魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

戦国時代に「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈った武将が居たと伝えられておりますが、私はそんなに沢山は要りません。

 

零難一苦で充分です。

 

結果的に“楽”を得る事になるのは分かっているのですが、それとは全く関係無く純粋に“苦”だけを求めます。

 

私が今、関心を抱いているのは“苦”であって“楽”ではありません。

 

“苦”以外、何も要りません。

 

 

 

「苦しい思いをしたい」という意味ではありません。

 

「“苦”そのものを受け入れたい」とか、「“苦”の本質を理解したい」とか、そういう意味です。

 

本当にそう思っている今、“苦”を感じていません。

 

感じているのは「新しい事が知れるぞ」という楽しみです。

 

“苦”を求めているのに喜んでいるわけですね。

 

“楽”ばかりを求めていた時と比較すると、今の方がずっと楽しいのではないでしょうか。

 

本当に“苦”を歓迎しているのが分かります。

 

 

 

今感じているものが“苦”だとするなら、全然悪いものではありません。

 

「“楽”よりも良いんじゃないか?」と思えるくらいです。

 

少なくとも、「“楽”を求めるよりは、“苦”を求める方が断然良い」と言えます。

 

実際に感じている事から判断して、それは間違いありません。

 

どうしてそうなのかは分かりませんが、やがて分かる時が来るでしょう。

「楽して楽知らず」という言葉を昨日初めて知ったのですが、これは全くその通りです。

 

全てに通じる事ですが、何かを得ようと思ったら、求める対極概念も同時に受け入れる必要が有ります。

 

「自らに都合の良い方だけを得よう」という事は出来ないのですね。

 

今の私は「“楽”を得よう」としているので、その対極概念を受け入れる必要が有るのです。

 

「本当に求めなくてはならいのは“楽”ではなくて、その対極概念の方である」という事です。

 

それが嫌なら“楽”を得る事も諦めなくてはなりません。

 

「何かを得る」とはそういう事です。

 

 

 

「“お金”の対極概念って何だろうな」と思った事が有るのですが、これは“仕事”かも知れません。

 

“お金”が“楽”なら、“仕事”は“苦”ですね。

 

見事に辻褄が合ってしまいます。

 

私は真の“楽”を知る為に、“仕事”から“苦”を学ぶ必要が有るのでしょう。

 

これはもうどうしようもありません。

 

今の職場から“苦”を学ぶ事にします。

 

 

 

私は“楽”を知らないのは当然ですが、“苦”も知らない事に気付きました。

 

「何となく嫌だなぁ」くらいにしか思っておらず、「“苦”とは何か?」を知らないのです。

 

これでは話になりません。

 

「“お金”は“楽”で、“仕事”は“苦”」という事は、「“お金”は“苦”である」とも言えるのです。

 

つまり、私が「本当の“お金”を得よう」と思ったら、“苦”を知らないとならないわけです。

 

昨日は「“楽”を意識する」と言いましたが、今日は「“苦”を意識する」と言わざるを得ませんね。

私は一応、見に見える形では仕事をしています。

 

「一応」と言ったのは、内的には「仕事をしている」という意識も無ければ、「働きたい」と思っているわけでもない為です。

 

私が本当にしている事はその内的な部分なので、内的に働いていなければ「私は仕事をしている」とは言えません。

 

しかし、それでは他者とのコミュニケーションが取れないので、他者に理解させる為の方便として「仕事をしている」という表現をしているに過ぎません。

 

なので、私は既に仕事をしておらず、仕事に見せ掛けた全く別の事をしているわけですね。

 

 

 

私が本当にしている事とは、「仕事をしないと分からない自分を見付ける事」です。

 

私は「仕事で認められたい」みたいな欲求は有りません。

 

自身への評価や承認は私が自分でやれば良いので、他者にそれを求める必要が有りません。

 

自分の仕事振りを自分で評価すれば良いのか?

 

…と昨日はそんな事を考えていたのですが、今日になって過去を振り返るとある1つの事を常に考えていた事に気付きました。

 

 

 

それは「“楽”をしたい」です。

 

私は「ああ、これじゃないか?」と思ったのです。

 

「仕事をしないと分からない自分とは“楽”である」という事ですね。

 

もしそうなら、後は私の中で“楽”を感じて“楽”を理解すれば終わりです。

 

肝要なのは「私の中で」という事です。

 

外の世界で“楽”をしようとしても意味が有りません。

 

冒頭で述べた通り、私が本当にしている事は内的な部分に在るので、内的に“楽”でなければ「“楽”をしている」という事にはならないのですね。

 

 

 

そう考えると、「“お金”の本質も“楽”で良いのではないか?」と思いますね。

 

私は今回の職場は給料の高さよりも近場を優先したのですが、それも突き詰めると「通退勤が“楽”だから」という事です。

 

