ゲシュタルトからの連想

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ゲシュタルトという言葉は以前から耳にしたことがあるが、どういうものか知らないままにすましてきました。心理学に詳しい人の言うには、ドイツ語の形とか状態の意味なんだそうです。絵画を眺めた時に、近接した部分に緑と茶色の部分があるとそれを一本の木として認識する、見ようによっては画布の上に緑と茶色の絵の具がおかれているだけかもしれないが、それらを統合された一本の木の形として見るときに、それをゲシュタルトというわけです。

 

生まれつき盲目であった人が、治療によって視力を獲得しても、その直後は何も見えないんだそうです。正確に言うと見えていても何が何だかわからないということらしいのです。人が視界の中に入ってもそれを人と認識することはできない。輪郭線が見えても、その内部と外部の区別がつかないのでゲシュタルトを構成できないということらしい。視界の中のパターンが読み取れない、いわゆるカオスになっているのでしょう。

 

ゲシュタルトというのは視覚における"概念"というべきもののような気がします。逆に言うならば、概念は思考空間におけるゲシュタルトと言えばよいでしょう。視覚の中でゲシュタルトを見出せなければ視的認識能力はなくなり、概念がなければ思考は不可能になるでしょう。そういうことから我々は無意識のうちに、視野の中のパターンを常にチェックしてゲシュタルトを模索しているはずです。時には間違ったゲシュタルトをでっちあげたりします。道端の縄が蛇に見えたりすることがあります。いわゆる錯視ですね。

 

星座について言いますと、星の分布のパターンからゲシュタルトを形成しているわけで、恋人同士が星座を見ながら語り合っているというのは、ロマンチックでなかなかいいものです。これは錯視というようなものではありませんが、星座を構成する各星々は我々地球人には近接しているようにも見えてもそれは見かけ上に過ぎません。いわば、潜在的なゲシュタルトへの志向が強引に作り上げた統合に過ぎない訳です。

 

思考における概念形成につても同じようなことが起こりえます。思考するためには概念形成がどうしても必要です。そのため我々の潜在的な、概念形成への志向性はとても強い。時には関係のない星を統合して星座を作ってしまうように、強引に概念を作ってしまうということも考えられます。いったん概念ができると思考は概念による道筋が出来てしまいます。ゲシュタルトができると視覚的な認識力が安定するのと同じことです。
 

私達の学生時代には、社会の動きを何でも階級闘争という言葉を使用して論じるということが流行っていました。近頃は心理学をかじった素人が、やたら「それはエディプス・コンプレックスだ」などと言い出す風潮もあります。
階級闘争とやエディプス・コンプレックスが間違っているというわけではありませんが、概念を乱用して楽な思考に流れるというのは感心しません。ときには、その概念がどのような要素を統合したものであるかを良く分析し反省せねばならないと思うのです。

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誕生日について

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昔の日本人は誕生日を祝うという習慣はありませんでした。なぜなら歳を取るのは元旦と決まっていたからです。いわゆる数え年というやつですが、ぼくが小学校へ入る前までは、年齢は満年齢ではなく数え年で表すのが一般的であったように思います。学校の年度は4月に始まるので、小学一年生には8歳と7歳の子が混じっていることになります。それで、いまでいう「はや生まれ」は「七つ学校」、「遅生まれ」は「八つ学校」とぼくたちの地方では表現していました。他の地方では「七つ入り」、「八つ入り」というところもあったようです。

 

そんなわけで、昔の日本人は元旦に新年と加齢の祝いをまとめてやっていたわけです。当然ぼくもお誕生会などというものを祝ってもらった記憶がありません。同世代のほとんどの人はぼくと同様だと思います。それでもアメリカ文化はじわじわと日本に浸透してきます。小学校3年の時に、お金持ちの同級生のお誕生日会に招待されました。あまり食べたことのないケーキやらご馳走をいただいたのですが、「へぇーっ、こんなことやるんや!」と奇妙な感慨に襲われたものです。

 

