

 

 

気持ちとして表現するなら「ずっと此処に居たい」になるのですが、「それを何と呼ぶか?」という事です。

 

人に対する「ずっと一緒に居たい」なら「それは“愛”だ」と分かるのですが、“場所”に対する「ずっと此処に居たい」は何になるのでしょうか?

 

それも“愛”と呼べなくもないですが、何か違う気がするのですね。

 

“場所”の中に女性が居る(“愛”が在る)わけですから、「“愛”をも包括する何か」だと思うのですが、答えが出るのは今ではないようです。