映画 ジョーカー | れぽれろのブログ

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トッド・フィリップス監督の2019年の映画「ジョーカー」について、覚書と感想などを残しておきます。

自分は「今話題の映画」のようなものはあまり見ずに、どちらかと言えば少し時間が経って世間が忘れかけた時点で作品を見ることが多いのですが、今回は珍しく劇場公開からあまり時間が経ってない映画を、ネット配信開始後比較的早く鑑賞しました。
本作は劇場公開当時からいろんな人がやたらと褒めまくっており、面白そうなので見てみようと思っていた映画。主演がホアキン・フェニックスで、彼の演技も凄まじいとの評判。自分はポール・トーマス・アンダーソン監督の「ザ・マスター」という映画が好きで、この映画に主演していたホアキン・フェニックスの演技もたいへん凄まじいものだったので、この点も含めて楽しみにしていた映画なのです。

本作は映画「バットマン」シリーズを下敷きにした作品で、「バットマン」にて登場する悪役ジョーカーがなぜ誕生したのかを説明するための映画、ということになるのだそうです。
実は自分は映画「バットマン」シリーズは一作も見たことがなく、自分が知っているのはプリンスの「Bat Dance」のプロモーションビデオくらいで、ジョーカーと言えばこのビデオで描かれる「踊って笑いながら銃をぶっ放す悪役」くらいのイメージしかありません。

果たしてお話について行けるのか?と思いながら鑑賞しましたが、バットマンの知識ゼロでも鑑賞に支障はなく、問題なく楽しめる映画になっていました。


本作の主人公はピエロのアルバイトで生計を立てるアーサーという男性。
彼は母と2人暮らしで、社会的階層は低く、感情の起伏がトリガになって発作的に笑いが起きるという疾患を持っています。
そんなアーサーの夢はコメディアンになること。有名コメディアン(ロバート・デ・ニーロが演じる)が登場するトーク番組を楽しみにしており、この番組に出演することを密かに妄想するアーサー。しかし現実は厳しく、疾患が原因で周囲とも打ち解けず、仕事もうまくいかない状態が続きます。
また、アーサーの住む都市ゴッサムシティは荒れ果てており、市の清掃業者は業務をボイコットし街にはネズミが溢れる、街中では暴力が横行する、アーサーが利用していた精神疾患のカウンセリング室も市の予算カットで廃止になる、市政に対する低所得者層の不満は爆発寸前で、デモや暴動が起こりかねない状態。
そんな中、たまたま拳銃を入手したこと、及び自らの出生と疾患の真因を知ったことをきっかけにして、アーサーの行動が変わっていきます。
疾患と生活の苦しみの中で追い詰められたアーサーはどうなるのか?、アーサーはコメディアンとしてテレビ番組に出演できるのか?、同時に勃発したゴッサムシティのデモの行方は?、というのが本作の主なプロットです。


本作のテーマは社会の非合理と苦しみです。
苦しみは映画の普遍的なテーマの一つ。当ブログでも過去に「ルルドの泉で」(→こちら)や「ツリー・オブ・ライフ」(→こちら)を取り上げ、旧約聖書の「ヨブ記」を引き合いに出しながら、あれこれと考えてきました。
これらの映画からは、この世は非合理だが救いはある(「ルルドの泉で」)、この世は非合理だが受け入れて許そう(「ツリー・オブ・ライフ」)、というメッセージが読み取れましたが、「ジョーカー」はさにあらず。「ジョーカー」から感じられるのは、この世は非合理であり、放っておくと悪が栄え、正直者が馬鹿を見る。故に正直者が悪に頽落するのはこの世の必然であるという、かなり厳しいメッセージです。

徹底して痛めつけられ、社会の非合理に苛まれた結果、苦しみにまみれた人間は社会への復讐を開始する。アーサーは妄想癖があり、映像の中のどこまでが現実でどこまでが妄想か釈然としない部分もありますが、少なくとも彼の佇まいから、反社会的な意思に徐々に目覚めて行っていることは理解できます。
苦しむアーサーに同情し、アーサーのピエロメイクに悲しみを見ていた多くの鑑賞者が、物語が進むにつれ、社会への復讐を決意し復讐に快楽と解放を見出すアーサーの感情に肯定的になり、知らず知らずのうちに反社会的・反倫理的振舞いに対し同調的になっていくように本作は作られています。その意味で本作はたいへん恐ろしい映画です。
しかもその復讐が「義憤にかられた主人公がこの世の悪を成敗する」という感じでは全くなく、虐げられた人間が悪となり無秩序と混沌を肯定する存在になってしまうということが、この映画の恐ろしいところ。本作のクライマックス、人気トーク番組に出演したアーサーが司会者と対峙する場面で、鑑賞者はある種のカタルシスが得られる展開になりますが、言うまでもなくここで繰り広げられるのは単なる犯罪行為です。


