「語りえぬものについては沈黙すべし」というのは、ウィトゲンシュタインという哲学者の言葉で、「論理哲学論考」という論文を締めくくる言葉です。この「論考」はまるで箴言を書き連ねたような体裁で、哲学論文としては一風変わったものとなっています。それが少し格好良くて、特に「語りえぬものに‥‥」は引用されることが多いようです。

 

普通は「語りえぬもの」については語ることさえできないのだから、「沈黙すべし」とは奇妙なもの言いです。ウィトゲンシュタインは、「哲学上の問題は言語の論理に対する誤解から生じている」と考えていたようです。つまり、本来なら語りえないはずのものが語られていると考えていたようです。

 

ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」とは、論理と倫理についてだと言われています。

 

論理について語れないというのは、例えば論理規則に矛盾率というのがあります。「Aである」ということと「Aではない」ということを同時に受け入れることはできないという規則です。この矛盾率がなぜ正しいかということを私たちは論じることが出来ません。もし、この矛盾率を否定しようとしても、矛盾率を使わなくてはそれもかなわないはずです。私たちはものごとの判断に論理を使いますが論理そのものを語ることはできないのです。

 

倫理についてはどうでしょう。われわれは様々な価値感に基づいて判断をしながら生きているわけですが、その価値観というものは行動する領域より高次なものでなくてはならないわけです。すると倫理というものはその最高次のものですから、すでにその根拠を問える領域は我々を超越しているため、それを論じることが出来ないのです。

 

「人間は何のために生きるのか?」という問いに対し、われわれはその答えがどのような形で与えられるでしょうか。このような問いは、文学的か宗教的にとらえるしか答えようがありません。「生きる」に<私>のすべての意味が込められているため、それをとらえきれないからです。人生の意味を捉えるには人生を超越している必要があります。人生のただなかにいながら、その意味を問うことはできない。われわれは生きるためになにかを問うのであって、生きることそのものを問うことなどできないのです。

 

つまり、「語りえぬもの‥」には、本来は語りえないはずなのに無意味なことを語っている、という意味が込められています。若いウィトゲンシュタインは、この「論考」を書き終えた時点で、哲学上の問題はすべて解決したと宣言したのです。

 

夏空

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空間中の一点を特定できるか?

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あるところで、「空間中の一点を特定できるか」ということが話題になった。私が「それはできない」と言うと、ある人が「経度と緯度と高さによって表現できる」と言う。なるほど、一見それは正しいような気がするが、地球は猛烈な速度で自転しており公転もしている。さらに言えば太陽系自体が移動していると考えられる。なかなか空中の点を特定するのは困難なのだ。

 

しかし、その人は「現代の科学をもってすれば、そのような運動も時間の関数によって表現できる。空間の点を把握することはできない話ではない」と言う。

 

ダメなのである。仏教は、この世界に絶対性や固定性は存在しないと説く。空間の点を座標によって表現しようとした時点で、それは相対的なものであることに気がつかなくてはならない。絶対空間というものがないのなら、座標の起点となる原点そのものが空間にはないのである。

 

経度はイギリスのグリニッジ天文台を基準に、緯度は赤道を基準に定められている。地球上のあらゆる地点は、経度と緯度によって「厳密」に規定されている。しかし、その厳密さというのも相対的なものであって、あくまでそれは我々人間の主観に過ぎない。

 

先に述べたように、仏教は絶対性というものは認めない。すべては無常であり変化している。個物というものはその変化の中で比較的安定しているかのように見えるものに過ぎないのである。人間的なスケールで見ると、この地球は盤石であるかのように見える。しかし、歴史の時間を早回しで見ると、地球も水の中のうたかたのようなものに過ぎない。地球上の大陸もいまだに移動しているのである。いかなるものも過渡的なものに過ぎない。

 

大陸が移動しているとしても、われわれの尺度化すればそれは微細であるから、われわれはグリニッジ天文台を疑似原点として差し支えない。地球自体が高速で移動しているとしても、われわれに近接するものは同様に移動しており、相対的な位置関係は変わらないからである。

