妙趣恍然!-大地の歌- (いずみシンフォニエッタ大阪) | れぽれろのブログ

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2月8日の土曜日、いすみシンフォニエッタ大阪の大43回定期演奏会、「妙趣恍然!-大地の歌-」と題された演奏会を鑑賞しましたので、覚書などを残しておきます。

年2回、灼熱の夏と極寒の冬に開催されるいずみシンフォニエッタ大阪の定期演奏会、今回も寒い中、大阪城公園傍のいずみホールまで行ってきました。
今回のプログラムは以下の2曲。

・善と悪の果てしなき闘い 第一章 (作曲:中村滋延)
・大地の歌 (作曲:マーラー、編曲:川島素晴)

前半は大阪出身の作曲家、中村滋延さんの新曲の世界初演。
後半はマーラーの超有名交響曲を1管編成に編曲しなおしたものです。
本演奏会のポイントはアジアです。2曲とも異国からアジアをイメージして作曲された曲、アジアのイメージを自文化の作品の中にどう取り入れるかということが共通のテーマになっています。
自分はマーラーの交響曲が好きなので、とくに後半を楽しみにしていました。
この日は頭痛が酷く、頭痛薬をドーピングした状態でぼんやり鑑賞しましたが、いずれの曲も心地よいものでした。


前半は2015~17年に作曲された新しい曲で、この日が世界初演。
タイトル「善と悪の果てしなき闘い」の通り、ゾロアスター教的ともいえる善悪二元論の思想を2つの主題で音楽的に表現したもののようです。
イメージはインドネシアのバリ島の舞台劇が元になっているそうで、聖獣バロンと魔女ランダの対立に善悪二元論を見、善/悪の悪を駆逐するのではなく、善悪の対立こそが平衡であり安定であるという思想が背景にあるようです。
バリ島の文化からのインスピレーションとのことですので、異国のイメージとしてのアジアをモティーフにしたということになりますが、地域的には当然日本もアジアですので、極東アジアから見た南方島嶼部アジア思想の影響下にある作品、ということになります。

2つの主題が対立しているとのことですが、主題があまり明確に判別できず、頭痛薬で頭がぼんやりしていたということもあってか(?)、一方の主題にスネアドラムの音色が目立つということくらいしか分かりませんでした。
アジアと言えば、過去に鑑賞した西村朗さん(いずみシンフォニエッタ大阪の音楽監督も務める)の楽曲はアジア的な色彩豊かな音色が特徴的でしたが、本作はもっと抑制的な音色。短い曲でしたが、ゆったりと音を堪能することができました。
昨今の日本を含む自由主義諸国では、対立構造の中でとかく相手方を全否定するような傾向が見られがちですが、対立の安定こそが平衡である(思えば冷戦時代がそうだったのかもしれません)という古来南方島嶼部のアジア文化には、学ぶところが多いのかもしれません。


休憩を挟んで後半、いよいよマーラーの「大地の歌」です。
「大地の歌」はマーラーが1908年に作曲した交響曲で、これはマーラーの死の3年前。この後マーラーが残した交響曲は9番と10番の2曲のみ(10番は未完)。

心臓を患いつつ、故郷のヨーロッパを離れてアメリカで仕事をしていた当時のマーラーが、死と不安に苛まれつつ、東洋の詩に救いを見出そうとした作曲したのが、唐詩を元にしたこの「大地の歌」です。ここでもアジアの発見と自文化への取り入れというテーマがあります。
全6楽章からなり、李白・王維・孟浩然らの詩をベースに改変した詩を色彩豊かなオーケストラにのせ、短い1~5楽章と長大な6楽章から成り、激しさやかっこよさと言った要素よりも美しさがとことん追求され、その上でマーラーの寂寥の心境が加味されたのが、この「大地の歌」であると思います。

