埼玉県・・・桶川市
室町時代の城で本木雅弘さんの祖先の城・・・加納城
加納城は、戦国期に活躍した岩槻城主の太田氏の家臣で、鴻巣七騎と言われた武士団の一人である本木氏が築城したのではないかと言われている。築城年代は戦国期前の室町時代にさかのぼると考えられるという。俳優の本木雅弘さんの実家が築城主と伝えられる。地元でも有力な旧上加納村の本木氏であり、桶川市の有形文化財の古文書である「旧上加納村本木家文書」が残されており、子孫は豊臣氏の小田原征伐のあった天正18年(1590)に北条方だったと思われ、勧められて本木氏は帰農したようです。
本木氏と同じように帰農したと考えられる鴻巣七騎をみると七騎以上の名があげられている。鴻巣宿の発展に尽くし、孫は徳川将軍家に鴻巣御殿を寄進したと言われている小池長門守久宗。
鴻巣市上谷の立川石見守、北本市の深井の深井対馬守景吉、鴻巣市常光の河野和泉守、北本市宮内の大島大膳亮久家、北本市中丸の加藤修理亮宗安、北本市宮内の大島大炊助(現衆議院の大島敦議員の先祖説)、鴻巣市下谷の矢部氏などがいる。
加納城は、JR高崎線の桶川駅下車して約3キロの地で、圏央道桶川・加納インターから車で5分足らずだ。昭和初期頃は遺構も残されていたようだが、戦後の都市化でほとんどが宅地造成され、城跡は城跡団地となっている。現在の城跡碑が建っている場所は桶川市加納字常敷で、周りは元々が低い地形の舌状台地だったそうです。東側は元荒川や赤堀川の低湿地帯を防御に活用しており平城として十分機能を果たしていたようだ。
昭和42年に実施された発掘調査でも、縄張り図に示されているように内郭と外郭がはっきり確認されたようだ。城郭の規模は、出丸を持つ方形の内郭が1万1400㎡で、外郭を含めた総面積は4万3000㎡。東(208㍍)・西(252㍍)・北(148㍍)に空堀や二重土塁を巡らし、南側(264㍍)は現在の市道の下に規模の大きな堀があったことが確認されたそうです。南側はいわゆる虎口であり、中は広い広場となっていたようだ。また、城郭南西隅にあった外堀の「おりひずみ」も現在の道路形状に見ることができる。
全体の城郭イメージは、縄張図をみて浮かんできますが、写真に紹介したのみの実質遺構はやはり寂しいです。分譲団地開発でやむを得ないながら、城郭遺構の保存の難しさがわかります。
次に紹介したいのは、同じ桶川市内の三ツ木城(城山公園)です。ここはまだそれらしい遺構があるので写真で紹介します。
参考資料:「加納城跡説明板」(桶川市教育委員会)、『日本城郭体系』、 『ウィキペディア』など。