埼玉県・・・小川町

中城・・・単郭を土塁と空堀で防備、『万葉集注釈』を完成させた仙覚律師の政所と伝承

 

  空堀と二重土塁

  北側にある陣屋沼緑地

  周辺案内図

  中城の中心部を望む

 中城は、小川町のほぼ中央部にある丘陵地の八幡台の一画で現在の埼玉県比企郡小川町大字大塚338周辺に築かれた平山城だ。『新編武蔵国風土記稿』には「四方二町許の地にて、から堀の蹟所々に残り・・・」と記載されている。旗本金子氏の陣屋沼緑地の看板も。

  整備されている陣屋沼緑地

 伝承によると中城は、鎌倉時代は猿尾(ましお)太郎種直、室町時代初期(建武=1334〜36)には斎藤重範(斎藤六郎左衛門尉重範)の居城であったと伝えられ、戦国時代には腰越城主の山田伊賀守直定の出城(支城)となっていたそうです。別名を猿尾城、猿尾氏館で単郭に土塁と空堀で防御している。

  北側の土塁と空堀(右側)

  空堀の通路を進むと土塁を挟んで、陣屋沼を右下に見る

 築城年代はもう一つ不明で、史料的な材料不足であるが、城館跡を示す空堀や土塁跡が明確に残っており、間違いなく城館跡遺構としては満点を与えても良いと思います。交通アクセスは、東武東上線かJRの小川町駅下車して徒歩で約13分。

 この中城における見所として、もう一つ忘れてはいけないのが鎌倉時代初期の仙覚律師が『万葉集注釈』を完成した折に、その奥書(文章の末尾の記述)に「比企郡北方麻師宇郷政所」と記されているが、麻師宇郷は八幡台南部の字名増尾のことを指すと言われている。

 『万葉集注釈』を完成させた仙覚律師の政所が、この中城とするとするなら大変興味深いお話となるのではないか。しかも北条氏との政争の挙句(比企の乱)に滅ぼされた比企能員ゆかりの人とも言われている。歴史は一次史料がないと誰もが“歴史学者”になれる楽しい世界なのです。

  

   城と居住者

 中城は、小川盆地に臨む秩父山系の舌状台地の先端部に約100㍍四方に巡らした方形の城館で、築城時期が鎌倉時代までさかのぼって、猿尾太郎種直が築いた可能性もあるお城だ。本曲輪の西側には虎口が設けられ、土塁は屏風折れで櫓跡も置かれて敵への横矢掛けができる構造となっている。

  空堀

  本曲輪跡の大部分はテニスコートが

  本曲輪の囲み土塁

  本曲輪跡と内側土塁

  南側空堀と土塁

 昭和55年の発掘調査によると、15世紀(室町時代)の土器が見つかっており、城郭構造や出土品などから築城年代は15世紀後半と推定されている。現在の春日会館の西側にあるテニスコートあたりが本曲輪跡と言われており、曲輪の西から北側にかけて二重の土塁と横堀が南・北・東と巡らされており、南西の権現堂(半僧坊大権現堂)が建っている所は櫓台と考えられます。

  櫓跡に建つ半蔵坊大権現堂

 

  南側・権現堂川から入ると仙覚律師遺跡(中城)標柱が

  仙覚律師遺跡説明板

 仙覚律師の政所(仮宿)の有った場所が中城と指摘されるが、仙覚律師は、鎌倉時代の天台宗の僧侶で、建仁3年(1203)に常陸国に生まれ、没年は不明ながら万葉学者として万葉集研究の礎を築いた。

 室町時代初期(建武年間)には、斎藤重範が地頭となってこの地域を支配したと伝えられるが、戦国時代に入ると腰越城の支城として活用されて、江戸時代に入ると旗本の金子伊予守の陣屋が置かれていました。
 一方、「太田道灌状」には、上田上野介在郷の地、小川、と記載されこの辺から上田氏の持ち城説も聞かれる。ちなみに猿尾太郎種直は、増尾郷の開発領主と推定されるものの、どのような事績を残しているのかは不明だ。また、室町初期の斎藤重範についても同様です。

 参考資料:「仙覚律師遺跡説明板」(小川町、埼玉県)、『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

 

○わが家のお花

   ♪クレマチス

  ♪少し色付き出したジュンベリーの実

  ♪一重の芍薬

  

 

栃木県・・・鹿沼市

大塚城と花だより・・・佐野氏の家臣が築いた山城、下野の国人領主は小田原北条氏との死闘の末に勢力下に入る

 

  大塚城の遠景

 大塚城は、天正年間(1570〜92)に佐野宗綱の家臣の大塚信濃守綱利が旧栃木県上都賀郡栗野町下粕尾で現在の鹿沼市に築いた山城と伝承されている。城のある山域の高さは230㍍ほどで、県道15号と県道32号が交差する下柏尾交差点の北西約300㍍の場所付近だ。別名を大越路城。

