ミラノ空手師範のブログ

イタリア ミラノで琉球少林流空手道を教えています。
日々の稽古で気づいた事を綴っていきます。


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「賢者の書」という本をご存知だろうか?

この本には9人の賢者が出てくるが、

9番目の賢者がこんな風に言っている。

「人生において欲しい物を手に入れるためには、

手に入れたいと思うものを与える側にならなければならない」

これは本当に的を得た言葉だなと思う。

ある番組を見ていたら、ダウンタウンの松本人志さん(以下、マッちゃん)が出ていて

「ボクは三度の飯よりお笑い大好きなんです。

だから今度もし何になりたいって言われても、

ボクにはお笑いしかないんです」と、、、、


これを見たとき「マッちゃん、流石だな~」と感心した。

これ先程の賢者と同じこと言っていると気付いた方どれくらいおられるだろう?

普通、お笑いが好きな人っていうと

テレビで漫才見たり、

お笑いの寄席を見に行くことが好きな人を一般的に想像するのではなかろうか?

しかし、心底お笑いが好きなマッちゃんは、

笑う側より笑わせる側の方がもっとずっと面白いということが解っていたのである。



うちの門下生の中にも

「師範、どうやったらもっとモテますかね~」と相談してくる子がいる。

誰かに好かれたいのなら、まずは自分の方から誰かを真剣に好きになりな!!

というアドバイスをした。



またしても空手の例えで申し訳ないが、

黒帯になると

「このごろ指導ばかりしていて、自分の稽古が全然できてない、、、」という人がいる。

それはおかしな言い草と私は考える。

空手は教える側にまわってこそ真の技の意味、深さ、難しさを知ることができる。

だから、教えてもらう立場以上に、

教える側にまわることは自分の稽古になるということ。



実は多くの人が考える「もっともな事」の逆の考え方の中にこそ

真実が潜んでいると私は思う。

難しいの~








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いろんなところで言われているのが

「子育てにルール」はないという事。

しかし、そう言いながらも「子育てのHow to本」は目まぐるしい勢いで発行される。

ルールはないといいながらもそれだけ悩んでいるご父兄が多いのであろう。

私はイタリアの空手道場で4組の双子を指導した。

最初は双子なのでやる動作、考える事すべてコピーみたいなんだろう、、と思っていたが

一卵性の双子は確かに顔は見分けがつかないが、

性格はかなり違うということが解った。

同じ環境で同じ時間を過ごしていながら

性格に差が出てくるということは、

親が期待したとおりに必ずしも子供は育たないということ。

やはり子育てにルールなど存在しない!!

加減乗除のルールにのっとれば導かれる答えは1つ

といった算数の世界と子育ては全く違うと言える。

子育ての世界では

1+3=-8(よかれと思った事が子供を傷つけたり)、

2-6=9(言い過ぎたと思ったらやる気満々になったり)、

3×5=0(もの凄い期待してたら、全然結果につながらなかったり)

