ゲンロン9 第1期終刊号 | れぽれろのブログ

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毎号楽しみにしている批評誌「ゲンロン」。

今月発売された「ゲンロン9」で10冊目となり(0号があるので9号で計10冊になる)、本号をもって第1期が終わりとなるとのこと。
自分は3年間ゲンロンを読み続け、ゲンロンカフェのイベントの動画もことあるごとに視聴してきました。
ゲンロン9もまた非常に面白い内容でしたので、ゲンロン9の覚書と感想などをまとめておくのと同時に、ゲンロン全体の所感や今後への期待など、思うところを書いておこうと思います。


「ゲンロン9」の覚書&感想。
「日本思想の150年」と題された共同討議と、「戦争ゲームはわれわれに何をもたらすか?」と題された辻田真佐憲さんの論考が特に面白かったので、まずはこちらの覚書と感想から。


「日本思想の150年-知識人,文学,天皇」は、東浩紀さん、苅部直さん、先崎彰容さん、大澤聡さんの4者による共同討議で、過去の特集「現代日本の批評」シリーズを引き継ぐ形の企画です。
自分は元々ゲンロン1,2,4に掲載されていた、現代日本の批評1~3の年表目当てでゲンロンを買い始めたらいつの間にかゲンロン第1期全号がそろっていた、という感じの読者です。
現代日本の批評1~3は80年代以降の思想・文学の流れを取り扱ったものでした。

今回の特集はそれを拡張し、明治以降150年の思想・文学をどう考えるとよいのかについて、我々が読書する際の重要な視座を提供してくれる討議で、全10巻を総括するにふさわしい内容となっています。

概要の覚書(自分なりの意訳を含みます)。
まず登場するのが福沢諭吉と西郷隆盛。
彼らは意見が対立しているように現在では見られていますが、両者とも西洋近代、文明、普遍etcの重要性を意識しており、方向性や前提、思考の「型」は実は共有されている。
我々は岩倉使節団/留守政府、反征韓論/征韓論、国権/民権などと対立的に見てしまいがちですが、立場の違いはあれ根は同じであるということが示されます。

明治後年から大正にかけて、明治初年の「型」が急速に忘れられ、個人主義が台頭し、文学はその延長上としての自然主義文学が隆盛となります。
初期明治の型を維持していた森鴎外・夏目漱石から、ガチで自然主義に向かう島崎藤村や田山花袋へ。
後に自然主義的なものに異を唱えるのが、文学では谷崎潤一郎であり、思想では和辻哲郎や三木清であり、この流れが後年の教養主義に繋がっていきます。

大正・昭和初期は大衆社会の時代です。
知識人階級が分裂し、大衆により近い層が誕生します。
インテリ-教養主義-岩波的なものと、亜インテリ-修養主義-講談社的なものに分裂する知識人。(インテリ/亜インテリは、後年の丸山眞男による分類。)
前者はマルクス主義と親和性が高く普遍を志向するが大衆からは乖離、後者は日本ローカルを志向し保守的で陸軍的拡張主義のようなものと親和性が高い。
三木清らインテリの言葉は亜インテリ&大衆には届かず、インテリたる京都学派は「近代の超克」的なものに頽落し、インテリだが左派知識人にのれない保田与重郎は浪漫派的なものに頽落する。
唯一インテリ-亜インテリを架橋できたのが小林秀雄で、インテリ三木を亜インテリに向かわせる役割を果たす等、大衆に引きずられず大衆とも向き合う立ち位置の重要性が示されます。

戦後保守と革新。
保守の分裂、象徴天皇制を肯定する和辻哲郎や坂本多加雄に対し、象徴天皇はおろか近代天皇制を否定し、文化的に天皇はかくあるべしという別の理想(美学とテロリズム)を掲げるのが三島由紀夫です。
戦後社会を否定しながら戦後社会に受け入れられ、喜劇的に死ぬ三島こそが戦後のシンボリックな存在である。
一方革新派は竹内好、廣松渉らが取り上げられていますが、竹内らは戦争の贖罪からアジア的なものを肯定している面があり、現在はこのあたりを留保して読む必要があります。

その後、転向を強く意識した吉本隆明や、敗北を強く意識した江藤淳あたりまでは
戦争-敗戦の前提がありました。
80年代以降その前提が忘れられがちになり、特に柄谷行人以降は忘却が加速、ゲンロン1,2,4の特集である現代日本の批評1~3は、吉本・江藤以降の忘却時代の検証にすぎず、実は今号の「日本思想の150年」の各論であったという結論、まさに第1期週間号にふさわしい内容になっています。
本討議で扱われる内容はもっと幅広いですが、自分なりに重要ポイントをまとめるとこんなところです。

所感など。
総じて前時代の型の喪失と忘却が、その後の時代の不毛な対立をもたらしているということが多い、我々はこのことに留意しながら各時代の文章を読む必要がある、あるいは現代の思想・文学を考える必要がある、と言いうことがよく分かる討議になっています。
同時に各時代の(場合によっては不毛な)対立構造を踏まえながら、各時代の思想を相対化する必要がある。
全体的に先崎さんはテクスト重視、大澤さんはメディア重視の視座で語られており、一見すると先崎さんの発言が重要かつ面白くこちらに目が行きがち、大澤さんの発言の方が軽く見えてしまうかもしれませんが、個人的には大澤さんのメディア環境の視座は、思想・文学の相対化という点で非常に重要だと感じます。

