逃げるは恥だが役に立つ

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「逃げるは恥だが役に立つ」というのは、知ってる人は知っているでしょうが、今週で終わったTBSのテレビドラマのことです。主演の新垣結衣さんの可愛らしさと、共演の星野源さんのちょっとずれたような演技、それに脚本家や製作スタッフの遊び心がうまくかみ合って、とても面白い作品に出来上がっていました。ぼくが今年見たテレビドラマの中では、同じTBSの火曜ドラマ「重版出来」と並んで、他を圧倒して面白かったと評価しています。

 

「逃げるは恥だが役に立つ」という題名なんですが、ハンガリーのことわざに「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」というのがあって、そこからとったということです。そこで、ぼくは思うんだけれど、ある種の人々にとって現代は非常に生きにくい時代でもあると思うんだけれど、そういう時にこのことわざが使えるのではないかと思うんです。

 

こんなことを思うのは、今朝の朝刊に「電通社長来月辞任」のニュースが一面にあったからです。電通は新入社員高橋まつりさんの自殺について次のように発表しました。

 

≪ 電通は二十八日夜の会見で、高橋さんの過労自殺に関する外部専門家による調査結果を公表。「長時間労働に加え、仕事の責任感や職場での人間関係が強いストレスが自殺の原因となった可能性は否定できない」とした。上司による高橋さんへのパワハラも認め、「十分なサポートが足りなかったと深く反省している」との認識を示した。 ≫

 

電通に企業体質を改めてもらいたいということはもちろんですが、高橋さんが、「会社を辞めてしまおう。」という発想にどうして至らなかったのかということが残念でなりません。「自死すること」と「会社を辞めること」を天秤にかける、そんな余裕もないほど追い込まれていたのでしょう。そういう時に、この「逃げるは恥だが役に立つ」を思い出してもらいたいのです。

 

死ぬ前に彼女はお母さんに次のようなメールを送ったと聞きました。

「お母さん、自分を責めないで、お母さんは最高のお母さんだから」

 

あえて、ぼくは死人に鞭を打ちたいと思います。そこまで、お母さんを気遣うことができるのに、なぜ逃げなかったのかと‥。ここで、自分を責めない母親がいるわけがないのに。あまりに悲しすぎます。

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ムハマド・アリ追悼

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たいていの団塊の世代の男にとって、ムハマド・アリは特別な存在である。彼ほど洗練されたボクサーを私は知らない。華麗なフットワーク、的確な距離感と素早いジャブ、とてもバランスの取れた選手だった。パンチ力やスピードだけならマイク・タイソンの方が上かもしれないが、アリのようにひらめきを感じさせるボクサーは他にはいない。

ムハマド・アリの元の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア、1964年にソニー・リストンを破って世界チャンピオンとなったときのリング名はまだ「カシアス・クレイ」を名乗っていた。しかしすでにその時は、彼はマルコム・Ⅹの思想に共鳴してネーション・オブ・イスラムに加入しており、イスラム教徒になると同時に「ムハマド・アリ」に改名していたのだった。その後、リング・ネームの方も「ムハマド・アリ」を名乗るようになる。

正直に言うと最初はムハマド・アリを好きではなかった。どちらかというと私は保守的な体質なのだろう、「ほら吹きクレイ」の異名とる彼の攻撃的な言動に嫌悪感を持っていた。

少し話はそれるが、カシアス内藤というボクサーをご存じだろうか。私と同い年で東洋ミドル級チャンピオンになったこともある選手だ。現在は横浜の石川町駅のそばでボクシングジムを開いている。アリスの「チャンピオン」という歌は彼のことをうたったものらしい。沢木耕太郎の「一瞬の夏」は彼を題材にしたドキュメントである。カシアス内藤に対する人々の思い入れが深いのは、エディ・タウンゼントをして「私が手掛けた選手の中で最も才能に恵まれている。」と言わしめたほどの素質を持ちながら、世界チャンピオンになれなかったそのキャラクターにあるのだろう。

カシアス内藤の本名は内藤純一、アメリカ人を父に持つハーフだ。リングネームの「カシアス」はもちろんムハマド・アリの元の名にちなんでつけられたものだ。内藤は一度だけムハマド・アリと対面しているが、アリが若いボクサーに対しとてもやさしく接してくれたことに感激したと述べている。そして、そのとき「カシアス」のリングネームについて、「どうしてそんな奴隷の名前を名乗るんだ。」と言ったという。