 

しかし例えば、2017年7月27日午前10時の御坊哲の位置を、何十億光年かなたの高度な知性を持つ生命体に知らせるにはどうしたらよいだろうかと考えるとき、非常な困惑を感じざるを得ない。位置というものは相対的にしか表現できないことに気づかざるを得ないからである。

 

地球は太陽系の第7番惑星であると言っても、その太陽がどこにあるのかを伝えねばならない。太陽は銀河系にあって、アンドロメダ星雲からはどの角度、とか表現しても、銀河やアンドロメダ星雲を特定するためには、さらに何かを基準にしなければならないことに気がつく。時間についてもまたしかりである。西暦はキリストの生誕年を基準としているらしいが、では、そのキリストがいつ生まれたか? それを西暦で表示するしかないとしたら、説明は循環しているのである。

 

すべては相対的と言うしかない。

 

新島々バスターミナルの売店

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すべてを陽炎と見よ

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図書館で、永井均さんの「哲おじさんと学くん」という本を借りてきた。その中に、「第49話 そもそも存在しないものでも「絶対確実に」存在できる」という興味深い一節があったので引用する。(永井先生は日本を代表する哲学者の一人である。)

 

【 引用開始 】( 以下は哲おじさんと学くんの対話である。)

 

学 : でも、例えば小説の中の登場人物がデカルトのように考えて、「私は今確かに思っている、だから私は存在している!」と言ったら、どうなる?

哲 : そいつがそう思ったなら、そいつは間違いなく存在する。ただし、もちろんそいつにとっては、だが。

学 : 「そいつにとって」はだとしても、「そいつ」なんてそもそも存在していないのに?

哲 : いや、その小説の中では、そいつは存在する。ただし、そして、そいつがそう考えた以上、そいつはそいつ自身にとって疑う余地なく、絶対確実に存在する。

 

学 : でも、それは本当の存在の仕方じゃないよね?

哲 : それが本当の存在の仕方ではないと言うなら、小説の中ではなく、この現実世界において、誰かデカルトのように考えた場合だって同じことではないか。その人が、「私は今確かに思っている、だから、私は疑う余地なく存在している!」と言ったとしても、所詮は言葉の上でのつながりに由来する確実性に過ぎないのだから、疑う余地なく存在するその存在の仕方は、疑う余地がないにもかかわらず、本当の存在の仕方ではない、ということになるだろう。

学 : そうなんじゃない?

 

【 引用終わり 】

 

永井さんは、デカルトは歴史の中に存在し、「そいつ」は小説の中に存在する、と言っている。が、実は両者の存在の仕方は同じだと言っているのである。一見理不尽なことを述べているようだが、その通りなのである。

 

われわれは「ある」や「存在する」という言葉をそのように使っているのだ。哲おじさん(永井)も「所詮は言葉の上でのつながりに由来する確実性に過ぎない」と言っているように、小説の中の人物が「絶対確実に」存在する、と言ってもそれは言語によって構成されたものに過ぎない。逆に言うなら、デカルトもそれにこの現実世界のだれであっても、「ぼくは考えてい、だから僕は存在する。」と言ったとしても、実はその存在は言語によって構成されたものに過ぎないと考えるべきなのではないだろうか。

 

龍樹の「すべてを陽炎と見よ」という言葉は、そのように考えると納得がいくのである。

高尾山にて

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特攻隊は美しいか?

