上方落語 桂米朝の世界 | れぽれろのブログ

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コロナ禍のためなかなかお出かけがままならない昨今、自分は必然的にYouTubeなどの動画サイトの視聴時間が増えています。
前回の志村けんの話ではないですが、こういうときこそむしろ「笑い」は大切。

ということで、現在自分の中で落語ブームが訪れています。
YouTubeにはたくさんの落語動画がアップされており、自分は3月上旬からこれを毎日のように視聴、ここ1ヶ月余りで数十本の落語を鑑賞しました。
自分は過去に落語はほとんど聞いたことがなく、今回集中的に落語動画を鑑賞することにより、「落語とはこういうものだったのか」という感慨を得ましたので、今回は桂米朝(3代目)の落語動画を引用しつつ、ニワカ落語ファンの視点で、落語(とくに上方落語)の面白さなどを、自分なりの視点でまとめてみたいと思います。


まずは現代の落語の文化としての位置づけについて。
今回落語を鑑賞してみて、落語を鑑賞するということとクラシック音楽を鑑賞するということが、構造的に非常に似ているなということに気付きました。
自分はクラシック音楽が好きなので、これとの比較で落語を考えると結構面白い。

落語とクラシック音楽の類似性は、1つは聴覚文化であること、もう1つは再現芸術であることです。
落語もクラシック音楽も、まず第一に耳で鑑賞する、広義の聴覚文化であり、そこに意味的なものが付随され、さらに所作や演技などの視覚の要素が加わります。
音楽の場合は当然音を聴くことがメインなのでまず聴覚優先、そこに音楽の構造や歌詞、オペラの場合は台本や演出などの意味的な要素が付随され、さらに奏者や指揮者の動き、舞台配置、オペラの場合は衣装や舞台セットなどの視覚効果が加わります。
落語も同じで、まず噺家の言葉の抑揚や声色などの音声としての表現(これが結構重要)があり、そこに筋の流れなどの意味的な要素が乗っかる、さらに噺家の動きや小道具を使っての所作などが加わります。
落語は「笑い」なので当然意味が重要ですが、今回落語を聴いて、お話の筋以前に声の調子などの聴覚的な要素が非常に重要だと感じました。
思えば「落語を聴く」という言い方は一般的ですが、例えば「漫才を聴く」などという言い方はあまりないようにも思います。

落語はまず第一に聴く文化である。

もう1つの重要なポイントは再現芸術であること。
クラシック音楽は作曲家のスコアが残されており、これを演奏者が自らの解釈と共に音楽として再現する芸術です。
落語も同じであり、古典落語は昔のお話が(テクストの形もしくは口承で)残されており、これを噺家が自らの解釈で再現します。
残されているお話を、噺家が自分なりに脚色したり、部分的にカットしたり舞台設定を置き換えたりして再現する。場合によってはサゲを変えたりする場合もあるようです。ここに噺家の個性や落語に対する考え方が表れ、同じお話でも噺家によって異なったものになる。噺家による「聴き比べ」ができるのも、クラシック音楽の楽しみ方に非常に似ています。
新作落語もありますが、これも再現されることが前提で創作されています。この点も漫才とは非常に異なります。漫才は別の人の作ったネタをやるということはまずない(たぶん)ので、漫才は再現芸術ではありません。
(個人的には漫才も別に他人のネタをやってもいいように思います。例えば有名なエンタツ・アチャコの「早慶戦」など、現在の漫才師が脚色して再現しても結構面白いものになるように思います。)


その他、落語で割と重要なのは、上方落語と江戸落語の違いです。
自分は大阪在住なので、やはり上方落語がなじみやすいです。
第一に言葉の違いがあり、江戸弁より上方訛りの方が愛着があるということもありますが、さらに重要なのがお話の舞台設定の違いです。
上方落語と江戸落語では、同じお話でも舞台設定を変えて演じられることが多いです。
自分は街歩きが好きで、大阪の町をウロウロすることが多い自分のような人間にとっては、上方落語の中に登場する地名から想像力が広がり、江戸時代や明治時代の大阪の町の様子を思い浮かべながらお話を聴くのが非常に楽しい。