 今回の城攻めでは、大塚城のある場所が粕尾小学校の西北側、南に伸びた小高い山の頂部(道路から約80㍍)なので小学校付近を目指した。

 ところが登城口らしき場所に到着して見たら、山に通じる道があり入口の柵は開閉できるのですが、入山禁止の立て看があり、いざ踏み込むのも勇気が必要だ。地元の方に聞いた情報では、獣罠はイノシシか鹿の類だそうです。

そんな訳で入り口付近だけ見させていただき、いつものように、あとは小雨で撤退しました。管理者にお願いすれば登城も可能だったかなと思います。

  左右は昔日の土塁か堀跡で、今は通路に

 資料などからは南側に土塁跡、北側には幅5メートルほどの空堀が確認されるようです。

 

   城と合戦

 大塚城は、構造的には南北に伸びた尾根を3筋の堀切で区分けして4つの曲輪群を構成しているだけだそうなので、構造的には単純で見どころは堀切の規模と土塁でしょうか。

  土塁跡かも

 曲輪は南から4、3の曲輪、そして堀切を挟んで主郭となる。主郭の左右には帯曲輪が一段あり、西側は水道施設となっているそうです。さらに堀切を挟んで2の曲輪。また3つ目の堀切で5の曲輪で防備して居たようです。周囲5㎞付近には粕尾城や栗野城が、さらに南側に下ると秋葉(不摩)城もあります。

  麓の居館跡かも

  南側の竪堀の末端かも

  3、4曲輪からの竪堀

 築城者と言われる佐野宗綱(昌綱の嫡男で16代当主)の家臣の大塚信濃守綱利は、藤原北家秀郷の流れを組むと言われている下野国安蘇郡佐野発祥の佐野氏の重臣で、下野の大塚氏は都賀郡大塚発祥で藤原北家説が文献に見られるので、もしかすると佐野氏と同根の系統であったかもしれない。

 大塚綱利は、初め左衛門尉と名乗り佐野氏に仕え、その後に信濃守綱利となる。戦国期になると佐野氏を始め皆川氏など下野の国人城主や豪族達は、小田原北条氏との死闘の末に北条氏の勢力下に入っている。

 「男澤恵一・家系と先祖のBLOG」によると、母方の鹿沼市下粕尾の大塚家は大塚城跡との関連があるようで、「綱利は初め左衛門尉といった。後裔は大塚貞之助氏。のち粟野地区は皆川氏の勢力下にあり、綱利は佐野氏から離脱、大塚氏の城付近でひそかに余生を送り慶長十七年(1612年)二月死去。菩提寺は慈眼寺。自然石の墓石が残る」と記載されており、今後のさらなる調査を期待したい。

 参考資料:『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

○わが家のお花だより・・・薔薇5点

 

 

栃木県・・・鹿沼市

鹿沼城と今宮神社御朱印・・・壬生綱房が独立台地の御殿山に築いた平山城

 

  鹿沼城・主郭(現状は野球場)

   今宮神社の御朱印

 鹿沼城は、天文元年(1532)に壬生下総守綱房が、独立台地の御殿山と言われた現在の栃木県鹿沼市今宮町1666−1付近に築いた平山城だ。別名を坂田城、亀城とも言われている。

 遺構としては土塁と空堀跡が確認されるが、残念なのは鹿沼市の総合グランドとして昭和40年代に本丸(現在は野球場)や二の丸、三の丸(現状は駐車場)は地ならしされて、運動競技場として活用され御殿山公園となってしまった。これも時代の要請でしょうか。

   鹿沼城概要図・上が西で、北側は右側

 ちなみに鹿沼城跡から西に約500㍍の場所には坂田山と言われる鹿沼城発祥の地があります。諸説あるようですが坂田山に築かれてから240年後に、御殿山に城が移されたとか? 城への交通アクセスは、新鹿沼駅から徒歩で約25分。

 また、鹿沼城下に壬生義房が、天文元年(1533)に御所の森から「今宮権現」を城内(鹿沼市役所脇)に歓請して祀ったのが「今宮神社」です。御朱印もいただいてきました。神社の由来記は最後に掲載しましたので、よろしかったら併せてご覧頂ければ幸いです。

 

    城と合戦

 鹿沼城は、天文元年に壬生綱房が築いたもので、本丸、二の丸、三の丸を備え、壕を二重、三重にめぐらして、壕の外側に出丸を配置しており、城域の総面積は数万坪に及ぶとされる。城の概要は『城郭大系』の図を掲載させていただいた。

 城跡の発掘調査では、小田原北条氏に与しただけに障子堀が確認された。長さ16㍍、幅8~9㍍、深さは1~1・8㍍の堀の中に、南北1本、東西3本の障壁が確認されている。堀底からの高さは60~80センチで、幅40センチ~1・6メートルだった。

  主郭の東側登城口と城跡碑

  登城口の土塁跡

  ここを登ると主郭(現在は野球場)へ

  主郭脇の土塁

  切岸(掻き上げ土塁か)土塁(左)と主郭の野球場(右)

