映画 ルルドの泉で | れぽれろのブログ

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ジェシカ・ハウスナー監督の2009年の映画「ルルドの泉で」を見ました。
非常に面白い映画でしたので、以下感想などを残しておきます。


ルルドとはフランス南部の地名で、ほぼピレネー山脈に近いところにあるカトリックの巡礼地です。
この地にある洞窟から湧き出る水を浴びると、障害や難病が治癒するという言い伝えがあり、これがいわゆるルルドの泉伝説です。
ルルドは宗教的な巡礼地ですが現在は観光地化されており、ヨーロッパでは巡礼と観光を兼ねて、障害や難病を抱えた方々が、伝説にあやかり病を癒すために大挙して訪れる地でもあります。
写真が好きな方は、マリオ・ジャコメッリの連作写真「ルルド」で撮影された場所といえばお分かりかもしれません。

本作「ルルドの泉で」は、現在のこの地で起きた神の奇跡と思しき現象と、それを巡る人間模様を描いた映画です。
淡々とした地味な映画ですが非常に面白く、この世界の非合理を説得的に描きつつ、それでいて人間社会を肯定しているようにも見える、興味深い映画になっていました。


主人公クリスティーヌは多発性硬化症という難病を患う女性。
四肢が動かないため車椅子に乗り、食事をするにもベッドに入るにも介護が必要となるような状態。
彼女は病気を抱えながらも淡々と生きている存在として描かれています。
表面的には穏やな彼女ですが、しかし内面では健常な人を羨み、静かな怒りを抱えている存在であることが、神父への告解から伺えます。
彼女は信仰心はあまりないようですが、他に出かける場所もないので、ルルド巡礼ツアー(介護者と共に旅行する)に参加し、ここからお話が始まります。

この巡礼にはクリスティーヌ以外にも多数の病気の人が参加しています。
軽微な皮膚炎を患う程度の人から、痙攣を伴い発語もおぼつかないような重度の障害を持った人まで、登場する人の病状は様々。
病者と共に介護者も旅行に同行しており、クリスティーヌの介護担当は2人の女性。
1人は介護者たちのリーダー的な存在の女性で献身的に病者に尽くすタイプ、もう1人は戯れにボランティアに参加しているような若い女性で、介護よりも同僚との会話や男性のことばかり気にしているタイプ。
この対照的な介護者2人の他、常にクリスティーヌのことを気に掛ける信仰の厚い老女や、クリスティーヌが好意を寄せる男性ボランティアや、あまり信仰に対し熱心ではないタイプの事務的な神父様などが登場し、多様な人間模様が描かれつつお話が進んで行きます。

そして、ルルドの泉で水を浴びた後、不思議なことに、クリスティーヌの病状がみるみる回復していきます。
四肢を全く動かせなかった状態から、手が動き、立ち上がり、歩き、山登りができるまでに回復します。
医者曰く、多発性硬化症がここまで回復するのは非常に珍しい事例であるとのこと。
これは神の奇跡なのか・・・?
しかしこのクリスティーヌの奇跡的な回復は、他の病者に「なぜ私は回復せず彼女だけが回復するのか」という疑念を抱かせることになります。
敬虔な私に奇跡は訪れず、とりたてて信仰心もないような彼女がなぜ神に選ばれたのか・・・。
クリスティーヌは身体の回復を喜び、歩き、化粧し、ボランティアの男性と恋をしますが、やがてまた体が動かなくなるのではという恐怖が彼女を襲うようになります。
彼女に訪れた奇跡は本物か、なぜ彼女だけなのか、そして彼女はどうなるのか・・・というのが本作の主要なプロットです。


本作を鑑賞して自分が真っ先に思い出したのは、旧約聖書の「ヨブ記」です。
「ヨブ記」はおよそ以下のようなお話。(意訳です。)
ヨブは妻子に恵まれ多数の家畜を所有し、神を敬い豊かな暮らをしている敬虔な人間です。
そのヨブが神の気まぐれにより突然重病に侵され、妻子とも別れ、家畜は死に絶え、砂漠に放擲され、ただ1人苦しみにあえぐ状態に陥ってしまいます。
なぜ私が、常に敬虔に神に祈り正しい暮らしをしてきた私が、なぜこのような憂き目に遭うのか。
ヨブは自らの運命を呪い、神を呪い、神に挑戦します。「なぜ私なのか?」
ヨブの友人たちは、神を呪うヨブを詰ります。
神にたてつくとは何事か、お前はこんな罪を犯したのではないか、この行為が悪かったのではないか、等々。
ヨブはことごとく反論します。私は常に正しくあったはずである。
なぜ私が苦しまねばならぬのか、なぜ私なのか、神よ理由を述べよ!
そして最後に神が登場します。
神はヨブに言います。愚か者め、神の考えは人知を超えるもの、お前の如きちっぽけな人間に神の御心御業が理解できるものか、思い上がりも甚だしい、ただひたすら神を畏れ、神の御心に従え!
神は徹底的にヨブを問い詰め、同時に因果律的思考に支配されたヨブの友人たちをも非難します。
ヨブは悟ります。世の摂理は人知を超える、たかが1人の人間に神の御心(≒世界の在り様)など理解できるはずもない、人間にできることはただ神に平伏し神を信じ祈ることしかないのだ・・・。
そして物語の最後にヨブは回復し、再び妻子と家畜に恵まれ、幸福を取り戻します。

