映画 ファントム・スレッド | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

ポール・トーマス・アンダーソン監督の2017年の映画「ファントム・スレッド」を鑑賞し、これがかなり面白かったので、覚書と感想を残しておきます。

自分はP・T・アンダーソン監督の作品が好きで、過去に「ブギーナイツ」「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」「ザ・マスター」「インヒアレント・ヴァイス」を鑑賞しています(要は「ハードエイト」以外すべて鑑賞しているということです)。大学生のときに「ブギーナイツ」を鑑賞して以降、20年以上に渡りフォローし続けている監督。
とくに「マグノリア」の衝撃が大きく、家族関係に起因する苦しみを抱える10人余りの登場人物が、世界からの突然の訪れに対峙し救済されるというマルチスレッド式の物語は感動的で、「マグノリア」はマイベスト映画の1つです。

P・T・アンダーソン監督の作品は、カメラワークが面白く、画面の絵作りやカラーリングが素敵で、ぼんやりと画面を見ているだけでも楽しい映画が多く、この映像表現は本作「ファントム・スレッド」にも受け継がれています。
家族関係に悩みを抱えるキレやすい男性が救われるといったテーマが多く、その意味で男性向けの作品が多いと言えるかもしれませんが、本作「ファントム・スレッド」は1組の男女それぞれの視点が重要で、このあたりは少し過去作品と毛色が異なります。
また、自分が鑑賞した過去作品はすべてアメリカが舞台でしたが、「ファントム・スレッド」は1950年代のイギリスが舞台で、階級社会を前提とした物語になっており、このあたりも過去作品とはかなり趣向が異なっています。


本作の主人公レイノルズはドレスのデザイナー。姉といっしょに高級ドレスのデザインと制作を手掛ける仕事をしています。年齢は50代くらいと思われ、社会的身分は高く、気難しく、常に仕事のことばかりを考えており、女性をモノとしか思ってないような振舞をし、それ故に独身で、死んだ母親のことが常に頭にある(要するにマザコンである)ような男性です。
もう1人の主人公アルマは喫茶店のウエイトレスをしており、社会的身分の低いごく一般的な女性として登場します。

レイノルズが喫茶店でアルマと出会い、彼女をデートに誘うところから2人の関係が始まります。レイノルズはアルマに母親の面影を見出し、自らにとって女性の理想の体型を持つアルマをドレスのモデルとして雇います。アルマは階級差・年齢差がある中、仕事を超えて何とかレイノルズの気を引こうとして、あれこれと策を練ります。
アルマをモノ扱いするレイノルズ、レイノルズとの関係を変えるため策を巡らすアルマ、2人の恋の駆け引きは続く。
2人の距離は徐々に縮まっていきますが、心は近づいたり離れたりを繰り返す。
2人の関係を保つために、ちょっと普通では考えられない、びっくりするような方法が取られるのが、本作の見どころです。


本作の面白い点を3点ほど、P・T・アンダーソン監督の過去作品と比較しながらまとめてみます。


1つはカメラワーク・絵作り・カラーリングの面白さです。
「ブギーナイツ」の1979年の大晦日のシーン、「マグノリア」のクイズ番組の本番前のシーン、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の石油採掘シーンなどに代表される、大人数の中をカメラが独特の視点で動き回る映像の心地よさが、P・T・アンダーソン作品の1つの魅力。
本作では大規模なセットこそ少ないですが、それでも冒頭のデザイン事務所の階段を従業員が上っていくシーンや、事務所のファッションショーのシーン(2つの部屋をカメラが行き交う)など、カメラワークが非常に楽しいです。
単に階段を上がるだけの場面をこれだけ楽しく撮影するのは、P・T・アンダーソン作品ならではと言えるかも。(この事務所の階段はその後も何度も登場し、そのたびに強い印象を残します。)
この他にも車にカメラを固定して撮影したり、ティーカップの中にカメラを仕込んで(?)撮影したりなど、見どころはたくさん。

絵作りも非常に素晴らしく、主人公2人が室内で会話している場面などの画面構成は本当に心地よい。そこにイギリス風の室内家具、壁紙、茶器などの小道具が色を添え、画面の細部まで楽しむことができる。1場面1場面がフェルメールの室内画のようで、ぼんやり眺めているだけでも飽きません。
長めの会話のシーンでカメラが超スロースピードで主人公2にクローズアップしていく場面など、非常に心地よい。
過去作品ではとくに「パンチドランク・ラブ」がカラーリングが印象的な作品でしたが、本作もドレスや室内の色合いが印象的で、服飾をテーマにした作品であるだけに、ドレスの色とデザインも1つの大きな見どころであるように思います。


2つめの面白い点は、過去作品から連綿と続く「キレやすい男性」の類型が本作でも脈々と受け継がれていることです。
「マグノリア」のトム・クルーズ、「パンチドランク・ラブ」のアダム・サンドラー、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」のダニエル・デイ・ルイス、「ザ・マスター」のホアキン・フェニックスなど、イライラしてすぐにキレて暴れ出す(笑)タイプの男性主人公の演技がP・T・アンダーソン映画の1つの見どころで、とくにダニエル・デイ・ルイスの恐ろしい演技とホアキン・フェニックスの凄まじい演技は、映画史に残るキレっぷり・暴れっぷりといっても良いかもしれません。楽しいカメラワークと綺麗な画面構成の中、暴力性あふれる男性主人公が暴れまわる映像のギャップが非常に魅力的なのが、P・T・アンダーソン映画の1つの特徴。
本作「ファントム・スレッド」では、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」で20世紀初頭アメリカの恐ろしい石油王を演じたダニエル・デイ・ルイスが、うって変わって50年代イギリスの知的な上流階級のデザイナーを演じています。気難しくてキレやすい点は共通ですが、さすがにイギリス上流階級ですので暴れまわることはなく、もっと厭味ったらしいチクリとした言葉の暴力とでもいえるような表現が会話に頻出し(主人公2人の喧嘩のシーンでのレイノルズの嫌味な表現も本作の大きな見どころ 笑)、「ゼア・ウィル~」とは全く違うキャラクタ(仕草から声に至るまで全然違う)を演じきったダニエル・デイ・ルイスは、本当に素晴らしい役者だと思います。

