魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

目に見える世界の中に存在する物で、私の中に存在しないものは何一つ有りません。

 

しかし、目に見える世界に求めると例外無く失敗してしまいます。

 

外の世界で見える物を欲する時、それは私の内に求めなくてはなりません。

 

“恋愛”しかり、“楽”しかり、“辞める”もまたしかりです。

 

 

 

ほぼ望み通りの状況になっているにも関わらず、何かが合わない気がしていて、その正体を探る日々が続いていましたが、今日ようやく手掛かりを掴みました。

 

「“給料”じゃないか」と思ったのです。

 

ちゃんと内的な手応えも感じるので、可能性が有ります。

 

私は“給料”を外の世界にではなく、私の内に求める事にします。

 

今感じているものが“給料”なら、私はもう受け取れる状態に在ります。

 

私の内に感じられる(在る)ものは、それが都合の良し悪しに関係無く、私の物として受け取れるものなのです。

 

 

 

この“給料”に金額は感じられません。

 

そのまま“給料”です。

 

“結婚”の本質は“愛”なのですが、“給料”にも本質が有って、その本質を掴めば内なる“給料”を受け取る事が出来るでしょう。

 

単に“給料”で終わってしまうかも知れませんが、それならそれで構いません。

 

どちらにせよ、私は幻想ではなく、本物の“給料”を得る事になるでしょう。

 

 

“辞める”なのか“止める”なのか判別に困るところですが、状況と感じ方から“辞める”だと思います。

 

今週の始めにちょっと仕事で面白くない思いをして、それを今日まで引き摺っていました。

 

引き摺りながらも「何なんだこれは?」と感じて理解を試みていると、ふと“辞める”という言葉を思い付いたのですね。

 

「入ったばかりで辞めるのも短気過ぎる」とか、「辞めるのは慣れているから、別に辞めても構わんわ」とか、色々考えていたのですが、不思議な事に感じていたものが心地好いものに変わりました。

 

凄く気持ちが良いもので、“救い”と表現しても良かったかも知れません。

 

 

 

同時に、私は「外の世界で何をしても意味が無い」という事を思い出しました。

 

すると、“辞める”と離職を繰り返して来た過去が繋がったのですね。

 

そうです。

 

「外の世界で仕事を辞めても意味が無かった」という事です。

 

“辞める”は正しかったのかも知れませんが、辞め方を間違えていたのです。

 

私の内で“辞める”必要が有ったのです。

 

「“辞める”という行動をするのではなく、“辞める”を感じる必要が有った」というわけです。

 

それで私は本当の意味で仕事を“辞める”事が出来る筈です。

 

 

 

先週迄は特に何も問題無かったのに、今週に入って突然嫌な気分になったのは、おそらく“責任感”の中に“真面目”を観た事と関係が有ると思います。

 

“真面目”としか言い様がないものが私の中に在るのを確認出来ました。

 

“責任感”も“真面目”も、感じ方として評価出来る様なものではありませんでした。

 

“辞める”に比べたらゴミにも値しないくらい、持つ事に何ら意味を感じない代物だったのですが、内なる“辞める”に気付けたのは、それらを通過したからこそかも知れません。

 

「仕事を“責任感”や“真面目”というフィルターで観るのを“辞める”」という事なのか、「死と同様に必ずそういう結末を迎える事を知れ」という事なのか。

 

それは追々分かって来る事でしょう。

 

 

 

今は“辞める”を味わいます。

 

ネガティブなものが大半の中、今回の“辞める”は「極上のポジティブだ」と評価出来ます。

 

道理で今まで仕事を辞めたがり続けたわけです。

 

働くのが嫌な筈の私が働いていたのは、この“辞める”を味わう(内で発見する)為だったかも知れません。

 

非正規を好んで選んでいたのも、短期で“辞める”前提でそういう求人を探していた事が有ったのも、何か有ると直ぐに辞めたくなったのも、「全ては“辞める”為に働いていたからではないか?」と考えると合点が行きます。