  周囲は土塁で囲まれている主郭(野球場)

 しかも堀に水が張られれば障壁は見えず、敵兵の動きを止めたり、遅らせたりする効果が期待されたようだ。過去の調査でも、長さ24㍍の障子堀が見つかっている。そして令和に入って市役所の工事で堀障子が発見されている。

  南側の堀跡が通路か

  左側の下る階段を下りると3のまるで、

    現状は弓道場、奥の右手は空堀

  昔日の櫓跡

 鹿沼城は鎌倉時代の正応4年(1291)、日光二荒山神社に「唐銅の灯籠」を奉献している下野の豪族の鹿沼権三郎入道教阿が、坂田山の山頂に館を構えたと伝承される。

  左側が太夫殿、右奥は病院が見える
 室町時代末期(戦国初期)の大永3年(1523)、鹿沼地方を支配していた豪族の鹿沼綱勝が宇都宮氏と対峙して、宇都宮忠綱の軍と合戦に及んだ。鹿沼勢は宇都宮軍の山野井称監を討ち取るも、大将の鹿沼綱勝が戦死してしまい鹿沼城は落城した。 

 宇都宮忠綱は、日光領を掌握するとともに鹿沼城を壬生綱房に与えた。壬生綱房は、御殿山を中心に鹿沼城を築いて本拠とし、鹿沼氏の坂田山館を出城として活用したとされる。

  東側の本丸下の犬走り、そして断崖の下は市営駐車場

  主郭東南角の土塁

  東側のテニスコートが曲輪跡

  東側から市街を望む

 大永3年8月に、結城政朝が宇都宮領に侵攻し、宇都宮忠綱は宇都宮猿山において結城勢を迎え撃った。いわゆる「猿山合戦」だ。しかし忠綱は敗れて宇都宮城に撤退しようとするが、芳賀高経の策謀(大永の内訌=芳賀、笠間、塩谷の各氏と忠綱の対立から)により宇都宮城に入城がかなわなかった。

 そこで忠綱は、忠綱派の壬生綱房の居城である鹿沼城に身を寄せた。同年11月10日に、忠綱は2000余の兵を率いて皆川宗成領に侵攻を図り、「河原田(現在の栃木市)の戦い」で勝利するも、援軍として小山氏・結城氏連合軍2000弱の兵が皆川氏を支えて再度交戦。宇都宮忠綱は劣勢から撤退を余儀なくされた。こうして忠綱の宇都宮城への帰城はかなわず、大永7年に死没(壬生綱房の裏切り説も)した。

 時を経て、壬生氏の統帥として鹿沼城に入っていた壬生上総介義雄は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐で、北条氏に与して小田原城に籠城する。城主の居ない鹿沼城は、豊臣勢に与した宇都宮、佐竹、結城勢に攻められて落城と同時に壬生氏も滅びて、築城から57年を経て壬生氏は城と共に滅びて忘却の彼方へ。

 江戸時代の慶長15年(1610)に武蔵鳩ヶ谷1万石の阿部正次が鹿沼領内で5000石加増で鳩ヶ谷藩領となり、元和2年に正次は7000石加増で上総大多喜に移封して幕府領に。寛永11年(1635)に1万3000石で阿部重次が立藩。  

一時廃藩も正保4年(1647)に、近江源氏の朽木稙綱が2万5000石で鹿沼藩主となるも、慶安2年に移封。そして鹿沼には内田正信が1万5000石で領有して在封。最後は、享保9年(1724)に内田の3代目の正偏(まさゆき)が、心の病で妻を傷付けた罪で蟄居、長男の正親が3000石の減封で相続するも小見川藩に転出して廃藩となる。

  今宮神社の鳥居から本殿を

 一方、御朱印をいただいた「今宮神社」は、鹿沼城の鎮守だそうで、栃木県鹿沼市今宮町1692に鎮座する古社です。栃木県神社庁のHPによると延暦元年(782)の創立と記載されております。日光二荒山神社の分社らしく日光山鹿沼今宮権現と称しているようです。天文3年(1535)日光神領惣政所の地位にあった壬生綱房が、鹿沼築城と共に現在地に遷し、今宮権現と称して城の鎮守とした。

  鹿沼城の鎮守社の「今宮神社」

   神社本殿正面
 天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定に伴い壬生氏滅亡後は、鹿沼宿の氏神となり、徳川幕府より50石の朱印地を拝領。慶長13年(1608)3月に、今宮権現が現在見られるような優美な権現作りの社殿(県文化財指定)にと整備された。そして明治維新とともに神仏分離で、今宮神社と称号が改められて昭和6年に栃木県県社に昇格した。

 参考資料:「鹿沼古城跡説明板」(鹿沼市・鹿沼ロータリークラブ)、「栃木県神社庁のHP」、『日本城郭大系』、『藩史総覧』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。