なお、この男性のキレる暴力性の背後には原因となる苦しみ(主に家族関係に起因する)があるというのが、P・T・アンダーソン作品に共通するテーマです。
過去作品では、トム・クルーズは父親との関係、アダム・サンドラーは姉との関係、ホアキン・フェニックスは戦争体験を、その原因として見て取ることができます。
苦しみの背後に家族の問題があるという視点は「マグノリア」に顕著で、4組(乃至は5組)の親子関係の苦しみと救済がこの映画の1つのテーマでした(とくにコカイン中毒のメローラ・ウォルターズの苦しみが印象的)。
「ファントム・スレッド」でもレイノルズの気難しさの背景に両親との関係があることが示唆されており、おそらくは父親への反抗とそれ故の母親への愛情が何らかの形で固着しており、やはり家族関係の問題が1つのテーマになっています。


3つめ、アルマという女性の視点が重視されるというところが、過去作品にはなかった面白い点であると感じます。
過去作品「パンチドランク・ラブ」は、アダム・サンドラーが恋人エミリー・ワトソンによって救われるというお話、この作品でエミリー・ワトソンはアダム・サンドラーに癒しを与えるミューズとして登場しましたが、「ファントム・スレッド」のアルマはさにあらず。
エミリー・ワトソンがどちらかというと没個性的に描かれていたのに対し、本作のアルマは主体的に行動し、レイノルズの気を引こうとあれこれ策を練る、非常に個性的なもう1人の主人公として登場してきます。このような女性の視点はP・T・アンダーソン映画では珍しく、新しいように思います。
映画の前半では、アルマはただレイノルズに翻弄されるだけの存在でしたが、アルマは徐々にレイノルズのキャラクタを学習し、やがてレイノルズを混乱させると同時に癒す存在になっていきます。
イライラした男性の鎮静化というのは「パンチドランク・ラブ」や「ザ・マスター」などに共通するテーマですが、本作は「パンチドランク・ラブ」とは違い、男女それぞれの視点が重要視され、さらには女性が男性を圧倒していく展開になるのが興味深いです。

本作の主人公2人に、普遍的な男女の思考傾向をみることもできるように思います。
一般に、女性は相手に理解を求め、男性は相手に承認を求めると言われます。
女性は自分が中心、男性が自分をどう認識しているか、ちゃんと理解してくれているか、自分にとって相手の男性がどうであるかが、関心の中心です。
一方男性の方は、「世界の中の自分」という複雑な視点が入りがち、「世界の中にこのような形で存在する自分」を女性が認めてくれるか、女性も自分と同じように世界を認識してくれているかが、関心の中心になります。
女性は「私を見て理解してほしい」、男性は「世界の中の私を認めてほしい」。
本作中盤のアスパラガスを巡っての会話シーンのすれ違い、男女が全く違う視点で平行線になっている会話から、レイノルズの気難しい表現(このシーンの表現もまた凄まじい 笑)と共に、上記の男女の違いを見て取ることもできます。
上記のような男性の性向故に、男性は仕事や趣味を認められると喜ぶもの。レイノルズの自らの仕事の成果としてのドレスが、特定の人物にそぐわないとアルマが認めてくれた瞬間、2人の距離は縮まります。
(※上記の男女の違いはもちろん個人差があります。「一般に男性は女性より背が高い」程度の差異のイメージでとらえると分かりやすいと思います。)
(※2人の差異に階級差の問題を見ることもできます。とくに食事のシーンで2人の食べ方・作法の違いに象徴的に描かれています。しかし我々の社会ではこの階級差はやや分かりにくいので、男女差を中心に鑑賞した方が生産的であるように思います。)


本作の終盤の展開はどう考えればよいのでしょうか?

一見ちょっとあり得ない展開のようにも見えますが、自分は意外と現実的にあり得る(あり得た)のでは?、と考えます。
一般に共同体が稠密な時代は尊属殺が多く、共同体が薄れ個人化した時代は尊属殺が減ると言われます。愛情が深い故の攻撃(及びそれをきっかけにした関係の回復)というのは、まだ共同体的伝統が生きていた50年代イギリスでは、考えられることなのかもしれません。終盤のアルマの心理はこの辺を考慮すると理解できるように思います。
ラストのレイノルズの心理はどうか。仕事が多忙でうまくいかないとき、「体調不良になってもいいからいいからとにかく休みたい」などと考えてしまう勤労者の気持ち。「いつもは厳しい母親だが、しんどいときは優しく看病してくれる」という子供の母親に対する気持ち。ラストのレイノルズの心理はこのあたりを考えてみるとよいのではないかと思います。


ということで、P・T・アンダーソン映画は面白い。
本作は社会的な視点がやや薄い(過去作品のようなドラッグ・インセスト・宗教・戦争のような問題は登場しない)ですが、その分非暴力的で見やすい映画になっているように思います。
素晴らしいカメラワークと画面構成と色彩、ダニエル・デイ・ルイスの魅力的な演技と会話、恋する男女の駆け引きとアッと驚く展開を楽しむことができますので、映画ファンにはお勧めしたい作品です。