アリの攻撃的な毒舌はやはり人種差別に由来しているとみるべきだろう。根強い差別に対して、気性の激しい彼は攻撃的にならざるを得なかったのだ。ローマオリンピックで金メダルを取った後、故郷のケンタッキーのレストランで入店を拒絶された、その悔しさから金メダルを川に投げ捨てた。1967年にはベトナム戦争に反対して兵役を拒否したかどで禁固5年を課せられている。(1971年、最高裁で無罪となった。)
兵役拒否のせいで、世界王座とボクサー・ライセンスがはく奪されてしまい、結局3年半のブランクを作ってしまうことになる。

1970年に世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーをKOして再起を果たし、その翌年にジョー・フレージャーの持つWBA・WBC統一世界ヘビー級王座に挑戦するが、その時はもはや全盛時の彼ではなかった。一回り小柄なフレージャーのスピードと精力的な動きについていけず、15回には鋭いフックでダウンさせられて判定負けとなった。公式試合においての初めての敗北である。

しかしアリはこのままでは終わらなかった。1974年1月にジョージ・フォアマンに敗れ王座を失ったフレージャーとの再戦に勝利し世界王座への挑戦権を得る、そして同年10月にザイールのキンシャサでジョージ・フォアマンと世紀の対決を行うことになった。
フォアマンは「象をも倒す」といわれたハード・パンチャーで、アリを破ったジョー・フレージャーをもたった2ラウンドで粉砕している。フレージャーだけでなくそれまで誰も3ラウンドまでフォアマンと闘ったものがいないという、それほど強いボクサーだった。誰もがフォアマン有利と見ていたが、兵役を拒否したアリは第三世界の英雄である。会場は圧倒的にアリの味方だった、「アーリー、アーリー!」の大合唱が沸き上がる。もしかしたらこの異様な雰囲気がフォアマンに不利に働いたかもしれない。

アリのフットワークは全盛期ほどの華麗さはなくなっていたが、間合いの的確さと瞬間的な動作の素早さは傑出している。最初にパンチが交錯した瞬間、アリの底知れぬ力にフォアマンは戸惑ったのだと思う。アリは追い詰められながらもなにか罵りながらフォアマンを威嚇し続けていた。圧倒的なパンチ力を誇るフォアマンに対し、ガードを固めながらひたすら効果的なパンチだけを狙っていた。おそらくフォアマンはそれまで楽に勝ちすぎていたのだろうと思う。今まで対戦した相手は誰もが彼のパンチを恐れひれ伏した、しかしアリは彼に打たれながらも傲然としていた。何かがのり移ったかのようなアリに、フォアマンは不安を感じていたのだと思う。その不安を払いのけるかのようにガードの上からパンチを浴びせ続け消耗していったように見受けられた。8ラウンド終了間際にはフォアマンの足取りはもうふらついていた。緩慢な動作で追いすがってくるフォアマンの顎を素早いワンツーがとらえた。再びアリがヘビー級チャンピオンに返り咲いた瞬間だ。世にいう「キンシャサの奇跡」である。

フォアマンはその後引退して宣教師となるが1987年に現役復帰する。そして1994年にマイケル・モーラーの持つWBA・IBF世界ヘビー級王座に挑戦した。この時の彼はなんと45歳、誰も書かれの勝利を予想した者はいなかった。キンシャサの時と立場は逆である。かつての均整の取れた体は少し肥満気味で腹が出ている、全盛期のパンチもスピードも望むべくもない。当然試合はモーラーのペースで進む。しかし、フォアマンにはキンシャサの経験があった。できる限り有効打をもらわないよう、激しい打ち合いはせず慎重に耐え続けた。このまま手数の多いモーラーの判定勝ちかと思われたが、10回フォアマンの強烈なストレートがさく裂してモーラーはKOされてしまった。45歳10か月史上最年長の世界ヘビー級王者の誕生だった。これもまたキンシャサの奇跡に劣らない偉業だと言えるだろう。

