ビルディング・ロマンス-現代譚を紡ぐ (豊田市美術館) | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

2年ほど前から豊田市のラジオ(エフエムとよた、ラジオ・ラブィート)を聞くことが多くなりました。
土曜日のお昼の番組「スタンドアップ!」を聞いていると、たまに豊田市美術館のコマーシャルが流れます。
現在「ビルディング・ロマンス 現代譚を紡ぐ」と題された展示が開催されており、CMで情報を聞くと面白そうで、何やら「行かなければ」という気になってきます。

ということで、CM情報に踊らされ(?)、3月3日の土曜日、豊田市美術館に行ってきました。
朝から新幹線に乗り、新大阪から名古屋へ、名古屋駅から地下鉄に乗り換え、鶴舞線と名鉄を乗り継いで、豊田市へ向かいました。
この日はなぜか電車内がたいへん混雑しており、土曜日のお昼前なのに通勤時間並みの満員電車。
豊田市駅で電車を降りると、改札前で人がだんご状態になっており、前へ進めません。
どうもチャージ機の前で大行列ができているようで、人が固まってしまっているみたいです。
人ごみを押し分け、何とか改札から脱出。
赤い服の人が多いです。名古屋グランパスの応援の人たちなのかな?

豊田市駅を降り、昼食を取ろうとウロウロしましたが、どの店も非常に混雑している様子。
辛うじて空いてるうどん屋さんに入り、きしめんを頂きました。
きしめんは名古屋市のイメージがありましたが、豊田市でも食べられるのですね。
お腹を満たした後、いざ美術館へ。


---

自分は豊田市美術館を訪れるのは2回目。
3年前に「ソフィ・カル-最後のとき/最初のとき」を見に行って以来です。
もう3年前もになるのですね。

今回は「ビルディング・ロマンス 現代譚を紡ぐ」と題された特集を鑑賞。
5人の作家さんが5つのスペースで作品を展示されていました。
タイトルの通り、本展示のテーマはロマン主義です。
19世紀はロマン主義の時代でしたが、20世紀のモダニズム・ポストモダニズムに至り、アートはロマンや物語とは疎遠になりました。
現代においてロマンや物語をどのように見出し、それをどう考えるのか、ということが本展のテーマ。
自動車産業が盛んな豊田市という場とグローバル化との関わりなどを考えながら、興味深く鑑賞しました。

以下、5人の作家さんの作品についての覚書・感想。


・志賀理江子 「予感と夢」

豊田市で機械製造に関わる労働者たちが重なり合いながら眠る5つの写真が、巨大な布にプリントされ、展示スペースの壁一面にどーんと展示されていました。
5つの写真はそれ照明が微妙に異なり、少しずつ趣の異なる作品になっています。
眠る労働者たちの人体が重なり合う様子は、ジェリコーの「メデューズ号の筏」や、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」など、かつてのロマン主義絵画を一瞬思い起こさせるのと同時に、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」のような戦争画をも想起させます。
画面はロマン的な美しさに溢れると同時に、疲労したようにみえる労働者たちの姿から、自動車産業をはじめとするグローバル化時代の経済活動の負の側面をどうしても思い起こさせます。
折しも働き方改革の名の下に高プロの導入・裁量労働制の拡大が目論まれている最中、本作は生活の応援と賛美であると同時に、製造業の構造的問題をも浮かび上がらせる作品になっているように思います。


・危口統之と悪魔のしるし

2番目のスペースは危口統之さんという方の展示スペースですが、本展の準備期間中に亡くなられたとのことで、このため完成した作品の展示ではなく、過去作品の一部や遺品がインスタレーション的に並べられている展示になっていました。
メインは「搬入プロジェクト」と呼ばれる、建物への搬入が困難な形態の物を制作し、何とか建物に搬入するというパフォーマンスの痕跡の展示。
会場に置かれている搬入プロジェクトのマニュアルがむやみに面白いです。
いくつかの展示物のうち、個人的に面白かったのが「メタル大学」と書かれたハードロック系(?)ミュージシャンの系譜が書かれた図です。
チャック・ベリーとエルヴィス・プレスリーに始まり、ビートルズその他の膨大なミュージシャンの名前が系図的に並べられ、新しいものではソイルワークやシステム・オブ・ア・ダウンまで、いろんなミュージシャンが登場。
面白い! この系図ほしいです。