 

それくらい“辞める”が気持ち良いのですね。

 

私は自身が変態である事を自覚していましたが、これで正真正銘の変態と言えるでしょう、

私の中で感じられているものは、“責任”と言うよりは“責任感”と言った方が正確な気がします。

 

「私には何の“責任”も無いが、“責任感”は在る」という感じですね。

 

この2つがどう違うのか分からないので調べてみたところ、「やり遂げようとする」という性質が強く観られるところから、やはり“責任感”で良いと思います。

 

この“責任感”は、外で何をやり遂げても決して収まる事は無いでしょう。

 

“責任感”を通して私が何であるのかを知って初めて、私はやり遂げた事になるでしょう。

 

 

 

“真面目”とか“誠実”とか、そういう堅苦しい性質が予想されますが、“責任感”が訴えたい事はそれではありません。

 

こうして「自分なりに真実に近い事を書き出しているな」と感じると、段々と反応が変わって来るのが分かります。

 

つい先程まで全く無かった胸に空気の詰まりのようなものが感じられ、その詰まりがゲップとして出始めています。

 

このまま“責任感”を観て行こうと思います。

 

 

 

この“責任感”ですが、私は好みではありません。

 

味覚で言うなら「美味しくない」です。

 

しかし、私の中に在る以上は食べないといけません。

 

食べて消化しないと何時までもこの“責任感”が残り続けて、「やり遂げた感じがしないわ」と言い続けなくてはなりません。

 

私は感じる事を「味わう」と表現する事があるのですが、「食べて消化して出す」というのと変わらないのですね。

 

“責任感”を食べて消化されたら何が出て来るのか分かりませんが、「やり遂げる」という事は“達成感”や“解放感”かも知れません。

 

その時に「私は“○○”だ」みたいな事を言ったなら、その“○○”が“責任感”を通して観たい私自身の姿である事でしょう。

 

「結婚とは何か?」とは、「結婚を通して観る(知る)、私の本当の姿は?」という事ですが、これは“愛”で完全に定まっています。

 

私は一度も結婚した事は無いのですが、結婚に真に求めるものとして内々に感じていたものが“愛”である事は、今では疑いようもありません。

 

ここ数日考えている「仕事とは何か?」についても同じ事が言えます。

 

つい先程「“責任”じゃないか?」と思ったのですが、“責任”は私の中で“自由”の対義語となっています。

 

仕事をしながら「何か変に“真面目”と言うか、“責任感”が強い感じがする」という事をつい先日察したばかりです。

 

二極一対の概念はどちらも同じものなので、「仕事を通して観る私とは“自由”である」という事にもなります。

 

今は全く“自由”に成っていない事は明らかなので、きっと“責任”という形で私の中に在るのでしょう。

 

 

 

「“責任”を果たそう」みたいな、そういう意識が在ったとして、外の世界でそれを為しても意味が無い事は分かっています。

 

“責任”を果たす唯一の方法は、私の内で“責任”を感じ切る事です。

 

「“責任”を感じ切る」とは、「“責任”の本当の意味を理解する」という事です。

 

これは外でどれだけ仕事で“責任”を果たそうとしても、絶対に辿り着けないのですね。

 

外の世界で幾ら“楽”をしようが、本当に“楽”に成る事が出来ないのと同じです。

 

他者に対して“責任”を果たすのではなく、私自身に“責任”を果たす事。

 

私の“責任感”を他者に観てもらうのではなく、私自身が観る事。

 

これが正しい“責任”の果たし方をする上で、正しいものの考え方だと思います。

 

 

 

記事を書きながら「“責任”で合ってるか?」という事を確かめているのですが、それっぽい感じがしますね。

 

私の中に“責任”が在って、それを感じ切って理解する事が私の本当の仕事と言えるなら、私は今初めて本当の意味で仕事をする事になります。

 

“責任”を知る。

 

それは即ち“自由”を知る事にもなる筈ですが、その通りになるか確かめる為には今在る“責任”を果たさねばなりません。

 

