有名作曲家による戦前昭和の軍歌いろいろ | れぽれろのブログ

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政治と音楽シリーズ。今回は戦前昭和の軍歌を取り上げます。
「音楽に政治を持ち込むな」というのはよく聞かれるフレーズですが、クラシック音楽と政治の関係(前々回の記事)や、近年のロックとアメリカの戦争の関係(前回の記事)などを考えても、音楽と政治性は関わりの深いものです。
その中でも、やはり政治的な面がかなり強く表れているのが、戦前の軍歌だと思います。

戦前日本の軍歌を鑑賞する上での自分なりのポイントは2つ。
1つは日本では軍歌は大衆が求め、大衆が率先して軍歌を愛聴したということです。
明治時代は西洋音楽の受容の時代、当初は当時の西洋音楽の推進者たちにより軍歌が作曲され国民に聴かせようとする、いうなれば「上からの軍歌」が展開されましたが、日清・日露戦争の時代になると、むしろ大衆の方が率先して軍歌を求めるようになりました。
とくに軍歌の普及が著しいのが、レコードが一般化した昭和初期です。満州事変(1931年)や日中戦争(1937年)など、時局が軍事的になるごとに、それを元にした楽曲を各レコード会社が率先して制作し、その結果当時の日本は世界的に見てもかなりのレコード大国・軍歌大国になりました。
1930年代(昭和5年以降)であっても、国家が軍歌を無理やり普及させようとしたのではなく、大衆が自ら軍歌を作り、軍歌を求めたという点が重要です。

もう1つは、軍歌はエンターテインメントであったということです。
人々は軍歌の歌詞の政治性に強く同調したり、国策に協力しようという意図で軍歌を聴いたのではなく、むしろ戦争と関わる歌詞の勇ましさやある種の抒情性に共感したり、音楽性の楽しさ、メロディの心地よさなどを求めて軍歌を楽しんでいたのではないかと思います。
有名歌手が吹き込んだ軍歌のレコードなど、盤面の歌手の写真だけでかなりの枚数が売れたとも言われます。とくに楽しみが徐々に少なくなる戦時体制の中では、人々は娯楽として軍歌を求めていました。
敗戦直後には軍歌は下火になりますが、それでも敗戦から時間が経過し、高度成長時代になると、テレビやラジオなどで軍歌の替え歌などが流れるようになり、やがて軍歌のメロディは懐メロとして機能するようになっていきます。このことからも、戦前の軍歌は娯楽として人々に積極的に消費されていたことが分かります。

今回は作曲家に着目して6曲の軍歌を並べ、歌詞ではなく主に楽曲面についてコメントしてみたいと思います。いずれも超有名作曲家で、むしろ軍歌以外の楽曲に功績のある方々です。

軍歌は特別な作詞家や作曲家が作っていたわけではなく、当時のエンターテインメトであったため、売れっ子の作曲家は皆軍歌に関わっていました。以下はこんな作曲家が実はこんな曲を?という観点で鑑賞してみても、面白い発見があるかもしれません。
YouTubeのリンクはいずれも当時のSPレコードの音源です。軍歌は戦後にアレンジされているものも多く販売されていますが、やはり戦前の文化を考える上では、オリジナルの音源を聴く方が面白いと思います。



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・露営の歌/古関裕而 (1937年)

 


古関裕而は1909年の福島県の生まれ。
戦中から戦後にかけて様々な楽曲を作曲された方で、ある程度以上の年代の方で、古関作曲の楽曲を1曲も知らないという人はおそらくいないのではないかと思います。
「福島行進曲」「船頭可愛や」などの戦前の流行歌に始まり、「六甲おろし」「巨人軍の歌」「栄冠は君に輝く」「オリンピックマーチ」などのスポーツに関わる曲や、「とんがり帽子」「フランチェスカの鐘」「長崎の鐘」「君の名は」「モスラの歌」などの戦後の流行歌・映画音楽、その他企業の社歌や団体歌など、幅広く様々な音楽を作曲されているのが古関の特徴です。

古関は軍歌の覇王とも言われ、戦前は様々な軍歌を作曲したことでも有名な方です。
とくに売れたと言われるのが「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」の3曲。このうち1曲目の「露営の歌」は1937年の日中戦争開始間もないころの作品で、作詞は籔内喜一郎という方。
実はこの「露営の歌」はレコードのB面で、A面は別の勇ましい曲だったのですが、この哀調漂うB面の「露営の歌」の方が人気が出たため、この後も短調のやや悲しげな軍歌というのが一つの売れ筋になったと言われます。
個人的には間奏部分で一瞬長調に転調する部分などが好みで、バックのピッコロの動きも面白いです。



・勝利の日まで/古賀政男 (1944年)
 