ま~、いろいろである。

だからこそ面白いのだが、、、、

若いお母さんにとっては、結構不安なようである、、、、。

先程も述べたが、同じ環境で同じように育てたはずの双子でも

性格はかなり異なってくるが、

「性格」とは「個性」なので、むしろ画一的に育つ方が気味が悪い。

私は毎年日本に帰国してスーパーに並べられた野菜や果物を見て違和感を感じる。

均一化されたサイズと均一に保たれた味。

ここイタリアでは90度に曲がったキューリは普通であるし、

トマトはサイズも色もバラバラ。

しかし、日本と決定的に違うのは

2mくらい離れたところでも、トマトの青くさい匂いがプーンと薫るという点。

とにかく、薫り、味全てが日本のものより強いのである。

見た目ではなく、中身で勝負といったところか、、、、

話がだいぶ逸れてしまったので元に戻すことにしよう。

「子育て」といってもじつはいろんな意味合いがある。

・勉強が出来ること

・性格のいい子

・礼儀正しい子 等々

沢山の家庭のお子さんを見てきて、子供の数だけ性格は異なるが、

1つだけ子育てに成功している家庭とそうではない家庭を見分けるルールがある。

それは「あいさつ」がちゃんとできるかどうか、、、


この1点。

ざっくりと私見を言わせてもらうと、

きちんとした挨拶ができる子は、一般的に礼儀正しく、性格もいい子が多い。

そして勉強に関しても総じて良く出来る。

同じ環境で育った兄弟、姉妹でも、きちんとした挨拶ができるかどうかで差がある。

もし、お子さんが正しい「あいさつ」を出来る子であるならば、

子育ては90点以上と思っていいと私は考える。

以前、私の会社で高卒の従業員を役員に抜擢したことがあった。

役員会では全員の反対を受けたが、結局押し切って役員に昇格させた。

何故か?

社内で一番元気のいい「あいさつ」をし、

何よりとても強い「生命力」を周りに発散させていたからである。

案の定、抜擢後の彼の業績は群を抜いていて誰も追随出来なかった。

何が言いたいのか?

極論!!

気持ちのいい「あいさつ」だけしっかりできるような子に育てさせすれば、

他にいろいろ考える必要など無いということ!!

いつもながら私の考えは極端じゃの~








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うちの道場は稽古の前にはしっかりとストレッチの時間を割く。

空手は「極み時」において最大の力を1点に伝達するので、

十分なストレッチなくしていきなり最大の力を繰り出したら、

筋肉も筋も痛めることは必至。

よく大道芸で風船をふくらまし、動物の形にするピエロがいるが、

かれらは必ず風船を膨らます前に風船のゴムをシゴく(伸ばす)

そうすることで、ゴムにしなやかさが生まれ割れにくくなるためだ。


本題に入りたいと思う。

日本の教育はなぜ生徒達に各科目がどのように進むのかを俯瞰で見せないのだろう?