散々ご馳走になったのですが、誕生日プレゼントを持たないでいったことに思い至ったのはずっと後年のことです。まあ仕方がありません、バースディ・パーティの概念そのものがなかった時のことですから。

 

自家製食パン ( ちょっとこがしてしまった(-_-;) )

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シンギュラリティ

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シンギュラリティという言葉をよく聞く。技術的特異点のことだという。

2045年ごろに人工知能(AI)が人間の能力を超え、人間と機械が融合し、後戻りできなくなる日がおとずれるらしい。全く何のことを言っているのだかわからない。「人間と機械が融合」っていったいどういう状態をいうのだろう? ある意味、現在でも人間と機械は融合しているのではないのか? 後戻りできなくなるって、いったい何が? 今なら後戻りできるのか? いつだって科学の進歩は、時代の後戻りを許したためしはないのである。

 

一番わからないのは、「人工知能(AI)が人間の能力を超える」ということだ。なにをもって「人間の能力」を超えたと言えるだろう? そんなことを言えるには人間そのものを分かっていなければならないはずだ。ところが我々は人間のことをあまり分かってないのである。

 

人間の持っているいろんな能力の中で、コンピューターも持っているのは「論理」だけである。論理に関してなら、コンピューターはその速さと正確さにおいて人間をはるかにしのいでいる。適切なプログラムを書いてやれば、コンピューターはどんな難しい数学理論でも理解できる。

 

しかし、難しい数学理論を理解できるといっても、コンピューター自身が新しい理論を作り出すということはない。コンピューターは価値観を持たないからだ。どういう定理を作り出すことが価値があるか自分自身ではわからないから、そこはどうしても人間が誘導してやる必要がある。

 

今のところコンピューターが持っているのは論理しかない。今後人間そのものに対する研究が進歩して、人間の感情や衝動をすべて論理に還元できるというようなことがあるならば、コンピューターが人間を超える可能性は出てくるだろう。しかし、人間の心については今のところ全然わかっていないのである。

 

シンギュラリティなどという言葉を持ち出すと、そこに何らかの実体があるかのように思えてくるが、話は初めからアバウトで曖昧である。何を根拠に2045年と言っているのだろう? 科学は新発見が集積していけば累乗的に進歩するものである。産業革命以後は技術的特異点だらけなのだ、当然2045年付近でなんらかのイノベーションがあることは予想されるだろうが、それは今更取り立てて言うほどのことではないような気がする。

 

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私は中学校で、アメリカの正式国名の日本語表記は「アメリカ合衆国」と教わった。ところが、最近では「アメリカ合州国」という表記をいろんなところで散見する。

ある程度の年配の方なら、本田勝一氏の「アメリカ合州国」しいうルポルタージュがこのことの発端であることはご存じだろう。「合衆国」という表記は「いろんな人種・民族が融合してできた国」であるかのようなイメージがあるので、アメリカの現実を反映していないということを強調するために、あえて「合州国」としたという趣旨のことを述べていたと記憶している。 ”United states” はあくまで単に「合州」であり「合衆」ではないという趣旨である。

アメリカの各”state”を日本語では「州」としているのだから、”United states”を「合州国」とするのは一応筋が通っている。ディープ・サウスをルポしたその現状に鑑みれば「合衆国」という表記はふさわしくない、という主張に「ごもっとも」という感慨を抱いたものである。

しかし、本田氏の「アメリカ合州国」がすばらしいルポであることは間違いないが、「合衆国」の解釈についてはどうも本田氏の勘違いである公算が大きい。

「合衆国」をウィキペディアで参照すると、いろいろな説があるようである。

① 「合衆」が「共和制」を意味するとする説。
② 単に合州国と書くべきところを合衆国と、誤って表記したという説。
③ 「衆国」が共和制の国であるとする説。
④ 「合衆」が「複数のものを合わせてひとつにする」という説。
⑤ 合わさった衆(多数の)国(state, 州)とする説。

