9条が泣いている

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憲法9条の3項に自衛隊を明記するという話が浮上しているらしい。正気だろうか?

 

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

これに第3項を追加すれば、第九条の中だけで内部矛盾をきたしてしまう。だって、第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とはっきり規定しているのだから、論理的に整合するためには自衛隊は戦力ではないということになってしまう。
そのような憲法を戴く日本国民全体の知的レベルが疑われることになりかねない。こんなトンデモ案を思いつく安倍さんは、もしかしたら頭が悪いのかもしれない。

 

今の若者からしてみれば信じがたいかもしれないが、私が小中学生であった昭和30年代においては、第9条の非戦の誓いは国是であった。第2次世界大戦の敗戦を通じて、日本国民のほとんどは、平和であることがいかなる戦争より勝ることを身をもって知らされたのである。「いかなる理由があっても戦争してはならない。」日本国民は自衛権をも放棄する覚悟をしたのである。尖閣や千島を取られてもいいのか? と言われても、戦争放棄とは、そういうところまで覚悟した上でのことであることはもちろんである。国土か狭く資源も食料も輸入に頼っている、日本は戦争をすることはできないと腹をくくることである。

 

ところがいつの間にか状況に流されて、軍事費ベースでみるならイギリスやフランスに肩を並べるほどの軍備を備えるようになってしまった。憲法には明確に交戦権の放棄をうたっているのに、「現実的脅威」の名のもとになし崩しに9条は凌辱されてしまった。

 

残念なのは、日本に9条の意義を理解する本当の政治家が育たなかったことだろう。「現実的脅威」を言いながら、憲法の範囲内でその「現実的脅威」に立ち向かおうとする政治家はいなかった。国民国家の枠組みを超えて、新たな市民社会を創造するという理念に従うならば、日本が軍備を持たないことの意義を近隣国家に認識させる必要があった。一定の国際理解が得られなければ9条の維持はできない。ロシア、中国、北朝鮮にはもちろん韓国にとっても、日本が軍備を持たないことはメリットになるはずだった。日本のような経済大国が軍備を持たないということは、世界の諸国にとってもいつか地球上から戦争がなくなる日が来る、という希望でもあったわけだ。しかし、そのような意義を他国に理解させようという努力は皆無だったのである。自ら進んでアメリカの走狗とろうという政治家に、そのような理念に対する理解などあろうはずもなかったからだ。

 

ともあれ、国是を変えるということならば、それなりに歴史への総括と新しい理念の提示をしなくてはならないはずだ。恋愛などにしても心変わりしたら、相手に2,3発頬を張られる覚悟でそのことを打ち明けなくてはなるまい。それが、ずるずるとつぎはぎだらけの解釈改憲したあげくに、論理破たんの3項追加とは情けない。

 

「9条を守れ」と言うと、右寄りの連中から「現実離れした平和ボケ」と揶揄される。しかし、原発を稼働させながら、北のミサイルの脅威を口にする連中こそ平和ボケだと言いたい。

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いい加減、加計学園問題にはうんざりしてきた。文部科学省内では「総理のご意向」文書が出回っている。前次官もそれは認め内容も真実だと言っている。なのに官邸はなぜか真実の究明に消極的であるならば、もうそれは「総理のご意向」があったとみなすべき事態のはずだ。なのにジャーナリズムの論調は甘すぎる。 

官邸の言い分では、文部科学省内で誰かが「総理のご意向」を勝手にねつ造して、行政を恣意的にコントロールしたということになる。それこそ由々しき問題で、総理からすれば徹底的にその張本人を追及して懲罰せねばならないはずなのに、安倍さんは全然そのことについては全然関心がないようだ。面妖なことである。 
 

安倍さんは李下において冠を正してしまった。そして、その冠の中には何も入っていないと口で言うだけで、一向に冠を脱いで見せようとはしないのである。

「アベ首相はうそをついている。」 はっきりそのように断定すべき時期だと思う。

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身体障碍者への偏見と性

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先日の朝刊に「性を大事にしたい」というタイトルのコラムがあった。身体障碍者でありコラムニストでもある伊是名夏子さんの記事だ。その冒頭の部分を引用します。

