大阪市 北船場のレトロ建築 その1 | れぽれろのブログ

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コロナのおかげで外出がままならず、図書館・書店・美術館・演奏会に行くこともできません。

こういうときこそネットで書籍を購入しての読書、自分はAmazonのカートの「あとで買う」のところに常に100冊ぐらい本のストックがあり、この中から本をチョイスして買って読んでいるのですが、ふと見るとなんと在庫切れの多いこと。新刊は比較的在庫は潤沢なようですが、古い本を読むことが多い自分のカートの中は在庫切れが非常に目につきます。
物流が逼迫する中、書籍の優先順位は今後も下がっていく可能性がある、紙の本が好きな自分もいよいよKindle導入必須か…、などと考えている今日この頃です。

外食中心であった自分にとってキツいのは、勤め先(製造業)の指示もあり、飲食店への出入りができないこと。なので、スーパーのお惣菜を買ってきて日々食べていますが、同じパターンだとやはり飽きてきます。自分は料理をしない人間ですが、いよいよ料理にトライする必要性を感じています。
勤め先の指示でついに帰省までが禁止となり、全く人に触れない生活が当面続きそう。昨今、日本は規制がゆるい国などと言われることもありますが、とんでもない。日本は中間集団(企業など)が自主的に強固な規制を敷くので、政府が無策でも何とか社会が回る、そういう面が確実にあると思います。
ただし中間集団の規制は自己の利益を最優先するためのものですので、社会の全体最適には不向き、なので日本は総力戦に弱く、このことが今後も対コロナにおいて問題となることが予測されます。


さて、今回は最後の(?)街歩きの記録。
3月21日の土曜日、大阪市中央区北部、いわゆる北船場のレトロ建築を巡って歩いてきましたので、覚書を残して行こうと思います。
3月20日~22日の3日間はちょうど対コロナに対する人々の気持ちが緩み、外出が増えたとき、自分も緩みついでに(笑)ふらりと大阪市内にお散歩に出かけました。
と言っても北船場は基本的には企業が集積している場所なので、お休みの土曜日は人通りはあまり多くはなく、のんびりとお散歩することができました。

まずは船場についての基本事項のおさらい。
石山本願寺の降伏の後、豊臣秀吉は大阪城を築城し、お城の周辺から西側にかけて町を建設しました。その後大坂の陣による紆余曲折を経て、大阪の町は幕府の直轄領となり、商業都市として栄えることになります。
江戸から戦前昭和にかけて、商業活動の中心地であった場所が船場です。

四隅を川(水路)で囲まれた長方形の区域で、東は東横堀川、南は長堀川、西は西横堀川、北は土佐堀川で囲まれている場所が船場。現在は長堀川と西横堀川は埋め立てられましたので、南は長堀通、西は阪神高速環状1号線の中之島JCTから南にのびるラインが目安になります。
とくに明治期以降は船場は上級商人が住む場所であったと言われており、船場を囲む川の外と内では商人としての位が違う。「これが千羽鶴や、立派やろ」「さすが船場(千羽)の鶴は立派でんなあ、阿波座の鶴とは違いまんなあ」(落語「つる」)、阿波座は西横堀川よりさらに西にある場所(下船場とも言われる)なので、船場より位が低いというギャグは落語にも登場します。