たとえば、社会科。

小学3、4年生で自分たちの住んでいる町、市、県のことを学び、

5年生では自分の住んでいる地域から飛び出し日本各地のこと学ぶ。

日本の全体像を把握したところで、6年生からは世界全体を学ぶステージにはいる。

こんな簡単なガイドラインなのだが、、、、

殆どの生徒が理解してない。

なので、各学年で与えられた教科書をもらって、

各単元毎の「ぶつ切りの情報」を頭に詰め込んでいく、、、。

こんな場当たり式の勉強なんて面白い訳がない。

しかし、こんな簡単なガイドラインだが、

3、4年生ではまず自分の身の周りの地域のことを学びますよ。

そして5年生になった、日本各地は自分の地域とどう違うのか学びますよ。

6年生になったら、君たちがえっと思うような世界各地について学びますよ。

と伝えくれれば、頭の中にしっかり体系図ができるので、

知識が頭の中にきちんと整理した形で記憶することができる。

きちっと整理されているので、引き出すのも簡単だし、

何より「知識を詰め込む」という受動的なスタイル

次にどういうステージに進むのかを知っているというだけで、

「コレコレに関して知りたい!!」という勉強に対するスタイルが能動的になる

このスタイルの差による能力の違いは歴然と結果に現れる。

国語にしても、数学にしても理科にしても同じ。

小学生であれば6年間、中学生あれば3年間で

各科目がどのようにに進んでいくのかを、

入学時点で先生は時間をかけて教えるべきである。

このガイドラインが解れば、たとえば社会では6年から歴史の勉強が始まるが、

その前にストレッチとして歴史漫画を4、5年生になったら読んでおけば

授業が楽しくてしかたない。

しかし、ストレッチなくいきなり6年生から歴史に触れる子は

人名を覚えるだけでも大変なため、歴史そのものが嫌いになる子が多い。

また6年から世界の地理を学ぶと解っていれば、

5年生になった時点でストレッチとして

トイレにいろんな名産やデータが記載された世界地図を貼っておく・・・とか

いろいろ準備(ストレッチ)が出来る。

世界地図を毎日眺めていれば、

資源の豊富な地域とその隣で資源のない国の間では戦争が耐えないことも理解できるし、

人種の分布図を眺めることで、宗教による紛争も自ずと見えてくる。

そういうことが解った上で先生の話を聞くと

いかに授業が楽しいものかというのが解るものだが、

各科目、単元事の時間は割かれているが、

一番大切な大局的な視点から科目全体、

あるいは違う科目でありながら科目間に面白い相関関係があるということを

教える時間が設けられていない。

非常に残念である。

人生も同じ。

グランドデザインを持たず、

日々やらなくてはいけない事柄に忙殺されていて、

時間ばかりが経過している人があまりに多い。

しかし、自分がちゃんとした人生のグランドデザインを描いているのなら、

今の自分の仕事、勉強が目的にたどり着くための

どの時点の作業なのかを理解しているので、

準備(ストレッチ)をしっかりした後で行動するので無駄がなく、やりがいもある。

結果として、仕事、勉強に対する不満もない。

何にしても、ストレッチを十分することにより、

パフォーマンスは飛躍的に上がるということ。

ストレッチをやるには、

今から自分は「何」をするのか?をまずは認識することから、、、

頑張ろう!!


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私は生き方に自分なりの「美学」を持つべきだと思う。

「美学」を持たなくても人間、生きてはいける。

しかし、例えば学生であれば「生徒会長」

部活であれば「部長」

会社であれば部下を持つ「上司」のような立場にある人は

自分なりの「美学」を持つことは大切だと私は思う。

私の場合、幸いにも私が所属する空手の団体の空手道訓が

私の「美学」にぴったりと一致している。

人生において我々は幾度となく岐路に立たされ選択に迫られる。

人間はどうしても弱い生き物なので、

「美学」という確固たる

指針軸を持たないと誘惑の方に流されてしまいがちである。

想像してみてほしい、

漂流しやすい船の船長に部下は乗り込もうと思うだろうか?

知らずにそんな船長の船に乗り込んでしまった場合は、

部下は次の港で他の船に乗り換えようと考えるのが自然である。

一方で、どんなに海が荒れ、

船が座礁するかも知れない状況になったとしても、

自分のことより部下の安全のことを第一に考え、

決して最悪な状況でも決して最後まで諦めない不屈の精神を持った船長であれば、

航海で命を落とすかもしれない場面でも部下は納得して

船長と運命を共にすることができる。

その信頼感というのはどこから生まれてくるかというと、

上に立つ人がどういう「美学」を持っているかに大きく関わっている私は思う。

「美学」をしっかり持っていて、その軸が一切ぶれない人と判断されれば、

その人が日頃、飲んだくれようが、

馬鹿なことばかり言っていようが

そんなことは本質ではないのでこのようなことで信頼関係にヒビが入ることはまずない。

しかし、自分の立てた「美学」に少しでも「曇り」や「嘘」があるとしたら、

部下との信頼関係は一瞬にして壊れる。



私の理想は湖畔を泳ぐスワンである。


水面下ではバタバタ水かきで漕ごうとも、

水から出ている部分は余裕で遠くの景色を眺めながらすーーーっと滑るように移動。


こういうジタバタを見せないのも上に立つものの「美学」ではなかろうか?

「美学」の捉え方、持ち方は人それぞれ、、、

できれば我がイタリア本部の小さな門下生にも是非「美学」を持ってもらいたい。

どうしたもんだろう・・・

こんなのはどうだろう?

「恥ずかしいことはしない!!」

「他人から後ろ指を指されるようなことはしない!!」

「人に迷惑をかけない!!」


つまり「恥」を美学の軸にするということ。

これがストンと腑に落ちれば、

兵庫県の県議員のような不様な釈明会見をすることは「恥」であり、

国民の代表として選ばれた政治家が議会で低俗なヤジを飛ばすことも「恥」であり、

働けるのに日々パチンコ通いして働かず生活手当を受給することも「恥」であり、

親が死んでもそのまま放置し年金を受け取り続けることも「恥」であり、

目の前に年配の方が立っているのにスマホに夢中で席を譲らないことも「恥」である。

すべて「恥かしいこと」がどうか?という単純なフィルターで理解することができる。



では最後に私の人生訓

「私の生き方は常に礼に始まり常に礼に終わる」

「私の生き方は常に己を見つめ、常に己を正し、常に己を磨くもの」

「私の生き方はどんな人をも家族のように愛し、マイナスの感情に打克つもの」

「私の生き方は親、先祖を敬い、世のため人のために惜しみなく尽くすもの」

「美学」の軸はブレたことが無いが、

まだまだその道のりは遥かに遠いの~。










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50歳を過ぎると刻一刻と過ぎていく時間の重みを嫌でも感じる。

