大阪市 北船場のレトロ建築 その2 | れぽれろのブログ

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前回の続き。

コロナ規制の中だるみのさ中、3月21日の土曜日に北船場のレトロ建築を巡って歩いた記録です。
前回は北から順に、北浜、今橋、高麗橋にある7つの建築を取り上げました。今回はその南側、伏見町、平野町、淡路町、備後町にある7つの建築を取り上げます。
前回とはまた趣きの異なる、異国情緒あふれる建築も登場します。
ご興味のある方はお読みください。


かつての大阪商人の町:船場は、道路が東西南北に碁盤の目状に綺麗に区画されており、地図上で正方形のブロックが整然と並ぶ場所。
住所も規則性があり、東西に走る道路を基準に概ね道路に面した南北が同じ住所。北から北浜→今橋→高麗橋→伏見町→道修町→平野町→淡路町→瓦町→備後町…と続き、東から1丁目→2丁目→3丁目→4丁目と規則的に区画されています。
なので住所から場所が予測しやすく、街歩きの際にも道に迷うことは少ない、このあたりは坂が多く区画がカオスな東京山の手などとは真逆の町です。(しかし歩いて楽しいのは東京の方。)

船場は本町通を境に北と南に分けられ、本町通より北側が北船場になります。
明治以降新興企業が立地した場所で、多くの洋風建築が建てられ、これらはコンクリート製であったことから、一部空襲を免れ現在まで建物が残っています。
これらの建築は単に建物が文化財として保存されているのではなく、現在もオフィスビルやテナントビルとして普通に利用されており、「百年現役」で活躍しているのも面白い点です。


以下、7つの建築の外観と覚書です。



・青山ビル (伏見町2丁目、1921年)


高麗橋の南が伏見町、堺筋から少し西に入ったところにあるのが青山ビルです。
1921年(大正10年)の建物、元々は個人宅であったようですが、現在はテナントビルになっており、企業オフィスや飲食店などが入居しています。
この建物の特徴は何といっても蔦の絡まる外観、この写真では季節柄葉っぱはありませんが、季節によっては緑色で建築物が覆われることになります。
この蔦は甲子園球場(これも外観の蔦が有名)から株分けしてもらったとのことですが、甲子園球場は1924年の建物ですので、青山ビルはそれより古い、なので蔦は後から植えられたのかもしれません。



入口のアーチとその上の窓の様子がいい感じ。外観はスペイン風なのだとか。
今回はコロナ故に各建築物の中に入るのは断念していますので、内装は未確認。
この青山ビルはちょうど道修町の少彦名神社の裏側に位置しており、青山ビルの裏庭に生えている木は少彦名神社の神木と同じものなのだそうです。いずれ内装や裏庭も見てみたいですね。
(少彦名神社についてはこちらの記事で訪れています →



・伏見ビル (伏見町2丁目、1923年)


青山ビルのすぐ西側にあるのが伏見ビルで、こちらは青山ビルの2年後、1923年(大正12年)の建物です。
青山ビルと比べると比較的シンプルな外装になっており、アール・デコ調の趣きを残しつつ、落ち着いた建物になっています。
元々はホテルとして建築されたとのことですが、現在はテナントビルとなっており、作家の中島らもの最初の事務所は、この伏見ビルにあったと言われています。
他のビルに比べて外装がかなり綺麗な印象ですので、外側はやり直されているのかもしれません。



・芝川ビル (伏見町3丁目、1927年)


伏見町をさらに西に進むと見えてくるのが芝川ビルです。
1927年(昭和2年)の建物、元々は個人宅だったようですが、やがて芝蘭社家政学校という学校として利用され、現在はテナントビルとなっています。
この建物は西洋風とは少し異なり、もっと違う国の建物のようなイメージ、解説によると外装の装飾はマヤ・インカ風なのだそうです。まさかの新大陸様式、北船場のレトロ建築の中でも異彩を放っています。(個人的にはこの外観はパッと見チョコレートケーキのように見えます。)



そういわれるとこの壁の装飾など、インカ帝国みたいやな、と思えなくもないです。
海に面したペタペタの低地、大阪船場の中に、まさかの山上古代都市の様式、アンマッチな感じが面白いですね。
眼鏡屋さんの店舗表示もいい感じ。



・生駒ビルヂング (平野町2丁目、1930年)


