前回は、すべてが観念であるとすると、その観念の位置づけが出来なくなる、というようなことを述べました。へたくそで恐縮ですが、下図のような概念図となります。バークリーの言うように、すべてが観念であるとすると、一番上位のこの絵そのものを吹き出しの中へ入れなくてはならなくなるのであります。
どうしてこのようになるかと言うと、二つの理由があります。ひとつは、認識というものについて、「主観が客体を認識している」という構図の上で考えているということ。二つ目の理由は、我々が世界を把握しようとするときの視点が実存視点と客観視点の二つがあるということです。実存視点とは生身の自分自身が世界を「見つめる」視点で、客観視点とは自分自身をも含めた世界を俯瞰する架空の視点のことです。学としての哲学は客観的でなくてはならないことから、この世界を客観視点から俯瞰しようとします。
 
ここで、観念論と実在論のどちらでもない禅的一元論ともいうべきものの見方をご紹介しましょう。まず、自分が見ている景色というものを思い出してみましょう。実際に私たちが見ている風景は下図のようなものです。
前出の図と違うのは、木を見ている私がこの図の中にはないということです。素朴に反省してみれば、客体を認識している主観というものがどこにもないということがよくわかります。あなたは、「そんなことはない。木を見ている「私」はちゃんとここにある。」と言うでしょうが、その「私」は実は他者としての「私」なのです。私たちは他者とコミュニケーションをとるうちに、他者の中に「私」と同型のものを見出します。そして、その他者が木を見ている光景を、自分が木を見ている場合にも適用してしまうのです。しかし、自分が木を見るときは、実は木しかそこにないのです。
 
道元禅師の正法眼蔵の中に次の有名な一節があります。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。


禅の目的は自己究明にありますが、それは自分が考えているような自己というものが、どこにもないということを知るということです。万法とは感官に触れるものすべて、つまり森羅万象のことです。最後の句は「森羅万象が私に悟らせてくれる」というような解釈が一般的ですが、私はもっと直接的な解釈がよいと思っています。「森羅万象を認識する自分は存在しない、森羅万象がそのまま自分でありそのまま悟りである。」と言った方がしっくりします。禅僧が、「山を見れば自分が山になる。木を見れば自分が木になる。」と言ったりするのも、このような文脈から見れば理解できます。

西田幾多郎の「善の研究」の第2編第2章のタイトルは「意識現象が唯一の実在である」となっています。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

「意識現象」というと、なんとなくそれはリアルではない一種の幻影のようなニュアンスがあります。少なくともそれは「実体」ではないというのが大方の受け止め方でしょうが、西田はそれこそが実在であるというのです。物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり論理的に各人にとって共通で整合性のあるモデルとして、構成した仮説であると言っているのです。 
 
意識現象は物体現象に対する言葉で、それぞれ「観念」と「物そのもの」に相当する。したがって、このままだと西田は観念論者とされてしまうところですが、西田は次のように断っています。

 ≪余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象と言えば、物体と別れて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意ではでは真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。またバークレーの有即知というのも余の真意に適しない。直接の実在は受動的でない。独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。≫ (P.73)
 
ここで西田は意識現象という言葉を「純粋経験」と言い直す。そしてそれは「受動的でない。独立自全の活動である。」といいます、つまり主観によって認識されるものではないと言っているのです。私の目の前にあるリンゴがあるとします。そのリンゴの『見え』が純粋経験ですが、それは私に認識されて見えているのではなく、まず『見え』そのものがある。そしてそのことから「私がリンゴを認識している」と推論されているのだということです。

つまり、リンゴの『見え』という純粋経験があって、「私」という認識主体があると想定されている、と言うのが本当である。そこのところが理解できれば、「 個人あって経験があるにあらず、経験あって個人があるのである。」という言葉も了解できます。
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観念論と実在論のつづき

