歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」 (関西二期会) | れぽれろのブログ

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2月22日の土曜日、関西二期会の第92回オペラ公演を鑑賞しに、東大阪市文化創造館に行ってきました。
東大阪市文化創造館はつい最近できた新しい施設で、最寄り駅は近鉄奈良線八戸ノ里駅、自分の自宅からはかなり近い場所にある施設です。今回初めて訪れました。
関西二期会の鑑賞は2012年の「コジ・ファン・トゥッテ」以来ですので、8年ぶりの鑑賞となります。

この日の演目はマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」と、レオンカヴァッロの「道化師」の2本立て。19世紀末イタリアの有名なヴェリズモ・オペラ2作品の上演です。
自分は2本とも実演で鑑賞するのは初めて。映像でもあまり鑑賞する機会がなく、2004年にNHKの芸術劇場で放送された新国立劇場の2本立て公演の録画以来の鑑賞となります。どちらも自分にとってはやや縁が薄いオペラ作品です。

以下、この日の公演の概要と本2作品の内容について、覚書と考えたことなどをまとめておきます。


「カヴァレリア・ルスティカーナ」は1890年初演の作品で、作曲はマスカーニ。
「道化師」は、「カヴァレリア・ルスティカーナ」に影響されたレオンカヴァッロが作曲した1892年の作品です。
いずれも一般にヴェリズモ・オペラと言われます。

ヴェリズモとはリアリズムの意味。リアリズムは、空想上や歴史上の物事ではなく、現実の目の前にあるものをそのまま描こうという立場です。
アートの歴史上、ロマン主義のあとに来るのがリアリズム(写実主義)、絵画ではジェリコーやドラクロワのあとにクールベやミレーが登場し、文学でもユゴーやデュマのあとにバルザックやゾラが登場します。
オペラも同様、ロマン派オペラと言えばなんといってもワーグナーですが、マスカーニもレオンカヴァッロも、ワーグナーの死後に登場した作家たちです。

「カヴァレリア・ルスティカーナ」も「道化師」も、テーマは不倫と殺人です。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」は不倫関係がもつれた結果、男性同士の決闘となり、一方が命を落とします。「道化師」も不倫に激高した男性が、妻を不倫相手もろとも刺し殺すことになります。いずれも愛憎入り混じるドロドロ・オペラ。
一般に共同体が稠密なほど尊属殺が発生しやすいと言われますが、両オペラの舞台となる南イタリアはとくに家族共同体が大切にされる地域と言われますので、こういった愛憎のもつれによる殺人も多いのかも。それを作家が写実したということなのかもしれません。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」はとくに間奏曲が有名で、ドラマがヒートアップする物語終盤に一瞬流れるこの綺麗な音楽は自分も好きな音楽です。
「道化師」は主人公カニオが歌うアリア「衣装をつけろ」がとくに有名だと思いますが、入れ子構造的構成(トニオの口上-本編-劇中劇 という三重構造をもつ)である点も、面白いポイントであると思います。

この日の指揮はグイード・マリア・グイーダという方で、有名指揮者シノーポリの弟子筋にあたる方のようです。演奏は大阪交響楽団、演出はパオロ・パニッツァ。
舞台上は、左手に円形の小さなミニ舞台があり、右手に建物があるという形で、この基本構造が両オペラに使いまわされます。左手の円形舞台は「道化師」の劇中劇の舞台となり、右手の建物が「カヴァレリア・ルスティカーナ」では教会になり、「道化師」では鏡になります。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」のミサの場面では白い巨大な十字架が登場し、これが電飾で発光する仕掛けになっていました。(どうでもいいことですが、この十字架を運ぶシーン、園子温の映画「愛のむきだし」の砂漠のシーンそっくりです 笑)。有名な間奏曲の部分では、男女の子供2人が遊んでいるように見えましたが、これは過去のトゥリッドゥとローラを表しているのかな?
「道化師」では冒頭の前口上シーンでトニオ以外の3人が紅白だんだら縞の箱に入れられて運搬されていたのが印象的。踊りのエキストラも登場し、意外と豪華。劇中劇では黒子が大きな四角の枠を持って扉と窓を表現するというのが、簡素かつ滑稽な感じで面白かったです。

