埼玉県・・・深谷市
NHK「青天を衝け」で渋沢栄一の怒りをかった岡部藩の代官・・・岡部陣屋
岡部藩は武蔵の岡部(現在の埼玉県深谷市岡部)に立藩された譜代小藩。藩庁は現在の深谷市岡部1211の岡部陣屋。藩祖は、徳川家康の譜代の家臣の安倍信盛で、祖父は今川氏の重臣だったそうです。武田信玄に今川家が最終的に滅ぼされたときに、徳川家康に従って最後まで武田氏と戦ったのが祖父の安倍元真だそうです。
岡部陣屋跡の碑
岡部藩の説明板 NHK「青天を衝け」の悪代官
信盛は父の信勝の家督を継承して関ヶ原の戦いや大坂の陣などで軍功を挙げて大番頭や大阪定番などに就く。慶安2年(1649)に1万9250石を拝領して岡部藩を立藩した。元々の安倍家は、岡部を本拠に三河や摂津に所領が分散されていた。岡部に領地をもらい5000石の旗本から始まり、その後に諸侯に列し明治新政府にも従っている。
歴代の藩主は摂津・大阪で暮らすことが多く、地元と安倍家とのつながりは薄いと言われている。明治元年には徳川家の駿府移転に従って愛知県新城市に転封している。NHKの「青天を衝け」で御用金として、渋沢栄一の渋沢家に500両の大金を求めた代官こそ岡部藩の人物だが、やはり藩主が大阪での在住が多いとなると、領地の統治は代官に任せて渋沢家などを泣かせたのも何となく理解できます。
城館談義[12月13日]薩埵峠の戦いは、2度行われ北条氏康と武田信玄の対峙では決着つかず
永禄11年(1568)12月13日の「薩埵(さった)峠の戦い」は、「第一次薩埵峠の戦い」と言われる12月12日から13日に行われた戦いと、翌12年正月から4月24日までの「第二次薩埵峠の戦い」があった。第一次の戦いは駿河の薩埵峠(現在の静岡県静岡市清水区)で、武田信玄に対して、北条氏康・今川氏真の連合軍が戦って13日に今川軍が崩れて駿府へ逃げ帰ったと言われている。
北条氏の家紋 武田氏の家紋
もう一つの「第二次薩埵峠の戦い」は武田信玄対北条氏政による合戦であり、1月18日から4月20日まで戦われたものの結局は決着せず両軍が兵を引いて終わった。
第一次では12月6日、武田信玄が本拠の躑躅ヶ崎館(現在の甲府市)を出発し、12日には駿河国の内房(うつぶさ=現在の富士宮市)まで進出した。武田の侵攻に驚いた今川氏真は、庵原城主の庵原忠胤(いはらただたね)を総大将に1万5000の兵をつけて薩埵峠で迎え討つよう命じた。そして自らも清見寺(現在の静岡市清水区興津)まで出張って陣を据えた。さらに氏真は必勝を期して、義父でもある北条氏康に対して支援を要請し、武田信玄の背後を突くよう頼んだ。
武田軍は今川の駿府を攻略するには薩埵峠を経由すると睨んで、氏真も薩埵峠を固めて北条氏の援軍で挟み撃ちにすれば勝てると踏んだようだが、結局は武田軍の攻撃に抗せず、しかも武田および徳川方の内通の呼びかけで疑心暗鬼(朝比奈氏や葛山氏などが裏切るのでは)となり、13日に身の危険を感じたのか今川氏真は清見寺を脱出して本拠の駿府・今川館まで逃げ帰った。
不幸なのは、今川氏真の退却が味方の前線に伝わって総崩れを起こした。武田軍もチャンスと捉えて薩埵峠を突破してその日のうちに駿府に流れ込んだ。街は焼き払われて氏真も恐怖に駆られて駿府館を捨てて、今川家の重臣である朝比奈泰朝の居城である掛川城に落ちのびていった。
そして12月27日から翌年5月17日まで戦った「掛(懸)川城の戦い」では、武田ではなく徳川家康が攻め込んできた。家康も攻め切れずに長期戦となり、5月17日に講和して開城させた。
一方、「第二次の薩埵峠の戦い」は武田信玄に対し、今川氏真の正室(早川殿)の実家である小田原北条の北条氏政(早川殿の兄)が4万5000余の兵を率いて掛川城に孤立している今川氏真救出に立ち上がった。武田軍はこれに対して1万8000余の兵を薩埵峠に送り出して陣を固めて両軍が対峙した。狭い峠道での睨み合いで北条氏政は、今川救援に対応できず峠での戦いに無駄に時間を浪費した。結局、勝敗はつかずに両軍は兵を引いた。
なお、今川氏真は「掛川城の戦い」での講和の後に、北条氏を頼って伊豆の戸倉城まで落ちのび、義父の北条氏康の支援でお家再興を目指すも叶わず、実質的に今川氏は滅びた。
参考資料:『藩史総覧』、「岡部藩について・説明板」、『東国の戦国合戦』、『機内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館)、『日本古代中世人名辞典』、『戦国武将合戦事典』、『戦争の日本史』(吉川弘文館)、『日本合戦全集』(秋田書店)、『日本城郭大系』、『別冊歴史読本・全国合戦大総覧』、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)、『歴史人・No122名字と家紋の真実』(ABCアーク)、フリー百科事典『ウィキペディア』など。