ゲンロン12 訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について | れぽれろのブログ

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定期的に購読している批評誌「ゲンロン」の最新刊、「ゲンロン12」に掲載されている東浩紀さんによる論考「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」を読みましたので、例によって内容の覚書と考えたことなどをまとめておきたいと思います。
今回の「ゲンロン12」はたいへん分厚く、まだすべてを読み切れていないのですが、まずはこの論考を読んで非常に面白く考えさせられたので、差し当たり記憶の新しいうちに記事化しておきます。

今回の論考「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」は、「観光客の哲学」(ゲンロン0)に登場する<観光客>という概念と<家族>という概念を、あらためて架橋する目的で書かれた論考とのことです。全部で15章、大きくAパートからDパートまでの4部に分かれています。
ざっくりまとめると、AパートからCパートまでが<観光客>と<家族>をつなげる訂正可能性の哲学についての記述、その後のDパートが新しい公共性についての記述になっています。Cパートまででも本論の目的は達成されていますが、これにDパートが加わることにより、論考が非常に面白く有意義なものになっているように思います。


ざっくりまとめと覚書(自分なりの解釈を含む)。

Aパートでは、古代ギリシャから共産主義まで、家族の閉鎖性を否定し国家や公共圏を重視する様々な言説が取り上げられますが、しかしその結果登場する国家や公共圏もまた実は閉鎖的なものにしかなり得ていないこと、閉鎖的な家族の外にも実は別のかたちの閉鎖的な家族しかいなかった、という様子がまとめられています。
個人的に面白かったのはエマニエル・トッドによる家族論の紹介で、トッドによると核家族(夫婦と子供、近代欧米の家族形態)が実は歴史的に最も古く、次に直系家族(長子相続の同居家族、最近までの日本はこれに当たる)が古く、歴史的に一番新しいのが共同体家族(多くの血縁者を包摂する家族、中国などユーラシア中部に多い)であるという説が取り上げられており、家族概念の多様性、我々のイメージする家族概念の非普遍性が明らかにされています。

Bパートでは、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論などを例に、我々が日々使っていることばの定義が実は論理的に一定しない様子、まるで鬼ごっこをしていたらいつの間にかかくれんぼになっていたという子供の遊びのように、ことばや概念の定義・ルールが変容する様子(論理的には変容せざるを得ない様子)がまとめられています。
これは家族という概念にも当てはめることができ、ここから言語ゲーム的に変容する共同体を<家族>と規定、国家や公共圏も広義には<家族>であるという論が展開されています。
個人的には前回のゲンロン11で登場した固有名の未規定性の問題が、今回の論考にもつながっているところなど、面白く読みました。

Cパートでは、A,Bパートの議論を受けて、表題である訂正可能性の哲学についての議論が展開されます。訂正可能性とは、概念の定義・ルールが変容する(論理的には変容せざるを得ない)ということ。<家族>を訂正可能性に支えられる持続的な共同体と定義し、「観光客の哲学」(ゲンロン0)で展開された家族の特徴、偶然性(誰と家族を形成するかは必然的には確定しない)、強制性(家族からは容易には排除されない・離脱できない)、拡張性(どこまでが家族であるかは場合によっては血統や居住範囲を越えて広がっていく)という、この3つのすべてが訂正可能性に裏打ちされたものであることが明らかにされています。
一方で「観光客の哲学」の主題である<観光客>は、中途半端に物事にコミットするような存在であり、社会の中での様々な<誤配>(つなぎ替え)を呼ぶ存在として規定されていました。訂正可能性に支えられる広義の<家族>(国家や公共圏を含む)を閉鎖的でないものにするためには、<観光客>的なつなぎ替えの可能性を高め、その結果、偶然性・強制性・拡張性といった<家族>の特徴の変容(≒訂正)の可能性を高めていくことが肝要であると読める論考になっています。

Cパートまでで本論の目的は達成されていますが、ここにDパートとして新しい公共性に関わる議論が加わっているところが、本論のたいへん面白いところだと思います。
現在はいわゆる保守とリベラルが対立する社会であると言われます。これを<家族>論につなげ、保守とリベラルをそれぞれ広義の<家族>と規定すると、現在は保守もリベラルも閉ざされた公共性の中でそれぞれ議論し、<家族>の悪い閉鎖性の面だけが前面に出てしまっている、これが現在の状況であると考えられます。
本論では、保守はまずは身近な関係性から考える立場、リベラルはまずは普遍的な連帯から考える立場であるとされ、それぞれは入口が異なるだけであり、突き詰めていけば同じ結論に達するのではないかという見立てが取られています。現在の硬直した保守・リベラルそれぞれの<家族>性について、その変容(訂正)を促す考え方は何か?

