「季節に喩えるなら『秋』」なんて女の子に評されるぐらいだから、 僕はどちらかといえば地味な男なんだろう。そのせいか、お酒の席などで年上の方々から次のようなことを言われることが多い。

「若いうちはもっとハメを外して遊んだ方がいいぞ。おれなんか若い頃は……(後略)」


「男の子は若い内に派手に遊んどかないと駄目よ。若い頃固かった人は、いい年になってからかえって変に女遊びを始めたりして始末におえないからね(30代女性・既婚)」


 ふうん。まあ、分からないでもないし、間違った意見ではないのだと思う。しかし、正面切って「もっと遊べ」といわれても今ひとつ説得力がないのも確か。過去に遊びすぎた人の自己弁護のようにも聞こえかねない科白なのだ。


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 こういうときに、ちょっとしたレトリックを使うことで、同じことでもより尤もらしく響かせることができる場合がある。たとえば、こんな言い回しがある。


 花のハデを経ざれば、実のジミは来らず。気障も花なり、厭味も花なり、青年は寧ろ欠点あれかし。


 どうですか? 小唄じみた粋な調べもなかなかダンディだし、花と実という比喩も非常に的確で鮮やか

だと思うのですが。こういう風に言われると、なるほど、そういうものか。と納得してしまいそうになる。


 この絶妙な警句を書いたのは、斎藤緑雨(りょくう)という人である。明治時代の小説家だが、今ではあまり有名であるとは言えない。しかし、存命中は漱石以上の警句の名人と評された人であり、かの芥川龍之介も非常に高い評価を下している。芥川曰く、明治の文学者の中で最高の文章家は、尾崎紅葉、樋口一葉、そしてこの斎藤緑雨の3人だという。彼の終生尊敬してやまなかった漱石と鴎外の名が外れているところが面白い。芥川独特の文章美学の伺い知れるエピソードである。


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 残念ながら緑雨の小説は大して面白くないし、文学史的にもさほど価値はない。この人の才能は専ら先に紹介したような短い警句や軽いアフォリズムに発揮されたのだ。そしてその分野での彼は、恐らく日本文学史を見渡しても類を見ないほどの実力者だ。


 大体、日本語というのはもともと情緒的な言語で、切れ味の鋭い警句をつくるのには適していないところがある。そのせいか、まとまった分量のアフォリズムを書いた作家というもの自体が日本にはあまりいない。パッと思いつくところでは清少納言(もちろん『枕草子』のことだ)、芥川龍之介(『侏儒(しゅじゅ)の言葉』)といったところか。


 レトリックの天才・三島由紀夫が小説の中で連発する警句などはなかなか小気味の良いものだが、アフォリズムを単体で発表したことはあるのだろうか? 寡聞にして知らない。


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 さて、せっかくだから他にも幾つか緑雨の警句を紹介してみよう。まずは社会風刺から。緑雨は社会に満ちるあらゆる虚偽を敏感にかぎつけ、笑いのめさずにはいられない男だったらしい。


○按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵(しゅうかてき)せずと知るべし。


【意味】
 思うに筆は1本である、箸は2本である。少数のものが多数のものと争っても勝ち目はないことを理解しておくべきである。(思想よりも生活上の必要の方が強い。つまり、詩人や文学者も所詮は生活のためには理念を捨てなければならないものだ)


【解説】
 いかにも緑雨らしい、ニヒルな毒舌。彼は全ての偽善を憎む反骨の文士だった。大衆に迎合した作品を書いてもてはやされている作家への批判が込められているとも言えそうだ。筆と箸という鋭い比喩が、まさに警句の中の警句だ。


○偽善なる語をきく毎に、偽りにも善を行ふ者あらば、猶可ならずやとわれは思へり。
 社会は常に、偽善に由(よ)りて補維(ほい)せらるるにあらずやとわれは思へり。


【意味】
 偽善という言葉を聞く度に、たとえ偽りであっても善行を行う人がいるのならやはり結構なのではないかと私は思う。社会は常に偽善によって守られているのではないかと私は思う。


【解説】
 斜に構えているけれど、言っていることは案外、複雑で深いのではないか。ここで槍玉に挙げられているのは「偽善を嘲笑する偽善者」ということになるのだろう。「あんなの、所詮は偽善じゃん」と醒めがちな現代人への批判にも聞こえるし、そもそも社会の成り立ちが「偽善」であるという指摘には何かはっとさせられるものがある。


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 最初に紹介した「花と実」の警句に似た種類の人生訓としては、こんなのがある。


○一歳の者を以って、十歳の者に比較すれば、実に十分の一なれども、それよりたがひに十年を経たりとせよ、十歳と二十歳は、わずかに二分の一のみとは、或道(あるみち)の先輩がしたり顔なるに激したる人の言なり。興ありといふべし。


【意味】
 「1歳の者を10歳の者と比較すれば実に10分の1しか生きていないことになるが、10年経ってみなさい、10歳と20歳とではわずかに2分の1しか差はないではないか」とは、ある道での先輩がしたり顔に偉そうにしているのに腹を立てた人の言葉である。面白い話である。


【解説】
 年を重ねる毎に、年長者との経験の差は少なくなっていくもの。時には自分よりもずっと豊富な経験を積んできた若者に出会うことだってある。そういう感慨をユーモラスに書いている。


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 大して深くはないけれどやけにうまい冗談も言う。たとえばこんな風に。


○諺(ことわざ)に曰く地震雷火事親父と、是れ(これ)ただ危険の度を示したるに過ぎず。 
 苦痛の量よりすれば、親父火事雷地震也。


【解説】
 見たまんまの冗談だ。「苦痛」の筆頭に「親父」が上がっているところが何とも可笑しいのだが、確かに後に続く火事→雷→地震という順序も確かに正しい気がしますよね。


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 また、大人には情け容赦なく斬り付けた緑雨も、子供にはやさしい一面があったようだ。こんな短文が残っている。


○牛は犬は猫はと問ふに、もうと啼く、わんと啼く、にやあと啼くと迄(まで)は尋常(なみ)なりしも、戯れに虎はと聞けば、慧しげ(さかしげ)なる女の児のしばらくは小さき首傾げ(かたげ)居たるが、ややありて、とらあと啼く。


【解説】
 どうということもない日常の一場面だが、愛らしい珠玉の小品だと思う。なんとも言えない温かみがにじみ出ているのを感じていただければと思う。文語調ならではのユーモラスな雰囲気が素晴らしい。「とらあ」という舌足らずでかわいらしい女児の声が聞こえてくるようだ。


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 ちなみに緑雨は色町に精通した遊び人でもあったので、その経験を活かした艶っぽい短文もたくさん書いている。その割にはどうも女嫌いのところがあったらしくて、37年の短い生涯を独身で過ごした。女性に関する巧みな警句も数多く残しているが、あまりにも辛辣過ぎて女性の読者が気を悪くされると思い、あえて今回は載せなかった。

 

 こちらの本に緑雨の代表的な警句・小説・エッセイがまとめられている。全部が名作というわけでもないので強くは推さないが、文語体の薫り高い文章に興味のある方は腕ならしに読んでみるのも面白いのではないかと思う。僕も腰を据えて読むことはあまりないけれど、ときどきパラパラとめくってはニヤリとしている。芥川龍之介や丸谷才一が絶賛しているだけあって、文章はべらぼうに巧いです。

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筑摩書房 明治の文学第15巻 『斎藤緑雨 』
斎藤緑雨