魂の世界に生きる -4ページ目

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは魂の世界だった。

今、味わった記憶の無い気持ち良さを感じています。

 

「私の中に在る“何か”を」だと思いますが、その“何か”は分かりません。

 

“失敗”ではないでしょうし、「“成功”である」とも言えません。

 

とにかく、「何だか気持ちが良い」のです。

 

 

 

先日の身体の萎縮感は何だったのでしょう。

 

それしか無いような状態で、思えば珍しい事でした。

 

「心や魂では何も無くて、身体だけ」という感じでした。

 

今もそうです。

 

身体だけが、身体感覚で何かを訴えているような感じです。

 

 

 

良い機会なので、身体感覚との会話を試みてみようと思います。

 

何時も心や魂ばかりに意識を裂いていましたので、たまには良いでしょう。

 

…と言うか、そういう発想が有りませんでした。

 

「身体が何を言っているか?」なんて考えた事も有りませんでした。

 

故に、身体感覚との会話を試みる事によって、今まで私が知らなかった事を色々と発見出来るかも知れません。

 

例えば「お金は魂が感ずるところには無いが、身体感覚で感ずるところに在る」とかですね。

 

 

 

 

私は今、試行錯誤をしている最中です。

 

試行錯誤と言っても、「今感じている“これ”は一体何なんだ?」と、感じているものをただ観ているだけですけどね。

 

感じているものは心地好いものとは言えません。

 

身体が萎縮するような、ピリピリするような感じがしています。

 

これは強い恐れや不安を感じた時に起こる場合が多いのですが、今の私は特に恐れや不安を抱いているわけではありません。

 

身体だけが何かを感じているかのようです。

 

 

 

そんな中、ふと「もしかすると、“失敗”なんじゃないか?」と思いました。

 

「“失敗”を感じているのではないか?」という事です。

 

確かに、過去の私は“失敗”を過度に恐れた事が有ったと思います。

 

そして、私は“失敗”を「“失敗”だ」と認識した事も、経験した事も無い気がします。

 

そういう事を考えますと、身体の萎縮(ピリピリ感)が若干緩んだのを感じています。

 

 

 

“やりたくない”とは、“失敗したくない”という事なのでしょうか?

 

もしそうだとしたら、既に私は“失敗”しています。

 

“失敗したくない”と思っている時点で…と言うより、そう思っている事自体が“失敗”です。

 

思い返せば、私は成功体験というものをした記憶が有りません。

 

つまり、“成功”を知らないのです。

 

しかし、感じていたものが“失敗”で、本当に“失敗”を知ったなら、その対極に位置する“成功”を知る事が出来るかも知れません。

 

私の中で“失敗”の対義語が“成功”だったなら、私のスピリチュアル理論的にはそうなります。

 

 

 

お金持ちを成功者と言い換える事が有りますね。

 

必ずしもそうとは言い切れませんが、成功者と聞いて貧しさを連想する事はほとんど無いと思います。

 

私だって「誰それが何々で成功した!」という話を聞けば、真っ先に連想するのは多額のお金ですからね。

 

私の言うお金とは“成功”なのでしょうか?

 

そうでなくとも“成功”って良い言葉ですね。

 

何かとても気持ちが良いです。

 

しばしの間、“成功”について黙想してみたいと思います。

“面倒臭い”をストレートに言うと“やりたくない”になりそうです。

 

「感じているものと、“やりたくない”という言葉はほぼ一致している」と思います。

 

「ああ、これが“やりたくない”という事なのか」と納得しているところです。

 

私は小さい頃は言いたくても言えないタイプだったので、やりたくない事を“やりたくない”と言えずに我慢してやった事が有るのかも知れません。

 

それだけ人に嫌われたくなかったのでしょうか?

