山梨県・・・身延町

波木井城・・・久遠寺の創建者、武田信虎を裏切り滅ぼされる

 

  波木井城址顕彰之碑

 波木井(はきい=はきり)城は、鎌倉時代の御家人である南部実長(波木井実長=さねなが)が身延山東麓の標高300㍍ほどの台地上の、現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井に築いたと伝わる山城だ。土門に土塁跡らしきものと一段高い場所の鉄塔のあるところが本郭跡ではないかとされる。

 波木井実長は、久遠寺の開基・創建したことでその名を残しており、波木井実長の館跡説明板や城跡入り口には実長さんの供養塔が鎮座しております。

  城址碑

 この城が注目を集めたのは大永年間に、今川氏家臣が攻め寄せてきたときに、武田信虎に与していた波木井義実は今川方に通じて、のちに信虎によって攻め滅ぼされたと伝わる。

山城だけに、城跡へ一歩足を進めていくと、目には獣の捕獲用罠・檻が設置されており、熊か猪など猛獣注意を促している。くわばら、クワバラ。ちなみにクマは「唐辛子」が大嫌いと聞きました。熊避けのツール利用も有りかな!!

  獣用の罠檻が設置されていました

 そんなことで取り急ぎ写真撮影して早々に撤収しました。交通アクセスはJR身延線身延駅から約3・8㎞、徒歩では約1時間かかります。車で10分足らずで着きますが。

   波木井城周辺概要図

  段々畑が城址の雰囲気を醸し出している

  土塁と堀跡(通路)

   城と合戦

 波木井城は、富士川西岸の身延山東麓の山の上の一画に築かれており、北を深沢川、南を虹川の深い渓谷に挟まれた天然の要害だ。城への登城路は県営波木井団地や坂下団地、神之平を進んで古屋敷を右手に標高で346㍍の頂を中心に築かれている。直前までの一帯は畑や宅地で、城の石碑と案内板がある場所が道路の行き止まりで、その先が城域だ。

  本格跡と伝承される

  本格跡周辺の掻き上げ土塁か

 鉄塔のある場所付近に本郭があったとされ、西側に二の曲輪、周りを切岸とかき揚げ土塁で防備を固めている。鉄塔の東下側に三の曲輪と四の曲輪(もしかすると帯郭)、北側に2段下がって五と六の曲輪(城址碑のある場所)が配置されている。

  本郭脇(左側奥に切岸か土塁)の削平地・曲輪跡か

  本郭周りの土塁跡

  枯れ草のある奥は、かき揚げ土塁と堀に囲まれた曲輪跡か?

 築城年代は今ひとつ定かではないが、『甲斐国誌』によれば南部行光の3男南部実長が築いた城とされている。ただし、実長の館はここから離れた梅平集落南側の山裾にあった波木井氏館ではとされるため、本当に実長が築いたのか疑問が持たれている。

  左側の高台は櫓跡か?

   上の畑地(土塁か切岸)との仕切りとなる堀跡か

  良き見ると右手前は帯郭跡か

 波木井城は、波木井の地名に築かれたことから名付けられ、南部の氏も同様に波木井を名乗ったと考えられる。実長を祖先とする波木井氏と波木井城が歴史上に名を残すのは、大永年間(1521年〜1528年)に駿河の今川氏の武将である福島正成が甲斐へ攻め入ったときだ。

 波木井実長の末裔にあたる波木井義実波木井城主は、義実は今川氏に通じて武田信虎を裏切っている。これに激昂した信虎に攻め滅ぼされてしまい城も廃城となったという。現地の説明板には「波木井の峯の城」がすなわち、この波木井城址であると伝えている。

 ちなみに城を築いたのではないかと言われる南部実長は、鎌倉時代中期の御家人で、日蓮の有力な壇越(だんえつ=旦那衆)として、日蓮宗総本山の身延山久遠寺の創建に力を貸した人物だ。

父親は源頼朝に従い「石橋山の合戦」に参戦した南部光行で、3男の実長は光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にあった波木井郷(現在の身延町梅平一帯)を割譲されて一家を立てて地頭職を兼務した。日蓮との接点は、文永6年(1269)頃に日蓮の辻説法に感銘して帰依したとされる。

 なお、奥州で活躍した一戸行朝が光行の長男で、次男実光が三戸南部氏、3男実長は八戸氏(実長の嫡子の実継が)、4男朝清が七戸氏、5男宗清は四戸氏、6男行連が九戸氏の祖となっている。

 参考資料:「波木井城址説明板」(身延町教育委員会)、「身延山久遠寺のしおり」(身延山久遠寺)、『日本城郭大系』、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。