腹の出た45歳の中年男が世界王者に返り咲いた、その全盛期は一体どれほど強かったのか計り知れない。アリはその全盛期のフォアマンを破ったのだ、かつてのヘビー級ボクシングのレベルはとてつもなく高かったのだと思う。その中でもアリはひときわ異彩を放つ存在である。王者の中の王者というにふさわしい。

"I am the greatest." が彼の口癖であったが、それはその通りだろう。

最後に兵役を拒否した心境についての彼の名言を紹介しておきたい。

いかなる理由があろうとも、殺人に加担することはできない。アラーの教えに背くわけにはいかないのだ。
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捏造の科学者

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小保方晴子さんの「あの日」というエッセーがすごく売れているらしい。興味はあるが、お金を出してまで購入する気にはなれない。それでamazoneの書評欄をのぞいてみた。


≪読むたびに感動して涙が止まりません。SF小説として最高の完成度に至っています。これほど見事で読みごたえのあるものはそうそうあるものではないと思います。これが事実に基づいたストーリーであるということを忘れて読み耽りました。科学界のどろどろとした恐ろしい内幕、マスコミの世論誘導の怖さがリアルに伝わってきます。これがすべて小保方さん個人の身の上に起こった出来事であることを想うと底知れない恐怖感に襲われます。前半の明るい研究の日々が後半になってまるで次々に地雷を踏むかのように暗黒に包まれてゆくドラマチックな展開はプロの小説を凌ぐ強烈さです。≫


プロの小説を凌ぐほど強烈なのはおそらくプロが手を入れているからだろうと私などは勘ぐってしまうのだが、小保方さんに肩入れする人があまりにも多いことに驚いてしまう。彼女に対して肯定的な書評を拾っていくと、どうやら若山教授が悪者にされていることが分かる。


私の印象では若山教授は誠実な研究者で純然たる被害者以外のなにものでもない。彼女から託されたSTAP細胞からキメラマウスを作った。その鮮やかな結果が笹井教授をはじめ理研のお偉方に「大発見」を確信させてしまった。何の実績もない彼女を信じて問題をここまで大事にしてしまった責任は小さくないと言えるかもしれないが、そこに悪意はない。百歩譲って若山教授がズルをしていたとしても、小保方さんが潔白だということにはならない。そもそものSTAP細胞を作ったのが小保方さんなのだから、若山氏を責め立てるのは単なる焦点ずらしでしかない。


要は、最初に論文への疑義が起こった時点で、STAP細胞を再作成すれば何の問題にもならなかったし、自分の行った実験を裏付けする客観的な情報を提示すれば、少なくとも「悪意がなかった」ことは証明できたはずなのである。ところが、STAP細胞がSTAP細胞であることを証明するはずの写真が別の研究の論文の使いまわしだった。真正の写真があるから不正ではないと言うが、実験ノートがお粗末すぎで「真正」の写真であることをトレースできないという。結局最後のところは、自分の「未熟さ」というところで終わってしまう。しかも、間違って添付された写真はもともと入っていたクレジットを黒く塗りつぶして、その上から新たなクレジットを入れていた。つまり、原写真ではなく別用途に使用されていたものを、確信的にコピーしてきたと疑わせるに足る状況証拠もある。(==>「不自然なテラトーマ画像について 」)


「あの日」を読んで感動している人は、須藤桃子さんの「捏造の科学者」を読んでほしい。彼女の論文にはあまりにも不自然なミスが多すぎる。そしてそのミスが「悪意のないもの」であることの証がすべて「うっかり」・「未熟」と言うことで説明されてしまうのは不思議なことだ。


この問題が持ち上がってから、小保方さんの博士論文の内容についても様々な疑惑が取りざたされるようになった。早大の調査委員会は当初彼女の博士論文について11か所の不正と合計26か所の問題があると認定したのだが、この時の小保方さんの対応に彼女の性格の特異性が如実に表れている。


小保方さんは、調査対象となった論文は実際に審査された正式版ではなく、下書きだったというのだ。「完成版の博士論文を製本すべきところ、誤って草稿を製本し、大学に提出した」だと言うのだ。もちろん早大は正式版を要求した。それが2014年3月半ばのことである。それで小保方さんから「完成版」が送られてきたのが5月27日のこと、それも電子ファイルを要求されていたのに紙にプリントしたものを送ってきた。紙だといつ作成されたものかわからないので、早大側は再度電子ファイルを要求した。再三要求してやっと送られてきたのが6月24日、なぜか弁護士からメールでワードファイルが送られてきたという。更新記録を確認したところ、なんと最終更新記録は当日の一時間前だったという。そしてそれ以前の更新記録は解析できない状態になっていたらしい。それで早大側は、「更新されていないデータはほかにないのか」と訊ねたら、「常に更新されているのでそういうものはない。」という返事だったという。