 

≪ 先日、一人で映画館を訪れたときのこと。長い階段があり、車椅子の私は劇場に入れません。入口の男性スタッフに「私を抱っこして、階段を移動していただけませんか?」とお願いすると、彼は「私でもいいでしょうか? 女性にしましょうか?」と聞いてくれました。
 その一言に、とても嬉しくなった私。だって障害のある私を女性扱いする人は、ほとんどいないからです。そんな心遣いのできる男性になら安心して身を預けられます。!…… ≫

 

ある人々が肩身の狭い思いで生きている。そのことに気づかないとしたら、それは恥ずべきことではないだろうか。

一般的に言って、身体障碍者の人々は謙虚である。「けなげでひたむき」というのが望ましい身障者像なのだろう。それに沿っているかぎり、人々は「えらいわねぇ。」と称賛してくれたりもするのだが、実はその裏に、「一丁前面をするな」という本音が隠されている。

 

昨年、「五体不満足」で有名になった乙武洋匡さんの不倫問題が世間に公表された。それ以来インターネット上ではバッシングの嵐である。試しに「乙武」で検索してみれば、人々のこの問題に対する関心がいかに高いか分かる。おそらく彼が健常者であればこれほど騒がれることはなかっただろう。同時期に不倫問題が持ち上がった落語家は、「船で東京湾を出たところ、そのこころは『航海(後悔)の真っ最中』でございます。」ダジャレの一言でけむにまいて済ませてしまった。ところが乙武さんの方は一年以上もたった今でもたたかれ続けている。

 

そもそも不倫問題は当事者だけの問題である。もちろん褒められたことではない。時には非常に深刻な問題にもなりうる。しかし、第三者にはなかなか実情の計り知れない問題でもあるのだ。この問題一つをとって乙武さんの人格を全否定するのは間違っている。「五体不満足」が世に出た時、今までのけなげでひたむきな身障者像に納まり切れない彼を見て、このような破格の人物を生み出した日本は先進国になりつつあるのでは、という感慨を私は持ったものである。身障者の枠を超えて前向きに生きる彼を社会はもっと大切にすべきだと思う。彼を正当に評価できるようになった時、日本は初めて成熟した文化国家であると言えるようになると私は思うのである。

 

週刊誌が不倫問題を取り上げるのは、それだけ人々の性への関心が高いからだろう。なぜか人は他人の性に関心を持つ。それは性が嫉妬というものを常にはらんでいるからに違いない。だから自分の利害得失に何ら関係のないことに口を出す。しかし、その正義面の裏には「障碍者が一丁前にセックスなんぞするんじゃない。」という邪悪な偏見が潜んでいることに気がついていない。

偽善面したパリサイ人には、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言っておこう。

 

マロニエの花が咲いた。

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哲人政治家

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今村復興相がまた失言をしたらしい。

【これがまだ東北で、あっちの方だったからよかった。けど、これが本当、首都圏に近かったりすると、莫大(ばくだい)な、甚大な被害があった。】 (毎日新聞より)

 

大臣になって舞い上がっているのかもしれない。為政者として人々を上から見下ろしていると、このような発言になるのだろう。被災した人々の苦しみに寄り添っているなら、絶対に出てこない言葉である。政治家としての見識を持ち合わせていない、飲み屋で偉そうに一席ぶっているおっさん以下のレベルである。

 

大臣と言っても小粒な人物ばかりの昨今だが、本日はかつて哲人政治家と呼ばれた田渕豊吉をとり上げてみたい。田渕は1882年に和歌山県御坊市の生まれた。つまり、私と同郷である。生家も私の生家とは同じ通りにあり、100メートルと離れていない。

 

造り酒屋の四男坊で、幼少のころから勉強が好きであったと聞いている。とくに英語が゜好きで、便所に辞書を置いて用を足す毎に単語を覚え、ページ単位に憶えるとそれを破り尻を拭いたという逸話が残っている。

 