私が個人的に支持するのは⑤の「衆国の集まり」である。一番シンプルな”United states”の直訳であると思うからである。(もしかしたら最初に教わった説だからかもしれない。) いずれの説をとっても「合衆国」には「人種・民族が融合した国」という意味はない。そういう意味では本田氏は的を外しているが、「アメリカ合州国」の作品としての価値は棄損されるものでないということは強調しておきたい。
多和田洋子さんの「エクソフォニー」という著書の中で、「翻訳語成立事情」(柳父明/著)が紹介されている。それによると、「美」という言葉はオランダ語の"Schoonheid"の翻訳語だというのだ。

日本人は抽象的な思考をしない民族であるとはよく言われるが、もともとの日本語である大和言葉には抽象概念が乏しい。哲学用語などももともとは仏教用語として伝わった漢語が多い。そして、西洋思想に触れるようになってからは、その漢語をもってしても足りなくなった。そこで、幕末から明治にかけて、社会,個人,自然,権利,自由,彼・彼女,恋愛,哲学などの和製漢語が作られた。「美」という言葉もその一つだというのである。

それにしても、「美」のように重要な抽象概念が比較的最近まで日本にはなかったということが意外に感じられる。が、たぶん「美」という言葉が重要だと感じるのは、西洋的な思考になれた我々が今感じることなのだろう。

≪しかし、「美」という単語は構えが大きいだけに、身体性が貧弱だ。『枕草子』の類聚的章段に現れる「心ときめきするもの」「あてなるもの」「めでたきもの」「なまめかしきもの」「うつくしきもの」「とくゆかしきもの」「心にくきもの」などの様々な形容詞を見ていると、その知的、感覚的繊細さに比べて、「美」はコンクリートの塊のように感じられる。人間の神経に寄り添うような形容詞一つ一つのまわりに映像を集めていくのが枕草子的な発想だとすると、「美」などという言葉がどのような文学を可能にしてくれるというのか疑問に思う。≫(「エクソフォニー」P.122)

おそらく「美」という言葉は文学そのものに対しては貢献していないのだろう。もしかすると、日本人は抽象的思考をするようになった分だけ、枕草子にある繊細で知的な美的センスを失ったのかもしれない。

上の引用部に続く多和田さんの指摘がまた興味深い。

≪また、『花伝書』の「花」という単語の使い方も面白いと思う。存在するのは「美しい花」か「花の美しさ」などといつまでも議論していないで、「美」を「花」と訳してしまってもよかったのではないか。≫

そのころは「美」という言葉がなかった。だから世阿弥は「花」という抽象概念を作ったのである。「『美』を『花』と訳してしまってもよかったのではないか。」という指摘で初めて気が付いたのだが、「美しい花がある。花の美しさといふ様なものはない。」という言葉は「花」が物質名詞であって初めて意味を持つ。小林秀雄はもしかしたら陳腐なことを言ったのかもしれない。
浄土真宗とキリスト教はよく似ているとよく言われるがどうだろう。阿弥陀如来を神とみなせば一神教であり、外形的には似ていると言える。しかし、ユダヤ教を母体とするキリスト教においては、神と人とは契約関係にある。


契約というからには、救済の見返りとしての義務があるわけで、人は神の意志に沿うよう善き行為を行わねばならない。この辺は自力行為では救われないとする浄土真宗とは教理的には全くかけ離れているように見受けられる。


阿弥陀如来は一切見返りは要求しない。広大無辺な慈悲の心ですべての人を掬い取ろうとする。「わが名をとなえよ、われを呼べ。しからばたがいなく、わが許に迎 えとるぞ」 名前を呼びさえすれば必ず助けてくれる、ちょっと都合がよすぎるくらいの有難さである。

おおざっぱに言えば、キリスト教は父性原理、浄土真宗は母性原理といえるかもしれない。


半世紀近く前、私は臨済宗の寺で修行の真似事をしていたことがある。そこでの坐禅と作務の間に老師は時々お茶に誘ってくれることがあった。ものを知らない田舎者だった私は天下の師家に対して今なら絶対聞けないようなことを遠慮なしにずけずけと尋ねたものである。