そもそも大事な博士論文なのに間違って下書きを製本に出してしまう、そんなことがあり得るのだろうか。小保方さんはSTAP論文の不都合な点をすべて「悪意のない」未熟さとして言い逃れているのだが、言い分をすべて受け入れると責任能力と言うものがなくなってしまいそうである。博士論文の完成版が別にあるのなら、メールでぽんと送ればいいものを、2カ月以上も遅れてわざわざ紙にプリントして送る。どうしても電子ファイルでと要求されると、直前に更新したファイルを「3年前に提出するはずだったファイル」として送ってくる。ここにはある種の「豪胆さ」が感じられる。


「あの日」の文章がいかに説得力があろうと、客観的な状況が「悪意のなさ」にどうしてもつながらないのである。


※過去の関連記事 => 「STAP細胞はあるのか?」


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下半身に人格なし

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マスコミというのはつくづく不倫問題が好きなんだなと思う。そしてそれは同時に人々の関心のありかをそのまま示しているわけである。しかし、あらためて言うが不倫は犯罪ではない。基本的に他人がとやかく言う問題ではないのである。実際問題として、あなたが友人の不倫問題について相談された場合、「こいつ不潔だ」と言ってその友人と縁を切りますか?なんとかその人と妻の間の仲をとりなす努力するのが人情というものではないですか。


乙武さんの不倫問題で、「裏切られた」と感想を述べる人が多い。だが、昔から「下半身に人格なし」という名言があるように、立派な人格者にも性欲の有る人はある。乙武さんが色好みの人であることは意外でもなんでもないことである。一応そのことは踏まえておきたい。


マスコミに取り上げられる身障者の方は一般に優等生であることが多い。真面目でけなげかつ謙虚である、そういう人が一生懸命生きているというような姿を見て世間の人は感動するわけである。「生意気な」身障者像というのは思い描くのはなかなか難しい。それはひとえに、身障者の方々は他人のサポートが無くては生きていけない事情というものがあるからだろう。けなげに一生懸命生きている身障者には、「ホンマに偉いねぇ」と心から感動するのだが、けなげでもなく謙虚でもない、いわばそれは普通なのだが、そういう身障者にはそれほど感動しない。感動しないどころか、「身障者のくせに生意気な」というような視線にさらされる。その落差が大きすぎる。普通程度に「生意気な」身障者もハンディを抱えているからには、健常者が想像する以上に一生懸命生きているはずである。


「けなげで謙虚」というステロタイプは無言のうちに身障者にそのように生きるよう強いている。いきおい、日本の社会にはその枠からはみ出る身障者が極端に少ないように思える。その点、乙武さんの型破りなキャラクターは特異である。両腕と両脚がないという重篤なハンディを抱えながら、臆するところもなく積極的に発言していくという、これまでの身障者像を一新するような行動力もある。彼がマスコミに取り上げられたとき、私は日本も本当の先進国に一歩踏み出したのかという感慨をもったものである。おそらく立派なご両親に恵まれたのだと思う。彼が前向きのメッセージを発信することによって多くの人々が勇気づけられたはずだ、彼が素晴らしい人物であるという私の見方は今も変わらない。


今回の不倫問題は私も残念なことだと思っている。特に奥さんが謝罪文を公表したことについては、「ああ、もうすでに彼も政治家になってしまったのだな」という感慨をもった。しかし、自民党から出馬すると聞いたときはもっとがっかりした。やはり彼には弱者の立場でいてほしかったという思いがあったからだ。


個人的には彼に対する注文はいろいろあるが、広い意味では彼の行為を許容したいと思う。健常者にもいろいろな人がいる、生意気な人、スケベな人、自民党を支持する人、そのように多様な人がいることは実は健全なことである。完全なバリアフリーが実現した社会では、身障者も同様であるはずではなかろうか。生意気な身障者、スケベな身障者、自民党支持の身障者、多様な身障者が健常者と同様大手を振って歩ける社会が望ましい。
マスコミには彼を批判するなとは言わないが、身障者という色眼鏡をかけてみることだけはやめてほしいと思う。そのような偏見さえなければ、今度は政治家となった彼には身障者だからという容赦はむしろすべきではない、仮借ない批判をすべきだと思う。




松本城天守閣からの眺め

ヒトラーは間違っていない?