伏見町の南が道修町で、ここは昔薬問屋があった場所、現在も製薬会社の本社がたくさんある町です。
そのさらに南にあるのが平野町。堺筋に面した西側、平野町2丁目にあるのがこの生駒ビルヂングで、1930年(昭和5年)の建物です。
まず左上の大時計に注目。円形をベースにした可愛いデザインで、良い感じ。外観も全体的に趣きがあり、個人的にお気に入り度の高い建築です。
生駒ビルヂングは生駒時計店という時計屋さんによって建設され、現在もこの生駒時計店が入居しています。
現在は一部レンタルオフィスとしても利用されているようです。1日数時間から安価で利用できるようですので、レトロビルで部屋を借りて仕事をしてみるのもいいかもしれませんね。



円形の窓の下に身を構え、路上の人間を見下ろす鷹(鷲?)。
窓の装飾と鷹の組み合わせも良い感じですね。



・大阪ガスビル (平野町4丁目、1933年)


続いては大阪ガスビル、その名の通り大阪ガスの本社がある建物で、御堂筋に面した西側、平野町とその北の道修町にまたがる大きな建物です。1933年(昭和8年)の建物で、今回取り上げた計14の建築の中では最も新しい建物。
実はこの写真は北側の道修町側から撮影した写真で、本来はこの南側の平野町側が表側のようです。
この写真で言うと左側の部分が1933年の建築物で、右側の部分は後年(1966年)に増築された建物みたいです。写真を撮る角度を完全に間違えています 笑。
大阪ガスのオフィスビルですが、この建物の有名な点は、ガスビル食堂と言われるレストランが1933年の建設と同時に営業されており、企業以外の人でも利用され親しまれているところにあります。いかにも昭和モダンな欧風料理が開業以来人気を博しているのだとか。
現在もガスビル食堂は普通に利用できるようです。自分は行ったことはないので、個人的にはポストコロナにぜひ訪れてみたいところの1つです。



・船場ビルディング (淡路町2丁目、1925年)


平野町の南、淡路町に移ります。
船場の名を冠した船場ビルディングは1925年(大正14年)の建物。
開業当時は、オフィスと住宅を併せ持つという、当時としては珍しい建物だったようです。現在もテナントビルとして利用されています。
船場と名の付く建物は、中央大通の高架下にある船場センタービルが有名なため、そちらと間違えられそうですが、船場ビルディングの方がずっと古い建物です。
ここまでに取り上げた濃い(?)建築物に比べて、やや特徴の薄いビルかなと思いますが、昔の写真を見てみると1Fの入口はアーチ状になっており、その他装飾も見られ、今より面白い形であったことが分かります。建築後の補修により特徴的な構造や装飾が撤去され、シンプル化されてしまった例と言えそうです。



・綿業会館 (備後町2丁目)


最後は淡路町から瓦町を経てさらに南、備後町の建築物です。
前回の記事で今橋4丁目にある会員制社交クラブである大阪倶楽部の建物を取り上げましたが、この綿業会館も日本綿業倶楽部という同じく会員制社交クラブの建物で、1931年(昭和6年)の建設です。日本綿業倶楽部も現在に続く社交クラブで、この綿業会館も建物の用途が大きく変わっていない例です。
1931年といえば満州事変の年。この後綿業会館は、リットン卿らによる国際連盟満州事変調査団、いわゆるリットン調査団が来日した際にも利用された建物であるとのことです。その後も国際会議などでも利用された建物。



この建物も窓の感じが特徴的です。今回あれこれと建築を見て、自分はこのようなアーチ状の窓を気に入る傾向があることが分かりました 笑。
綿業会館は有料で館内見学もできる(食事つきのコースもある)ようです。内装も趣きがありそうですので、こちらもポストコロナにぜひ訪れてみたいですね。

備後町の南は安土町で、ここまでくると本町通はもうすぐ。
これより以降は南船場に移っていきます。



といいうことで、2回にわたって北船場の14の歴史建築を取り上げました。
新世界や道頓堀、通天閣やグリコの看板のみが大阪建築に非ず。
観光マップなどでは大々的に取り上げられることは少ないかもしれませんが、歴史好き・建築好きなら北船場はきっと歩いてみて面白い街だと思いますので、個人的には中之島界隈と合わせて、旅行者にお勧めしたいスポットです。