映画 ツリー・オブ・ライフ | れぽれろのブログ

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テレンス・マリック監督の2011年のアメリカ映画「ツリー・オブ・ライフ」を見ましたので、感想などを残しておきます。

テレンス・マリック作品は自分は初めて鑑賞しました。
本作「ツリー・オブ・ライフ」はカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞している映画作品。
一般的な商業映画と比べると、本作はどちらかといえば美術館で上映されるような映像作品に近い雰囲気の作品で、かなり好き勝手な映像表現というか、鑑賞者放り出し感満載の映画、非常に分かりにくい映画、有体に言うと変な映画(笑)だと思います。
見に行った人が、なんじゃこりゃと怒って帰ったのではないかと心配するような映画、これが商業映画として公開されそれなりに高評価を得ていることに驚きます。

お話の舞台は1950年代テキサスの郊外。
アメリカ高度成長期の郊外一戸建て核家族の苦しみが本作のテーマで、父と母と3人の息子が登場します。
父親は厳格で自分の信念を持っており子供を感情的に叱り付ける、いわゆる星一徹タイプの親父です。
子供たちは父親を恐れますが、やがて3人兄弟の長男は父親に反抗するようになっていきます。
一方、母親は優しく、慈愛に満ちた存在として描かれています。
よくある郊外型核家族の鬱屈した苦しみの描写が続く。
本作の主人公は3人兄弟の長男で、すぐ下の次男と仲がよく、この次男との関係がひとつのキーになります。
厳格な父は音楽家になることが夢だったらしく、主人公である長男にはその才能は薄いようですが、次男には音楽や美術の才能があり、父は次男に自分の夢を託すようになります。
父子の鬱屈した関係と共に、母子の慈愛に満ちた関係、そして長男と次男の友愛的関係を軸にお話が進む。
といっても物語的展開は薄く、家族の関係性の描写が延々続く形で映画が進んでいきます。
ときどきふと奇妙な映像が挟まれるのも本作の特徴で、例えば登場人物が宙に浮いていたりだとか、マジックリアリズム的な映像表現も見られます。

映画はこの長男が大人になった時代(現代)から、過去(1950年代)を回想するような形で進んでいきます。
映画の冒頭、音楽が得意だった3人兄弟の次男は、その後成人する前に死んでいることが示されます。
しかし弟の死因に対する説明はなく、このあたりも含め鑑賞者を放り出している感じが強い映画です。
インターネットで調べてみると、この映画はテレンス・マリック監督のかなり個人的な経験がベースになっており、作品中の弟の死も監督の個人史と繋がっているらしいことが分かりますが、映画の中での説明はなし。
説明を省略したのは、作品の意図からしてあまり重要ではないと判断したからだとは思いますが、そのせいで非常に分かりにくい映画になっているように思います。

さらに、この映画のかなり特異なところは、過去の回想シーンの中に突如として地球の歴史の映像が挿入される点です。
ガスが集積して地球が創生し、火山が噴火し水が生まれ、やがて生命が誕生、単細胞生物から多細胞生物へ、水棲生物から陸上生物へ、恐竜の時代を経て現在に至る・・・。
この壮大すぎる歴史が映画の途中で、それなりに大きいボリュームで描かれていきます。
「なんやこれ」感が漂う映像です。
なぜこのような本筋とは無関係ともいえる映像が続くのか・・・?


本作のテーマ。
本作では、この世界の非合理さと、非合理を乗り越えるための構え、そして非合理な存在への赦しが描かれているように感じます。

映画の一番初め、旧約聖書の「ヨブ記」の一節が引用されます。
「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」(ヨブ記38章4節)
前回、「ルルドの泉で」の記事(→こちら)で登場したあのヨブ記です。
ヨブ記は世界の非合理を描いた旧約聖書の知恵文学、主人公ヨブが何の合理性もなく苦しみに陥り、全く何の必然性もなく苦しみから回復するという物語です。