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【ニューヨーク共同】米IT大手マイクロソフトは24日、インターネット上で一般人らと会話をしながら発達する人工知能(AI)の実験を中止したと明らかにした。不適切な受け答えを教え込まれたため「ヒトラーは間違っていない」といった発言をするようになったという。


最近のAI技術の進歩は目覚ましく、チェスや将棋に続いて囲碁の名人まで負かしてしまったのはご周知のとおりです。次は、人間的な対応が出来る「人工頭脳」を実現しようというのは自然な流れだと思います。


しかし皮肉なことに、天才的な囲碁名人を打ち負かすよりも凡庸な人間の頭脳を実現する方がはるかに難しいのです。コンピューターと論理は相性が良いというよりコンピューターの中には論理しかないのです。だから、チェスや囲碁といったゲームの最善手というのは論理によって決定するので、適正なプログラムを与えればとてつもなく強いゲーマーができるわけです。


今回マイクロソフトは、ツィッターなどを通して一般人と会話しながら学習をするAIの実験をしていたわけですが、このまま続けていけばおそらく普通の人間が受け答えしていると感じるようなレベルには到達したと思います。膨大な受け答えのメッセージを解析して、適当な受け答えを論理によって選び出すというのはおそらく可能でしょう。


しかし、コンピューターの受け答えがいくら人間的に見えても、それは表面上のことでしかありません。感情が伴っていないからです。倫理的な価値観も無いので、教師役の人間次第では「ヒトラーは間違っていない。」などと口走ることもあるわけです。


コンピューターに感情や衝動を教えるには、それらを論理によって組み立てる必要があります。コンピューターの中には論理しかありえないからです。感情を論理によって組み立てるには、感情というものを私たちが完全に理解しなくてはなりません。


本当の意味での人工頭脳にはまだまだ道が遠いようです。感情がなんであるかを知るのは容易ではありません。そもそもそれが論理に還元され得るものかということもまだわからないのです。

丸山議員は弁護士資格を持つ方らしいのでかなり知性の高い人なのだろうが、しかし政治的表現力と言う観点から見るとかなり問題がある、もう議員は辞職されたほうが良いと思う。


彼の発言が「人種差別的」とされたことに対しては、私は同情的である。確かに奇妙なことを言っているような気はするがそれは話の持って行き方が稚拙なためである。発言の詳細を読めば、奴隷云々の話は米国を称揚するつもりで述べていることは間違いない。


「良心に恥じることは何もない。批判は見当違いだ」と彼は逆切れしているらしい。なるほど彼にしてみれば信念を吐露しただけのことで良心に恥じることがないというのは理解できる。しかし当日の憲法審査会は「二院制」について議論する予定であったという。そのような場で頓珍漢なことを口走ったことについては、「政治家」としては相当恥ずかしいだと思う。その場で彼の発言を聞いた人は、彼が一体何について論じているのか全く分からなかったのではないだろうか。


私も彼の発言を最初に聞いたときは彼が何を言いたいのかが全く分からなかったが、発言の詳細を読み返すとことは単純な話である。集団的自衛権も安保条約も「素晴らしい」アメリカ合衆国という国家の制度に照らし合わせると何の問題もない制度である、と言いたいだけのことなのだ。


主義主張の中身はさておいて、失礼ながら老化の影響もみられるのではないかと感じる。それは私自身にも起きていることだから、丸山議員の今回の発言の裏にある思考の流れがよく理解できるのである。私も自分のブログをあとから読んでみて、独りよがりであったと感じることがたびたびある。一応自分の中ではそれなりの思考の流れというものがあるのだが、それをちゃんと整理するだけの能力がなくて、未整理のまま論じてしまうのである。読む方はいきなり脈絡のない切り口を見せられるので、なにを言ってるのかわからないということになる。
自分自身の経験に照らし合わせると、自分の高邁な考えを他人に認めさせたいという分不相応な野心を持つときにこのような事態が起こるようなことが多いような気がする。歳を取ると自分を抑制するタガが外れるのかもしれない。