 

 

 

今、“やりたくない”を味わっているところですが、かなり深いレベルのものなのか、意外と悪い感じはしませんね。

 

そして、「やっぱりこれだけでは済まない」とも思いますね。

 

もっと本質的な部分にまで踏み込めそうな気がします。

 

“やりたくない”から“やりたい”を見付ける事が出来るのだろうか?

 

“やりたくない”を知れば、“やりたい”を知る事が出来るのだろうか?

 

そういう事を考えています。

 

 

 

感じているものはもう、“やりたくない”ではありません。

 

別の何かを言っているように思います。

 

早くそれを知りたいですね。

「面倒臭がり屋なのも楽をしたいせいか?」とか考えていると、確かに“楽をしたい”と言うよりは“面倒臭い”と表現した方が適切に思えます。

 

なので、面倒臭いですが“面倒臭い”を観て(感じて)みようと思えます。

 

「“面倒臭い”を直に感じるという、最も面倒臭い事を今してしまおう」というわけです。

 

“面倒臭い”の本質を掴むには、そうしてみるより他は有りません。

 

面倒臭がるなら、思い切り面倒臭がる事にしましょう。

 

 

 

取り敢えず、“楽”の対義語は“面倒”という事にしておきます。

 

私が何かを理解する時、相反する2つの概念の両方が必要になる事が多いからです。

 

例えばですが、“楽”の対義語を“苦”に設定したとすると、得られる結果(答え・理解)も変わって来ます。

 

結果自体は正しくても、「“これ”は求めたものではない」という事になってしまったりするのです。

 

そうなると、「私は“これ”を理解した」とは言えないのですね。

 

感じ方から察して私は苦を感じているわけではないのに、“楽をしたい”とか“面倒臭い”とかが浮かんで来るので、「“楽”の対義語は“面倒”」というのは妥当な線だと思っています。

 

 

 

確かに面倒臭さは感じます。

 

しかし、「本当に“面倒臭い”と言っているのか?」という点には少し疑問も感じます。

 

“何か”に“面倒臭い”が覆い被さっているようにも思えるのです。

 

「“面倒臭い”の奥に何か在るんじゃないか?」という事です。

 

それを観る為にはまず“面倒臭い”を観て、それを取り払うなり突き破るなりしないといけません。

 

それが本当の“楽”かも知れません。

 

私は離職歴が結構多いのですが、違う会社に入る度に期待していたのは、「今度こそ“楽”が出来る」という事のように思います。

 

「何度も仕事を辞めているのは、一向に楽に成らない(期待した通りに成らなかった)から」と考えると、「ああ、確かにその通りかも知れない」と思います。

 

要するに、私は外に向かって「私を楽にしてくれ(私に楽をさせろ)と要求していたのではないか?」という事ですね。

 

思い返せば思い返すほど、段々それが正しい事の様に思えて来ます。

 

“働きたくない”も、“何もしたくない”も、お金だって楽をする為の手段として捉えているなら、全ての根底には「楽をしたい」が在ってもおかしくありません。

 

 

 

働くの語源が「端を楽にする」という話を20代の頃に知りましたが、私に言わせてもらうと「(結果的に)端も楽になる」が正しいと思います。

 

「何の結果か?」と言うと、「自分自身が“楽”に成った結果」です。

 

幾ら周りが楽に成っても、肝心の自分自身がそうではなかったら意味が有りません。

 

それなら、周りが苦労して自分だけが“楽”に成った方がまだマシなのですよね。

 

「周りが楽に成った結果、自分も楽に成る」という事は、私の経験上有り得ません。

 

周りを楽にしようとすればする程、逆に仕事が増えてどんどん自分がキツくなるのです。

 

真面目に仕事を頑張るタイプの人なら、身に覚えの有る事ではないでしょうか?