「“楽”をして“お金”を稼ぎたい」とか、そういう事を何度も思った事が有るのですが、仕事や“お金”の本質が“楽”だとするなら、“楽”をするだけで良い事になる筈なのですね。

 

仕事や“お金”を考える必要は無くて、私の中の“楽”を見付ければ良いだけです。

 

 

 

私は今日出勤したら、「“楽”を意識する事」を試そうと思います。

 

仕事を通して“楽”を知る事。

 

「多分これがファイナルアンサーじゃないか」と思いますね。

 

思えばお金持ちにイメージしたのも「“楽”そう」でしたね。

 

やっぱり“楽”で決まりかも知れません。

何事も適切な形が有ると思います。

 

きっと、“お金”も例外ではない事でしょう。

 

“場所”なら“行く”、“女性”なら“恋愛”か“性欲”…と言ったように、“お金”にもそういうものが有ると思います。

 

「“お金”をどうするか?」という、非常に単純な事を私は知らないわけです。

 

私は知らないわけなので、私がいくら考えても分かるものではありません。

 

一番有効なのは、「私の中の“お金”に訊く(教えてもらう)」という事です。

 

“お金”の事は“お金”が一番良く知っている事でしょう。

今更なのですが、私は年収コンプレックスだったと思います。

 

それが私の“お金”を欲しがる理由だったと考えた方が良いでしょう。

 

今の会社に入って1週間が過ぎ、「何かがごっそり抜け落ちているな」と感じていたのですが、「年収コンプレックスが無くなっていた」と考えて良いと思います。

 

今日の昼頃、ふとそう思ったのですね。

 

それでほぼ間違い無いと思うのですが、もう少し踏み込める気がします。

 

 

 

年収で価値を計る事は無くなったとは言え、それが私の中に“お金そのもの”を発見した事にはなりません。

 

状態としては発見したに等しいとしても、「“お金”とは何か?」という問いに対する真の答えにはなりません。

 

年収コンプレックスは“お金”の仮の姿…と言うか、誤った姿と捉えた方が私にとっては自然です。

 

年収コンプレックス自体は自ら暴き、認めたので既に痛くも痒くも有りません。

 

“お金”の真の姿が在るなら、今ならそれを観るのは容易な筈です。

 

改めて年収コンプレックスを見詰めてみようと思います。

 

 

 

他人に要求している事は、自分自身に対して要求している事です。

 

「○○円くれ」という要求も、表面的には他人に要求する形になりますが、「本当は自分自身に要求している」という事です。

 

自分に対して要求するわけですので、拒否されても関係無いし、遠慮もしなくて良いのです。

 

「好きです」という告白が、自分に対してのものであるのと同じですね。

 

自分の中に在る事を分かっていれば、別に相手に伝えなくても良いし、相手から貰う必要も有りません。

 

しかし、「感じているものをその対象に向けて言葉で伝える」という体験は至上です。

 

「この為に生まれて来た」と言える程の、言語に尽くし難いものを味わえるので、私は伝えずには居られないでしょう。

 

 

 

最近の私は睡眠時間が短くてぐっすり眠れないのですが、その理由を「気付くべき何かが在るからだ」と思っています。

 

そして、それは“お金”の事で間違い無いでしょう。

 

しかし、ここで少し問題が有ります。

 

以前に「言葉を被せても意味が無い」みたいな事を書いた気がするのですが、それにも通じる話で「気付く必要が有る」という事です。

 

今日はその事を意識して過ごそうと思います。

「特別な存在」という言葉には2つの意味が有ります。

 

「唯一無二のパートナー」という意味と、「周囲から特別と思われる存在」という意味です。

 

どちらも可能であり、どちらもただ1つの事(それぞれ別)が出来れば良いだけなのですが、この方法をタダで教えて良いものか迷っています。

 

「いきなり何を言い出すのか?」と言うと、どうやら私は“お金”のブロックが外れているっぽいのですね。

 

今までは“お金”を要求する事に抵抗を感じていたのですが、今はもうほとんど無いのです。

 

 

 

“お金”はただの道具とか条件ですよね。

 

私が何かを持っていて、「それを欲しい」という人が居るなら、私は淡々と「じゃあ○○円なら良いよ」と提示するだけです。

 

ただそれだけです。

 

「こんなもので代金は取れない」とか、「拒否されたらどうしよう」とか、そういう余計な事は一切思いません。

 

「私の“お金”のブロックってそれだったんじゃないか」と思うのですよ。

 

「単に『○○円くれたら良いよ』と言えなかっただけ」なのですね。

 

「言うだけならいくらでも言えるじゃないか」と、今は思っているわけですね。

 

 

 

「堂々と、自分が欲しいと思うだけの“お金”を要求して良い」という事です。

 