丸山議員は自民党法務部会長という立場にありながら、わざわざ議題から逸脱するような話を持ち出してまで持論を披露するということが異常である。その上話の脈絡も不明確で、オバマ氏が奴隷の子孫であるかのような話し方はいかにも不用意である。オバマ氏の父親はケニア人、母親はカンザス州出身の白人である。知られている限りでは彼の先祖に奴隷だった人はいないわけであるから、丸山氏の頭の中では、「黒人=奴隷」のステロタイプな判断をしているわけで、政治家としては余りにお粗末な発言と言わざるを得ない。政治の世界から身を引いて一タレントとして生きていくことをお勧めする。

先日TVを見ていたら、男性ミュージシャンと女性タレントの不倫について取り上げられていた。そこで気になったのが、この問題についてマイクを向けられた一般人のコメントである。ある人(たぶん、ミュージシャンのファン)が「もっと早く謝罪して、すっきりしていただきたかった。」と述べたのだ。

言った本人は、当たり障りのない最大公約数的なことを言ったつもりなのかもしれない。しかし、『謝罪する』ってなにを誰に?

強姦や窃盗といった行為は非難されて当然の刑事犯であるが、不倫は配偶者への
貞操義務違反ということであり、当事者以外には何の関係もない行為である。もちろんそれは褒められたことではない。不倫された側の精神的ダメージは(人にもよるが)計り知れない。そのことに対する同情も起こってしかるべきである。しかし、井戸端会議的な感慨を公の場に持ち出すべきではない。テレビカメラの前で、赤の他人が不倫の当事者に対し断罪したり謝罪を要求したりするのは、どう考えてもおかしいのである。彼らに謝罪や保障を公的に要求する権利があるのは当のミュージシャンの奥さんだけだからである。

一般に性の禁忌に対する社会の目は厳しくなりがちである。仏教にも不邪淫戒というのがある。仏教だけでなく、いわゆる普遍宗教というものは配偶者以外との性行為は禁じているのが通例である。おそらくそれは性行為が嫉妬の感情と深く結びついているからであろう。妬みがいさかいを引き起こす、社会に対する大きな不安定要因になるからである。
有名人の不倫が公共の電波を通じて大きく取りざたされる。一個人の私秘的な行為が社会にそれほど大きな波紋を投げかけるのは、それに反響するねたみや嫉みが我々自身の心の中にあるからではなかろうか。

そもそも彼らを批判する資格のある人がどれほどいるだろうか? 魅力的な異性に誘惑されてもあなたは心が動かないと言い切れるだろうか? もしかしたら、本当は自分もしたいのにできない、あいつらだけうまくやりやがってというねたみが潜んでいないだろうか?

脚下照顧とは他人のことをあげつらう前に、先ず自分自身を内省しなければならないということの意である。

フィクションってなんだ?

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26歳の大学生が私戦予備・陰謀の容疑で事情聴取を受けていることが話題になっている。「シリアに渡航し、イスラム国に加わり戦闘員として働くつもりだった」と述べているという。


「社会的地位とかに価値を感じなくなった。ただそれだけ。日本の中で流通しているフィクションにすごく嫌な感情を抱いていて、別個のフィクションの中に行けば、違った発見があると思った。」


リアルがなければフィクションというものはあり得ないはずだが、この学生にとっては何もかもがフィクションらしい。「人を殺してみたい」とも言ったらしい、それもフィクションの中だということなのだろうか。


少し前に民間軍事会社の経営者を名乗る人がイスラム国に拘束されたが、この件と共通して見えるのは、閉塞的な日常性から脱却したいという若者が普遍的にもつ欲望だ。
「秩序だらけの民主主義日本にいるよりも、戦いの中に身を投じてこそ自分のすべてを発揮できる」という根拠のない自信は一体どこから来るのか。「現状打破のための戦争志望」というのは挑戦というよりも、一種の現実逃避のように見える。