多くのお話は船場が舞台ですが、それ以外にもいろんな土地や社寺が登場、例えば、高麗橋~桜ノ宮(百年目)、千日前(らくだ)、農人橋(饅頭こわい)、長町(試し切り)、住吉~堂島(住吉駕籠)、飛田~大浜(堺飛脚)、枚方(ふたなり)、和光寺(阿弥陀池)、三津寺(まめだ)、住吉大社(始末の極意)、等々、大阪以外の近畿圏も含めると、京都清水寺(はてなの茶碗)、奈良(鹿政談)、明石飛脚(西宮~兵庫~須磨~舞子~明石)、などなど、それぞれの土地の様子や距離感が想像でき、お話に愛着が湧いてきます。
これが江戸落語だと土地のイメージや距離感が湧かず、「柳橋から船に乗って隅田川を上り向島へお花見に」(百年目)と言われても大阪人にはピンと来ない。これが「高麗橋から船に乗り、東横堀から大川をゆっくりと上って、桜ノ宮へお花見に」となると、とたんに土地の様子が分かりやすくなり、大川に沿った桜ノ宮のお花見のにぎやかな様子が目に浮かんできます。街歩きが好きな自分にとっては、この点からも上方落語の方がイメージしやすく親しみやすい。
(ちなみに上方落語では近畿圏以外の場所が舞台になることは少なく、自分が聴いた中では、岡山(猫の茶碗)、小田原(抜け雀)、くらいです。)


今回あれこれと聴いてみて、上方落語の中で誰が一番好みかというと(決して網羅的に聴いたわけではないですが)、自分の場合はやはり3代目桂米朝が最も気に入りました。
桂米朝というと、自分の中では子供のころにテレビで見た「味の招待席」のイメージしかなく、平日夜10時前になるとバッハのチェンバロ協奏曲4番3楽章のメロディと共にテレビに登場し、毎晩料理を紹介するおっちゃん、というイメージしかありませんでしたが、「こんなにすごい人だったとは!」と今更ながら(笑)驚いております。
昔ながらの船場言葉を意識的に引き継いでいる(と思われる)言葉使いに乗せて、様々に幅広く語られるお話の数々は、まず聴いているだけで聴覚的に心地よく、さらに古典落語の現在では分かりにくいような部分についても、補足や解説を入れつつ意識的に分かりやすくお話を構成している部分も好感度が高いです。
桂米朝と並んで評価されている(らしい)6代目笑福亭松鶴の迫力のある語りも味がありますが、自分はやはり米朝師匠の語り口の方が聴いた後の満足度が高いです。
(ちなみに江戸落語では、これも決して網羅的には聴けていませんが、今のところ6代目三遊亭圓生が好みかもしれません。)


ということで、以下、3代目桂米朝の動画を5本貼り付けて、コメントしてみます。



・天狗裁き

 

https://www.youtube.com/watch?v=CqYoGa6mQRk

※この動画は再生されないようですので、リンク先でどうぞ

 

古典落語は現在では分かりにくい設定があるものも多い(とくにサゲが分かりにくい場合がある)ですが、今回あれこれと落語を聴いてみて、現在でも分かりやすく、かつ構造的な面白さがあって興味深い作品の1つがこの「天狗裁き」です。
この動画はちょうど冒頭に桂米朝のプロフィールも紹介されており、米朝入門(?)にうってつけ。(音声がモノラルなのでヘッドフォンなどで聴くには若干難がある動画ですが。)
シンプルな天丼(同じ笑いのパターンが繰り返される)のお話で、同パターンが5回繰り返されるごとにどんどんエスカレートしていくさまが馬鹿馬鹿しくて面白く、かつ構造的に最初と最後が繋がるループ的な面白さもあるお話です。
演技の面から言えば、お話の主人公に加えて、嬶、友人、家主、奉行、天狗の5人の演じ分けが重要。奉行と天狗は標準語で演じられており(米朝師匠の落語ではだいたい武士は標準語で登場します。今回は天狗も標準語。)、このお裁きの口調もこの落語の味わい深さの1つです。
この動画冒頭の解説にもある通り、桂米朝は古典落語を収集・研究・再構成し記録する仕事も行っており、現在は書籍にもまとめられています。



・質屋蔵

 