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前回は、科学的実在論が必然的に観念論を導き出す過程について述べた。実在論は必然的に観念論を導き出すが、観念論から実在論には戻れない。科学的実在論によれば、我々に直接接するのがセンスデータだけだからである。我々の側から見れば、物そのものの前に感覚の壁が立ちはだかり、物そのものは仮説的推論によって存在すると推定するしかない。
 
矛盾のない仮説的推論というのは無限にある。例えば、「私は実は培養液に浸された脳であって、今見ている光景は電気的刺激を人為的に外から与えられることによって、見せられているビジョンなのだ」というような説を言い出す人も出てくるわけである。
 
ならば、実在性を観念そのものに与えて、観念以外のものはないのだ、ということにしてしまおうというのがバークリーの観念論だ。
 
しかし、このバークリーの考え方にも重大な問題がある。そもそも観念とは科学的実在論から生まれた概念だからである。観念論側から見れば、科学的実在論とは仮説的なものになるが、「観念」という概念そのものが、光、視神経や脳などと同様に仮説の部品であったものだということだ。
 
であるから、「観念」という言葉は暗黙の裡に『意識の内側にあるもの』というニュアンスを含意している。しかし、バークリーは意識の外側は何もないと言いながら「観念」という概念を使用しているのである。時々、哲学をかじったことのある人が、「山も川も自分の外側にあると思っているものも全部、自分の脳の中にあるんだ。」というようなことを言います。しかし、すべてが脳の中なら、その脳は一体どこにあるんだ、という問題が出てくる。
 
西田幾多郎はこの問題を『自覚に於る直観と反省』という論文の中で、「英国にいて英国の完全な地図を描く」と言う哲学的な問題として取り上げている。
 
ここで言う「英国の完全な地図」とは、あらゆる要素を一定の縮尺率で書きこんだものと言う意味である。例えば家一軒々々はおろか、もっと微細なものまですべてが記されているそんな地図である。もちろんそんなものは実現不可能であるが、あくまで思考実験として考えてみるのである。

この地図が例えばどこかの大きな広場で描かれていたとする。と、「英国にいて」とあるので、この広場自体も地図上に記載されていなければならない。ならば当然、この地図そのものもこの地図上に記載されねばならない。

勘のいい方はもうお分かりだと思うが、地図の中の地図にもこの地図が記載されていなくてはならない。というわけで、地図の中の地図の中の地図の中の地図の中の‥‥、というわけで無限に循環してしまう。
 
すべてが脳の中と言ってしまうと、その脳自体もその脳の中に位置づけしなくてはならなくなるのでこういう問題が生じるのである。
 
( まだまだつづく )
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観念論と実在論

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人は物心つけばたいていは素朴実在論を身に着けると言われている。目にした木や石やリンゴが(見えている)そこに、自分の外部に実在する、というようなものの見方である。通常の日常生活を送っている分には、素朴実在論は十全な理論であり、破たんすることはまずない。テーブルの上におやつがあって、それを弟と取り合いになったことはないだろうか? 自分に見えるおやつは弟にも見えているのである。このような経験、つまり他者とのコミュニケーションを通じての整合性の確認を繰り返して、眼にするものの実在を確信するようになる。
 
しかし、現代社会において人々はいろんな知識を身に着ける。そして、科学的知識を身に着けていくと、素朴実在論は維持できなくなるのである。

テーブルの上のリンゴは太陽光線を反射する。その反射光が人間の目に入り、網膜に像を結ぶ。網膜には視神経があって、その像が視神経を通じてセンスデータとして脳に送られ、脳でその像を認識する。というようなことを学校で学ぶわけである。
 
すると、我々の見ているものは、センスデータによって脳に生じたリンゴの観念であって、リンゴそのものではないということになる。ここで、物そのものvs観念という分裂が生じてくる。この段階を一応「科学的実在論」ということにする。(カントはこれを「超越論的実在論」と呼んでいる。)
 
科学的実在論では、我々が見ているものは観念であるが、実在するのは物そのものであると考える。そして、物そのものと対応する観念にはそれぞれ同型の構造を持つと考えられている。たまに、カントの物自体を「物そのもの」と同一視している人がいるが、全然別の概念である。物自体には観念との同型構造が想定されていないからである。
 