老人の支配する日本にいて若者が閉塞感を感じる、ということはある程度理解できる。が、現状打破というならもう少し努力してみるべきだろう。何をやってもだめだというなら、外国に行ってみるというのもいいかもしれない。いろいろな経験をしているうちに、新たな展望というものが見えてくることも考えられる。しかし、いきなり戦闘地域に飛び込むというのは少し飛躍しすぎなのではないか。凄惨な戦場を縦横無尽に駆け巡る自分の雄姿を想像しているのだろうが、言葉も不自由で戦闘訓練も未経験なままではそれは無理だ。


試しに、街をうろついているヤクザに絡んでみたらどうだろう。そうすれば、自分が戦いの中で自分のすべてを投げ出せる人間であるかどうかが、自分ではっきり確認できるはずだ。「死ぬことは大したことではない」とクールに言ってのける若者ならそれくらいのことはやってみるべきだろう。もしかしたら袋叩きにされるかもしれないが、その時殴られた痛みはフィクションなどではなく、自分はリアルに生きていることを実感できるはずだ。


それにしても、このようなことがテレビや新聞で大きく取り扱われることが理解できない。豊かな日本で若者が閉塞感を感じていることは確かに大きな問題であるかもしれないが、この事例自体は未熟な若者の単なる勘違いでしかない。少しお灸をすえる程度でいいのではなかろうか。万引きの横行は深刻な問題ではあっても、個々の事例が全国ニュースになることはない。少なくとも、ここには大がかりな陰謀じみたものは見受けられない。公安警察ははしゃぎすぎではないのか。

とうとうこんなことに‥‥

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私はSTAP細胞の件では、笹井氏に対しては好意的な見方をしていない側の人間である。彼が、この研究と小保方氏を、隔離するかのように囲い込んでいたからだ。もしこの研究について、理研内部でセミナーでも開いて検討しておればこんなことにはならなかったはずだ。とは言っても、そのこと自体は大した罪ではない。単にやり方を間違えていただけの話で不正でさえもない。つまらない事件で、我々は優秀な頭脳を失ってしまった。あまりにも惜しい話である。


私はこの件に対して当初から世間の関心がずれまくっていると感じていた。さっさと事実関係だけはっきりさせて、一刻も早く収束させるべきで、世間知らずの科学者たちの責任問題をクローズアップさせて委縮させるべきではないとも考えていた。


もともとこの件は大した問題などではない。思い込みの激しいトンデモ科学者が、細胞がたまたま緑色に光ったのを「STAP細胞だ!」と勘違いしただけの話だ。あとは、その勘違いに沿って証拠写真をねつ造した。ただそれだけの話である。
細胞は緑に光ったが、万能性を示す証拠がなかなか得られなかった。だから彼女は別の研究論文の写真を使いまわした。それかはまずいという自覚があったから、あとで差し替え用の「真正」の写真を申請した。ところが、その「真正」とされる写真の裏付けがない。そもそも実験ノートには実験をトレースするための記述がない。


内部調査した理研の面々は唖然としたが、結論ははっきりしている。つまり、STAP細胞の存在を示す証拠は何一つなかったのだ。彼らの目には、小保方氏の研究不正は明らかだった。だから、「研究不正は小保方さん一人」と発表したのも彼らにしてみれば当然のことだった。結果的に見れば、この辺が世間知らずの科学者の稚拙さだったと言える。彼ら科学者の普通の感覚ならば、小保方氏は申し開きのできるような状況ではなかった。誰が見ても彼女の「不正」は明白だった。彼らの感覚からすれば、彼女の方から「私が悪うございました。申し訳ありません。」というしかない状況だと判断してしまったのだ。


ところが彼女にしてみれば、自分が「不正」を働いたという自覚はない。あくまで、「緑の蛍光色はSTAP細胞の証」と信じていた。だから、「(正しいと信じていたから)悪意はなかったのだ」というセリフを繰り返す。けれども写真の正当性についての説明できない。結局、病気になってしまう。
7月から監視カメラ付きの実験室で検証実験がはじめられたが、関係者のだれも小保方さんが潔白を証明できるとは考えていない。理研側は世間から受けたバッシングがトラウマになっている。彼女があるはずのない写真を論文に添付したのだということを、世間に分かってもらうことがこの検証実験の目的なのだ。できれば、彼女自身の口から、「すみません、やってしまいました。」と証言してもらいたいというのが本音だろう。