イタリアに住んで8年になるが、

やはり外で生活していると日本のいいところも悪いところも客観的に見えてくる。

日本人は体裁を他国よりかなり気にする。

その点、イタリアは体裁よりも個人の感情、考えをストレートに打ち出す。

なので職場や学校でお互い言いたいことを言って険悪なムードになるというのは

日常茶飯事である。


その点、日本人はその場の体裁を保とうと意識が働くので

ちょっとぐらい腹が立っても我慢する。

大人であればさらに「苦笑」というテクニックも持っているので

言い争いなんてことはよっぽどじゃないかぎり起きない。

なので、イタリア人がガツンと言ってきた場合でも、

日本人は「苦笑」というテクニックを使うので、

イタリア人からすると緊張の場で「笑顔」を見せる日本人は不気味な民族として

映っているのではなかろうか?

私はどっちが正しいのか?という白黒決着つけるつもりなど毛頭ない。

ただ、日本人はもう少し言いたいことを言ってもいいのではないか?

イタリア人はもう少し我慢するということをした方がいいのではないか?_

とは思う。

日本人は「自己の意見」よりも「場」を大切にするから、

気に入らないことがあれば自分の腹の中に納めてしまう。

しかし、腹に納め外に発散しないため

「内心ハラワタが煮えくり返る」というマイナス感情を

内面に持ち続けてしまう人が少なくないのではなかろうか?

他方、イタリア人はバーンとお互い意見をぶつけ合い、

ときには喧嘩にまで発展するものの、

翌日は全く忘れてケロっといつも通りの関係にもどっているとことは普通にある。

日本人のような対処の仕方は大人的であり、

イタリア人のような対処は子供的と捉える人が多いが

私は果たしてそうなんだろうか?と未だ答えが解らない。

さて、冒頭に戻るが、

50歳を過ぎると本当に時間の経過が早く感じる。

ならば、できるだけ残された時間を有意義に過ごしたいと思っている。

どうするか?

私の出した答えは「正直に」そして「本音」で生きるということである。

しかし、正直に生きたり、本音を語ると

みんながみんな私と同じ考え、生き方ではないので、

中には「閉口」したり、つき合いにくい人だな~と思われてしまう場面が出てくると思う。

近頃はそれでいいと思っているし、

むしろそれが自然な姿だと思っている。

日本に1年に一回帰るが、その時に肌で感じるのは

人間関係が非常に表面的で浅いなぁ~ということ。

漏れ聞こえてくる日本の営業マンの会話の中には

「社交辞令的な会話」が必ず含まれている。

出来ることは出来る!!出来ないことは出来ない!!

好きなものは好き!!嫌いなものは嫌い!!

いいものはいい!!ダメなものはダメ!!

とストレートな物言いをしてはダメなのだろうか?

私はもうビジネス社会を離れて10年以上経つので、

私の経験則など全く通用しないかも知れないが、

私はビジネスにおいて一切社交辞令的な会話はしたことがなく、

一部上場企業の社長にでも言いたい事は正直にぶつけてきた。

それで、「おまえは出入り禁止!!」なんてなったことは一度も無い。

言いたい事ばかり言う若造なのに、

みんな忙しい時間をわざわざ私のために割いてくれていた。

結局、何が言いたいのか、、、、

相手のことを気遣って「社交辞令」の会話をするのは、

相手の事を思っているようで、実は薄っぺらな時間つぶしの会話に過ぎないということ。

本当に相手の事が好きで長くお付き合いしたいと真剣に思うのであれば、

本音(真心)でぶつかるべきである。

とにかく、正直に本音で生きればいいのである!!

今回は簡単じゃの~!!

ありのままだから・・・・






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