ここで一つ問題が生じてきた。物そのものの実在から我々が見ている観念については整合的に説明できるのだが、その逆はできないことに気がついたからである。よくよく考えてみれば、我々の意識の中には観念しかないのである。もし、物そのものが実在するものであれば、観念を逆にたどってものそのものに到達できなければならないのに、実はそれが出来ない。これが懐疑論のそもそもの発端であり、哲学者たちの膨大な知的エネルギーがつぎ込まれたが、いまだに最終的解決には至っていない問題でもある。
 
この問題に一つの解決を与えようとした人が、アイルランド生まれの哲学者ジョージ・バークリーです。「存在するとは知覚されることである。」と言って、実在としての物質を否定します。彼は観念と同型構造を持つ「物そのもの」について、「観念に似た『物そのもの』を想定してみても、実は観念に似た『観念』を想像しているに過ぎない。」というのです。これが本格的な観念論の始まりです。
( つづく )
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長さとは何か?

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ウィトゲンシュタインの「青色本」の冒頭は次のような一節から始まっています。

 

≪語の意味とは何か。
この問題に迫るためにまず、語の意味の説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うてみよう。
こう問うことは、「長さはどうして測るのか」を問うことが「長さとは何か」という問題に役立つのと同じ仕方で役立つ。 ≫

 

初めてこの文章を読んだときは一体何を言っているのかわかりませんでした。「長さとは何か」というのはあまりにも自明のことと思えたからです。しかし、あらためて考えてみるとなんだか落ち着かない気持ちになります。このような「感覚」をウィトゲンシュタインは「知的けいれん」と表現します。哲学はこの知的けいれんから始まるのでしょう。

 

「『長さはどうして測るのか』を問うことが『長さとは何か』という問題に役立つ」と彼は言います。「長さ」の意味に「長さの測り方」を対応させるというプラグマティックな考え方を提案しているのです。

 

小包のサイズを測るにはメジャーを当てて測ります。比較的遠方の距離は三角測量で測ります。非常に遠い銀河の場合には光のスベクトルの赤方偏移によって測定します。このように考えると、「長さ」というのは実は多義的な概念であるということが分かります。

 

と、ここまで読んで、あなたは少し困惑しているのではないかと想像します。「御坊哲は一体何を言っているんだ、『長さ』は『長さ』じゃないか」と思ったのではないでしょうか? そのような困惑についてウィトゲンシュタインは次のように述べています。

 

≪哲学的困惑の大きな源の一つ、名詞があればそれに対応する何かのものを見つけねば困るという考えに迫られるのだ。≫

 

小包のサイズと遠い銀河までの距離を、同じ『長さ』という概念に押し込めるていることには十分な根拠があります。科学的にはそれらを一つのカテゴリーで扱う方がシンプルな理論を形成できるからです。しかし、それらはもともと別のものとも考えられるのです。科学からの要請は、概念をより一般化することを我々に求めますが、ウィトゲンシュタインは概念に一意的な『本質』というものは存在しないというのです。

 

「名詞があればそれに対応する何かのものを見つけねば困る」という感覚は、「時間とはなにか?」について考えれば、「長さ」よりは明瞭になると思います。
ぼくらはどうしても「時間そのもの」を取り出すことはできません。ウィトゲンシュタインのアドバイスは「『時間』という言葉がどのように使われているかを枚挙するしかない。」というものです。

禅的(哲学的)世界観

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以下は、玄侑宗久さんの「死んだらどうなるの?」という本の、池田晶子さんによる書評です。

 

≪禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。
( 中略 )
私はまずそれを疑った。『意識は脳が生み出す』とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。≫

 

ぼくは玄侑宗久さんの本を読んでいないのですが、この書評だけで判断する限り池田さんの言うことはごもっともという気がします。

 