この日の「大地の歌」には3つの特徴がありました。

1つめは、1管編成の編曲であるということ。
編曲者はいずみシンフォニエッタのプログラムアドバイザーでお馴染みの川島素晴さん。

原曲は3管編成ですが、本演奏ではオケの規模はずっと小さくなっています。
1管編成のメリットは、オケと独唱歌手のバランスがとりやすいということ。

「大地の歌」はマーラーが作曲した後、マーラーの生前に一度も演奏されておらず、このためスコアの微調整が行われていないません。(マーラーは自作を演奏後、オーケストレーションに不備のある個所をどんどん改定してくことで有名。)
プレトークでの飯森範親さん(指揮者)のお話によると、原曲の3管編成ではオケと独唱歌手の音量バランスが非常に取りにくいところが多いのだそうです。この点、オケの規模が縮小された1管編成ではバランスがとれ、独唱歌手の歌声を存分に堪能することができるということのようです。

今回実際に1管編成の演奏を聴きましたが、とくに違和感はありませんでした。
むしろ各楽器の室内楽的な音色と独唱歌手の掛け合いが心地よく、とくに木管楽器と独唱のうっとりするような音の関わりが気持ちいい。
部分的には物足りない部分もあります。例えば4楽章中間部のオケが加速する部分はやはりもう少し迫力が欲しいですし、6楽章後半のオケのみの部分のとくに最後の低音が強く出る部分はテューバなしの1管編成は物足りなく感じます。
それ以外はとくに原曲のイメージを損ねることがないどころか、むしろ室内楽的な響きが心地よく、この曲は1管編成くらいでちょうどよいのでは?という気すらしてきます。
「大地の歌」はマーラーの交響曲の中では演奏機会は少ない(美しい曲なのにもったいない)方だと思いますが、それがオーケストレーションの難易度の問題であるならば、本演奏会のような1管編成の編曲による演奏はもっと積極的に行われてよいのではないかと思います。(自分は原曲スコア絶対主義のような立場には立ちません。)

2つめの特徴は、2,4,6楽章をバリトン(男性)が歌っているということ。
過去にバリトンの録音や演奏も聴いたことがありますが、自分はこの部分はやはり一般的に選択されるアルト(女性)の方が好みでした。(現在、多くの録音はアルトが選択されています。)
しかしよく考えると、元になった詩の作者は、李白も王維も孟浩然も、皆男性です。
指揮の飯森範親さんのお話によると、アルトが歌うとどうも男性の心境を女性が代弁しているような感じになるとのことで、なるほど確かにそうです。
今回の演奏はこの点を大事にしつつ鑑賞しましたが、歌い手の声質イメージと詩の印象を考慮すると、やはり男性が歌う方が妥当と言えるようにも思えてきます。

3つめは大した特徴ではないのですが、1つ変な試みとして、5楽章がなぜか字幕が大阪弁で訳されている(笑)ということがあげられます。
5楽章は酒飲みの男性が飲みながらくだを巻いているような歌詞ですが、これがなぜか大阪弁になるという・・・笑。しかもこの大阪弁、近畿圏以外の人が訳したためなのか、部分的にかなり怪しいです。
大阪はとくに酒飲みが際立って多いわけでもなく、統計的には酒の消費量は東京などと比べてもずっと少ないはず。なんやこの大阪弁に対する偏見は 笑。
(演奏会の内容からはそれますが、自分はこのような誤った大阪のイメージの形成の背景に、戦後の首都圏一極集中の加速と地方都市の凋落、それに伴う地方都市の自己イメージの再形成の失敗と、首都圏から見た偏った眼差しの固着があると推測しています。大げさに言えば、根本には沖縄や福島などと同じような都市間格差と差別の問題がある。大阪人は懐が深い(?)ので、大阪に対するある種のサービスと肯定的に受け取り、笑って許せてしまうのですが 笑。)


ということで、非常に心地よく「大地の歌」を鑑賞することができました。
いずみシンフォニエッタ大阪の試みは面白い。
上演が困難な作品をより簡易に誰でも気軽に鑑賞することができるのは、音楽文化の維持・継続にとっても良いことだと思いますので、このような編曲の試みはもっと行われても良いように思います。