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前回記事で引用させていただいたブログの絶対善進さんご本人からコメントをいただいたので、そのことについてもう少し論じたいと思います。

 

≪ いいですか?ミツバチは敵が来たら自分の命も考えずに敵に向かっていきます。群れを守るために。これほどの利他的行為がありますか。特攻隊と同じです。だから特攻隊に感動するのです。種族を守る為自分の命もささげる。大自然は難なくそれをやってしまいます。大自然には人間は叶いません。 ≫

 

端的に言って、論理が粗雑であるように思います。我々から見れば崇高に見える特攻隊も、アメリカ側から見ればただの狂気にしか見えません。特攻隊が善であれば、イスラム過激派の自爆テロもまた善であるでしょう。特攻隊も自爆テロも人類全体から見ればなんら益のある行為であるとは思えません。

 

しかし私も若い頃、特攻に散った若者の遺書を読んで感動した記憶があります。献身は人の心を揺さぶるようにできているのでしょう。特攻隊には確かに普遍的な美しさはあると思います。

 

前回記事でも述べましたが、アリやミツバチのようにシンプルな生き物は、種族保存という観点から見れば、ある意味究極の高見に到達しているわけです。だから彼らは心理的な矛盾は感じないし、自分の献身的な行動に対する価値判断すら行わない。もはやそこには善悪などという倫理もないと考えます。しかし、人間のように複雑な生き物になると個体ごとの遺伝子にかなり相違が生じる。そうなると、個体保存本能と集団保存本能が背反する場合があって必然的に複雑な進化の過程をくぐり抜けることになります。集団の外部環境が厳しくなると集団に奉仕する本能が弱いと集団そのものが生き残れないが、その集団が安定している場合は、利己的な個体が増殖することになる。

 

つまり、われわれは集団の危機になれば、崇高な献身を称揚し自分もまた英雄的にふるまおうとするが、同時に自分の生き残りを模索しながら、他人の抜け駆けは許さないといったセコイ性質をもった生き物である。だから、善だ悪だと声高に叫んだりもする。その辺のところは以前記事にしたことがあるので読んでください。 ( クリック==>「せこさが憎い‥」 )

 

特攻隊を美しいと感じる心性が我々にあるとしても、それを善しとすることには大きな疑問があります。

 

東京 三鷹市 ジブリの森美術館

進化について考えるとき、人は冷静でいられなくなるらしい。進化論はその中に私たち自身も含まれる。つまり、自己言及的な学説である。本来は客観的であるべき学説に、つい主観を忍ばせたくなるのである。

 

「キリンは高い木の葉を食べるために首が長くなった。」式の表現をすることがある。問題は「食べるために」という表現である。進化をコントロールするコーディネーターはいない。すべては偶然である。背の高いキリンは高い所にある食べ物を食べることができた、それで生き残っている。それだけのことに過ぎない。進化論というのは、いわば「なるべくしてなる。」という当たり前すぎる原理にのことである。

 

何億年もかけて成し遂げた成果が余りに精妙であるために、おそらくそこになんらかの「意志」が働いてかのように見える。結果から見れば、人類は「種族繁栄」を目指しているかのように見える。次に、ある人のブログから、「善」についての定義を述べたものを引用する。

 

≪ ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、いわゆる種族保存である。
ならば、この大自然の、大宇宙の意志というのは、命を賭けて種族を保存せよと言う事ではないだろうか。そうであれば、この大宇宙の意志を絶対的に正しい(絶対善)と言わずに何を正しいと言うのだろうか。ゆえに絶対的に正しい事、絶対善とは種族保存のことである。 ≫

 

残念ながら、「大宇宙の意志」というものの根拠を我々は見つけることができない。ありとあらゆる生物が何億年も種族保存を目論んできたかどうかは不明である。生物の変異はむしろランダムであったと想定される。過去には生存に適さないおびただしい生物が生まれたとも考えうる。ただ生存するのは生存するのに適したものだけなわけで、当然のことながら、現在生存しているのは「生存に適したもの」だけなわけである。

 

人間が種族保存という観点から見て、究極的進化を経たものであるならば、「種族保存が絶対善」であると言っても問題ないだろう。もしわれわれの本能がそこまで洗練されていたなら、誰もが種族保存を目指しているわけで、その時には種族保存の崇高さを疑う必要など何もなくなってしまうだろうからである。もしかしたら、アリのようにシンプルな生き物は、そういう高みにすでに到達している、と言っても良いかもしれない。しかし、善というものが本能とまったく一致してしまったら、そもそも善などという概念は意味をなさないだろう。