臨済宗妙心寺のご開山は関山慧玄という人ですが、ある修行者に死について問われたところ、「わしのところには生死なぞない」(慧玄が会裏に生死無し)と答えたのだそうです。釈尊も死後のことは無記としていたのだから、妙心寺派の僧侶である玄侑宗久師がこのことを知らないはずがないので、おそらく方便として死後のことに言及しているのでしょう。今回の記事では、この本の内容はともかく、池田さんの批判を通して禅の世界観について述べてみようと思います。

 

池田さんは、科学的知見を使用していることをとがめています。ぼくたちは通常ことの正否を判断するのには科学的に考えるのが良いとされているのですが、禅的観点からするとそれは違うのです。禅的にみるということは究極的な素朴さで見るということです。究極的な素朴さで見るということは、感性でとらえることのできない超越的なものを排除するということです。

 

超越的なものを排除すると、いったん科学は忘れなくてはなりません。よくよく反省すれば、「意識が脳に生じる」という知識も、ぼくたちは人づてに聞いたことをそのままうのみにしているわけです。光や電気とか引力というような概念も同じように教えられたから知っているだけの話です。

 

遠くの山を見た時、ぼくたちは太陽の光が山から反射されて、その光をぼくたちは見ていると考えるようになりました。本当にそうでしょうか? ぼくには見えているのは「光」ではなく、遠くの「あの山」なんです。見えているのは山であって光ではない、という気がするのです。

 

禅や哲学は科学を否定するわけではありません。科学をぼくたちの世界観の中で正しい位置に再配置しようということなのです。以前の記事「心はどうやって生まれるのか」でご紹介したマッハのことばを再掲します。

 

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫

 

「遠くの山が見える」という現象を科学は、光や反射とか視神経というパラメーターで関数的に記述するのです。あくまでそれは記述にすぎない。科学により、ぼくたちは、「光が目に入る」から「あの山が見える。」と考えがちだけれど、それは逆で、本当は「あの山が見える」から「光が目に入る」と想定しているのです。
「光が目に入る」というのは想定であって事実ではない、あくまで仮説であり、もっと突っ込んで言えばフィクションなのです。まず第一義的には「遠くの山が見える」という事実がある。このことを忘れてはならんと思うのです。

心はどこにあるのか

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「心はどこにあるのか?」と問われると、たいていの人は脳にあると考えているのではないでしょうか。でも、これは医学・生理学が普及してからのことで、昔の人は心臓にあると考えていたようです。私はラテン音楽が好きでよく聴くのですが、歌詞の中にやたら"コラソン"という言葉が出てきます。この単語は、心臓という意味と心という意味を兼ねているのです。だからラテン系の人々にとっては、今でも心は心臓にあるんですね。

 

心が心臓にあると考えられたのは、感情が高ぶった時に心臓の鼓動をより強く意識するというところにあるんだと思います。現在脳にあると考えられるようになったのは、科学的知見もさることながら我々の意識に占める視覚と聴覚の比重が大きいからではないでしょうか。もし膝の前面に目が、そして膝の外側に耳があったらどうでしょうか? 足を前に出すと、上の方に自分ののっぺらぼうな頭が見えるのです。たとえ脳がそのまま頭の中だとしても、意識の中心は両膝の中間あたりに感じるのではないかと想像します。

 

意識の中心は常に一定ではなく、その時の状況によって変わります。空手の試合において、相手に激しく突きと蹴りをくり出す時、意識はこぶしの先とつま先に集中します。その時、手や足に意志があるかのように感じます。いくら「手よ動け」と念じても手は動かないはずです。手を動かすのは実は手自身なのです。

 

読書に没頭している時、考えているのは読んでいる本の字だったりします。あなたはぼくの書いたこの記事を読んでいるわけですが、ディスプレイの文字が語っているように感じませんか? そのように感じたらあなたはこのディスプレイ上で考えているわけです。

 

人は考えない。考えているのは本のページまたはディスプレイである。

 

禅の坊さんが木を見れば木が自分であるというようなことを言います。奇妙なもの言いでありますが、自分の心というものが空間上のどこか(例えば頭の中)を占めている、という考えを捨て去れば納得いくような気もするのです。

