埼玉県…伊奈町

伊奈氏陣屋・・7回目の訪問。障子堀のある関東郡代屋敷跡、注目は伊奈氏以前の居住者情報、河津桜とわが家のお花情報 

 

    3月中旬には散りだした権現堂の河津桜

 伊奈氏陣屋は、現在の伊奈町小室字丸の内で武蔵国大宮台地東縁部に位置する小室領丸山村の原市沼などの湿地帯と水田に囲まれた細長く伸びる比高約5㍍の小高い島状台地に築かれた。今回で7回目の訪問で3度目のブログ紹介となります。

 実は、河津桜が4、5本ほど頭殿権現に有ったのを思い出して、3月中旬に見に行ったのですが、残念、散り始めて葉桜前(写真参照)でした。

 

  散策マップより         寛政時代の屋敷周辺図

  現地説明掲示板

 城館規模は東西350㍍、南北750㍍の楕円形の丘陵地で陣屋ながら平城に近い広大で西南に沼と河川、周囲は湿地帯で防御性は高そうだ。

陣屋は、小田原北条氏が滅びた後の天正18年(1590)に徳川家康の配下として伊奈熊蔵忠次が三河国小島の旧領地と小室、鴻巣において1万石(一説には1万3千石)を領した。

  屋敷内に植栽されている椿

 そして天正19年(1591)に忠次が先住者の閼伽井坊(あかいぼう)を現桶川市倉田明星院に居を移させたのちに陣屋(小室藩)を構えたようだ。もともとは、小田原北条氏の家臣であった岩槻(岩付)城主の太田氏の支配下にあった名刹無量寺閼伽井坊(あかいぼう)の屋敷を譲り受けたもので、その辺の詳細は明星院の古文書に記載。閼伽井坊に移居の代償として畑3町歩などを与えている。閼伽井坊は古儀真言宗仁和寺で、閼伽井棒を前身とする寺院が無量寺(伊奈町)だそうです。

 陣屋の縄張りは、縄張図と寛政年間の陣屋周辺図参照。土塁や堀の遺構が今でも見られ、堀跡が散策路となっている。

  令和の発掘調査の説明会

 中でも障子堀(写真)は昭和59年の裏門周辺の発掘調査(現状は埋め戻し保存)で見つかっており、敵兵の侵入を阻止する城跡で有ったことが明らかだ。平成から令和における発掘調査でも西側を中心に障子堀が発見されている。伊奈氏が入る前の中世に作られ、伊奈忠次が増改修したと考えられる。

  発掘調査後は埋め戻された

 陣屋は南の表門から入り、正面に二の丸跡、北に進むと右に蔵屋敷跡、左に陣屋跡、さらに北側に裏門跡や物見台跡(後世に推定で今は竹藪)、通路を進むと北西側の屋敷に沿って障子堀の出現となる。

 屋敷内の陣屋跡南西の端には頭殿権現社が祀られている。頭殿社は、長禄2年(1458)頃に太田道灌が勧請したかもと言われ、天正19年(1591)に忠次が陣屋に入った時に営繕して陣屋の守護神としたようだ。祭神は龍神との説があり、家康の死後の元和2年(1616)以降には家康(権現様)を祀るために権現社を勧請したようだ。

  権現堂わきの掻揚土塁

 二の丸跡への案内

  二の丸への堀の道

  二の丸跡

  裏門近くの見晴台跡?

 伊奈氏は、信州の伊那郡熊蔵(現長野県伊那市)の出身で、詳細は寄稿済みなのでそちらを参考(2019年5月17日掲載)三河一向一揆。伊奈氏を語るターニングポイントは①子孫が渡来系の技術者説②三河一向一揆で家康に背いたが、許されて家康の嫡男松平信康に仕え、信康自害の時に父子で出奔③本能寺の変の時、堺で家康に帰参を許され伊賀越えに帯同した。

 徳川家康の最大の難関、危機の境脱出と三河への帰国が忠次飛躍の契機(きっかけ)となる。家康の近習となり、5カ国総検地において才能を発揮。小田原の役で駿府・遠江・三河の三か国の道路普請や軍勢の兵糧輸送などで豊臣秀吉の信任を得る活躍で家康の面目を高め、さらなる信頼を獲得し、家康の江戸入府においては、関東支配の基礎固めに貢献した。その後の活躍は、省略。

 

〇わが家のお花

  ハナスオウ

  ルリジサ(ボリジ

   ダッチアイリス

 参考資料:「ふるさと伊奈」(町史編纂室)、「埼玉県の歴史」(山川出版社)、「伊奈氏屋敷跡散策マップ」、「伊奈忠次の生涯」など(伊奈町教育委員会関係資料)、『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)、「埼玉の城址30選」(埼玉新聞社)、「日本史総覧」(新人物往来社)、「官職制度沿革史」(原書房)、「江戸武家事典」(新人物往来社)など。