早稲田大学の政経を経て、約7年間の欧米留学をしている。この経験によって日本を客観的に見る視点を獲得したと考えられる。1920年に衆議院議員となったが、良い意味でお坊ちゃんだったのだろう、決して俗に染まることはなく一貫してリベラルな姿勢を貫いた。その超俗的な言動から、田渕仙人とも哲人政治家とも呼ばれたのである。

 

関東大震災時における朝鮮人大虐殺事件の真相を追及する演説に対して、尾崎行雄は「日本国民の良心の叫びとして、わが国議会演説史にちりばめられた不滅の宝石であった」と絶賛したという。(ウィキペディアより)

 

彼は一貫して戦争反対を訴え続け、大政翼賛会が発足した後も無所属を貫き、東条英機の演説に対し痛烈なヤジを浴びせ続けた。そのため、不規則発言等により懲罰をうけること4回、議長による退場命令はその数知れずであったという。

 

残念ながら、1942年の翼賛選挙において落選して、政治家として無念の幕を下ろし、そして日本は敗戦への道をひた走ることになってしまった。

国会議員に落選したのち、誰かが田渕に御坊市長に立候補してほしいと頼みに行ったらしい。彼は「クジラが泉水で泳げるかあよ。」と答えたと言われている。豪放磊落な田渕らしいが、実際のところは健康を害していたのかもしれない。それからほどなく1943年に失意のうちに死亡している。享年60歳であった。

 

山下公園にて

一昨日はへたくそなエイプリル・フール記事を書いたりして皆様方の失笑を買っている私ですが、政界では私よりもっとセンスのよくないというより下司な冗談がまかり通っているようです。このような事態に、あるニュースキャスターが、「政界では毎日がエイプリルフール」と言っておりました。

 

こういう状況が一番子供の教育上よくないんではないかと思うのです。やれ道徳教育だの、教育勅語だの掛け声掛けていれば、日本人の品性が上がるというものではないようです。言っている当事者たちが見苦しい状態をさらしているのですから。

 

森友問題の本質は、政治家と結びついている人が、特別な恩恵を受けることができるのではないかということでしょう。そのことは誰もが感じていることであります。当然、政治家や官僚はそのようなことを否定しなければならないのです。

 

役人は自分の潔白を証明するために、この件についてのやり取りを開示しなくてはならない。なのに関係文書はすべて破棄したと言ってのける。八億円もの値引きをした土地払い下げに関する資料は、会計監査を受けなければならないと専門家は言う。関係資料は5年間保持しなければならないはずらしい。罰則規定がないからと都合の悪いものは処分(したことに)してしまう。官僚の思い上がりでしょう。

 

政治家は自分の潔白を証明するために、このような土地払い下げが正当なものであるかどうか、そして関係資料を破棄してしまった役所のあり方が良いのかどうか、それらのことに対して態度をはっきりさせなくてはいけない。もし、それが良くないと判断するのであれば、関係した官僚を追及せねばならないはずです。

 

①森友学園に対する土地払い下げが正当なものであるかどうか?

②関係資料を破棄してしまった役所のあり方が良いのかどうか?

 

予算委員会において安倍首相は上記2点について質問された時、自分は森友問題に関係していないというだけで、聞かれたことにはまともに答えることはしませんでした。質問が理解できないほど頭がわるい訳ではないと思うのですが、国会という公の場で堂々とぼけた答弁が許されるということが情けなさ過ぎる。われわれ国民の意識が低すぎると思うのです。

 

森友学園に100万円寄付したかどうかというようなことは些末な問題です。行政府の長としては、官僚が国民に対して公平に対応するよう指導しなければならない。そこに不公平があれば官僚を追及しなければならない。というのはあくまで建前で、現実は、官僚は政治家の意図を忖度するからこそ、おのれの職分を逸脱したことを行うのです。だから政治家は官僚を追及はできない。また、そのようなもたれあいがお互いの力の源泉となっています。この構図を突き崩さない限り、日本はいつまでたっても三流国のままでしょう。選挙の時には是非このことを想起してもらいたいと思うのです。

 

 

よく考えて欲しい。

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( 朝日新聞デジタルより ) 