音楽は劇的な盛り上がりをかっこよく表現(とくにシンバルがジャンジャカ響く)しつつ、「道化師」の弱音部(弦のみの部分)なども良い感じ。
歌唱は「カヴァレリア・ルスティカーナ」のサントゥッツァと「道化師」のネッダがよかったように思います。
あと、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲の後で拍手が起こったのも面白ポイント。チャイコフスキーの交響曲6番の3楽章の後の拍手の如く(?)、変わった拍手となりましたが、確かにこの間奏曲は綺麗で泣けるので、拍手したくなる気持ちは分かります 笑。


あらためて考えたことを3点ほど。

1つはオペラとリアリズムの相性の悪さです。
現実にある対象を写実することがリアリズム(写実主義)の目的、絵画にせよ文学にせよ、絵筆や言葉を用いて具象的な対象を写実することはそれなりに可能ですが、音楽はそもそも絵画や文学に比べて抽象度が高いので、写実が困難(徹底すると鳥の鳴き真似の如きものになる)。
故にヴェリズモでは題材を現実なものから取ってくる、程度のことしかできず、絵画や文学のような歴史的大作は現れず(「オルナンの埋葬」のような挑発性や「ルーゴン・マッカール叢書」のような実験性は皆無)、それ故に今日ではヴェリズモ・オペラは本2作を除き、ほぼ姿を消してしまったということなのかもしれません。
オペラは20世紀に入り、リアリズムとは系譜的にあまり繋がらない形で、前衛と復古に分裂(それぞれの代表が「サロメ」と「薔薇の騎士」)し、継続していっているように思えます。

2つめはオペラと外部性の問題。
19世紀後半のイタリアは国民国家統合の時代。国民国家の領域が確定され、かつては領主が支配していた地方を、中央が集権的に統治する時代です。
本2作とも舞台は南イタリアです。オペラは北イタリアの文化、国家統一を期に南イタリアが「発見」され、オペラの作家たちは北イタリアにはないローカル色の強い(あるいは未開の)南イタリアから題材を取り、北イタリアにとっての外部をヴェリズモとして描いた。これはイタリア国内でのある種のオリエンタリズムであるとも言えます。
20世紀になって、プッチーニはさらなる外部に題材を求め、「蝶々夫人」「西部の娘」「トゥーランドット」(それぞれ日本、アメリカ、中国が舞台)を作曲しますが、このあたり、イタリア・ヴェリズモとプッチーニとの系譜的な繋がりを感じます。

3つめは「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」の違いです。
あらためて連続して聴くと、題材(不倫と殺人)こそ似ていますが、この2作は音楽も物語構造もずいぶん違うことが分かります。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」は1890年にしてはおそらくかなり古典的で、普通に美しさとかっこよさを併せ持つ音楽。伝統的なナンバーオペラであり、物語もリニアに進行するシンプルなものです。
一方の「道化師」の音楽は「カヴァレリア・ルスティカーナ」に比べると複雑、強奏の部分も多いですが、部分的には室内楽的で装飾的な細かい部分もあり、マーラーのような拡散的な音楽に近づいているように聴こえます。
さらには入れ子構造的な物語やテーマも面白く、道化の悲哀、虚構と現実の混濁(現実下では実行できなかった殺人が虚構下では可能となる)、ラストシーンと前口上が紐づく時間構造など、あれこれと考えたくなる要素を持つオペラになっていることが改めて分かります。


ということで、楽しい公演でした。
上記のような小難しいことを頭の片隅で考えつつも、実際は綺麗な音楽にうっとりとしつつ、泣きながら鑑賞していました 笑。
やっぱりオペラはぼんやりと音楽に入り込んで聴くのが一番ですね。