 

善というのは基本的には利他行為を指すのだろうが、もともと多義的な言葉なのだろう。もともと複雑な心を持つ人間が、その時々の生活習慣に合わせて恣意的に使用してきたものだ。早い話、戦国時代の倫理と現代の倫理が同じであるわけはない。進化論から得た知見をもとに、善を一意的に定義するという発想には無理がある。

 

ダーウィンのいとこにフランシス・ゴルトンという人物がある。進化論から刺激を受けて、人類を人為的に「進化」させようという優生学というものを唱えた人である。それがやがてナチスによる人種政策の思想的基盤となった。彼らには、現に生まれてきた個々の人間の意識には関心を持たない。おそらく、神になりかわって、美しい架空の人間の形を作ろうとしていたのだろう。

 

横浜 イングリッシュガーデンにて

私は意志を意志できない

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自由意志の有無ということが昔から哲学上の問題となってきた。どうしても自分が機械人形ではないかと疑いたがる人がこの世にはいるのである。私などは、立ちたいときに立ち、座りたいときに座る、それが自由意志という言葉の意味で、そこには何の紛れもないと考える。それは自分が自動機械であるかどうかとは関係なく、言葉の意味としても実存的な実感としても間違いのないことのように思える。

 

≪我々はなにかをしようと意志することはできる。だが、なにかをする意志を意志することはできない。≫  ( ヴィトゲンシュタイン )

 

なるほど、この言葉はとても深い意味をもっているようだ。のどが渇けば私は水を飲む。私は間違いなく自分の自由意志で水を飲んだのだが、「水を飲もう」という意思は渇きにつられて自然に湧いてきたのである。つまり、私は外的な要因に突き動かされているということになる。

 

外的な要因に突き動かされているならば、私は機械として反応しているだけなのだろうか? そうではあるまい。「自然(じねん)」の一言で片が付くような気がする。

 

天園への道 ( 横浜市栄区 )

分類と偏見

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今ではそんなことはもうないだろうが、金髪碧眼という言葉が外国人(と言っても白人だけだが)の代名詞だった。それで白人を見ると、栗毛であろうと茶髪であろうと、黒髪より薄い色で茶色がかっていれば、それをみな「金髪」と呼ぶ人が日本には少なからずいた。欧米人の髪の色のバリエーションは非常に多くて、レッド、ブラウン、ブルネット、ブロンドなどと多彩に呼び分けされている。ところが、日本人の髪の色はほとんど黒一色なので、髪の色を細分化する発想が無かったのである。 

ペルシャ人やアラブ人は日本人の目から見れば白人にしか見えないが、欧米の基準によると非白人になるらしい。かつて南アフリカでは公的な人種差別であるアパルトヘイト制度が存在した。その時、重要な貿易相手国であった日本人は(全然名誉なことではないが)名誉白人とされた。 

つまり、分類というものは分類する側の関心や価値観による恣意的な視点から行われる、ということを私達は肝に銘じておくべきだろう。

前回は、すべてが観念であるとすると、その観念の位置づけが出来なくなる、というようなことを述べました。へたくそで恐縮ですが、下図のような概念図となります。バークリーの言うように、すべてが観念であるとすると、一番上位のこの絵そのものを吹き出しの中へ入れなくてはならなくなるのであります。
どうしてこのようになるかと言うと、二つの理由があります。ひとつは、認識というものについて、「主観が客体を認識している」という構図の上で考えているということ。二つ目の理由は、我々が世界を把握しようとするときの視点が実存視点と客観視点の二つがあるということです。実存視点とは生身の自分自身が世界を「見つめる」視点で、客観視点とは自分自身をも含めた世界を俯瞰する架空の視点のことです。学としての哲学は客観的でなくてはならないことから、この世界を客観視点から俯瞰しようとします。
 