船場の町としての特徴。
1つは道路が東西南北に碁盤の目状に綺麗に区画されていることです。google mapなどで見て頂けるとお分かりかと思いますが、正方形のブロックが整然と並んでいる様子が確認できます。
京都の洛中の場合は1ブロックが南北に長く、縦長の長方形のブロックが整然と並ぶ区画になっており、長方形と正方形の違いが京都と大阪の違い、このあたりはマップで比較してみると面白いと思います。
もう1つは住所の規則性です。
通常日本の多くの町では住所はブロックごとの区分けとなっていますが、船場地域は東西に走る道路が基準になっており、概ね道路に面した南北が同じ住所となっています。なので、同じブロックでも北と南では住所が違います。
このあたりも京都洛中の区分けに似ますが、京都の場合は道路に面した東西が同じ住所になるケースと南北が同じ住所になるケースが混在していてややこしく、この点南北のみに統一化されているのが大阪船場の特徴だと思います。
住所は東西に長く、北から北浜→今橋→高麗橋→伏見町→…と続く形になる。
また「○丁目」の区画がたいへん規則的で、東横堀川から堺筋までが1丁目、堺筋から三休橋筋までが2丁目、三休橋筋から御堂筋までが3丁目、御堂筋から(旧)西横堀川までが4丁目、と非常に分かりやすい。なので、北浜1丁目というと「難波橋の近くやな」とか、北浜4丁目というと「淀屋橋の近くやな」等、住所から場所の予測がすぐにたつのが特徴的。
整然とした正方形の区画と住所の分かりやすさが特徴、船場はたいへん機能的に設計された街であり、この区画と住所は街歩きの際にも参考になります。

(故に船場は道に迷うことがないのですが、カオスな区画と坂の多さを併せ持ち、すぐに道に迷う東京山の手の方が街歩きファンとしては歩いていて面白い土地ではあります。)

今回は北船場です。
船場は本町通を境に北と南に分けられることが多く、本町通より北側が北船場などと言われます。(現在は中央大通の存在感が大きいですが、これは昭和中期に敷設された新しい道路で、それ以前のメインストリートは本町通でした。)
北船場は明治以降新興企業が立地した場所で、とくに明治末から大正・昭和初期にかけて、西洋風の味のある建築がたくさん建てられました。
船場は戦時期の空襲で大きな被害を受けた場所で、木造建築の多くは焼失しましたが、これらの洋風建築はコンクリート製であるため空襲を免れ、現在まで残っている建物がたくさんあります。
今回はこの中から14の建築物を見て回り、写真を撮ってきました。
これらの建築の面白い点は、単に建物が文化財として保存されているだけではなく、現在もオフィスビルやテナントビルとして普通に利用されてる点です。
なので、オフィスビルの場合は観光地の建築のように内装を見て回ることはできませんが(一部予約等で見学できる建物もあるようですが)、外側から見ているだけでも面白いものです。
テナントとして利用されている施設は中に入ることができますが、今回はコロナ故に断念しました。


今回は前半、北から順に7つの建築を並べてみたいと思います。
それぞれの建築のチャームポイント(?)なども合わせてコメントします。



・北浜レトロビルヂング (北浜1丁目、1912年)


まずは難波橋の近くにある可愛らしいレトロビルから。
明治45年の建物が現在まで残っています。今回取り上げる中でも最も古い建物で、建築から100年以上経過しています。
元々は桂隆産業ビルというオフィスビルでしたが、現在はその名も「北浜レトロ」という喫茶店になっており、外装が可愛らしく塗り直され、北船場地区の中でも有名な人気スポットになっています。
屋根の部分や窓のデザインが楽しく、アンティークな喫茶店としてぴったりの外装、この日はたくさんの人の行列ができており、3月3連休のコロナに対する人々の緩みっぷりが分かる画像になっています 笑。



窓の部分のアップ。
獅子と一角獣のロゴ、丸い街灯が特徴的。
イギリス国旗が掲揚されています。英国風アフタヌーンティーが売りの喫茶店のようです。



・住友ビルディング (北浜4丁目、1926年)


続いては企業のオフィスビル、大正15年の建物です。
北船場の北の端、土佐堀川に面した建物で、ずいぶん前に中之島近辺の建築を取り上げた記事(もう7年も前になるのか)にも登場しました。(→
元々は住友財閥のオフィスビルでしたが、三井銀行と住友銀行が合併し、現在は
三井住友銀行の大阪本店営業部となっています。
上は土佐堀川を隔てた中之島側から撮影した写真。