 

シアトルから見るオリンピック半島の山々

前回記事では、机や人間というような個物について、その普遍的な本質というものが存在しないということを述べたのですが、今回は個物以外の概念について考えてみたいと思います。

 

古代インドの哲学者龍樹は大乗仏教の祖とされている人ですが、『中論』という書物を表しています。その中に次のような一節があります。

 

すでに去ったものは去らない。 
いまだ去らないものは去らない。 
現在去りつつあるものも去らない。 

 

「すでに去ったもの」や「いまだ去らないもの」が去らない、というのはわかりますが、「現在去りつつあるもの」が去らないというのは、ちょっとその意味が分かりません。一体どうしたことでしょう。

 

龍樹のこのような奇妙なことばを理解するには、その背景を知る必要があります。中村元博士は「『中論』は論争の書である。」と言っています。そのころ説一切有部という有力な学派ががありました。その学派が概念がイデア的に実在するということを主張していたらしいのです。例えば、「走る」という動作についても、その「走る」というありかたの範型が形而上の領域に存在する。それも、人類が生まれる前から人類が滅びた後も実在する、というのです。それどころか、説一切有部の理論を拡大していくと、「走る馬」という概念ばかりか、「馬が走る」という命題さえもイデア的に実在する、というのです。

 

イデア的に実在するということは、それぞれの概念が個別に独立して存在するということでもあります。そうすると、「走る馬」と「走る」を組み合わせて、「走る馬は走る」という表現が可能であるばかりでなく、「走る馬は走らない」という表現も可能になるはずだ、というのが龍樹の主張です。龍樹は「走る馬は走らない」ということを主張したいわけではなく、説一切有部の主張することが正しければ、矛盾が生じるということを言いたいのです。無常を根本原理とする龍樹の立場では、永遠不変のイデアは認めることのできない概念です。

 

仏教は絶対的概念を認めません。すべては相対的で関係性の中から概念も生まれてくると考えるのです。だから、「走る」というありかたも、人間の生活様式やらいろいろの関係性から生じてくる、と考えられるのです。

 

では、「走る」のゲシュタルト崩壊を試みてみましょう。同じ字を続けてたくさん書き続けるとその字についてゲシュタルト崩壊すると言われています。ここではいろんな「走る」をもい浮かべてみましょう。「御坊哲が走る」、「トカゲが走る」、「稲妻が走る」、「ひかり号が走る」、「虫唾が走る」、「ダチョウが走る」、「妻が走る」、「キリンが走る」、「東京タワーが走る」、「日本が走る」、‥‥‥。
どうです、「走る」はゲシュタルト崩壊しましたか? 「走る」っていったい何だっけ? というような感覚に陥りませんでしたか?

 

そうですか、崩壊しませんでしたか。ではもうちょっと理屈で攻めたいと思います。
もし、「走る」がイデア的にあるのならば、その普遍的な定義も存在する筈です。おそらくほとんどの人は、「両足を交互に前に出して速く進む」といったところでしょうか。
問題になるのは「速く」が厳密に定義できないことです。ここはオリンピックの競歩の定義を援用して、「両足を交互に前に出し進む、かつ前に出した足が着地する前に後ろの足は地面を離れていなくてはいけない。」としましょう。普通にこの定義の通りにすれば、だれの目にも走っているように見えるはずです。

 

では、この普通に走っている状態から、少しずつ歩幅を狭めていくことにします。そうすると、ある時点で「これはもう走っているとは言えないんじゃないか。」と言いたくなる時が来るはずです。例えば歩幅が1cmになったら、もう誰の目にも片足ずつ交互にその場飛びをしているようにしか見えないはずです。

 

問題は、「走っている」から「その場飛びしている」に変わるその境界が、だれでも一致するようには明確に引けないことです。「走る」の普遍的定義が困難なことが理解していただけたでしょうか。

 