しかし、そううまくはいかないかもしれない。笹井教授の自死によってショックを受けた小保方さんはまた「体調を崩す」可能性もある。


今回の記事は怒りにまかせて、小保方さんには意地悪な言い方になってしまったかもしれないが、私はもうしうんざりしている。STAP問題なんてもともと大した問題ではない、早く決着をつけてもらいたいと思うのだが、いまだに「理研が悪の根源だ」とか「大がかりな陰謀だ」などと大げさなことを言う人がいる。
理研にも責められるべき点はあるかもしれないが、それは彼女の研究不正を見抜けなかった体制の不備という点に限定されるべきである。どんな組織も大きくなれば硬直化するし、幹部は官僚化する。世故に疎い科学者はマネジメント能力なんてないし、このような事件に対する当事者能力もない。少々の不手際はそれほど責められるべきではない。


本音を言えば、私も早く小保方さんに、自ら謝ってもらいたいと願っている。それとも、STAP細胞を堂々と再現していただいても良い、否(もしできるなら、)その方が断然良い、200回以上もSTAP細胞作成に「成功」している彼女にとっては決して難しいことではないはずだ。とにかく、どっちでもよいから早くこの問題に決着をつけてもらいたいと願っている。


≪ これまでに掲載した関連記事 ≫


3/15 幻のSTAP細胞

3/25 トンデモ科学と冤罪事件

4/12 STAP細胞はあるのか?

4/14 あえて理研を擁護する

7/4 STAP騒動は一刻も早く鎮静化すべし

ごまめの歯ぎしり

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イスラエルが軍事作戦を始めた8日以降のガザの死者数は1100人を超えたらしい。29日にはガザでたった一つしかない発電所が砲撃された。それでなくともガザは狭くて外部からのアクセスが極端に制限されている、逃げ場のない人々の困窮は我々の想像を絶するものに違いない。


なぜアメリカはイスラエルに対して影響力を行使しないのか、見ていて歯がゆい。国連のイスラエル非難決議についてもアメリカだけがいつも反対する。この異常なほどのイスラエル偏愛に対して、日本はアメリカの「友人」としてもっと強く直言してほしい。日本が正義の国であるというならば、このことに手をこまねいているべきではない。


中東最強の軍事国であるイスラエルもアメリカの援助なしでは一日も持たない小国に過ぎない。しかし、その小国に超大国のアメリカが鼻づらを引っ張りまわされているような感がある。大統領も国会議員も反イスラエルを口にしたら当選できないという事情があるにしても、今日に至るまでのイスラエルの非道の数々は目に余るものがある。一般のアメリカ人はこのことをどのように受け止めているのだろう。


我々日本人から見ると実に馬鹿げたことだが、アメリカ人の中のプロテスタントの多くが、ユダヤ人のイスラエル建国を聖書の預言が成就する兆候の一つだと受け止めているらしい。国際世論が一致団結して、この宗教国家の迷妄を吹き払うことができないものだろうか。


現在ガザやヨルダン川西岸に住むいわゆる「パレスチナ難民」のほとんどは、100年前には現在イスラエルと呼ばれている地に住んでいた人々とその係累である。逆に、現在イスラエルに住んでいる大半のユダヤ人は、100年前にはロシアやポーランドなどのヨーロッパに住んでいた人々とその係累だ。そのことを忘れるべきではない。


イスラエルは「自衛」と称し、すべての責任をハマスに負わせようとするが、その言い分は家と土地を奪われた人々に対し、羊のようにおとなしくあれと言っているに等しい。なかなかそのようなことが通るわけはない。思い通りにするには結局ジェノサイドしかなくなるだろう。(現在のどうも冗談では済まない感じさせるものがある。)

フロムやフランクルが生きていたら、現在のイスラエルを見てなんと言うだろう? きっと嘆くに違いない。


パレスチナ人はかつて自分たちの住んでいた土地を追われ、ガザやヨルダン川西岸に押し込められている、かつてユダヤ人がゲットーに押し込められていたようにだ。ユダヤ人はかつて自分たちが味あわされた苦痛に思いをはせるなら、もう少しパレスチナ人に対して同情的であるべきだろう。さもなくば、国旗のデザインをダビデの星からハーケンクロイツに変えた方がいい。