・アピチャッポン・ウィーラセタクン 「花火」

タイの美術家、ウィーラセタクンによる映像作品です。
暗闇の中、花火の光によって様々なものが照らし出される映像が続きます。
映しだされるものは石像が多く、様々な動物やモンスターや人間の形をした像が登場。
映像は一部反射して展示スペースの壁面にも映し出され、全体として幻想的な空間になっています。
作品の中のコードを読むのがなかなか難しいですが、背後にはおそらくタイの歴史的なものや宗教的なものがあり、それらと近代社会との関係が示唆されているように思われます。
ウィーラセタクンは「ブンミおじさんの森」というカンヌ映画祭受賞の映画作品があるようで、こちらもも鑑賞したくなってきました。


・スーザン・ヒラー 「Lost and Found」

世界からなくなりかけている言語を羅列する映像作品。
一応映像作品ですがほぼ音声のみ、画面には音声の波形データが表示されるのみです。
様々な言語が登場し、お話が語られますが、登場する言語はすべて話者が少なくなっている希少な言語のようです。
自分には言語学的な差異は全然わからないので、カタルーニャ語の数詞はやはりスペイン語に近いな、などと考えながらぼんやりと鑑賞。
中には一端消えかけたが現在は復活している(話者が増えている)言語もあるようです。
グローバル化により世界が均一化する中、英語などの一部の国際言語が主流となり、必然的にローカルな言語の数は減っていきます。
そんな中、話者の数が回復しているというローカル言語もあるということが、世界の複数性維持に対するロマンの片鱗を感じさせる、というような作品になっているように思います。
興味深いのは、歌や音楽がときどき流れますが、そのいずれもが現在のポップス的な音楽であるということ。
このことは、ローカルな言語が絶滅する以前に、ローカルな歌は既に絶滅しているのではないかという事実を思い起こさせます。
現代のポピュラー音楽は、西洋クラシック音楽によるシステム(平均律・十二音・二十四調性等)が大衆化したものです。
このシステムがローカル言語の絶滅以前に先に世界を席巻しているという事実。
言語と音楽を考える上でも興味深い作品であるように思います。


・飴屋法水 「神の左手、悪魔の右手」

本展最後の作品、何やら楳図かずおの漫画のタイトルを思い出させます。
スペースをたっぷり使ったインスタレーションで、展示空間のイメージは廃材置き場のような感じ。
自動車の残骸が天井からつるされ、その周りにタイヤやハンドルなどが不思議なオブジェを構成します。
破損した壁と落書き、地面には多数のミニカー。
レディメイド作品を展示するような要素(タイヤなどは一瞬デュシャンの「自転車の車輪」を思い起こさせる)もありつつ、ゴミ置き場を歩いているような感覚もある、様々なイメージが溢れる作品になっています。
この作品も自動車が基幹産業である豊田市のイメージと重なり、グローバルに展開する大企業の華々しいイメージの裏での、廃棄物や都市問題などの負の側面を思い起こさせる作品になっているように思います。
しかし、構造物の物体としての面白さや展示空間の楽しさの方が、どちらかというと印象に残ります。


全体を通して、テーマに即して(?)、ロマン主義との関わりでの感想。

部分を全体化するのがロマン主義の営みです。

(俗なるものの聖化、内面の超越化。)
一枚の絵が世界を映す、交響曲は世界のようでなければならない、といった考え方がロマン主義の考え方。
本展の作品を通じて、豊田市、タイの村、地域言語などのローカルなもの(≒部分)と、グローバルなもの(≒全体)との関係が見えてきます。

この関係性から本展を鑑賞すると、グローバル化時代においてローカルなもの(豊田市、タイの村、地域言語)に物語や美を見出すということが、ひとつの現代のロマン主義的作品解釈のの在り様なのかな、という気がしてきます。