 

 

 

ただ、「楽をしたい」とか“楽”という言葉は魂には全く響きませんね。

 

これでは私は満足出来ません。

 

そして、「確かに言われてみればその通りなのだが…」と思うものの、「何かそれとは違う事を言っている気がするな」とも感じます。

 

合わせるなら「楽をしたい」ではなく、“それ”に合わせなくてはなりません。

 

「何と言っているのか?」という事を強く気にするようになると、魂と会話するチャンスなのですが、今がその時かも知れません。

恋を人に求めるなら、「好き」と言って欲しいですね。

 

愛を人に求めるなら、「愛している」と言って欲しいでしょう。

 

では、仕事は何と言って欲しいでしょうか?

 

働いている時に人に言って欲しい言葉が有るとしたら、それは何でしょうか?

 

私の言う“仕事”はその言葉かも知れません。

 

私にもまだ承認欲求が残っているのだと思います。

 

 

 

私の過去の職歴を振り返ると、概ね評価が良い…と言うか期待された事の方が多いですが、その期待と私の自己評価が全然一致しないのですね。

 

良く見られる事の方が多い(らしい)のに、「自分はそんなんじゃない」と突っぱねて苦しくなるわけです。

 

私が欲しい言葉は「頑張ってるな」とか、「仕事が出来るな」とか、そういう事ではないのです。

 

「何かを認めて欲しいんじゃないか?」という事くらいしか、今の私には手掛かりが有りませんが、その言葉が形になった物がお金だったりするのかも知れません。

 

 

 

「(人に)何と言って欲しいのか?」は、「(自分に)何と言っているのか?」と同義です。

 

「(自分に)何と言われているのか?」の方が適切でしょうか?

 

その観点から言うと、私は仕事あるいは働く事に対して、最も欲する言葉を既に言われている事になります。

 

その言葉が欲しいが為の仕事なら、その言葉が私の仕事そのものになります。

 

そうなると、本質的には天職を得ているに等しい状態になります。

 

私にはそれで充分で、「実際にその仕事をしているかどうか」は問題になりません。

 

 

 

最も評価して欲しい相手は自分自身です。

 

最も評価している相手も自分自身です。

 

後は「どういう評価をされているのか?」という事を知れば良いだけです。

 

最も評価されたい相手に、最も求める評価をされているわけですから、それが嬉しくないわけがありません。

 

私は既にその評価を自分自身からされていて、私が仕事をするにおいて最も欲しい言葉を言われているのです。

 

後はそれに気付くだけなのです。

気付いてみれば、私が嫌な事は働く事だけしか有りません。

 

他は好きな事で囲まれている状態です。

 

もし、私が本当に働く事が嫌でなくなったなら、この世で嫌な事は1つも存在しなくなります。

 

思えば、女性も嫌だったのですよね。

 

それは「見たくない自分自身を直視する事になるから」だったのですが、今ではすっかり逆転しています。

 

「仕事もそうなると良いな」と思います。

 

 

 

この世のあらゆる事は全て、「自分自身が持つ性質を発見する為」です。

 

肉眼では見る事の出来ない自分自身の姿を観る為です。

 

「私がどんな姿をしているのか観たい」という願望を叶える為にこの世は有ります。

 

それがこの世における私が存在している理由であり、全ての言動の根幹です。

 

「何で働く(働かない)のか?」という問いに対しても、「自分の本当の姿を観たいから」が答えになります。

 

世の為人の為ではありません。

 

全くの逆で、「その答えの為にこの世も人も存在している」と考えています。

 

私の言う「自分の為」とはそういう意味です。

 

 

 

「結婚とは何か?」の答えは愛です。

 

私の中に愛を発見する事が結婚を求める意味であり、「結婚する」とは「自分の中に愛を発見し、それを我が物とする事」です。

 

そうすると、自分自身と結婚出来るわけですね。

 

私の言う愛は恋を通さないと発見出来ないものなので、私にとってはこれが本当の恋愛成就です。

 

こうして、外の世界で求める理想の形が私の中で起こると、外の世界で追い求める事は無くなります。

 