続いては約40分に渡る大ネタ。
質屋の蔵に幽霊が出るという、広義の怪談話ですが、このお話の場合はメインの幽霊話よりも、それ以外の些末な部分にこそ面白さがあるように思います。
とくに冒頭(6分あたりから)の質屋の旦那が番頭に語る、劇中劇ならぬ「話中話」(?)の部分に注目。旦那の話の中に4人の人物が登場し、これを演じ分けながら番頭に向けて語るという、2人+4人=6人による入れ子構造的な会話がおよそ8分に渡って続く部分は、下手をすれば意味不明になってお話が崩壊しそうですが、これを非常にクリアに語っているのがすごいですね。
この複雑な話をアホの丁稚が全く理解できていなかったという、次の場面の笑いにつながっていくのもこの作品の面白ポイント。(この丁稚、定吉の演技も可愛くて微笑ましいです 笑。)
中盤の手代の熊五郎による、早とちりからくる言い訳が4分に渡り続く部分も笑えます。
この「質屋蔵」は、終盤の幽霊部分よりも中盤までの些末なやり取りの方が面白い。(例えば桂枝雀など、幽霊部分を大胆にカットして演じているいる噺家もいます。)
最後に唐突に大宰府に流刑にされた菅原道真が登場するのも馬鹿馬鹿しいですが、まくら(一番最初の部分)で質流れについて笑わせながら説明しているのも1つのポイント。このように現在の我々にとって分かりにくい部分について、まくらで解説しながら伏線を張るというのも、米朝師匠の落語ではよく行われます。



・百年目

 


上にも地名の件で少し書いた大ネタ「百年目」。お花見のお話で、ちょうど今の季節にぴったり。
これは人情話になるのでしょうか? これまで自分の鑑賞した中で、今のところ最も気に入っているのがこの「百年目」です。
真面目に商いに取り組まない丁稚に対して番頭が延々小言を言う場面から始まり、しかしその番頭が付き合いから舟遊びとお花見を断り切れず、羽目を外して騒いでいるところを旦那に見つかってしまう。
この後の番頭の一晩に渡るうろたえぶりが笑えますが、この落語の味わい深さは最後の旦那の長い語りの部分にあります。
船場の商家では、旦那>番頭>丁稚というヒエラルキーがあり、これを天竺の栴檀の木と南縁草の関係に例えながら、番頭の行為を許容する部分が泣き笑いを誘います。
この動画はおそらく80年代のものと思われますが、YouTubeにはゼロ年代前半(米朝70代後半)の動画も上がっており、このテイクの老いたが故の貫禄のある語りもまた良いものです。



・ひとり酒盛

 


上の「質屋蔵」や「百年目」は数十分に渡る大ネタですが、落語には短い時間で終わる小ネタも多いです。
この「ひとり酒盛」は15分程度で終わる短いお話、というよりも話の筋らしいものは何もなく、ただ単に1人の男が酒を飲み続けるというだけですが、噺家の所作や酔いが深まっていく演技の面で、なかなか面白い。
男の態度がだんだん横柄になっていき、呂律がおかしくなっていく部分に注目 笑。
落語は聴覚文化であると上に書きましたが、酔っ払いの演技などはやはり視覚面での効果も大きい。落語CDでは味わいにくい部分も動画では味わうことができます。
酔っ払いが登場するお話は上の「百年目」もそうですし、この他にも「らくだ」や「住吉駕籠」などにも面白い酒飲みが登場しますが、この「ひとり酒盛」は酔っ払いの演技のみを存分に味わうことのできる作品です。



・除夜の雪

 


最後は戦後の創作落語を取り上げます。
この「除夜の雪」はたぶん今回取り上げた5本の中では最もマイナーで、YouTubeでも米朝師匠の映像しか見つかりません。
大晦日の寒い夜、雪が積もる中、寒さに凍えながらお寺の小坊主たちが会話する。そこにやってくる1人の馴染みの女性、世にも不思議な出来事と悲しい知らせが重なり、お寺の中に除夜の鐘が鳴り響く…。
怪談話と人情話を合わせたようなお話は味わい深く、雪の描写も印象的で、個人的にお気に入りの落語になりました。
前半の小坊主たちがお茶を飲み魚を食べる場面も味があって良し。
戦後の創作落語は、「まめだ」なども銀杏の落葉と悲しみが印象的な作品、季節描写と人情を合わせたお話が昭和期に創作されてるのは、都市から季節感や人情が失われたが故の郷愁の念が表れているのかもしれません。



ということで、5作品ほど並べてみました。
桂米朝はかなり気に入ったので、こうなると桂米朝全集:DVD全30巻が欲しくなってきますが、全部買うと12万円以上するようです。さすがに12万円は大きいので、買うべきか買わざるべきか、悩んでいるところです 笑。

「小銭を竹筒の中にコロコロストン」(質屋蔵)ではないですが、旅行や演奏会などに行けない分、そのお金を貯めてDVDの方に回すのも良いかもしれませんね。