では本作は反倫理的な映画なのかというと、当然のことながらそうではありません。本作のもう一つのメッセージは極めてシンプルに「苦しみの背景にある社会問題を手当てせよ」と捉えることができます。
調べてみると本作の舞台は1981年だそうで、これはやはり意図的な年代設定なのではないかないかと思います。

アメリカの歴史を振り返ると、1929年に大恐慌が起こり、これをきっかけにレッセ・フェール的な放任政策から、政治が社会・経済に介入する政策にシフトします。1933年にフランクリン・ルーズベルトが登場し、現在のアメリカ民主党の土台ができたのがこの時代、以降1980年までは基本的に平等と再分配を志向する、いわゆるリベラルなアメリカが実現されたのがこの48年間で、アイゼンハワーとニクソン&フォードの期間を除きすべて大統領は民主党。社会が民主党的価値を支持した時代。(アイゼンハワー政権・ニクソン政権は共和党政権ですが実態は極めてリベラルな政治でした。)
しかしこの政策は財政の行き詰まりと第三世界の勃興により長続きせず(ニクソンショックとオイルショックに代表される)、その影響を経て保守合同の機運から誕生したのが1981年のレーガン政権であり、以降現在までは基本的に新自由主義的・自由放任的な政策が支持される共和党的価値の時代、以降クリントンとオバマの期間を除き大統領はすべて共和党です。(クリントン時代の政策は新自由主義と融和的であり、オバマは新自由主義的流れに抗うことができなかったので、両大統領時代の実態もやはり共和党的です。)

本作はアーサーの変わり様に鑑賞者が感情移入するように作られている一方、明らかにレーガン以降の共和党的政治に対する「NO」をメッセージとして読み取ることができるのではないかと思います。
1981年はアメリカの政策転換の年、ポール・トーマス・アンダーソンの「ブギーナイツ」や、その他のいくつかの映画で描かれる通り、70年代から80年代へのアメリカの政治的変化は重要なもの。ゴッサムシティのイメージは80年代(レーガン政権下)の荒れ果てたニューヨークであり、街で繰り広げられるデモは1992年のロス暴動(父ブッシュ政権下)を彷彿とさせます。
苦しむ都市下層民に対し、ゴッサムシティの市長候補の政治家は全く耳を貸そうとしない、それ故に発生する暴動。本作から読み取れるメッセージは「これを放置しておいてよいのか」であり、その意味では古典的な民主党的価値への「YES」であり、社会の下部構造への手当ての推奨と読み取ることもできる映画です。


映画「ジョーカー」から感じられるメッセージは、「この世は非合理だが救いはある」「この世は非合理だが受け入れて許そう」といった生易しいものではありません。
「この世は非合理であり、放っておくと悪が栄え、正直者が馬鹿を見る。故にアーサーのような正直者が悪に頽落するのはこの世の必然。であるからこそ人倫の構築は必要であり、社会はこれを放置しておいてはいけない。」
これが本作のメッセージと捉えることができますが、いかんせんホアキン・フェニックスの圧倒的な演技力もあって、「正直者の悪への頽落」に重点が置かれ、こちらの方がより説得的に描かれる結果になっています。このあたりが本作の映像作品としての魅力と成功であると同時に、倫理性という意味でのマイナスポイントでもあるようにも感じます。(娯楽作品に倫理性を求めるのが誤っているのかもしれませんが。)
実際に現実の世界各国の民主主義の体たらくを見るにつけ、倫理ある政治などというものの実現からの遠のき具合は相当なもの。これを前に進めるための、おためごかしではない、リアリティある描写は現在では非常に難しい、ということなのかもしれません。

調べてみると本作では幼いころのバットマンも登場しているのだそうです。
「バットマン」シリーズは詳しくないですが、たぶんバットマンが正義であるはず。ということは、本作で登場した幼いころのバットマンが如何にして本作のジョーカーのような悪への頽落と対峙するのか、倫理をどう構築する存在になっていくのか、ということが次回作で描かれるということなのかもしれません。
「悪への頽落に対し如何に抗いうるか」ということを、次回作に対する問いと考えることもできるように思います。


ということで、本作はアメコミ原作ヒーロー映画と侮ることなかれ。
単なるエンターテインメントを超える映画としてかなり見ごたえがありますので、ご興味がある方は鑑賞してみても面白いと思います。(見終わった後で暗い気持ちになるかもしれませんが 笑。)
一説によるとクリストファー・ノーランの08年の映画「ダークナイト」も名作であるようですので、こちらも見ないといけないかもしれませんね。