兵庫県 西宮・神戸の神社仏閣 -西宮神社・弓弦羽神社・須磨寺- | れぽれろのブログ

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神社仏閣探訪シリーズ。
今回は兵庫県の西宮市・神戸市の3つの社寺を取り上げたいと思います。
以下、3つの社寺の写真と覚書です。



(1)西宮神社

まずは西宮市にある西宮神社を取り上げます。

西宮神社はその名の通り西宮市の名前の由来になっている神社です。
最寄り駅は阪神西宮駅ですが、JRさくら夙川駅からでも徒歩圏内だと思います。
訪問は今年の3月です。


東側の入口、鳥居の様子。

この写真のように、西宮神社は敷地がすべて塀で囲われています。


鳥居の奥の門(表大門)。



ちなみに南側にも入口があります。
こちらは南側の門。こちらは丹塗りではありません。



敷地内の様子。

松の木が良い雰囲気です。
西宮神社の敷地は広いです。西宮市は中核市ですが、それなりの規模の都市の中心駅にほど近いところに、これだけの広さの神社が残っているのは面白いです。


しばらく歩くと拝殿への参道が見えてきます。



拝殿。


西宮神社の創建は不明ですが、平安時代中期の文献には登場しているようです。
元々西宮市には北側に廣田神社(以前に丘陵地の神社を並べた記事で取り上げた神社です)があり、廣田神社の南側が海、つまり現在の西宮神社の付近は古代は海でした。一説によると、廣田神社の境内の中の一小社(南宮)が陸地化後の平安時代中期以降に南側に移動し、これが現在の西宮神社になったとも言われています。

古くは廣田神社のことを西宮という例もあるらしく、紛らわしいです。いずれにせよ、京都や大阪から見て西側にある大きな神社ですので、古くから西宮と呼ばれ、それが現在では付近の地名にもなったということであるようです。
中世には高倉天皇による奉幣(平安時代末期)や後奈良天皇による寄進(戦国時代)も文献に見え、西宮神社は皇室・貴族との関わりも深い神社である一方、中世以降はえびす神の神社として大衆の信仰を受けた神社でもあります。現在でも商売繁盛の神社とされ、現在は十日戎(1月10日前後の近畿圏のお祭り)の際にはたくさんの人でにぎわいます。
なお、神社の建物は1945年に戦火に遭い、現在の建物はその後1961年に再興されたものです。


敷地内には庭や池があります。



良い雰囲気です。


鯉がいました。



こちらは日露戦争にゆかりがあると思われるの記念鐙。

「明治三十七八年没増船」とあり、灯台にも似ているので船と関わりがある碑なのかも。


こちらは六英堂。

元々東京丸の内にあった岩倉具視の私邸で、岩倉具視、三条実美、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文の6人が、維新時代にこの建物でよく協議を行っていたことから、六英堂と言われるのだそうです。明治天皇も訪れた場所でもあるため、明治天皇行幸の碑も残っています。
長らく神戸にある川崎重工が保存していた建物でしたが、1977年にこの西宮神社に移設されました。
中には入ることはできませんでしたので、門のみの撮影です。


明治天皇御聖跡の碑も残っています。



休憩所にいたタヌキ。



厩舎の中からこちらの様子をうかがう馬。

一応「神馬」であるとのことですが、比較的可愛く作られているので、何やらありがたみがありません 笑。


布亀株式会社の表示がありました。

「ひよこのひよこっこはひよこのこ♪」のCMでお馴染みの、布亀の救急箱の会社です。布亀は西宮市に本社がある企業です。しかしこのCMは近畿圏だけなのかも?


さて、こちらは朝日新聞の阪神支局です。

西宮神社の東側、阪神西宮駅のすぐ南東側にありました。
1987年、赤報隊なる右翼団体を名乗る人物がこの朝日新聞阪神支局に侵入し、散弾銃を発射、職員1人が死亡、1人が重体となったというテロ事件、いわゆる赤報隊事件が発生した場所です。

この事件は未解決事件であり、現在でも犯人の詳細は分かっていません。当時自分は小学校4年生であり、右翼は怖いなと思った記憶があります。
現在の右翼団体はこういった活動を行うことはほぼなくなり、逆に政権を擁護する側に回り、直接襲撃などではなく単に朝日新聞を言論でたたいているだけの存在になりました。武闘路線ではなくなったのは良いことですが、この30年の右派団体の変化は感慨深いものがあります。



(2)弓弦羽神社

続いては神戸市東灘区にある弓弦羽神社(ゆづるはじんじゃ)です。
最寄り駅は阪急御影駅、訪問は今年の7月です。


鳥居。



参道の様子。

住宅地の中にある神社で、小さな森がありよい雰囲気です。


巨大な椋の木。

大阪の神社はクスノキが神木とされている場合が多いですが、神戸のこの神社の場合はムクノキが祀られています。


拝殿。

 

