精神分析学の創始者フロイトの最後の著作『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫、渡辺哲夫訳)を読んだ。
彼の宗教論には、『トーテムとタブー』、『ある幻想の未来』などもよく知られているが、この遺著ではついにキリスト教本体に激しく切り込んだ主張を繰り広げている。
フロイトの宗教に対する基本的なスタンスは『トーテムとタブー』から変わっていない。
すなわち、個人心理学における強迫神経症の理論を集団における宗教現象に適用する。
つまり、宗教現象は、人類にとっての強迫神経症である、というわけだ。
『トーテムとタブー』でフロイトは、ある動物をトーテムとして崇めている部族が普段はそのトーテム動物を食べないにもかかわらず、年に一回の祝祭においてトーテム動物を食べるという点を指摘する。
そこからフロイトは、「父殺し」をキーワードとした宗教発生論を展開した。キリスト教のミサで、いまでも聖体拝領が行われるが、「キリストの体」となったパンを信徒が食べるのは、この「父殺し=カニバリズム」の名残なのだ!!
『ある幻想の未来』では、人間は文化に欲動を制限されることから、必然的に文化に対して不満を持つ。
その不満を解消するための制度として宗教が生じたという筋書きである。
そしてフロイト最後の書物『モーセと一神教』では、冒頭から異様な主張が続く。
まず、モーセがイスラエル人ではなく、エジプト人ではないかという仮設が提唱される。
モーセが「割礼」という古代エジプト人の習慣を、イスラエル人が神に聖別された証として継承していること、
モーセが、口べたでユダヤ人と直接話せず、雄弁なレビ人アロンを介してコミュニケーションをとっていたこと
(出エジプト記4章10-17節)などから、モーセがヘブライ語を話さないエジプト人だったと考えられるという訳だ。
たしかに、モーセは、イスラエル人(のうちのレビ人)の家庭に生まれたと出エジプト記2章に記載されている。
しかし、通常英雄の誕生神話が、高貴な生まれの主人公が、ある理由にとよって貧しい家庭で育つという構図を持つのに対し、モーセの誕生神話が、一般のレビ人家庭に生まれた子供であるモーセが、高貴なエジプト王家で育てられる点にフロイトは注目する。
つまり、モーセの誕生神話は、いわゆる通常の貴種流離譚のパターンとは逆になっているのだ。
そこでフロイトは、モーセがエジプト王家に生まれたということが事実であり、彼がレビ人の家庭に生まれたというエピソードは、自分たちの指導者がエジプト人ではまずいと考えたイスラエル人が付け加えたと解釈するのだ。
あまりにも自在な解釈だが、ありえなくはない。
さらに、モーセがイスラエルの民にもたらした宗教は、エジプトのファラオであるイクナートンがもっていた太陽神を唯一神とする宗教だったのではないかと、フロイトは推論する。
ここでついに、フロイトは、最後の大胆な仮説を導入する。
それは、イスラエルの民によって、モーセは殺害されたという説だ。
モーセがエジプト人だったのであれば、イスラエル人にとって、モーセの宗教はそれまでイスラエル人が
もっていた宗教とは全く異質な信仰だったに違いない。
イクナートンが新都テル・エル・アマルナでおこなった太陽神信仰は、イクナートンの死とともに無残にも
壊滅させられた。このことと同様に、モーセはモーセの宗教(=イクナートンの一神教的太陽神信仰)に
反発するイスラエル人の手で殺されたとフロイトは考えるのだ。
申命記の最後で描かれるモーセの死は、”主の命令によってモアブの地で死んだ”としか言及はない。
フロイトは、モーセの殺害を直視できなかったイスラエル人たちが、殺害の事実を抑圧したために聖書に
殺害の記述がないと考えるのだ(!!)。
しかし、モーセの宗教は、モーセの殺害によっては滅びなかった。
フロイトによれば、ぽつりぽつりとあらわれた預言者たちによって、モーセの伝統はひたひたと地下水脈のように
受け継がれたのだ。たしかに、これほど多くの預言者が現れたということは、モーセの宗教がイスラエル人の中に定着しなかったということを示しているのかもしれない。
そもそも、フロイトによれば、エジプトにいかずにイスラエルの地にとどまったイスラエル人たちがいる。
エジプトに行き、モーセやヨシュアの指導のもとに帰ってきた出戻りのイスラエル人と、もともとカナンにいて
エジプトに行かなかったイスラエル人もいるのではないかと考えるのだ。
この二種類のイスラエル人の区別が、ソロモン王の死後にイスラエル王国とユダ王国の分離となった原因とフロイトはみなしている。
さて、エジプトから出戻ってきたイスラエル人の宗教はモーセの授けた一神教的太陽神信仰だが、
エジプトに行かなかったイスラエル人の宗教は、ヤハヴェと呼ばれる地方神・民族神信仰だった。
モーセはイスラエル人たちの手で殺害されたにも関わらず、預言者たちの努力によって滅びることはなく、
ついには、ヤハヴェ信仰を一神教化する方向に変質させてしまったのである。
(これは、旧約聖書にヤハヴェ(主)とエロヒーム(神)という二種類の神が混在していることとも関連する。)
フロイトは集団心理学への個人心理学理論の応用について慎重ではあるが、次のような類比を示す。
抑圧されるトラウマ的出来事(記憶に残らない)=モーセの殺害
神経症の発症=ヤハヴェ信仰の一神教化
この後、フロイトは一神教の持つ掟「神の姿を造形することの禁止」についてこう指摘する。
「この掟は、抽象的と称すべき観念を前にしての感覚的知覚蔑視を感覚性を超越する精神性の勝利を、厳密に言うならば、心理学的に必然的な結果としての欲動の断念を、意味していた」(ちくま学芸文庫189頁)
すなわち、モーセの掟はそもそもはじめから欲動の断念を強制するものとして、「エディプス・コンプレックス」に
おける父の役割を果たしていたことになる。
この指摘以降、フロイトは、個人の精神分析学の用語で集団における宗教現象を説明しようとしていたけれど、
実は宗教現象こそが個人の精神分析学を生んだのではないかということに気がついておののくことになる。
宗教は幻想だとして、宗教を合理的な説明に解消できるはずだった精神分析の理論が、宗教の子供だった!!
精神分析(子)は宗教(父)に対するエディプス・コンプレックスの産物にすぎなかった。
別の言い方をするならば、全てが精神分析学的なのではなく、全てが宗教的だったのである。
以上のようにこの本の内容を乱暴にまとめてしまったが、フロイトの分析は、実証的とはとても言えない。
それは、書物に「記載されている」記述だけを根拠にするのではなく、むしろ書かれている記述に潜むちょっとした
齟齬を掘り返して、書物に「記載されていない」記述を明らかにしようという方法論を取っているからである。
だから、フロイトの言うことが本当かという問いに対して、正当な判断を下すのは非常に難しい。
それでも、
語られたことではなく、語られていないことに傾聴するというフロイトの姿勢には、学ぶことが多いと僕は思う。
面白い本である。