“持っていない”を見詰めて行く中で、「これ(“持っていない”)が土台では、どうしようもない」という事を認めました。
それは単なる事実を認めただけで、絶望や諦めとは違うものです。
私は“金”を持っていない事を自覚したばかりですが、その事を知る前から無理に動かなかった事だけは褒めても良いと思います。
何から何まで無理しか無い話でした。
「これでは私はとても動けない」という事が良く分かりました。
一夜明けて、改めて“持っていない”を観ようとすると、まだまだ動けそうにない重い感じが残っていますが、もう“持っていない”ではない気がします。
「変容するはずだ」とは予想していたので、その事自体は特に何とも思いません。
私が求めているのはハッキリした答えなので、それが出るまではただ観続けるしかありません。
“持っていない”は「こりゃ駄目だ」としか思えないものですが、暴かれて困るものでもなければ、暴かれる事を恐れるようなものでもありません。
むしろ逆で、暴かれないと困るものだし、暴かれない事の方が恐ろしいものです。
「この状態で外に“金”を求めて走ったら…」と思うと、「よくぞ踏みとどまっていた」と自画自賛したくなります。
世に存在する大半の金持ち、本当は“持っていない”のではないでしょうか?
本当に“持っている”金持ちはどれだけ居るのでしょう。
本当は何を“持っていない(持っている)”か知っている金持ちって、どれだけ居るのでしょう。
ほとんど居ないんじゃないでしょうか?