飴屋法水さんの作品の最後(会場の出口)に、蜂の巣が展示されているのが面白かったです。
蜂は、個体(一匹の蜂)よりも、上位システム(女王蜂を中心とする蜂社会)の維持が優先されるという生き物集団です。
女王蜂を維持するためには、一匹の働き蜂は使い捨てられる。
このことと関連して、人間の上位システムが地域社会、地域社会の上位システムがグローバル世界、というように連想を膨らませると、ローカルなものにロマンを見出すということは、蜂社会のために働く一匹の蜂の在り様を愛でるということに繋がりますが、果たしてそれだけで良いのかなという気もしてきます。
個人的な感触では、現代世界の在り様を表現した作品を鑑賞する際に、ロマン主義として解釈するだけではやや弱い。
作者の意図は別にして、展示全体及び最後の蜂の巣からロマン主義についてあれこれと考えてしまう、非常に興味深いテーマになっていたように思います。


---

コレクション展では「愛知県美術館×豊田市美術館」という企画展示が開催されていました。
愛知県美術館と豊田市美術館の作品を抜粋し、ペアで2つ並べて展示し比較するという面白い展示。
岸田劉生の首狩り時代の肖像画と自画像との対比に始まり、様々な作家の作品が並んでいました。
クリムト、エルンスト、ミロを2館とも持っているのがすごいです。
シュルレアリストであるマグリットとデルヴォーが比較され、どちらも裸体の作品。
東山魁夷の雪山と、福田美蘭の大根おろしの対比が楽しい(笑)。
そんな中、藤田嗣治の20年代の肖像画と40年代の肖像画の対比が興味深く、この作家独特の白色の使い方が変化していることが分かります。
(個人的には40年代の「美しいスペイン女」の方が好きです。)

もうひとつの企画展示は、「ビルディング・ロマンス 盲目と洞察」と題された、上記の特集展示と関連のある作品の展示になっていました。
ソフィ・カルの「盲目の人々」は3年前に見た展示と同じで、懐かしく鑑賞。

面白かったのが小泉明郎の「ディフェクト・イン・ビジョン」という映像作品です。
表裏2面のスクリーンに夫婦の食事シーンが映し出される作品で、時代は1945年の沖縄戦の直前、戦争の勝利と戦後の休息を願う素朴な(しかし嘘くさい)会話が繰り返される作品ですが、演技と会話がおそらく別々に収録され、演者は二人とも盲目で手探りで食器を弄っており、この様子がカットを変えながら計4回(スクリーンの表裏で映像が異なるため実質計8回)繰り返される作品です。
そして、4回目の会話シーンでは特攻隊員の突撃場面(これも嘘くさい演技です)が重ねられます。
ロマン主義との関連で考えると、第二次大戦下での特攻を愛でるが如きはロマン主義の最も頽落した形態だと思いますが、本作では特攻をアイロニカルに捉え、そのロマン性を剥奪する構造を持っており(最後は話者の爆笑シーンで終わる)、非常に興味深い作品になっていたように思います。
蜂は刺すと自分自身が死ぬと言われますが、女王蜂のために死ぬ働き蜂は、特攻と構造的に似ています。
上記の特集展示(及び最後の蜂の巣)との関連で考えると、ローカルなものに美を見出すことは、その美が政治的に利用されることと紙一重であり、このあたりは注意すべきことなのでは、などという感慨が浮かんできます。


---

ということで、面白い展示でした。

愛知県では来年、あいちトリエンナーレが開催されます。
芸術監督の津田大介さんのお話から勝手に推測すると、自動車に関連する企画からおそらく豊田市も会場の1つになるのではないかと思います。
来年もまた豊田市美術館に足を運ぶことになる気がします。

自分が好きなピアニスト、カツァリスは昨今は近畿圏に来てくれず、愛知県での公演が多いですが、今年は秋に豊田市に来られるようです。
開催日が9月30日、企業が忙しい上期末という困った日程(笑)ですので、チケットを取るかどうか、迷っているところです。
どうしようかな・・・?