思想の軸・価値基準(一般意思的なもの)をどう立てるかということも、本討議のテーマになっているように思います。
自分は西洋普遍派、リベラリズム的なものしかないのではないかと考える人間。
前回の記事でも書きましたが、近代を維持するには人間が「ちゃんとする」必要がある。少なくとも知識人や政治家、官僚がちゃんとする必要がある。

その軸は何か。自分は保守的な型をそのまま呼び戻すのは難しいと感じます。
米仏革命に遡る国民主権、啓蒙思想に遡る基本的人権、パリ不戦条約に遡る戦争放棄は、それなりの伝統と歴史がある。今日的なリベラリズムもその延長上にあります。
ロジカルにはリベラリズムには穴があるのは今日では自明(ローティによるロールズ批判に代表される)、だからといって何でもありでは困る、変なものを持ち出してもうまくいくはずはない。
チャーチルっぽく言えば、「リベラリズムは最悪、ただしこれまでのあらゆる思想を除けば。」という感じ。(ここにリベラリズムの代わりに国民国家や資本主義を代入しても、このテーゼは成り立つと自分は思います。)
本討議を読んでぼやんと感じたのは(討議の内容からは飛躍しますが)、日本近代あるいは前近代の膨大な日本思想の系譜に、西欧普遍のリベラリズムを接続することの重要性です。

日本に連綿と続く「型」の中から、西洋的なリベラリズムに接続可能なもの(きっとあるはずです)を引きずり出し、接続する。
リベラルの存続は、日本の古典からリベラル的なものをどう発掘しどう接続するかにかかっているのではないか。
これができない限り、日本のリベラルは今後も負け続けるように思います。


「戦争ゲームはわれわれに何をもたらすか?-シリアスゲームとプロパガンダを越えて」は、辻田真佐憲さんによるゲームと社会の論考です。
自分は昨年の「文部省の研究」以来、辻田さんのファンになりました。
辻田さんは戦前の軍歌研究で有名であるようですが、活動はそれだけに非ず。
戦間期の文化や、政治と音楽、プロパガンダ、君が代、検閲等々について幅広く言及されており、著書もたくさんあります。
政治と文化にかかわる「事件」が勃発するたびに(例えば最近ではBTSの問題など)、面白くかつ適切な記事を発信されておられます。
ゲンロンにも何度も登壇されており、お話も面白い方です。
本稿は戦争シミュレーションゲームの構造を分析し、そこから現実の戦争をどう考えるかという論になっています。

コンピュータを用いて標的を爆撃する近年の戦争はテレビゲームに近似的で、イラク戦争の際にはプレイステーションが訓練に使用されたといわれます。
本稿によるとそれは今に始まったことではなく、近代以前の戦争ですら、軍事チェスのようなゲーム的なものがあったのだとか。
戦争とは元来ゲーム的なものである。
戦争シミュレーションゲームのプレイヤーの特徴、あるチームでゲームをクリアするとその後は別のチーム(敵側)でプレイしたくなる。
例えば戦争ゲームを日本軍でプレイしクリアした後に、アメリカ軍や中国軍でプレイし、日本軍をやっつけるというプレイもありえます。
このように、戦争ゲームとは愛国であり売国である、愛国=売国の二重構造をもっています。
ここから導き出される立場、特定の共同体やイデオロギーに入れ込みつつ、同時に別の共同体やイデオロギーを絶えず想起するという志向を、本稿では「ゲーム的主観性」と定義。
戦争とゲームの近似性から、ゲームにおける愛国・売国の二重性を拡張し、現実の戦争(政争やネット上の諍いをも含む)を「ゲーム的主観性」で乗り越える術を提案されています。

これは面白いです。
自分は戦争シミュレーションゲームに詳しくはありませんが、この感覚は理解できます。
本稿を読んで自分が真っ先に思い出したのが、クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」です。
1945年の硫黄島の戦いを舞台に、前者はアメリカ軍の視点で、後者は日本軍の視点での映画になっており、両作品の鑑賞者は、日本人であれアメリカ人であれ、それぞれどちらの立場にでも感情移入できることに気付かされ、これにより戦争の不毛さが強調されるという構造になっています。
辻田さんの「ゲームて主観性」はもっとドライに戦争や愛国を相対化する試みですが、もう少しウェットなものがイーストウッド的な対立の乗り越え(人間の共感能力を考慮しつつ戦争を相対化する)なのではないか、などとあれこれと思い出しつつ読みました。

辻田さんは文章が読みやすいし面白い(現代における批評的文章のひとつの理想形ではないかと思います)、お話も面白いので、今後も著作・イベントともフォローしていきたいと考えています。