「結婚したいが、独身で居たい」という願望だって叶うし、「結婚しても良いし、独身でも良い」という、どっちに転んでも「良い」しか残らなくなるのですね。

 

 

 

今の私は「働かないのは良いが、働くのは嫌だ」です。

 

「嫌だ」の割合が随分軽減されていますが、それでもまだ「嫌だ」に寄っていると思います。

 

これが「働いても良いし、働かなくても良い」になった時こそ、私は「仕事とは何か?」という問いに対する完璧な答えを得ている時でもあるでしょう。

 

完璧な答えとは、私が強く持つ何かしらの性質です。

 

嫌がる度合いが強ければ強い程、本当の私はその性質が強い事を意味します。

 

 

 

働かないで居ると平気なのは、働いている時に強く出るものなのでしょう。

 

私は何かしらの理由でそれを嫌がっているわけですね。

 

私は離職を繰り返しているとは言え、それでも通算すると20年は働いた経験が有るので、働いていない今でも何かを掴めると思います。

 

“それ”は何でしょうか?

 

例えば、“それ”が他人にとって非常に都合の良い性質だったなら、「都合良く利用されたくないから」だったりするかも知れません。

 

私は今、人生で一度も考えた事がない可能性を考えています。

 

真に求めるものは「絶対有り得ない」というものの中に有ったりしますが、働く事もそのパターンかも知れません。

 

「私は働く事が好きなのかも知れない」という事です。

 

もしそうなら、私には何の問題も無くなります。

 

働かないで居ても平気なのは分かっているので、その上で働くのが好きとなれば、どっちに転んでも良いわけです。

 

それは、独りで居ても平気なのは分かっていて、その上で女性を好きである事が分かっている今の私と全く同じになるからです。

 

 

 

社会に出てから大雑把に言って約30年経過して、ようやくその可能性を直視出来る状態になりました。

 

そういう前提で“仕事”を観た時、“仕事”の本質を発見する事が出来るかも知れません。

 

“仕事”の本質とは、私が強く持っている何かしらの性質の事です。

 

それは「私は“○○”だ」という形で表現出来て、その性質を発見する事が「何故働くのか?」という疑問の答えとなり、働く理由となります。

 

その性質を発見する事が第一の目的なので、それが見付かれば働いても働かなくてもどっちでも良いわけです。

 

これはそのまま、冒頭で述べた通りの事ですね。

 

 

 

そもそも、“働く私”という者は存在しないはずなのですよね。

 

そこに在るのは“働く事で表現している何か”です。

 

その“何か”を仮に“仕事が好き”だとするなら、“仕事が好き”が在るだけです。

 

私がもっと突き詰めたいと思っているのは、「“仕事が好き”の“好き”は何を意味しているか?」という事です。

 

私は食べ物なら寿司が“好き”で、女性なら外見がタイプの人が“好き”ですが、言葉が同じでも中身(感じ方や表現する形)は全く違いますよね。

 

仕事にも“好き”が在ったとしたら、それらとは違う中身の“好き”が在るはずなのです。

 

それを見付けたいのです。

今になって過去の事を色々思い出すのですが、私には「自分は嫌々働かされている」という意識が強く在りました。

 

これも被害者意識の一種ですね。

 

「嫌な事を我慢しないとお金は手に入らない」と思うようになり、「給料は我慢料」みたいな考えになっていきます。

 

そうなると、次第に「我慢と得られる金額が釣り合わない。もっと寄越せ!」ってなるのですね。

 

しかし、幾ら給料を増やされても嫌々我慢している事は変わらないし、我慢が軽減されるわけでもありませんので、意味の無い要求です。

 

我慢を得られる金額で塗り潰す事は出来ないのですね。

 

 

 

そして、「自らを働くように強いていた」というのは、やはり的を得ていると思います。

 

「働け!」と言われているように感じた事も有ります。

 

結局のところ、働くように強いていた加害者も、働かされているように感じていた被害者も、私自身であった事は間違いないでしょう。

 

自分で自分に働くように強いている事が一番嫌な事だったと思います。

 

これは働く事に限らず、自分で自分に何かを強いる事という事が、自分自身にとって最も嫌な事だと思います。

 

他人からは幾らでも逃げようが有りますが、自分自身から逃げる事は宇宙の果てまで行っても不可能ですからね。

 

 

 

「働け!」と言っているのは誰(何)なのでしょうか?