続いては古賀政男です。1904年の福岡県の生まれ、戦前からのヒットメーカーで、いわゆる「古賀メロディ」という哀愁漂う音楽性が特徴で、戦後のある種の演歌はさかのぼると古賀政男に辿り着くのではないかと思います。古関裕而よりは少し先輩で、古関がヒットが出ずに苦労していた時代に、古賀は既に売れっ子作曲家であったと言われています。
「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」「湯の町エレジー」「悲しい酒」などが代表曲でしょうか。三波春夫が歌う「東京五輪音頭」も古賀政男の作曲です。
個人的には戦前の「東京ラプソディ」や、映画音楽であった「サヨンの鐘」あたりがお気に入りです。戦前の有名な歌謡曲「南の花嫁さん」も個人的に好きな曲で、元々は中国の楽曲ですが、日本でレコード化するにあたって古賀政男が編曲したと言われており、古賀政男作曲とクレジットされているケースもあります。

軍歌では「そうだその意気」などのやはり哀調のメロディが有名かもですが、今回は1944年の「勝利の日まで」を取り上げました。作詞は有名なサトーハチローです。
このYouTubeのリンクは当時の映画音楽に使われた編曲版で、オリジナル版とは「われらはみんな~」の部分のメロディが微妙に異なり、少し聴いたときの印象が少し異なります。オリジナル版もYouTubeで聴くことができますが、個人的にはテンポの良いこの映画音楽版が好みです。
1944年といえばもう敗戦は間近、もはや負け確定の時勢の中の音楽にしては妙に明るく、とくに間奏部分などイケイケどんどんの謎のはっちゃけ感すらあり、聴いていて楽しい楽曲です 笑。
上のやや悲しげな古関とは真逆の意味で、やはり軍歌はエンターテインメントなのだなと感じさせられる楽曲。なお、この曲の2番の一部は近年の映画「この世界の片隅で」にも一瞬だけ登場しています。



・空中艦隊の歌/中山晋平 (1932年)

 


続いては古関・古賀よりは少し上の世代の作曲家、中山晋平です。
1933年に大ヒットした日本の大衆音楽史上に残る音楽「東京音頭」や、戦後に黒澤明の映画で使われた「ゴンドラの唄」などが有名な方。
以前に童謡を並べた記事でも取り上げたことがありますが、中山晋平作曲で最も有名なのがやはり童謡で、「シャボン玉」「雨降りお月さん」「あめふり」「あの町この町」「背くらべ」「肩たたき」「砂山」「鞠と殿様」など、たくさんの有名な童謡を作曲された方。大正時代から活躍されていた作曲家です。
文化庁が選んだ「日本の歌100選」には、中山晋平は実に6曲も選ばれています。

中山晋平はいわゆるヨナ抜き音階(ドレミファソラシドのうち、ファとシの音を抜く5音音階)を多用するのが特徴ですが、中山晋平の場合は単純なヨナ抜きではなく、跳躍したり目まぐるしく動いたりと、多様なヨナ抜きメロディになるのが面白いと思います。
この「空中艦隊の歌」(作詞は長田幹彦という方)もやはりヨナ抜きで、中山晋平が得意としたいわゆるピョンコ節(6/8拍子の2拍目・5拍目がないリズム)の楽曲でもあります。
1932年なので東京音頭の前年の楽曲。童謡であれば「あの町この町」などに近い印象ですが、「あの町この町」ほどにひねりはなく、有名な童謡などに比べるとやや単調な気もし、ひょっとしたらそんなに気合が入ってなかった楽曲なのかもしれません 笑。
個人的には大正時代の童謡や「ゴンドラの唄」あたりに中山晋平の本領があるように思います。



・どんと一発/服部良一 (1942年)

 

※この曲は貼付不可のようですので、リンク先でどうぞ。


服部良一は1907年の大阪府の生まれ、こちらはまた古関裕而や古賀政男と同世代の作曲家です。
戦中から戦後にかけて活躍し、戦前は「別れのブルース」「蘇州夜曲」など、戦後は「東京ブギウギ」「買い物ブギ」「青い山脈」などが有名かと思います。
古賀政男が哀愁漂う、どことなく日本的な音楽を得意にしたのに対し、服部良一はもっとモダンな雰囲気の曲、いわゆる戦前にジャズと言われていたような音楽あたりが面白いと思います。
李香蘭の「蘇州夜曲」や笠木シヅ子の「買い物ブギ」などは個人的にもお気に入りの曲です。

小学館の百科事典「日本大百科全書」(ニッポニカ)の服部良一の項目には、「反骨精神から軍歌をつくらず」と記載されていますが、この「どんと一発」の例のように、服部も軍歌は作っていたようです。確かに服部のイメージから軍歌とは結びつきにくいですが、軍歌は当時のエンターテインメントであったため、やはり中山晋平や服部良一のような作曲家も軍歌には関わっていたようです。
「どんと一発」は作詞は野村俊夫、太平洋戦争開始直後の1942年、日本がイケイケどんどんの頃に作曲された楽曲です。上の中山晋平とは違い、この曲は前奏の目まぐるしいメロディからして楽しく、なんとなく作曲にも気合が感じられる気がします 笑。サビのメロディの盛り上がりと跳躍(「どどんと一発轟沈だ~」の部分)などなかなか楽しくて、個人的には好みの楽曲ではあります。
服部は何かと軍歌と縁遠く位置付けられがちですが、この曲が埋もれるのもややもったいないようにも思います。