仏教では、独自で存在できるという絶対的なものは認めないのです。なにごとも相対的であり関係性の中から生まれてくると考えます。というと、絶対的なものがなければ相対的ということも生まれないのではないかという人も時々いますが、それは西洋的な形式的な考え方に過ぎないと思います。絶対というのは一応矛盾のない概念としては存在しますが、現実には存在しない空疎で形式的な概念にすぎません。言うなれば絶対というのも関係性の中から生まれる相対的な概念なのです。

 

例えば、位置というものについて考えてみましょう。銀行は駅を出て、左に30メートルのセブンイレブンのある角をさらに左に曲がって、10メートル進んだところ、というふうに表現されます。これは銀行を駅からの相対関係で示しています。ロケーションを示すには、絶対表現というのもあってこちらの方は、緯度と経度でそれぞれ何度何分何秒で表現されます。でも、これは絶対と言っても、グリニッジ天文台と赤道を基準にした相対位置にすぎません。グリニッジ天文台と赤道が不動のものであれば、緯度と経度による表現は絶対的なものと言っても良いですが、地球は自転しながら公転もしているのだから、宇宙的な規模で見れば位置に関しては絶対的な基準はどこにもないのです。空間的位置に関する限り、絶対的基準がどこにもないにもかかわらず、私たちは相対的位置の中にいます。絶対はなくとも相対はあるわけです。

 

自家製ピザ

ゲシュタルトについてインターネットで検索していると、ゲシュタルト崩壊という言葉が頻繁に出てくる。その説明を読んでいるとどうも釈空観の説明に似ていることに気がつきました。

 

釈空観というのは、仏教の「空」を言葉で説明したものです。例えば、≪机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。≫ というような見方です。つまり、机は人間の生活習慣の中における使用目的という観点から、机の構成要素全体を統合しなければ「机」たり得ないわけです。あくまで、現代の人間の「恣意的」な視点によらなければ「机」は見えてこない。そういう意味で「机」は普遍的ではないわけです。

 

ゲシュタルト崩壊についてWikipedia から引用しますと、≪全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。≫となっております。たとえば「傷」という字をじっと凝視していると、「傷ってこんな字だったかなぁ」という感覚に陥るらしいのです。( 試したい方はこちらをクリック==>「ゲシュタルト崩壊」 ) これは、机が木切れの寄せ集めにしか見えないのと同じようなことだと思います。

 

つまり、仏教でいう空観とは、概念のゲシュタルト崩壊と言ってもいいのではないかと思うのです。例えば「人間」という概念について考えてみましょう。自分の父親を思い浮かべてみる。ぼくにかなり似ています。やはり人間でしょう。それからお祖父ちゃん‥‥、曾祖父‥とだんだんさかのぼっていくうちに顔かたちがかなり変わってきます、北京原人に似た人やクロマニョン人に似た人とか出てきて、ついには全身毛むくじゃらのチンパンジーとゴリラの中間みたいのまで行くと、「あれっ人間ってどんなだったっけ?」となります。これってゲシュタルト崩壊ではありませんか。

 

プラトンは人間のイデアというものが存在すると考えていました。人間にはいろいろなバリエーションがあって、各個人個人は姿かたちが違います。しかし、どの人を見ても人間であるということが分かるのは、範型としての人間のイデアというものがあるからだというのです。それは「普遍的人間」であり、人間の概念を規定するものと言ってもいいでしょう。もしそんなものがあれば、人間と人間以外は厳密に識別できるはずです。しかしどうでしょうか、「ネアンデルタール人は人間か?」と問われたら、おそらく人によって判断は分かれると思います。

 

