私の中にはずっと、例えて言うなら「夏休み前に宿題を終えて後は遊ぶだけ」と言った感じの、清々しい解放感がイメージとして在ります。
しかし、未だにその解放感には至りません。
イメージとしては確かに存在するのに、実際に感じられる域には達していないわけです。
「“何か”をしなくても良いという感じになるはず」と考えていて、それは今も昔も変わっておらず、「それは間違いのない事であって、到達可能な事だ」と思っています。
その“何か”の鍵となるのが“お金”と睨んでいて、「“お金”をどうすればその域に至るのか?」という事がここ数年の命題になっています。
そこで私は「“お金”を手放すのではないか?」と考えました。
その瞬間、「嫌だ」という抵抗が在ったのを見逃しませんでした。
刹那の抵抗を捉える事が出来ると、もうその抵抗に乗せられる事は無くなります。
すると、「その線で考えて良いんじゃないか?」と思う事が出来るようになります。
これが正しいかどうか分かりませんが、今の私にはこの線を辿る事が最も可能性が見えると思っているし、何より「そうしてみたい」と思うわけです。
ややしばらく時間が経過して、私は「“お金”を手放して何を得るのか?」と考えました。
「考えた」というよりは、「思い付いた」と言った方が良いでしょう。
この“お金”は私の中で握り締めている“お金”で、執着と呼んで差し支えないものです。
そのせいで本当に求めているもの、つまり、冒頭で述べた解放感を得られていないのだとしたら、私が今まで試みていた事は全て逆だった事になります。
その解放感を得たいが為に“お金”を求めていたのに、その“お金”のせいで解放感を得られないで居た事になるのです。
この“お金”は私の内に在る見えないものであり、求める解放感も外の世界では実現不可能なものです。
「その見えない“お金”で、外では実現不可能な解放感と交換出来るのではないか?」と思っているわけですね。
「明らかに“お金”よりもそちらの方が良い」という事が分かれば、黙っていても“お金”は手放されます。
“お金”よりも良いものなのだから、それは絶対にそうなります。
「銀メダルを手放せば、金メダルを得られます」となれば、銀を放って金を手にするに決まっています。
目に見える世界は二極一対で、物事には必ず対となる概念が存在します。
それは“お金”も例外ではなく、対となる概念が存在しているはずです。
私は今の今までそれが何なのか分かりません。
知る術は2つ有って、受け入れか手放しのどちらかです。
結果は同じでも方法が正反対に異なり、受け入れるべきものを手放そうとしたり、手放すべきものを受け入れようとすると上手くいきません。
私は今まで“お金”を受け入れる方向でばかりアプローチしていましたが、手放す方向でアプローチするのが正しいのかも知れません。