こちらは近くから撮影した写真です。
ギリシャ風の柱のデザインが特徴的で、入り口部分がなかなかいい感じ。
帝国昭和の建築物、といった感じの物々しさがあります。



・新井ビル (今橋2丁目、1922年)


こちらは大正11年の建物、堺筋に面した建物で、当初は報徳銀行のオフィスビル、その後新井証券のビルとなり、現在はテナントビルで1階は「五感」という有名なお菓子屋さんになっています。
入り口部分はやはりギリシャ風で柱のデザインが特徴的(上の住友ビルはイオニア式、こちらはドーリア式という違いがあるのだとか)。
左下に停車しているバキュームカーとのマッチングもどことなく画面構成的にいい感じ。



個人的には屋根部分にある、この顔のように見える丸いのが気に入っております。
戦前の西洋風建築は戦後のモダニズム建築などとは違い、無駄にゴテゴテした意匠が存分に施されているのが楽しいです。



・大阪倶楽部 (今橋4丁目、1924年)


古い建築は歴史の経過とともに用途が変わるケースが多いですが、建築時から用途が変わってない建物もあります。
その1つがこの大正期にできた会員制社交クラブ「大阪倶楽部」で、長きに渡り同じクラブが現在まで継続しています。まもなく百年になるようですので、何とも息の長いクラブです。
4Fホールではテレマン室内オーケストラのバロック音楽の演奏会などにも使用されています。
1階部分のローマ風のアーチが特徴的。



個人的にはこの窓がいい感じかなと思います。
貴婦人が窓から顔を出す、といったシチュエーションを想像してしまいます。



・高麗橋野村ビル (高麗橋2丁目、1927年)


上の新井ビルから堺筋を少し南に下ったところにあるのが高麗橋野村ビルです。
その名の通り野村財閥のビルでしたが、現在はテナントビルとなっており、1Fには喫茶店のチェーン店も入居しています。
ベージュの色合いと、角の曲線の様子がいい感じ。なんとなくクッキーみたいな感じで、シンプル版「お菓子の家」のような雰囲気があります。
最上階は戦後の増築であり、少し形が異なります。
雰囲気・色合い含め、個人的にはお気に入り度の高い建物です。



1F部分の横側からの写真。
1F部分はレンガのデザインで、少し趣が異なります。前からの印象に比べて奥行きが比較的狭く、横長の建築物であることが分かります。



・オペラ・ドメーヌ高麗橋 (高麗橋2丁目、1912年)


こちらも明治45年の建物で、上の北浜レトロビルと合わせて非常に古い建築。
設計は大阪市中央公会堂や東京駅と同じく辰野金吾事務所、そういわれるとどことなくそれらの建物と共通性があるように見えてきます。レンガ造りである点もそれらの建物と共通で、赤レンガと白い縁取りが似ていますね。
元々は大阪教育生命保険という保険会社のビルでしたが、その後シェ・ワダという有名な料理店となり、現在は結婚式場としてリニューアルされています。
入口が道路区画の角に面しているのが非常に良い感じで、船場の道路区画のメリットを生かしたデザインになっています。
これも個人的にお気に入り度が高い建物。



天井部分にあるゴテゴテ装飾。
波とお花?



・日本基督教団浪花教会 (高麗橋2丁目、1930年)


上のオペラ・ドメーヌ高麗橋のすぐ南にあるのが、日本基督教団浪花教会です。
1877年創立のプロテスタント系の教会で、1930年(昭和5年)にこの地に移転し、現在までこの建物が教会として存続しています。上の大阪倶楽部と同じく、建築物の用途が当初から変化していない建物です。
天に向かって伸びるような柱と窓のデザインがいい感じ。
ヴォリーズ建築事務所が設計指導に関わっているらしく、やはりプロテスタントの国であるアメリカとの関わりが深い建物のようです。
ちなみに自分の出身高校もプロテスタント系で、日本基督教団と関わりのある学校でした。そういう目で見るとまた建物に愛着が湧いてくるものです。



やはり窓のデザインがチャームポイントかなと思います。



・・・次回に続きます。