何処かの店に入って、“お金”を支払う前提で「これをください」と言うのとほとんど同じです。

 

気付いてみれば非常に単純な事です。

 

私も色々経験しているので、「自分の知り方」とか「自分の観方」とかを知っているわけです。

 

やり方を知っていて、その結果も分かっているので、教える事だって出来るのです。

 

今なら「○○円くれるなら教えても良いよ」と言えるわけですね。

 

実際にやるかどうかは別にして、何時でもそれが可能な状態にはなっているのです。

 

 

 

私にとってはそっちの方が重要です。

 

「自分にそれが出来る」と分かっていれば、別にやらなくても問題有りません。

 

「知る者は言わず」という言葉が有りますが、「知る者は行わず」でもあるのですね。

 

「何でそうなるのか?」と言うと、「知ればそうなる(知れば分かる)」のです。

 

その時の気分を言葉で言うと、「面倒臭いなぁ」と表現するのが一番近いと思いますね。

 

基本面倒臭いので、対価を貰わないとやってられなくなるのですね。

 

 

昨日感じていたものは、「“機嫌”そのものだった」と言えます。

 

私の中に“機嫌”というものが在ったわけですが、これが良かったら気付けなかったと思います。

 

悪かったからこそ、「私の中に“機嫌”が在る」という事に気付けたのです。

 

これで他人に“機嫌”を取ってもらう必要が無くなるわけですが、私は最初から「自分の“機嫌”は自分で取るわ」と思っていたので、「今回はその実践が出来た」という事ですね。

 

然程感心が無い事なので、“機嫌”についてはここまでになります。

 

 

 

私の中の“お金”は「“お金”を求める言葉」だと思います。

 

「“お金”が欲しい」でも、「“お金”をくれ」でも何でも良いですが、それは私の中から発露したものでなくてはなりません。

 

表面的な言葉で正解を合わせたとしても意味が無いのです。

 

そして、発露した時に伴っているものが在る筈なのですね。

 

その伴っているものこそが“お金”だと思います。

 

 

 

イメージとしては「“好き”です」と女性に告白する時です。

 

そういう時は内側から“好き”が発露していますね。

 

感情や欲求も伴って、強く欲しています。

 

それくらい強いものを感じた時、「初めて私は“お金”を理解するのではないか?」と思っています。

 

 

何も理由が思い当たらないのですが、“機嫌”が悪くなっている事に気付きました。

 

放っておくわけにもいかないので、この“機嫌”の悪さと付き合う事にします。

 

「自分の“機嫌”は自分で取る」という基本に倣うとします。

 

そう言えば、私は自分の“機嫌”を取った事が有りません。

 

「どうして“機嫌”が悪くなるのか?」も、「“機嫌”が何を示しているのか?」も知りません。

 

これを機に学んでみようと思います。

 

“お金”とは関係無さそうですが、今はこの“機嫌”を伺うとしましょう。

「“お金”は出るもの」という考えが支配的になりつつあります。

 

「黙っていても出てしまうもの」とか、「勝手に出て来るもの」とか、そういうニュアンスです。

 

「出したくない」と思っていても必ずそうなる事が分かりつつあるので、“お金”を出す事への抵抗感も持つだけ無意味です。

 

私は「五体が四散するとしても出て良い」と思っているので、“お金”が出る事自体は何も問題にしません。

 

しかし、「“お金”の出方を知りたい」とは思います。

 

 

 

「“お金”の出方とは何だ?」という話ですが、「“お金”を求める時に出る言動ではないか?」と思っています。

 

恋愛に例えるなら「“好き”です」とか、「“愛”しています」という感じですね。

 

その出方がその時の私そのもの、つまり“お金”そのものだと思うのです。

 

「“好き”です」は「私は“好き”そのものです」という事ですし、「“愛”しています」は「私は“愛”そのものです」という事です。

 

私は何度も“お金”を求める経験をしているので、その時に“お金”そのものを口に出している筈なのですね。

 

表面的なものではないか、“お金”を別の言葉に言い換えているかして、それが“お金”だと気付いていないだけのような気もします。

 

 

 

言動とは言いましたが、言葉である可能性が高いと思います。

 

「その言葉の中に行動も含まれている」と考えて良いのではないでしょうか。

 

なので、「私は“お金”を求める時、何と言うか?」という事を突き詰めてみようと思います。

 

単純に「“お金”をください」や「“お金”が欲しい」だとしても、何かしらの意味が込められている筈なのですね。

 

「貴女が欲しい」と言った場合、その意味は「貴女と結婚したい」か「貴女で性欲を満たしたい」のどちらかになりますが、“お金”にもそういう意味が有ると思うのです。

 

「“お金”を求める言葉がそのまま“お金”になっている」と思えてなりません。