 ≪  これまで3度の運転差し止めの司法判断が出ていた関西電力高浜原発3、4号機。1年前の大津地裁決定の後、大阪高裁が出した決定は一転、「再稼働容認」だった。差し止めを求めていた住民らは「東京電力福島第一原発事故を忘れたかのような決定だ」と落胆した。一方、原発に経済的に依存する地元・福井では歓迎する声が…… ≫

 

下級審では割合リベラルな判決が出されるのだが、上級審になるにしたがって行政の思惑通りの判決が出る傾向がある。三権分立とは名ばかりで、最高裁長官も最高裁判事も人事権は内閣が握っているわけだから、考えてみればそれは当然のこととも言える。法律の専門家としての矜持を持ち続ける人は出世がしにくい仕組みになっている。いきおい裁判官の上目遣いのヒラメ官僚化がはびこるのである。

 

森友学園の問題で、「忖度」という言葉が飛び交っている。官僚が総理大臣夫人の意図を「忖度」することがあったのかどうかということが問題になっている。しかし、元官僚出身のある評論家にいわせると「官僚から忖度を取ったら何も残らない。」らしい。官僚は出世するかしないかで収入も大きく違うし、出世すれば個室や秘書付きの役職にも天下りできるし、何度も退職金を受け取ることができる。出世するには政治家に「あいつは役に立つ」と見込まれなくてはならない。それで、無理な注文も通してしまうヒラメ官僚だらけになるのである。

 

森友問題では政府は苦しい答弁に終始しているように見受けられる。夫人付き秘書官が財務省に問い合わせをした行為さえ、それは秘書官の個人としての行為だと言い張る始末だ。

政治家が地元の陳情を受けて、役所に問い合わせるということは普通にありうることだが、問題はその結果だ。受け付けられていい陳情と受け付けるべきでない陳情があるわけで、森友の場合は、絶対受け付けられるべきではない要求が受け付けられているということが問題なのである。

 

なぜ森友側にとってこれ以上はない条件で国有地の払い下げが決定されたのか、その経緯を詳らかにする必要がある。しかしその経緯を記した文書は既に破棄されているという。はたしてそれは役所として正しい在り方なのか、それを追及する義務は行政側にあるはずである。しかし、やろうとしない。官僚側にも政治家側にも明らかになってはまずい事情がそこにあると断定しても間違いないだろう。

 

政治家や官僚それに裁判官までもが、あからさまな国民への裏切り行為をして恥じない。それなのに「美しい国」を標榜する。日本はそんな夜郎自大な国に成り下がっているのである。

100万円寄付したとかしなかったとか、そんなことばかり焦点が当てられている。しかし事の本質は、エキセントリックな人物が創立しようとした小学校に対し、財務省や大阪府が異常なまでの配慮をしたということにある。 
 

≪ 学校法人「森友学園」の小学校開設の認可を巡り、大阪府の松井一郎知事は21日、府私立学校審議会(私学審)が2015年1月に「認可適当」の答申を出す前、財務省近畿財務局から「口頭で森友側に売却するとの見通しが(担当課に)伝えられた」と述べた。府庁で記者団に明らかにした。財務省は毎日新聞の取材に対し「府に契約の見通しを伝えたことはない」と否定している。  ≫  ( 毎日新聞 )

 

森友学園の土地取得にめどが立たねば、大阪府は学校設立の認可をするわけにはいかない。一方、財務省側は平成28年度の学校開設を、埋設物撤去を学校側に委任して売却を急いだことの理由にしている。本来はあり得ない行政判断が行われていた咎が問われているのである。

今になって責任を擦り付け合っている、当時の理財局長と大阪府知事を証人喚問するのが妥当であろう。

 

しかし、この奇矯な人物の創立する小学校に、理財局長や大阪府知事がここまでサービスした理由は何だろうか? 安倍さんは、自分がこの件に関係しているなら政治家を辞めるとか言って力みかえっているけれど、行政の長としてその理由を明らかにする義務がある。100万円の寄付がどうのという前に、役人を呼びつけて真相究明すべきではなかったのか。それができないのはなにか後ろ暗い所があるのだろうと勘繰られても仕方があるまい。

 