本論ではアーレントの著作「人間の条件」に登場する、人間の行動の3類型、<労働>(labor)、<制作>(work)、<活動>(action)という概念を切り口に、保守とリベラルそれぞれの<家族>的訂正可能性に迫ります。ここがたいへん面白いところだと思います。
ざっくり書くと<労働>は肉体労働、<制作>はものづくり、<活動>は言語によるコミュニケーションを指します。従来のアーレント論では<活動>のみが重視され、<労働><制作>に対し<活動>こそが最も人間的な行為であると読まれることが多かったですが、本論では<制作>が重視されます。
言語によってなされる<活動>は言語ゲームにほかならず、それ故に突き詰めれば突き詰めるほど、保守にせよリベラルにせよ概念的な未規定性があらわになる。従って、議論の土台となる、より具体的な何かが必要であり、これこそが<制作>である。

ここから本論では、<活動>/<制作>に対応する様々なキーワード、現れの空間/共通の世界、固有名/確定記述、開放性/持続性、政治家や言論人/芸術家や詩人、パロール/エクリチュール、フランス革命/アメリカ独立革命、などが議論の俎上にあげられ、<制作>をベースに<活動>の訂正可能性に迫っていきます。
自分なりにまとめると、政治的発言(≒<活動>)の応酬だけでは保守もリベラルも対立は深まるばかり。そうではなく、個別具体的な政策検討や実務作業(≒<制作>)を丹念に行えば、実は保守もリベラルも似たような結論になる。<家族>間の対立は<制作>を通すことにより、<家族>的変容(訂正)が押し進められ、保守・リベラルの対立自体が無意味化する、そしてこれこそが新しい公共性を形作る、という論考になっているように読めます。


考えたことなど。

<活動>(言語コミュニケーション)の土台として<制作>(ものづくり)を重視する考え方は、単に政治や公共を考えることのみならず、社会の様々な場面で応用可能な考え方だと思います。

たとえば家族。家族を健全に維持するには、愛情や信頼が必要などとはよく言われることですが、いくらことばで愛情や信頼を確認し合ってもそれは不毛なものにしかなりません。家族にとってはまずは勤労や家計の維持管理が最重要、もう少し日常的には料理をするとか掃除をするとか、こういう実務的なことが家族維持の根底にある。
例として家族旅行を考えてみると、旅行に関わる行為の大部分は、宿、交通機関、食事、観光地などの選別や予約などの実務的な行為によって占められます。これらの手続きを家族でともに行い、旅行を良きものとして作り上げようとする行為は、広義にはある種のものづくりともいえるものです。
このような実務が家族内のコミュニケーションを促し、そこからことばだけでない愛情や信頼らしきものが立ち現れてくる。<制作>を通してこそ<活動>が健全なものになるということは、家族についても当てはまりそうです。

このことは家族のみならず、友人や恋人など、もう少し広義の人間関係にも応用できます。友人との関係、恋人との関係を健全に維持するには、言語だけではなく土台となる行為が重要である。ざっくりした例でいうと、友人と酒を飲んでダラダラ喋る(広義の<活動>)にも、そのための共通前提となるネタ(<制作>によってつくられたもの)が必要となります。分かり合えるネタがあってこそ健全なお喋りができる。
企業活動はどうか。ともすれば企業の上層部でのコミュニケーションは、実態のない空理空論の応酬に陥りがちです。持続可能性だのIoTだのコンプライアンスなどの言葉が乱れ飛ぶのが企業上層部のプレゼンあるあるなのですが、これらは実務に直結しない限り不毛以外の何物でもありません。実務に直結しない不毛なコミュニケーションを増殖させるテレワークなどは、まさにダメな<活動>の例と言えそうです。
宗教にも応用できそうです。宗教は教祖のことば(≒パロール)が突出し、それのみによるコミュニケーション(≒<活動>)が促された場合にとくに危険なものになるのではないか。教義(≒エクリチュール)の制定や日常の儀式(≒<制作>)を重視し、これをベースにしたコミュニケーション(≒<活動>)が促された方がより穏健で、社会的と親和的かつ持続的な宗教として成り立つように思います。
この他にも教育やアートなど、社会の様々な面での応用例が思い浮かんできます。


ということで、いつもながら東浩紀さんの論考はたいへん面白く、たいへん脳を刺激されました。とくに<活動>の土台に<制作>が必要という考え方は、ひとつの座右の銘にしたいくらい重要な考え方であると感じます。
「ゲンロン12」はまだすべて読み切れていませんが、読んだ中では鹿島茂さんと桜井栄治さんの論考がたいへん面白いです。
鹿島茂さんの論考は、現在のネット上の広告モデルによる無料サイトの起源を19世紀フランスの新聞に見出し、健全な報道・文化が成り立つための条件を考える論考。桜井栄治さんの論考は、日本中世における贈与のあり方を考察し、贈与社会の商品経済社会に勝るとも劣らぬ複雑性と、完全なる贈与なるものの非成立性がよく分かる論考になっています。
どちらも目からウロコの論考で、経済論として非常に面白く、今までのゲンロンにはあまりなかったタイプの考察になっているように思います。ゲンロンは第2期になってからますます面白くなっており、来年以降も目が離せない批評誌になりそうです。