・米英撃滅の歌/山田耕筰 (1944年)

 


上の4人の作曲家はいずれも大衆歌謡の作曲家たちでしたが、軍歌はクラシック音楽の作曲家も作っています。
山田耕筰は1886年の東京生まれ。言わずと知れた日本のクラシック音楽界の大家で、交響曲「かちどきと平和」(先日のオリンピックの開会式でも使われた)や交響詩「曼陀羅の華」など、日本のクラシック音楽の最初の巨匠と言うべき人物です。
「からたちの花」「この道」などの格調高い歌曲から、「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」などの親しみやすい童謡まで、様々な音楽を残した作曲家。山田は全体として明るい曲が多く、メロディも美しいものが多いです。個人的にも山田耕筰の歌曲は好みです。

そんな山田耕筰が作曲した軍歌がこの1944年の「米英撃滅の歌」。作詞は野口米次郎で、詞は上の4曲の軍歌と比べてもかなり凶悪(笑)なものですが、山田耕筰の楽曲はやはり上の4曲とは一味違い、ある種の格調の高さも感じさせる楽曲になっています。
前奏からしていかにもクラシックの作曲家らしい和声と転調と各楽器の動きが見られ、メロディも朗々とした明るい感じで(しかしここにえげつない歌詞がのせられる 笑)、歌っていると楽しい楽曲でもあります。明るいメロディの裏で伴奏がときどき不協和音っぽくなるどことなく不穏な部分もあり、このあたりも楽しい。個人的には今回の音楽の中でもお気に入り度はかなり高いです。
山田耕筰は戦時下ではかなり戦意高揚に協力的な言説もたくさん行っており、その結果戦後は批判されることになりますが、山田は明るい性格で批判をものともせず、戦後も活躍し続けました。時局に協力的であったとされ戦後批判された画家の藤田嗣治などは、戦後はフランスに出国し生涯日本に帰ることができず、戦後の再評価も遅れた作家でしたが、山田は戦後も快調に活躍、このあたりは山田と藤田の性格の差もあるのかもしれません。



・此の一戦/信時潔 (1942年)

 

※この曲は貼付不可のようですので、リンク先でどうぞ。


最後もクラシック系の作曲家です。信時潔は1887年の大阪府生まれ、上の山田耕筰と同世代で、やはり日本の初期クラシック音楽の大家です。山田が性格的にも楽曲的にも明朗であったのに対し、信時はどことなく陰のある雰囲気で、この同世代の2人はよく対比的に言及されます。
クラシック系のピアノ曲や歌曲などを作曲されていますが、やはり有名なのは戦前の有名な軍歌「海ゆかば」です。上の5人と違い、現在でも軍歌が最も有名であるというのが信時の特徴。その他、カンタータ「海道東征」などは近年でもたまにクラシックの演奏会などで上演される楽曲です。

この「此の一戦」は1942年、太平洋戦争開始直後の曲で、歌詞は当時の標語であった「此の一戦 なにがなんでも やりぬくぞ」、これが延々繰り返されるだけという、なかなか厳しい音楽になっています 笑。
聴いての通り伴奏もあまり力が入っておらず、歌詞もひたすら単調であったため、当時は全く人気がなかった曲であると言われています 笑。
しかしよくよくメロディを聴いてみるとなかなか良くできている曲で、単純な歌詞ですが繰り返されるたびにメロディは変わっており、例えば「此の一戦」の歌詞は計6回繰り返されますが、毎回メロディが違い(厳密にいうと2回目と5回目は同じメロディ)、そのメロディの作り方も、ドミソ、ミソド、シレファ、レファラ、ミソド、ソドミ、とそれぞれ分散和音でできており、やはりクラシック作曲家の曲の作り方だだなと感じます。
この単調な歌詞にそれなりに豊かなメロディを付けることができたのは、やはり信時の力量の成果なのではと思います。意外と耳に残るメロディで、自分は気が付くと延々歌っていることもあります 笑。




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ということで、6曲を並べてみました。とくに後ろの4曲は自分もつい最近知った曲で、軍歌の世界においても有名作曲家の様々な楽曲が残されているようで、たいへん面白いです。とくに服部良一と山田耕筰のこの曲が埋もれるのはもったいない?
エンターテインメントであった軍歌を文化的に楽しむのもまた面白いもの。しかしやはりその詞は問題のあるものも多く、真に受けて現代で同じような楽曲を制作しようとするのはやはり問題です。
軍歌にせよ戦争画にせよ戦争文学にせよ、ある程度距離を取って鑑賞することが肝要、さらに文化をきっかけに歴史を参照し、現在に生かすことができれば、なお良いことだと思います。