事件が発覚する前は、「素晴らしい教育方針と妻から聞いている。」と言っていた。それが一転して今では「しつこい人」だ。この人の言葉は信用できない。

悪魔の証明って

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学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地払い下げ問題に関して、共産党の小池晃書記局長が、学園側が自民党国会議員に便宜を図るよう求めた記録が存在すると主張し、安倍晋三首相を追及した。

 

小池氏 「私どもは、ある自民党国会議員事務所の面談記録を入手しました。そこには、森友学園側と(売却に関わった)近畿財務局や大阪航空局とのやり取りが克明に記録されている。記録は、2013(平成25)年8月5日から始まります。一部紹介します。」 ‥‥( ある政治家の事務所に籠池氏が来訪し、いろいろなやり取りがあったことを述べる)‥‥

 

それに対して安倍首相は次のように答える。

 

安倍首相 「まず、読まれた文書は、どういう文書かも分からないですよね。本当のことかどうか分からないものを、立証する責任はそちらにある。そこで、国会議員の事務所、まるで私の事務所であるかのごとくの印象を与えていますよ。印象を与えていますが、そういう事務所がどこの事務所かということを、われわれは知らないんですから。今、小池さんが『その事務所はどこだ』と言われたらいいじゃないですか? ないものを証明するのは、いわば『悪魔の証明』といわれている。その事務所の名前も出さずに、これは調べようがない。それと、不当な働きかけはなかったと(財務省の)局長から聞いているわけですから、そうお答えしているわけです」

 

悪魔の証明とは、「存在しないものを存在しないと証明する」ことで、論理的には不可能とされている。例えば雪男を発見すれば、それはそのまま雪男が存在することの証明となる、しかし、雪男が見つからないからと言って、雪男が存在しないということは言えない、というようなことである。

 

しかし、安倍さんの言っていることは屁理屈というものだろう。国有地を9割引きで民間に払い下げる。そんなことは通常あり得ない。私立学校の理事長が政治家の媒介なしに、土地代を8億円も値引きできる権限を持つ役人に面会できるわけがない。

 

常識的に考えれば、安倍さんの支持母体である日本会議の幹部である籠池氏に、役人たちが配慮したのだろう。なにしろ総理夫人が名誉校長なのだから、当然籠池市の背後に総理の後光がさして見えたはずである。

 

国有財産を9割引きで売り払うことが、正当な行政であるかどうかの判断力を問われていることに気づかないのか。今回の件に関して自分の影響を払しょくしたいのであれば、交渉経過を自分から積極的に追及すべきなのに、「挙証責任は野党にある」とばかりに気色ばむ。すでに馬脚は現れているのである。こんなお粗末政治家の支持率がいまだに50%以上もあるなんて、一体どういうことなのか。

 

安倍さんはこの「悪魔の証明」という言葉が好きらしくて、以前TPP問題で甘利氏が追及された時にも、この言葉を出して反論している。しかし、イラク戦争を支持したことを追及された際には、次のように答えていたことを山本太郎議員に皮肉られている。

 

「大量破壊兵器が無いと証明出来なかったイラクが悪いといことは申し上げておきたいと思います」

 

これこそ悪魔の証明の要求ではないのか。美しい日本の国の政治はお粗末である。

( 毎日新聞より )
 
「金田法相 指示認め撤回…共謀罪「提出後に議論」文書配布」
 
 金田勝年法相は7日午前の衆院予算委員会で、「共謀罪」の成立要件を絞り込み「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案に関し、「国会提出後に法務委員会で議論すべきだ」と記した文書を自身の指示で作成したと認め、撤回して謝罪した。政府・与党内で提出に向け調整中の同法案に関し、野党は予算委で度々追及している。法務委での質疑を求める文書に野党は「質問封じだ」と強く反発している。

 文書は6日に法務省が報道機関に配布。「建設的議論には、委員からの質問通告が極めて大まかな要旨のみでは不十分だ」などと記し、国会提出後に法務省刑事局長を交えて法務委員会で議論すべきだとしていた。 

 
衆院の予算委員会で、共謀罪について野党の質問にろくすっぽ答えられない法務大臣が、法案提出後に法務委員会で議論すべきだと寝言を言っている。国会で追及されている単純な矛盾点をクリアできないまま法案提出して、後は数の力で押し切ろうという魂胆が見え見えである。恥という言葉を知らないのだろうか。
 