自分のヨブ記の理解は以下の通りです。
少し長いですが、以前の記事を使いまわします。

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「ヨブ記」はおよそ以下のようなお話。(意訳です。)
ヨブは妻子に恵まれ多数の家畜を所有し、神を敬い豊かな暮らをしている敬虔な人間です。
そのヨブが神の気まぐれにより突然重病に侵され、妻子とも別れ、家畜は死に絶え、砂漠に放擲され、ただ1人苦しみにあえぐ状態に陥ってしまいます。
なぜ私が、常に敬虔に神に祈り正しい暮らしをしてきた私が、なぜこのような憂き目に遭うのか。
ヨブは自らの運命を呪い、神を呪い、神に挑戦します。「なぜ私なのか?」
ヨブの友人たちは、神を呪うヨブを詰ります。
神にたてつくとは何事か、お前はこんな罪を犯したのではないか、この行為が悪かったのではないか、等々。
ヨブはことごとく反論します。私は常に正しくあったはずである。
なぜ私が苦しまねばならぬのか、なぜ私なのか、神よ理由を述べよ!
そして最後に神が登場します。
神はヨブに言います。愚か者め、神の考えは人知を超えるもの、お前の如きちっぽけな人間に神の御心御業が理解できるものか、思い上がりも甚だしい、ただひたすら神を畏れ、神の御心に従え!
神は徹底的にヨブを問い詰め、同時に因果律的思考に支配されたヨブの友人たちをも非難します。
ヨブは悟ります。世の摂理は人知を超える、たかが1人の人間に神の御心(≒世界の在り様)など理解できるはずもない、人間にできることはただ神に平伏し神を信じ祈ることしかないのだ・・・。
そして物語の最後にヨブは回復し、再び妻子と家畜に恵まれ、幸福を取り戻します。

「ヨブ記」で描かれるのは、この世界の圧倒的な非合理性です。
ヨブが不幸な運命をたどったことには何の必然性も因果性もありません。
最後に幸福を取り戻すことについても何の合理性もありません。
ここには何の因果律も働いていない、「神」は世界の圧倒的な非合理の象徴です。
「ヨブ記」は難解ですので識者によりいろんな意見があるようですが、自分はこのように考えます。
世界はデタラメで非合理である。
悪いことをすれば回りまわっていつかバチが当たる?、お天道様は見てくれている?、断じてそんなことはない。
このあたりが旧約聖書の中の知恵文学たる「ヨブ記」の骨子だと考えます。
放っておくと悪が栄え、正直者が馬鹿を見るのがこの世界の在り様。
ここから「だから人倫に基づく社会の構築が必要なのだ」まではあと一歩です。
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「ツリー・オブ・ライフ」の冒頭の字幕、「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」は、ヨブ記の後半、ヨブの前に神が登場し、神がヨブに対しブチ切れるシーンでの神のセリフです。
本作に挿入される地球創生の映像=「私が大地を据えたとき」の映像。
このとき「お前はどこにいたのか」、当然まだ本作の主人公である長男は存在していません。
この地球創生の映像のすぐあとに、主人公の父と母が出会い、母が出産するシーンに繋がっていきます。
「お前はどこにいたのか」の「お前」の誕生。

この地球創生~生命の進化という圧倒的な映像の挿入は、50年代郊外核家族の苦しみを相対化する意図があるように思います。
大宇宙の歴史に比べれば、核家族の苦しみなどちっぽけなもの。
ヨブ記的な非合理の世界、父という圧倒的で逆らえない存在に虐げられる苦しみ。
なぜ私はあのような父のもとに生まれたのか、なぜ私は虐げられたのか、なぜ私の弟は若くして死ななければならなかったのか。
本作の問いです。
ヨブ記的な神ならおそらくこう答えるのではないでしょうか。
神の考えは人知を超えるもの、お前の如きちっぽけな人間に、たかが50年代核家族のちっぽけな苦しみや、たかが1人の弟の死の如きものを合理的に理解することなどできるものか!