私は“自由”を得たいが為に“責任”を果たすのではありません。

 

“責任”を果たす為に“責任”を果たすのです。

 

 

私が今回知った事はタイトルの通りです。

 

“何もしない”も、“働きたくない”も、“お金”も、“悟り”も、かなり前の話ですが“死にたい”も、その全ては“楽に成りたい”という事だったのは間違ってなかったと思います。

 

ただ、私の過ちは「外の世界でそれをしようとした事」という点に尽きます。

 

「ああ、やっちまった…」という感じです。

 

本当にこれは私には意味が無い事です。

 

劣等感を満たす為に他人を見下したり、「評価されよう」と色々と無理して頑張る事と同じなのてすね。

 

私の内が“楽”に成らないと駄目なのです。

 

その事を知っただけでも充分な成果と言えます。

 

 

 

私の内が“楽”に成れば、外がどうだろうが知った事ではありません。

 

別に働いても構わないし、お金が無くても構わないのです。

 

しかし、“楽に成りたい”と外であれこれやるよりも、余程良い状況が外の世界にも構築される可能性が高まるでしょう。

 

現に私が今勤めている会社での仕事は、昼夜2交代で毎日残業2時間にも関わらずあまり“苦”ではありません。

 

“働いている”いう感覚すら無いのですね。

 

以前の私なら強く拒絶した、「言われたままに動く」という事だけです。

 

劣等感が消えた事も大きいと思いますが、決め手はやはり「外で“楽”をしても意味が無い」という事を知ったからでしょうね。

 

“楽をしたい”とか、“楽をさせろ”とか、そういう事を一切外に求めなくなった事が一番大きいです。

 

 

 

「“苦”とは何か?」の答えを今言うなら、「外に“楽”を求める事」ですね。

 

“愛”や“幸せ”と何も変わりません。

 

「理屈を知っている事」と「実際にそうである事」は全く別の話です。

 

言葉で分かり易く説明出来たとしても、当の説明者自身が説明した事を出来ていない事が有ると思うのですが、“楽”に関しての私はまさにそれだったわけですね。

私が思うに、物不足の原因は「誰かが大量に抱え込んで手放さないからだ」と思います。

 

「物自体は足りるだけ有る」という事です。

 

「何故抱え込むか?」と言うと、大きな理由は「恐れや不安を埋める為」と「恐れや不安を利用して儲ける為」ですね。

 

突き詰めるなら、「物不足の原因は恐れや不安に有る」と言えます。

 

では、「恐れや不安とはどういうものか?」と言うと、「無くなったらどうしよう」とか「手に入らなかったらどうしよう」いうものです。

 

 

 

お金も、恋愛も、それらに抱くものと全て同じです。

 

ただ、それだけです。

 

「どれだけ恐れや不安に振り回されているか」という事ですね。

 

その事に気付ければ良いのですが、「目に見える世界が全て」と思い込み、完全に没入している状態だとそれも難しい事でしょう。

 

ここで私がしゃしゃり出て、「内なる世界に目を向ければ大丈夫」的な事を言いたくならない事に関して、私は自分自身を「良く分かっている」と評価したいと思います。

 

もし、私にそういう欲求が有るようなら、恐れや不安を抱いて物を抱え込むのと同じ事になってしまいます。

 

「お前(私)も確り目に見える世界に没入しているじゃないか」と。

何かを出し切っていない感が在ります。

 

それを言葉にするなら「働き足りない」とか、「自分がどれだけ稼げるのか、その限界を知りたい」という感じです。

 

「一度でも良いから、自分が完全に納得する金額を稼いでみたい」というような、妙にエネルギッシュな何かを感じるのです。

 

そのエネルギッシュな何かが今の私なわけですが、それを言語化せしめて初めてこの問題は解決します。

 

 

 

今“それ”が在るので、未来の話ではありません。

 

外の世界で稼ぐ必要も無く、その私は今ここに居ます。

 