「ヨブ記」で描かれるのは、この世界の圧倒的な非合理性です。
ヨブが不幸な運命をたどったことには何の必然性も因果性もありません。
最後に幸福を取り戻すことについても何の合理性もありません。
ここには何の因果律も働いていない、「神」は世界の圧倒的な非合理の象徴です。
「ヨブ記」は難解ですので識者によりいろんな意見があるようですが、自分はこのように考えます。
世界はデタラメで非合理である。
悪いことをすれば回りまわっていつかバチが当たる?、お天道様は見てくれている?、断じてそんなことはない。
このあたりが旧約聖書の中の知恵文学たる「ヨブ記」の骨子だと考えます。
放っておくと悪が栄え、正直者が馬鹿を見るのがこの世界の在り様。
ここから「だから人倫に基づく社会の構築が必要なのだ」まではあと一歩です。


本作「ルルドの泉で」は、「ヨブ記」の裏返しでありながら同様の構造を持っています。
ただ1人苦しみに陥るヨブとは逆に、苦しみを抱える人たちの中でただ1人だけ救済されるクリスティーヌ。
なぜなのか?
クリスティーヌはとくに信仰に厚くもなく、ごく普通のメンタリティを持った人間です。
このような人間が突然回復する。まるで何の必然もなく神の加護が、神の奇跡が与えられたかのように見える。
周りの病者たちはヨブと同じ疑念を持ちます。なぜクリスティーヌなのか、なぜ私は治らないのか。
ここには何の因果性もありません。
クリスティーヌの突然の回復は神の気まぐれ(=世界の非合理さ・デタラメさ)の表れであるようにみえます。
上に書いた2人の女性介護者のその後の経過が、世界の非合理さをシンボリックに表しています。
献身的に介護にあたる敬虔な介護者は過労で倒れ、信仰心の薄い遊び盛りの若い介護者は最後までハッピー。
この2人の対比においても、世の非合理は印象付けられます。
マリア信仰が盛んなルルドにおいて、後者の女性介護者の名が「マリア」なのはアイロニー以外の何物でもありません。

では、このような非合理でデタラメな世界は唾棄されるべきもなのか?
「そうではない」という印象を感じさせるのが、この映画の素晴らしいところです。
やる気のない神父、やる気のない介護者、クリスティーヌの陰口をたたく病者たち、介護状態のクリスティーヌには見向きもしないくせに回復したとたんクリスティーヌに言い寄る男性。
このような人間関係の在り様を突き放して描きつつ、人間社会とは所詮こんなものだという感触とともに、こんな社会もまたいいものだという肯定的な感触も、この映画では同時に描かれているように見えます。
本作に登場する信仰心の厚い老女が、観光者向けのキッチュなマリア像(=偶像)に熱心に祈りを捧げる様子(ある意味滑稽な様子)を、本作では決して否定的には描いていません。
この老女は最後までクリスティーヌに寄り添い続け、暖かい眼差しをクリスティーヌに向け続けます。
この老女の佇まいから、非合理な世界もまた愛おしいものだという感慨と同時に、神の愛と信仰の在り様についての肯定的な印象をも感じさせられます。
非合理な世界もときに愛おしいもの、これがこの映画から強く受ける印象です。

なぜ私だけが病気になるのか?
病に侵されたことのある人は誰しも思う問いです。
本作では、そこに意味はないのだということが強調されているように思います。
圧倒的に非合理なこの世界で、特定の人だけが病に侵されるのも、特定の人だけが病から復活するのも、神の気まぐれ(仏教的に言うなら人知を超えた世界の法(ダルマ)の所以、現代的に言うならただの偶然)にすぎません。
なぜ私がと煩悶し、苦しみ、無為に時を過ごすよりは、非合理は非合理として納得し受け流し、その中で何をするかを考えること、このことへの気付きが大切。
四肢が動かないクリスティーヌはクリームの味を楽しみ、回復したクリスティーヌは登山を楽しみ恋をします。
本作のラスト、ヨブが辿った幸福→不幸→幸福の往還と同じように、クリスティーヌにとっても病→回復→病の往還が示唆されているようにもみえます。
どのような状態でも相応の生き方をするしかないのだ、と同時に、どのような状態でも幸福を追求する権利はあるのだ、だから介護(≒人倫に基づく社会の構築)は必要なのだ、ということも本作から印象付けられるポイントです。


淡々とした映画なので盛り上がりに欠ける作品ではありますが、人物の細かい所作1つ1つが示唆的であったりで、画面の中の情報量は多い映画です。
そして映像はやたらと綺麗、カラーリングと構図は非常に素晴らしく、この映像だけでも見る価値のある映画だと感じます。