山梨県・・・身延町

下山城・・・武田氏重臣の穴山氏館跡、歴史を今に伝える遺構は空堀跡のみ

 

   城址の周辺図

 下山城(穴山氏館)は、穴山氏の館跡で、現在の山梨県南巨摩郡身延町下山2271 の本国寺のある場所が城域とされている。穴山氏が館を構える前は、この場所には加賀美遠光の子の秋光朝の子孫が下山邑(ゆう)領主として来住したのが始まりであり、下山氏の本拠地であったとされるために下山城と言われたのではないか。

  旧北小学校(昔の初等学校)の庭の隅に説明板が

  長栄山と描かれた扁額を掲げる本国寺

 穴山氏館跡には日蓮宗本国寺が創建されており、城館跡としての雰囲気は感じられるものの、遺構となると本国寺を正面に見て右側の保育園脇の竹やぶの空堀跡のみと残念なくらい少ない。

  本国寺の山門

 今回の訪問では、JR身延線波高島(はだかじま)駅を下車して2・6㎞で徒歩約36分。遺構を探すのに周辺住居の方にお願いして、お庭を利用させていただき、いざ竹やぶとなりました。幸いにも写真の通り、空堀跡の確認と写真を何とか撮影できました。

 

    城・館と合戦

 下山城(穴山氏館)は、国道52号線の沿線の一画の民家の間の道路・通路を入ると本国時山門に向かって正面右側に下山城跡碑があります。そして左側の小学校跡の校庭の一画(道路側)隅に「下山城跡」の説明板が設置されております。説明板は見やすい道路・通路側に背を向けておりますので探すのに苦労しました。

  唯一残る保育園東側の堀跡

 下山城は、富士川の西岸、栗倉山麓に広がる下山集落に甲斐源氏の下山氏が築いた城という。現地説明板によると、始めは鎌倉時代に甲斐源氏下山光基の館であり、戦国時代に入ってから穴山氏の居館となったと記載している。

 『甲斐国志』には土塁や堀の痕跡が記録されているそうです。現状を見ても竹やぶまで入っていくと明確に遺構が残っておりました。時代背景から、居館は方形の館と考えられるが、現状の本国寺や学校跡などから想像しても、かなり広くて大きな館だったと想像できます。また、江戸時代の「下山村絵図」には、館跡は南北を河川に挟まれ、本国寺境内と河内路を二重の土塁で囲んでいたとされる。

  左側が堀跡で真ん中から右は土塁跡

  堀脇にあった祠は何を語る?

 一方、本国寺の寺の説明板には、最蓮房日浄上人が開山し、開基は下山兵庫介光基で建治3年(1277)に創立されている。甲斐源氏加賀美遠光の孫光重は、建仁年間(1201〜4)に下山に入部して下山小太郎光重と称した。

 室町時代に入り、応永25年(1418)の頃、武田氏の一族・穴山氏が河内に入部し、下山氏館跡に居館を構えた。寺と穴山氏の関係は深く、境内にある穴山八幡神社は、穴山信君(梅雪1541〜82)を祀っている。

  下山村絵図の拡大図

   残った堀えと続く現在の堀か?

  城跡の正面を南北に走る52号線

 穴山氏は、14世紀の中頃に武田信武の5男義武が逸見郷の穴山の地(韮崎市穴山町)に封を得て穴山氏を名乗った武田氏の一族だ。武田氏と今川氏との国境紛争が安定した穴山信友の代に下山に館を移して以来、信友、信君(梅雪)、勝千代の3代が居住したと考えられている。天正15年に穴山勝千代夭死して子孫断絶で城は廃された。

 なお、穴山氏の戦国期の活躍(軍事と外交で活躍し、今川氏領国の駿河に精通)や明智光秀の謀反「本能寺の変」のおりに徳川家康の「伊賀越え」に同行せずに別行動した結果、宇治田原(京都府宇治田原町)において落ち武者狩り(一揆勢か?)に有って殺害された。

 ちなみに梅雪は、武田家の最後の当主となる武田勝頼を小山田信茂と穴山梅雪で裏切(織田・徳川方と内通)っており、不忠者として不名誉な最後を遂げたとも言える。

 参考資料:「下山城跡説明板」(身延町教育委員会)、『長栄山本国寺説明板』(身延町、身延町教育委員会)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

 

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