このエネルギーを利用すれば実際にお金を稼ぐ事を苦にしないかも知れませんが、私は先にこのエネルギーの正体を知る事を望みます。

 

今日という時間はその為に充てるとしましょう。

「思い通りにならない事」を“苦”と言うみたいですが、私は「思い通りにならない事それ自体は“苦”ではない」と思っています。

 

思い通りにならなくても、“苦”を感じなければそれは“苦”ではないからです。

 

天気は全く思い通りになりませんが、どんな天気になっても“苦”にしませんよね。

 

流石に台風や異常な大雨なら「ああ、外に出るのは大変だな」くらいには思いますが、天気に合わせた行動を自然と取るでしょう。

 

 

 

そんな事はどうでも良くて、肝要なのは「“苦”も“楽”も内に在って、外で得ても意味が無い事を知る」という事です。

 

簡単に言うなら、「外で“楽”をしても意味が無い」という事です。

 

「何かがごっそり抜け落ちた」と感じているのは、その事を知ったからだと思います。

 

「“楽”をする」のでなくて、「“楽”に成る」か正しいのです。

 

「誰かを“愛”する」のではなく、「自分が“愛”それ自体と知る」という事と同じです。

 

 

 

「思い通りになる事とならない事が有る」という考えは面倒臭いので捨てた方が良いと思います。

 

「思い通りになる事は何1つ無い」と思った方が“楽”です。

 

もっと言うなら、“思い通り”という概念や言葉を忘れた方が良いです。

 

持った方が“楽”なら持ちますが、捨てた方が“楽”なら捨てます。

 

私の価値基準は「“楽”かどうか」らしい事が分かったので、今後はそれに従う事にします。

 

一人で居るのも、スピリチュアルを学んだのも、悟りを求めたのも、全て“楽”という点で共通しているのですよね。

 

 

 

「“思い通り”という概念自体が“苦”」という結論を出して良いと思います。

 

「“苦”の本質は“思い通り”」という事ですね。

 

思い通りにならない事は勿論の事、“思い通り”という概念の中に居る以上は思い通りになっても“苦”という事ですね。

 

…というわけで、“思い通り”を感じる事にします。

 

既に「“苦”そのもの」と評して良いものを感じますが、私は“苦”を求めたわけなのでこれで良い筈です。

最近の私はどうにか成っているようです。

 

“楽”も“苦”も有りません。

 

何かがごっそり抜け落ちているような感じです。

 

「どうにか成っているようだ」とは、「“何か”に成っているようだ」と言い換えても良いです。

 

その“何か”を突き止めてみるのも悪くないでしょう。

 

強いて言うなら“平和”か近いでしょうか?

 

書く事もあまり無いですね。

戦国時代に「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈った武将が居たと伝えられておりますが、私はそんなに沢山は要りません。

 

零難一苦で充分です。

 

結果的に“楽”を得る事になるのは分かっているのですが、それとは全く関係無く純粋に“苦”だけを求めます。

 

私が今、関心を抱いているのは“苦”であって“楽”ではありません。

 

“苦”以外、何も要りません。

 

 

 

「苦しい思いをしたい」という意味ではありません。

 

「“苦”そのものを受け入れたい」とか、「“苦”の本質を理解したい」とか、そういう意味です。

 

本当にそう思っている今、“苦”を感じていません。

 

感じているのは「新しい事が知れるぞ」という楽しみです。

 

“苦”を求めているのに喜んでいるわけですね。

 

“楽”ばかりを求めていた時と比較すると、今の方がずっと楽しいのではないでしょうか。

 

本当に“苦”を歓迎しているのが分かります。

 

 

 

今感じているものが“苦”だとするなら、全然悪いものではありません。

 

「“楽”よりも良いんじゃないか?」と思えるくらいです。

 

少なくとも、「“楽”を求めるよりは、“苦”を求める方が断然良い」と言えます。

 

実際に感じている事から判断して、それは間違いありません。

 

どうしてそうなのかは分かりませんが、やがて分かる時が来るでしょう。