本作での子供3人の成長の影には、母の慈愛があります。
母はなぜ慈愛に満ちた存在なのでしょうか。
ヨブ記的非合理の世界では、放っておくと悪が栄え、正直者が馬鹿を見る世界に繋がりがち、主人公の父のような横暴な人間も否応なく現れます。
その中で、なぜか慈愛に満ちた母のような存在が現れる。
地球創生シーンの後半、恐竜が誕生し、弱肉強食の恐竜の世界が描かれます。
その中で、一匹の恐竜が別の恐竜を殺すことをためらうシーンが挿入されます。
弱った恐竜にとどめを刺すことを躊躇する、慈愛の感情の芽生えのようなものが描かれる。
生物が本能的に他者の意識に同調する能力、この根源的な能力が慈愛と信仰に繋がっていき、母の愛に繋がっていく、ということがマリック監督の表現したかったことなのかもしれません。

監督の意図とどこまでリンクするか分かりませんが、自分ならこう考えます。
この世界は秩序立っているのでしょうか?
悪には悪の意味があり、横暴な父の存在とそれに虐げられる子供の存在にも意味があるのか?
次男の死にも意味があるのか?
さにあらず。
この世界はヨブ記の通り非合理であり、脈絡なく横暴な父が現れ、次男は死に、非合理な苦しみが蔓延するのがこの世界です。
しかし非合理だからこそ、人は悪を成すと同時に、何の脈絡もなく善をも成してしまうことがあります。
ヨブは何の脈絡もなく苦しみに陥れられ、また何の脈絡さもなく苦しみから解放されました。
意味なき非合理な世界では、一匹の恐竜が脈絡なく弱ったの恐竜を見逃すが如く、目の前の人間の感情に突き動かされ、共感能力をベースにした同調(仏教的に言えば「悲」)が可能になります。
ポイントは脈絡のなさです。
仏教的な「悲」は合理性や秩序からは生まれません。
無意味で非合理で無秩序だからこそ、不意に「悲」的な感情が現れる。
信仰をベースにした母の慈愛も、ヨブ記的無秩序な世界だからこそ可能なのではないか・・・。


前回の「ルルドの泉で」は、ヨブ記的な非合理の世界のゆるい肯定とも読める作品でした。
本作「ツリー・オブ・ライフ」は、同じくヨブ記的な非合理な世界の乗り越え、あるいは非合理ゆえの、信仰をベースにした赦しが描かれているように感じます。
本作のラストシーンをどうとらえるか、幻想的な映像でこれまた鑑賞者ほったらかし感丸出しの映像ですが、これはやはり長男の父への赦しが描かれていると考えるのが妥当な読み方ではないかと思います。
母が私を慈しんでくれたのと同様に、私も父を赦そう。
父には父の感情がある、決して合理的な整理はできないが、父の感情は感覚的には理解できる。
どのみち非合理な世界、であれば脈絡なく父を赦してもよいのではないか、そのような脈絡のない感情こそが大切なのではないか。
このような捉え方は、非合理な世界における、人倫に基づく社会構築のベースとして、非常に重要です。


その他、本作ではBGMとして多くのクラシック音楽が使われています。
マーラーの交響曲1番、スメタナの交響詩「モルダウ」、シューマンのピアノ協奏曲、ベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」、などなど、いろんなクラシック音楽が流れます。
一家の父親はクラシック音楽愛好家で、バッハの「トッカータとフーガ」や、モーツァルトのピアノソナタK545の2楽章などを作中で演奏しており、ブラームスの交響曲4番の4楽章を聴きながら食事するシーンもあります。
息子を叱るときに「トスカニーニはこうだった」などといちいち音楽家を引き合いに出すような、嫌なクラシックオタク感満載(笑)の親父です。
50年代のアメリカは、郊外型大衆社会の広がりとレコード産業の成長期に当たる時代で、このような嫌なクラオタ親父も無数に存在していたのかもしれません。
クラシック音楽ファンは、これは何の曲だったかな?と、曲当てしながら鑑賞するのも面白いと思います。

劇映画としては本作はかなり分かりにくい(捉えどころのない)ような作品ですが、映像表現を鑑賞するのは非常に楽しいです。
ヒマなので変な映画を見てみたい(笑)と思う人は、鑑賞してみても面白いかもしれません。