 

私は強いられるとやる気を無くすタイプなので、そんな事を言われると逆効果なのですけどね。

 

問題は働く事自体ではなく、強いられている(と感じる)事に有ると思います。

 

私の中に“強いる者”が居て、過去の私は“それ”を外に投影して、「国や誰それが働く事を強いている」と思っていただけに過ぎません。

 

見付ける事が出来れば、その“強いる者”は消えます。

 

 

 

それこそが“強いる者”の本当の望みなのです。

 

「私が声に従って働く事」ではないのですね。

 

消えたくないなら黙っていれば良いのですよ。

 

それをわざわざ嫌がらせして自己主張するような真似をするのは、本人(?)が「見付けて(消して)欲しいから」なのですね。

 

そう解釈する事で“強いる者”の願いと私の願いは一致します。

 

“強いる者”は消えたいし、私は強いられたくはないのです。

 

どっちの都合にも合いますね。

私が感じていたのは“嫌”だと思います。

 

“嫌い”ではなくて“嫌”ですね。

 

“嫌い”の対義語は“好き”で良いと思いますが、“嫌”の対義語は何でしょう。

 

一先ず「私の中の“嫌”が現象化したものが仕事だった」という事にしておきます。

 

今でも“嫌”と言えば“嫌”なので、大きく間違っていないでしょう。

 

 

 

私の中に在る以上、受け入れるしか道は有りません。

 

分かり易く言うなら「嫌な事を受け入れる」という事です。

 

これは“嫌”に決まっていますね。

 

“嫌”そのものを受け入れるのですから、「嫌な事の極致」と言って良いです。

 

しかし、私は受け入れます。

 

心境としては「ああ、もう駄目だ。降参…」と言った感じですね。

 

 

 

嫌な事というのは外ではなく、私の中に在ります。

 

私の中に嫌な事が無ければ、何処にも嫌な事は存在しません。

 

仕事も嫌な事ではなくなるでしょう。

 

そうなれば、何処にも問題は有りません。

 

「外の世界で快適に生きようと思ったらお金が必要だが、そのお金を得る為の手段である仕事がどうにも“嫌”だった」という、詰みに等しい状態も何とかなるでしょう。

 

 

 

“嫌”ってどう見てもネガティブですね。

 

「ネガティブそのもの」と言っても良いです。

 

しかし、“嫌”を受け入れる事により、その反対も同時に受け入れる事になります。

 

この世で存在する全てが二元で成り立つ仕組み上、これは絶対です。

 

「片方を切り捨てようとすると、もう一方も絶対に得られない」という仕組みは、ネガティブから入ろうがポジティブから入ろうが同じ事です。

 

この事を知っていて、更にその経験が有ると、「嫌な事を受け入れる」というのは実は嫌な事ではなくなるのですね。

 

 

 

“嫌”が「嫌な事の極致」であって、「ネガティブそのもの」と言うなら、その反対に在る何かは「好ましい事の極致」であって、「ポジティブそのもの」と言えますね。

 

そうなれば、お金の見方もまるっきり変わるはずです。

 

私の今の関心事は「“嫌”の対義語って何だ?」という事です。

 

それが分かれば「私は“それ”だ」と認識出来ます。

 

そして、「ああ、これが私の求めたお金だ」と得心したなら、私は本当のお金を発見し、得た事になります。

 

こうなると、“愛”と同じくお金も永遠のものになります。