仏教では普遍的な人間のイデアというものを認めないどころか、各個人の同一性というものも認めません。御坊哲という個人について見ますと、幼稚園に行っていたころのぼくは、今の僕とは全然違います。このブログを書く前と書いた後の御坊もすでに変化しています。ぼくは毎日ご飯を食べ水を飲みそれを排泄しています。細胞も常に入れ替わっています。いわば台風のようなものです。台風はよく見てみれば空気が渦を巻いているだけで、その空気も常に入れ替わっています。一体台風そのものの本体は何なのでしょうか? ぼくたちは何を指して台風と呼んでいるのでしょう?
このように考えていくと、台風の全体性が失われてゲシュタルト崩壊しませんか?
御坊哲も台風みたいなものです。栄養を外から取り込んで、細胞を新陳代謝させ、老廃物を排泄する。この繰り返しです。台風よりは緩慢ですが、時間がたてばすべての細胞が入れ替わります。

 

仏教では、あらゆるものが常にダイナミックに変化していると見ます。その変化の中で比較的安定しているものが個物とみなされているのです。あくまで比較的安定であって絶対的ではありません。常に流動的ですから、すべては偶然的で完全なものは存在しません。イデア論とは真逆のものの見方をするわけです。

 

次回は龍樹の空観について述べたいと思います。 ( その2に続く )

心はどうやって生まれるのか

テーマ:

先日、NHK-ELのサイエンス・ゼロという番組を見たんですが、心を人工的に造り出すという試みにチャレンジしている人たちがいるそうです。科学によって意識というものも少しずつ解明されているということも言っていました。

 

しかし、この「心はどうやって生まれるのか」というタイトルには少し違和感を感じるんですね。もし科学がもっと進んでいけば、神経細胞がこのような状態になった時このようなことを人は考えている、ということが正確にわかるようになるかもしれません。そうなれば、本当に人間のように価値観を持ち、主体的に施行する人工頭脳をつくることができるかもしれない。

 

それでも、はたして心を造ったと言えるのか?という疑問は依然として残るような気がします。それは、ただ単にそのように反応し、そのように作動する機械を造っただけのことではないのか、という思いは消えないような気がするんです。

 

例えば、その機械が空を見て、「ああ、空が青いなぁ」と言ったとします。その時その機械の中には本当に青のクォリアが生じているのかどうかは確かめようがありません。その機械を作った人間から見れば、青い空を見たら「ああ、空が青いなぁ」と発言するメカニズムは既に分かっています。しかし、そのメカニズムは初めから最後まで物理現象によるメカニズムです。その機械の網膜に相当する部分に映る像は確かに青い色をしています。しかし、それは第三者としてのぼくがその網膜に映った像を見れば確かに青く見えるのですが、その機械の中では電気信号になって脳に送られます。そしてそのプロセスの中のどこをさがしても、電気的な作用があるだけでどこにもぼくが実際に見ている青い色あいそのものが見当たらないのです。

 

これがいわゆる心身問題です「意識のハードプロブレム」とも言います。が、特定の波長の光が視神経を刺激すればぼくたちには青く見える、ということは現在でも既に分かっていることです。しかし、物理現象がどうして意識上の青い色になるのかがどうしても説明できない。これ以上科学が進んでもより精密なメカニズムが分かるだけのことで、根本的に心身問題が解明されることはないように思えます。

 

そこで気づくのですが、物理現象から意識現象を説明する、ということがそもそも逆転した発想ではないかとぼくは思うのです。あえて主客二元的な構図で説明しますと、通常は客体があってそれを主観がとらえるというふうにぼくたちは考える。つまり、リンゴという客体があるから、ぼくという主観に赤くて丸いものが見える、と思いがちです。しかし、現象学的な表現でいえば実はこれは逆で、赤くて丸いものが見えるから、そこにリンゴがあると確信するわけです。つまり因果でいうと、客観が因で主観に果が生じるのではなく、主観が因で客観に果を想定しているわけです。

 

ここで、エルンスト・マッハの科学についての見方をご紹介しましょう。

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫(Wikipediaより)

 

感覚諸要素とは我々が直接見聞きする現象のことです。いわば「空が青い」というようなことです。「関数的関係を記述する」とは、光の波長や視神経パルスというような概念を使用して「空が青く」見えていることのメカニズムを明らかにすることです。「思考経済の原理に沿って」というのは、出来るだけ余分な概念を使わないでシンプルに説明する、ということでしょう。マッハにとっては、光だとか波長というのも、それを想定すればもっとも簡単に説明できるという、構成された概念であるということです。あくまで実在するものは「感覚諸要素(現象)」であります。