ここで、観念論と実在論のどちらでもない禅的一元論ともいうべきものの見方をご紹介しましょう。まず、自分が見ている景色というものを思い出してみましょう。実際に私たちが見ている風景は下図のようなものです。
前出の図と違うのは、木を見ている私がこの図の中にはないということです。素朴に反省してみれば、客体を認識している主観というものがどこにもないということがよくわかります。あなたは、「そんなことはない。木を見ている「私」はちゃんとここにある。」と言うでしょうが、その「私」は実は他者としての「私」なのです。私たちは他者とコミュニケーションをとるうちに、他者の中に「私」と同型のものを見出します。そして、その他者が木を見ている光景を、自分が木を見ている場合にも適用してしまうのです。しかし、自分が木を見るときは、実は木しかそこにないのです。
 
道元禅師の正法眼蔵の中に次の有名な一節があります。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。


禅の目的は自己究明にありますが、それは自分が考えているような自己というものが、どこにもないということを知るということです。万法とは感官に触れるものすべて、つまり森羅万象のことです。最後の句は「森羅万象が私に悟らせてくれる」というような解釈が一般的ですが、私はもっと直接的な解釈がよいと思っています。「森羅万象を認識する自分は存在しない、森羅万象がそのまま自分でありそのまま悟りである。」と言った方がしっくりします。禅僧が、「山を見れば自分が山になる。木を見れば自分が木になる。」と言ったりするのも、このような文脈から見れば理解できます。

西田幾多郎の「善の研究」の第2編第2章のタイトルは「意識現象が唯一の実在である」となっています。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

「意識現象」というと、なんとなくそれはリアルではない一種の幻影のようなニュアンスがあります。少なくともそれは「実体」ではないというのが大方の受け止め方でしょうが、西田はそれこそが実在であるというのです。物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり論理的に各人にとって共通で整合性のあるモデルとして、構成した仮説であると言っているのです。 
 
意識現象は物体現象に対する言葉で、それぞれ「観念」と「物そのもの」に相当する。したがって、このままだと西田は観念論者とされてしまうところですが、西田は次のように断っています。

 ≪余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象と言えば、物体と別れて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意ではでは真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。またバークレーの有即知というのも余の真意に適しない。直接の実在は受動的でない。独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。≫ (P.73)
 
ここで西田は意識現象という言葉を「純粋経験」と言い直す。そしてそれは「受動的でない。独立自全の活動である。」といいます、つまり主観によって認識されるものではないと言っているのです。私の目の前にあるリンゴがあるとします。そのリンゴの『見え』が純粋経験ですが、それは私に認識されて見えているのではなく、まず『見え』そのものがある。そしてそのことから「私がリンゴを認識している」と推論されているのだということです。

つまり、リンゴの『見え』という純粋経験があって、「私」という認識主体があると想定されている、と言うのが本当である。そこのところが理解できれば、「 個人あって経験があるにあらず、経験あって個人があるのである。」という言葉も了解できます。

観念論と実在論のつづき

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前回は、科学的実在論が必然的に観念論を導き出す過程について述べた。実在論は必然的に観念論を導き出すが、観念論から実在論には戻れない。科学的実在論によれば、我々に直接接するのがセンスデータだけだからである。我々の側から見れば、物そのものの前に感覚の壁が立ちはだかり、物そのものは仮説的推論によって存在すると推定するしかない。
 
矛盾のない仮説的推論というのは無限にある。例えば、「私は実は培養液に浸された脳であって、今見ている光景は電気的刺激を人為的に外から与えられることによって、見せられているビジョンなのだ」というような説を言い出す人も出てくるわけである。
 
ならば、実在性を観念そのものに与えて、観念以外のものはないのだ、ということにしてしまおうというのがバークリーの観念論だ。
 
しかし、このバークリーの考え方にも重大な問題がある。そもそも観念とは科学的実在論から生まれた概念だからである。観念論側から見れば、科学的実在論とは仮説的なものになるが、「観念」という概念そのものが、光、視神経や脳などと同様に仮説の部品であったものだということだ。
 