弓弦羽神社の創建はよく分かっていません。社伝によると神功皇后の三韓征伐にゆかりのある神社とのことですが、神功皇后は伝説上の人物ですので、いつのことやら分かりません。この付近の地名である「御影」も神功皇后の姿と関係あるのだとか。(阪神間は三韓征伐の征西ルートですので、阪神間には神功皇后ゆかりの神社はたくさんあります。)
弓弦羽神社という名前になったのは1968年(明治元年)のことで、元々近世までは熊野権現と呼ばれていました。なので、熊野三山への信仰が重要視された平安時代中期以降の創建なのかもしれません。御影の地はすぐ北に六甲山があり、六甲山は弓弦羽嶽とも言われるそうなので、社名の由来は六甲山と関わりがあるようです。
現在はなぜかフィギュアスケートの羽生結弦選手の聖地となっているのだそうです。名前が似とるだけやないかと思いますが 笑、オオクニヌシ(大国主)を祀る神社が後に大黒天(インド由来の神様)の信仰に変遷する例があるように、ダジャレ的類似性による由来の変遷は日本では起こりがちな伝統です 笑。


この日は大祓の翌週とのことで、茅の輪が残っていました。

自分も茅の輪をくぐってきました。


明治天皇御製。

どこへ行っても登場する天皇の碑 笑。


御大典記念碑。

大正天皇のものと思われます。


阪神淡路大震災に関わる碑があるのが阪神間の神社の一つの特徴です。

白鶴や菊正宗など、地元の酒造メーカーの名前が並んでいます。


こちらは赤ん坊の手形・足形を奉納するコーナー。

 

 

のはずですが、なぜか手形・足形に混じって、ゆるキャラ「ゆづ丸くん」の姿が 笑。

ゆづ丸くんはヤタガラスをキャラ化したデザインになっています。ヤタガラスは熊野と関わりがある神獣ですので、熊野権現時代とつながりがあるようです。


こちらはサッカーの碑。

御影石でできたサッカーボールとのことです。
 

 

やはりヤタガラスがデザインされています。



カリンの実がなっていました。




(3)須磨寺

最後は神戸市須磨区の須磨寺(福祥寺)です。
最寄り駅は山陽電鉄須磨寺駅ですが、JR須磨駅からでも訪問は可能です。自分はJR須磨駅から歩きました。
訪問は昨年(2020年)の12月です。


JR須磨駅から少し丘を登り、山に向かって歩くと山のふもとに須磨寺が見えてきます。
こちらは須磨寺への道。



山門。



敷地に入ると、いきなり平敦盛と熊谷直実が戦っていました。

源平の争乱の1つである一の谷の戦いが行われたのがこの須磨の地。一の谷も須磨寺からすぐ近くにあります。
左奥が平敦盛(平家方)、右手前が熊谷直実(源氏方)。敦盛は直実と戦い、一の谷の地で討ち死にします。平家物語の有名な場面ですが、後の時代に能や文楽や謡曲などの題材にもなり、さらに有名になりました。


階段を上ると本堂です。



こちらが本堂。

1602年の建物が現在も残っています。内陣は1368年のものが残っていると言われますので、かなり古い建物です。須磨は神戸市の中心からは離れているので、空襲は免れたものと思われます。

須磨寺の名は通称で、正式には福祥寺といい、真言宗須磨寺派のお寺です。平安時代初期の824年に和田岬より観音を引上げ、886年に聞鏡上人により観音がこの地に移設されたのが須磨寺の始まりと言われます。
1184年の一の谷の戦いで破壊され、中世には一旦荒廃しますが、その後1602年に豊臣秀頼により再興されます。秀頼により再興された近畿圏の神社仏閣は多く、あちこち社寺めぐりをしていると、豊臣秀頼の重要性に気付かされます。


三重塔も良い雰囲気です。

こちらは1984年に建てられたものです。


平敦盛の首塚も敷地内に残っています。



源義経が腰かけたと言われる松。

真偽のほどは不明です 笑。


高野山の波切不動尊と関わりのある碑。

須磨寺は真言宗ですので、高野山とも関わりが大きそうです、波切不動は海の荒波を刀で切断して波を鎮めたという謂れのあるお不動さんで、高野山では有名です。


きんぽとん童子の像。

「きんぽとん」は「金浦敦」と書き、顔は金太郎、下の亀は浦島太郎、笛を愛するのは平敦盛と関わりがあり、それぞれ一字を取ってミックスした像のようです。折衷しすぎて意味不明になっている感はありますが 笑、面白い像です。
背後に平等院風の天女がいるのも面白い。


こちらはシベリヤ満蒙戦没者の慰霊塔。

シベリヤ雪の同窓会による1982年の碑です。シベリア抑留者を祀るための碑。
アメリカが日本兵の捕虜を比較的丁寧に扱ったのに対し、ソ連の抑留はかなり過酷なものでした。このことは戦後の親米反共に少しは影響しているのではという気もします。


碑の周りには2体のクマちゃんが。

 

ホクマンヒグマでしょうか?
碑の重々しさに対するクマの可愛らしさのギャップが面白いです 笑。


殉難記念碑。

こちらも戦没者と関わりがある碑のようです。


突如現れる、謎の孫悟空の像。


 

須磨寺の南側は商店街になっています。
ここにあった、平敦盛(と思われる)と女性貴族の顔出しパネル。



ずっと南に向かうと須磨浦です。

夕刻に西に向かって撮影。奥に小さく明石海峡大橋が見えています。
舞子方面で見られる、明石海峡大橋と夕日のセットも良いものです。舞子近辺のの写真も撮影していますので、いずれまた別の機会に取り上げたいと思います。