 

もう一つ、西田幾多郎の「善の研究」から引用します。

≪我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を抽象したのにすぎない。≫

 

明確に意識現象だけが実在で、物体現象というのは各人に共通で普遍的関係を抽象したものである、と述べております。マッハと西田について共通に言えることは、我々が実在している物理的世界というのは「構成された」一種のモデルであるということです。本当に実在するのは、「空が青い」という我々の意識がとらえた現象のみであるということです。

 

「空が青い」という我々の意識がとらえた事実から、「青く見えるときの光の波長は‥‥」であるという物理学的対応を導き出しているわけです。すなわち、「主」から「客」を導いている。

 

ところが、何事にも理由を知りたがる現代人はここで、「光の波長が‥‥だと、どうして青く見えるのだろう?」とあらためて問うのです。私にはこの問いがナンセンスなように思えます。そのように問いたくなるのは、物理的世界が実在であって、それが原因となり我々の意識が結果として生まれてくるという発想があるからでしょう。どうしても、「客」から「主」を導き出したがるわけです。

 

事実は逆であります。実は「空が青い」ということがまず何より第一義的な事実なのです。このような見方は禅仏教における真理観とも符合します。禅仏教においては実存的視点から見える光景がそのまま真実であり、その背後に隠れている真実など無いのであります。「柳は緑、花は紅」というのは端的にそのことを表す言葉です。

 

ア・プリオリは疑えない

テーマ:

(哲学的)アプリオリという概念は間違っておぼえられ易いものらしい。『必然的にそうでなくてはならない』というところから、無反省に思い込むことがアプリオリの意味であると勘違いされているケースもあるようです。

 

アプリオリの概念が難しいのは、それが余りにも当たり前のことだからだと思います。典型的なアプリオリな命題としては矛盾率(無矛盾率)があります。

 

矛盾率とは、A=BとA≠Bは同時には成り立たない、つまり「背反するものが同時に成立することはない」ということです。このことは誰もが正しいと認めていますが、決して証明されたわけではありません。証明も否定もできないのです。そもそもわれわれが「証明」と称しているもの自体が矛盾率を前提としているので、矛盾率の真偽を証明しようと思っても、その証明に矛盾率を使わなくてはならなくなるのです。

 

矛盾率のように、一般に論理学でいうところの論理はみなアプリオリです。それを無条件に認めなければ思考そのものが不可能になります。「演繹」とは前提から論理をつないで思考することですが、正しい前提から演繹されたものはすべてアプリオリに正しいとみなされます。

 

演繹の例としては三段論法があります。

 

大前提: 全ての人間は死すべきものである。 
小前提: ソクラテスは人間である。 
結論 : ゆえにソクラテスは死すべきものである。

 

この時、前提が正しければ結論は必然的に正しくなります。三段論法の正しさはアプリオリに保証されているのです。ただしここで注意しなくてはいけないのは、三段論法はアプリオリに正しくても、結論は必ずしもアプリオリに正しいとは言えません。上の例でいうと、大前提は法則で、小前提は法則の適用条件となっています。一般に法則は事実から帰納されたもので、アプリオリな正しさは持っていないのです。だから結論もアプリオリに正しいとは言えないのです。

 

あと、アプリオリなものとしては「意味上の」正しさというのがあります。
「(同性婚でなければ、)A君がBさんの夫ならば、BさんはA君の妻である。」
「2は1より大きい」
「無人の部屋のなかに哲はいない。」
以上の命題は定義に照らして正しい命題です。これは疑えません。

 

≪無矛盾律を否定する者は、打たれることが打たれないことと同じでないと認めるまで打たれ、焼かれることが焼かれないことと同じではないと認めるまで焼かれるべきだ≫(イブン・スィーナー、Wikipediaより引用)

人は水の近くに住む。(和歌山県御坊市)