私 : 「『南無阿弥陀仏』というだけで救われるちゅうんはホンマですか?」
老師 : 「本当じゃ」
私 : 「ほんなら坐禅なんかせんでもええのんとちやう?」
老師 : 「ただし本気で唱えんとあかんのじゃ。これが難しい。坐禅の方がよっぽど簡単じゃ」
私 : 「ふーん。ほならキリスト教と禅宗はどっちが簡単なん?」
老師 : 「まあ、宗教というものは極めればみな同じ所へ行く。しかしキリスト教だと、
人は永遠に神の奴隷にならんといかん。禅宗は自由でええぞ。」


最後は老師の我田引水のような結果になったけれど、結構本質をついているような気もする。たまに聖書を読んだりすると、一神教の神様というのは性格的にちょっと怖いというか底意地の悪い冷酷さのようなものを感じる。このことはキリスト教徒も無意識のうちに感じているのではないだろうか。南米はカソリックの盛んなところで、人々もとても信心深い。ことあるごとに「ノッサ・セニョーラ」という言葉を発するのだけど、この場合のセニョーラは聖母マリアのことだ。キリストや神よりもまずマリア様が前面に出て、信仰の対象がすっかりマリア様になってしまっているような印象なのだ。やはりキリスト教徒も母性原理の神様を欲しているということなのだろうか。

言葉の不安定さについて

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以前アメリカに向かう飛行機の中のことだ、入国のための申請書類を書くのに手間取っていた。その時はまだ海外旅行に慣れていなかったので、自分の持ってきたお土産などを申告せねばならないのかどうかを、その書類を読んだだけでは判断できなかったのだ。すると、私の戸惑っている様子を見かねて隣に座った親切な米国人青年が "Can I help you ?"と聞いてきた。思わず、"Yes"と答えたのだが、なんとその青年は書類の頭からそのまま読み始めたのである。私はそれほど英語が堪能ではないが、たいていの英文を読むことくらいはできる。英文が詠めないのではなく、内容が分からないのだ。書類の文章をいくら丁寧に読んでもらっても、私にとって何の足しにもならないのである。


おそらくこの青年にとって、英語の単語は意味そのものなのだろう。だから、ゆっくり読んで聞かせてやれば、このアジア人にも理解できると判断したのだろう。この青年に限らず、人は一般に「言葉=意味」の思い込みにとらわれやすいのである。


言葉の一つひとつにはそれぞれの意味する対象が初めから結びついているように私たちは思いがちであるが、言葉の定義は言葉によるしかない。言葉の習得は言葉を通じての経験に限られるのである。言語は公共のものであっても、各人の持つ言語空間は経験によって形成された個人的なものであることを忘れるべきではないと思う。


十数年前から若者の間で、「全然OK」という言葉が流行りだした。他人が自分と違う言葉づかいをすると人は気になるものである。「全然OK」に激しい拒絶感を私はおぼえた。「全然」は否定的なニュアンスで使用するものだと思い込んでいたからである。ところが、西田幾多郎の文章を読むと「全然」が肯定的な文章で頻繁に出てくる。明治時代には「全然」は通常の肯定文にも使われていたのだ。Wikipediaによれば、「全然」を否定表現で使うことが多くなったのは昭和になってからのことだという。


最近ある掲示板で、「コイン」の意味が問題になったことがあった。英語のCOINはもともと金属貨幣の意味であるが、遊技場のスロットルマシンで使用されるメダルを擬似貨幣という意味で「コイン」ということもある。すると、もともとのCOINの意味を知らない人がスロットルマシンで遊ぶと、「コイン」が円い金属板一般のことだと思い込むのは自然である。そのうちに、メダル=コインということになるかもしれない。


言葉の意味は浮遊するが、一度獲得した言語感覚に対する思い込みは激しい。言語によって思考するからには、言葉と意味の結びつきが強くなくては思考がスムースにならないからだろう。
しかし、時には自分の言語感覚を相対化することも必要である。言語のニュアンスの違いにこだわり、議論の入り口で熱くなっている例が少なからずあるのではなかろうか。

なぜ、『なぜ?』と問う?