であるから、「観念」という言葉は暗黙の裡に『意識の内側にあるもの』というニュアンスを含意している。しかし、バークリーは意識の外側は何もないと言いながら「観念」という概念を使用しているのである。時々、哲学をかじったことのある人が、「山も川も自分の外側にあると思っているものも全部、自分の脳の中にあるんだ。」というようなことを言います。しかし、すべてが脳の中なら、その脳は一体どこにあるんだ、という問題が出てくる。
 
西田幾多郎はこの問題を『自覚に於る直観と反省』という論文の中で、「英国にいて英国の完全な地図を描く」と言う哲学的な問題として取り上げている。
 
ここで言う「英国の完全な地図」とは、あらゆる要素を一定の縮尺率で書きこんだものと言う意味である。例えば家一軒々々はおろか、もっと微細なものまですべてが記されているそんな地図である。もちろんそんなものは実現不可能であるが、あくまで思考実験として考えてみるのである。

この地図が例えばどこかの大きな広場で描かれていたとする。と、「英国にいて」とあるので、この広場自体も地図上に記載されていなければならない。ならば当然、この地図そのものもこの地図上に記載されねばならない。

勘のいい方はもうお分かりだと思うが、地図の中の地図にもこの地図が記載されていなくてはならない。というわけで、地図の中の地図の中の地図の中の地図の中の‥‥、というわけで無限に循環してしまう。
 
すべてが脳の中と言ってしまうと、その脳自体もその脳の中に位置づけしなくてはならなくなるのでこういう問題が生じるのである。
 
( まだまだつづく )

観念論と実在論

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人は物心つけばたいていは素朴実在論を身に着けると言われている。目にした木や石やリンゴが(見えている)そこに、自分の外部に実在する、というようなものの見方である。通常の日常生活を送っている分には、素朴実在論は十全な理論であり、破たんすることはまずない。テーブルの上におやつがあって、それを弟と取り合いになったことはないだろうか? 自分に見えるおやつは弟にも見えているのである。このような経験、つまり他者とのコミュニケーションを通じての整合性の確認を繰り返して、眼にするものの実在を確信するようになる。
 
しかし、現代社会において人々はいろんな知識を身に着ける。そして、科学的知識を身に着けていくと、素朴実在論は維持できなくなるのである。

テーブルの上のリンゴは太陽光線を反射する。その反射光が人間の目に入り、網膜に像を結ぶ。網膜には視神経があって、その像が視神経を通じてセンスデータとして脳に送られ、脳でその像を認識する。というようなことを学校で学ぶわけである。
 
すると、我々の見ているものは、センスデータによって脳に生じたリンゴの観念であって、リンゴそのものではないということになる。ここで、物そのものvs観念という分裂が生じてくる。この段階を一応「科学的実在論」ということにする。(カントはこれを「超越論的実在論」と呼んでいる。)
 
科学的実在論では、我々が見ているものは観念であるが、実在するのは物そのものであると考える。そして、物そのものと対応する観念にはそれぞれ同型の構造を持つと考えられている。たまに、カントの物自体を「物そのもの」と同一視している人がいるが、全然別の概念である。物自体には観念との同型構造が想定されていないからである。
 
ここで一つ問題が生じてきた。物そのものの実在から我々が見ている観念については整合的に説明できるのだが、その逆はできないことに気がついたからである。よくよく考えてみれば、我々の意識の中には観念しかないのである。もし、物そのものが実在するものであれば、観念を逆にたどってものそのものに到達できなければならないのに、実はそれが出来ない。これが懐疑論のそもそもの発端であり、哲学者たちの膨大な知的エネルギーがつぎ込まれたが、いまだに最終的解決には至っていない問題でもある。
 
この問題に一つの解決を与えようとした人が、アイルランド生まれの哲学者ジョージ・バークリーです。「存在するとは知覚されることである。」と言って、実在としての物質を否定します。彼は観念と同型構造を持つ「物そのもの」について、「観念に似た『物そのもの』を想定してみても、実は観念に似た『観念』を想像しているに過ぎない。」というのです。これが本格的な観念論の始まりです。 
( つづく )