その他。
ゲンロン6,7の特集である「ロシア現代思想」の続編として、ミハイル・バフチンの論文が取り上げられています。
辻田さんとはうって変わって難解な文章ですが、叙事詩と小説の相対化(悲劇的なものと喜劇的なものの相対化)の視座は重要だと感じました。
自分なりにオペラで例えるなら、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」は喜劇ですが、地獄に落ちるジョヴァンニや結婚が破談になるオッターヴィオにクローズアップすると悲劇にみえます。
あるいは、プッチーニの「トスカ」は悲劇ですが、少し突き放して「女性を執拗に口説いた結果刺された警官」などととみると、これは喜劇です。
悲劇と喜劇は、実は単なる視点の違いである。「日本思想の150年」に引き付けると、三島由紀夫の死なども悲劇的であり喜劇的でもある。
かなしいことはおかしい、おかしいことはかなしい、これは世界体験を豊かにする視座だと思います。

日本美術を相対化する黒瀬陽平さんの「他の平面論」や、国民国家を相対化する速水健朗さんの「独立国家論」も、毎回楽しみな連載です。
自分は大阪人なので、今回はとくに速水さんの論考(大阪に首都をおく国家をテーマにした文芸作品の考察)が興味深いです。
曖昧さの知恵を歴史的に知る大阪人。2015年の大阪都構想の投票結果は、大阪人がこの主張を真に受けず曖昧に処理した結果だという説、なるほどと思います。

昨今の何でも白黒つけたがるような正義感に対し、細かいことはどうでもええやん、という立場は重要。

領土問題が典型、昨今また北方領土が話題になっていますが、領土問題の最も重要な点は「領土問題による紛争の勃発を回避すること」、そのためには白黒はっきりつけず、領土を曖昧にしたまま解決を未来に先延ばしにすることは1つの有効な手段です。
対立の曖昧化は、先の「ゲーム的主観性」の考えにもつながるように思います(そういえば辻田さんも大阪出身です)。



さて、今後の「ゲンロン」について。
東浩紀さんの巻頭言によると、次号(第2期、ゲンロン10)からは、特集主義をやめるとのこと。
ゲンロン9までは一応各号に特集がありましたが、今後は特集を立てず、東さんによる巻頭言(≒愛の言葉)もないとのことです。
編者の意図を自分なりに汲み取ると、ゲンロンはもはや「東浩紀の雑誌」ではない、ということなのではないかと思います。
もっと幅広い読者層の獲得へ向かうゲンロン。
そもそも自分は東浩紀さんの良い読者ではありません。
単著は読んだことはなく(ゲンロン0で「観光客の哲学」を初めて読んだくらいです)、ゲンロンカフェにアクセスするようになったのは宮台真司さん経由です。(自分はミヤダイファンで、東浩紀さんも辻田真佐憲さんも、宮台さん経由でアクセスするようになりました。)
自分が唯一持っている東さんの書籍「日本的想像力の未来」(NHK出版)も、対談者に宮台さんがいるから買った書籍です。
東浩紀の良き読者でない自分が、この雑誌を10号買い続けたということが、実は面白いことなのではないか(これが郵便的誤配ということなのかもしれません)。

カフェにも期待したいです。
個人的には音楽関係の企画が少しずつ充実してきているのがうれしい。
昨年の岡田暁生さんに続き、片山杜秀さん、川島素晴さんも登壇され、岡田さん・片山さんの読者であり、いずみシンフォニエッタ大阪(川島さんがプログラム・アドバイザー)の鑑賞者である自分にとってはうれしいです。(片山さんは音楽の話題での登壇ではなかったですが。)
ゲンロンカフェならぬゲンオンカフェ(ゲンオン=現代音楽)もシリーズ化する感じですし、今後も期待していきたいと思います。
ここ1年はとくにカフェから離れたボルボのシリーズが面白いです。
今年は自分は國分功一郎さんの面白さを知りましたが、たぶんゲンロンにアクセスしなければ、自分は國分さんを読むことはなかったのではないかと思います。


ということで、東浩紀さんの良き読者でない自分も、今後もゲンロンは応援していきたいと思います。
東さんの著書もいずれ読まないといけませんね。


<関連記事>

・批評誌 「ゲンロン」
https://ameblo.jp/0-leporello/entry-12227719840.html

・対談 亀山郁夫×岡田暁生 (+「ゲンロン0」)
https://ameblo.jp/0-leporello/entry-12268152921.html

・懐かしいゲームと音楽について (少し「ゲンロン8」に触れています。)
https://ameblo.jp/0-leporello/entry-12387626385.html


<おまけ>

・10冊そろった様子(記念撮影)





・本棚の状態



我が家の本棚にはこの手の雑誌はうまく収納できません。
ゲンロンがあふれてきました(ゲンロン9が重ねて収納できない)ので、本棚の増築を検討しなければなりません。


・趣味と政治と学問のベストミックスと現在の問題



辻田真佐憲さんの著書「空気の検閲」からの引用です。
非常に面白い図表だと思います。
円の周辺に向かうほど不毛になります。
目指すべきはこの円の中心、学問への関心、社会への応答、趣味としての楽しさ、いずれが欠けてもダメということ、当ブログもこの円の中心を目指すようなものでありたいなと思います。