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前回記事で私は、「この世界の成り立ちに関する、本当に根源的なことには因果関係は及ばない」と述べた。このことについてもう少し説明したいと思う。

根源的な問題とは「なぜこの世界があるのか?」というような問題であると思っていただければよい。近年は科学の進歩により、この宇宙が138億年前にビッグ・バンによって誕生したということが分かっているらしい。今後も研究の進歩とともに、宇宙誕生の詳細ないきさつが明らかにされることだろう。しかし、どれだけ科学が進歩しても、ビッグ・バンがなぜ起こったのかという問題が依然として残る。つまり、「なぜこの世界があるのか?」という問題は手つかずのままである。

もうひとつ「根源的な問題」の例を挙げるなら「脳内で起きている物理現象からどうして意識が生じるのか。」ということがある。いわゆる「意識のハードプロブレム」というやつである。「なぜ空が青く見えるのか?」と言い換えてもよい。科学は、波長が450nmの光が目に入ると「青色」が見えるということを教えてくれる。しかし、波長が450nmの光がなぜ青色に見えるのかということは教えてくれないのである。

いわゆる科学というものは、この世界のさまざまな現象からその秩序を抽出して法則を見出すものでしかない。現にあるこの世界がどのような秩序に支配されているかを探るものである。「なぜ世界がこのようであるのか?」ということと科学は初めから無縁なのである。ところがわれわれ人間には、なにごとも因果の枠組みの中でとらえたいという欲求がある。だから、つい「なぜ?」と問うてしまうのである。しかし、このような問いは問いを発した本人が、実は何を問うたかわからないのである。どのような答えがあれば満足なのかも見当がつかないこのような問題は擬似問題である可能性がある。

情報さえあればすべては因果関係の図式に還元できるという思い込みは特に西洋思想の方が強いようである。おそらくそれは一神教の影響だろう。神の主催するこの世界には隅々まで神の意思が行き渡っている。すべて神の目的に沿う必然のシナリオに従っているはずだ、西洋思想にはそのような刷り込みがあるのだろう。

そのように考えると、サルトルの「嘔吐」の主人公であるロカンタンがこの世界の偶然性に戸惑い吐き気を覚えた、ということも理解できるのである。必然の王国の囚人である彼には、自分自身が今そこにあることの「偶然性」からくる不安に耐えきれなかったのである。

この世界を必然だと思い込むと、現実の偶然性に対して不可避的に「なぜ?」と問うてしまう。どうしても偶然に対する不安や不条理に対する執着が避けられないのである。そこで仏教は、この世は所詮無常であると説く。無常というのは神による差配がない、つまり偶然ということである。したがって神による保証もない。そのような無根拠の世界を受け入れよと釈迦は説く。それが仏教的諦観である。

「この世界がこのようであること」に理由などない。特に禅仏教では、現前する世界そのものが究極の真実である、と説く。「空が青い」ということに理由はない。すでに「空が青く」見えている、そのことを疑うべきではない。そこに隠された真実というものもまたない。すべては現前しているままである。「あるがまま」を受け入れよということはそのようなことである。

元旦の朝

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シアトルに来てから十日ほどは全然お日様を拝むことはなかったのですが、年末から晴天続きです。せっかくのお天気を楽しむため外出しました。



ここは西シアトルのリンカン・パーク。海の向こうに見えるのはオリンピック半島の山並です。この辺の海岸はとても流木が多い。



アルカイ・ビーチからシアトルのダウンタウンの長め。真ん中に見える塔はスペース・ニードル。その向こうにカスケード山脈が見える。
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本年もよろしく

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明けましておめでとうございます。
と言っても、当地シアトルはまだ12月31日の午後三時半です。息子夫婦たちは朝の五時から起き出して日本のテレビの年越し番組を見ていたようです。日本の年越し風景を一通り見てから、出勤するという不思議な光景です。彼らの職場には年末年始休暇というのはないらしい。

シアトルはここのところ珍しく晴天が続いています。昨日はカスケード山脈がくっきりと見えました。


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