また、最近『発見』された陸上自衛隊の南スーダンにおけるPKO活動に関する日々報告には、戦闘の深刻化とPKO撤退の可能性も認識していたことが記されていた。この間政府は一貫して、「戦闘行為ではなく『武力衝突』である」と奇妙な主張をし続けていたのである。
 
この文書については昨年九月に開示請求されたものの廃棄を理由に不開示とされていた。武力衝突を戦闘行為ではない、公的文書を捨ててしまったから開示できない、などと公の場で堂々と言える神経というのは一体なんなのだろう。頭が悪すぎるのか、それとも鈍すぎるのか?
 
極めつけは稲田大臣の次の言葉だ。
 
「憲法上、戦闘を想起するような言葉を使わないように武力衝突のような言葉を使った。」
 
正気か? 法律家のくせに自分が何を言っているのか分からないのだろうか? どろぼうをしても、「どろぼう」という言葉を使わなければ犯罪にならないのか?
 
こんなやりとりがさも当然のようにまかり通ることが子供への教育上良い訳がない。若者の政治への無関心としらけが助長されないかと心配だ。

昨日(12/27)の東京新聞・夕刊に、太平洋戦争の開戦通告が遅れたのは、日本外務省が意図的に電報発信を遅らせたことが原因であるとする新証拠が発見された、との記事があった。

 

真珠湾攻撃が開始されたのは12月7日の午後1時19分、覚書がハル米国務長官に手渡されたのが一時間後の午後2時20分だった。

 

覚書は長文なので14部に分割されて送信された。1から13部までは12月6日の午前11時25分までに発信されていたが、結論となる14部は15時間後の12月7日の午前2時38分に送られた。

 

従来の説明では、1から13部までを先に暗号解読してタイプライターで清書しておけば、12月7日の朝に14部を追加すれば、開戦までに十分間に合ったはずが大使館の怠慢で12月7日の朝からすべての分の清書を始めたため間に合わなかったというものだ。つまり意図的に遅らせたわけではなく、すべて大使館員の責任であるというものであった。

 

しかし、当時の一等書記官である奥村勝蔵氏が、「夜半まで13通が出そろったが、後の訂正電信を待ちあぐんでいた」と1945年に証言している。当時のタイプライターは途中で訂正追加が出来ないので、訂正電報が届くまでは清書できなかったというのである。結局12月7日の朝から14通分の清書を始めたが、開戦には間に合わなかったというのである。

 

今回の新証拠というのは、その訂正電報らしきものが12月7日の午前0時20分と午前1時32分に発信されていることが、米海軍の傍受記録に残っていたというものである。そのとおりなら奥村氏の証言を裏付ける有力な根拠となる。

 

この新証拠の評価については、例によって歴史学者の立ち位置によって随分違うようだ。右寄りの人はどうしても大使館員に責任を押し付けたいらしい。

 

歴史家は歴史家で実証的な研究をしていただきたいのだが、この問題を大使館員の怠慢として矮小化したいという根性のさもしさが気に食わない。これが外務省本省の責任ではなく大使館員の責任なら、日本の罪は軽いあるいは日本は卑怯ではない、というふうに考えることができる、その思考回路がさもしいというのである。

 

日本が武士道精神に満ち溢れた正々堂々とした国であると思いたいのなら、開戦通告が届いたことを確認してから攻撃すればよかっただけのことではないのか?

 

まあ、そんな理性があったなら無謀な開戦には踏み切らなかっただろう。それに、戦争は殺し合いである。卑怯もへったくれもない。やるからにはなにがなんでも勝たねばならない。相手の不意を衝くのは当たり前のことである。開戦前に通告しなければならないという意識はそれほど強くなかったかまったくなかった、というのは下種の勘繰りだろうか?
思うに、不意討ちがいけないのではなく、戦争をすることがいけないのである。

 

真珠湾攻撃について日本は卑怯だったし、南京事件については日本は残虐だった、どちらも素直に謝ればよいのではないだろうか。