長さとは何か?

テーマ:

ウィトゲンシュタインの「青色本」の冒頭は次のような一節から始まっています。

 

≪語の意味とは何か。
この問題に迫るためにまず、語の意味の説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うてみよう。
こう問うことは、「長さはどうして測るのか」を問うことが「長さとは何か」という問題に役立つのと同じ仕方で役立つ。 ≫

 

初めてこの文章を読んだときは一体何を言っているのかわかりませんでした。「長さとは何か」というのはあまりにも自明のことと思えたからです。しかし、あらためて考えてみるとなんだか落ち着かない気持ちになります。このような「感覚」をウィトゲンシュタインは「知的けいれん」と表現します。哲学はこの知的けいれんから始まるのでしょう。

 

「『長さはどうして測るのか』を問うことが『長さとは何か』という問題に役立つ」と彼は言います。「長さ」の意味に「長さの測り方」を対応させるというプラグマティックな考え方を提案しているのです。

 

小包のサイズを測るにはメジャーを当てて測ります。比較的遠方の距離は三角測量で測ります。非常に遠い銀河の場合には光のスベクトルの赤方偏移によって測定します。このように考えると、「長さ」というのは実は多義的な概念であるということが分かります。

 

と、ここまで読んで、あなたは少し困惑しているのではないかと想像します。「御坊哲は一体何を言っているんだ、『長さ』は『長さ』じゃないか」と思ったのではないでしょうか? そのような困惑についてウィトゲンシュタインは次のように述べています。

 

≪哲学的困惑の大きな源の一つ、名詞があればそれに対応する何かのものを見つけねば困るという考えに迫られるのだ。≫

 

小包のサイズと遠い銀河までの距離を、同じ『長さ』という概念に押し込めるていることには十分な根拠があります。科学的にはそれらを一つのカテゴリーで扱う方がシンプルな理論を形成できるからです。しかし、それらはもともと別のものとも考えられるのです。科学からの要請は、概念をより一般化することを我々に求めますが、ウィトゲンシュタインは概念に一意的な『本質』というものは存在しないというのです。

 

「名詞があればそれに対応する何かのものを見つけねば困る」という感覚は、「時間とはなにか?」について考えれば、「長さ」よりは明瞭になると思います。
ぼくらはどうしても「時間そのもの」を取り出すことはできません。ウィトゲンシュタインのアドバイスは「『時間』という言葉がどのように使われているかを枚挙するしかない。」というものです。

AD

禅的(哲学的)世界観

テーマ:

以下は、玄侑宗久さんの「死んだらどうなるの?」という本の、池田晶子さんによる書評です。

 

≪禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。
( 中略 )
私はまずそれを疑った。『意識は脳が生み出す』とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。≫

 

ぼくは玄侑宗久さんの本を読んでいないのですが、この書評だけで判断する限り池田さんの言うことはごもっともという気がします。

 

臨済宗妙心寺のご開山は関山慧玄という人ですが、ある修行者に死について問われたところ、「わしのところには生死なぞない」(慧玄が会裏に生死無し)と答えたのだそうです。釈尊も死後のことは無記としていたのだから、妙心寺派の僧侶である玄侑宗久師がこのことを知らないはずがないので、おそらく方便として死後のことに言及しているのでしょう。今回の記事では、この本の内容はともかく、池田さんの批判を通して禅の世界観について述べてみようと思います。

 

池田さんは、科学的知見を使用していることをとがめています。ぼくたちは通常ことの正否を判断するのには科学的に考えるのが良いとされているのですが、禅的観点からするとそれは違うのです。禅的にみるということは究極的な素朴さで見るということです。究極的な素朴さで見るということは、感性でとらえることのできない超越的なものを排除するということです。

 

超越的なものを排除すると、いったん科学は忘れなくてはなりません。よくよく反省すれば、「意識が脳に生じる」という知識も、ぼくたちは人づてに聞いたことをそのままうのみにしているわけです。光や電気とか引力というような概念も同じように教えられたから知っているだけの話です。

 

遠くの山を見た時、ぼくたちは太陽の光が山から反射されて、その光をぼくたちは見ていると考えるようになりました。本当にそうでしょうか? ぼくには見えているのは「光」ではなく、遠くの「あの山」なんです。見えているのは山であって光ではない、という気がするのです。

 

禅や哲学は科学を否定するわけではありません。科学をぼくたちの世界観の中で正しい位置に再配置しようということなのです。以前の記事「心はどうやって生まれるのか」でご紹介したマッハのことばを再掲します。

 

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫

 

「遠くの山が見える」という現象を科学は、光や反射とか視神経というパラメーターで関数的に記述するのです。あくまでそれは記述にすぎない。科学により、ぼくたちは、「光が目に入る」から「あの山が見える。」と考えがちだけれど、それは逆で、本当は「あの山が見える」から「光が目に入る」と想定しているのです。
「光が目に入る」というのは想定であって事実ではない、あくまで仮説であり、もっと突っ込んで言えばフィクションなのです。まず第一義的には「遠くの山が見える」という事実がある。このことを忘れてはならんと思うのです。

AD

心はどこにあるのか

テーマ:

「心はどこにあるのか?」と問われると、たいていの人は脳にあると考えているのではないでしょうか。でも、これは医学・生理学が普及してからのことで、昔の人は心臓にあると考えていたようです。私はラテン音楽が好きでよく聴くのですが、歌詞の中にやたら"コラソン"という言葉が出てきます。この単語は、心臓という意味と心という意味を兼ねているのです。だからラテン系の人々にとっては、今でも心は心臓にあるんですね。

 

心が心臓にあると考えられたのは、感情が高ぶった時に心臓の鼓動をより強く意識するというところにあるんだと思います。現在脳にあると考えられるようになったのは、科学的知見もさることながら我々の意識に占める視覚と聴覚の比重が大きいからではないでしょうか。もし膝の前面に目が、そして膝の外側に耳があったらどうでしょうか? 足を前に出すと、上の方に自分ののっぺらぼうな頭が見えるのです。たとえ脳がそのまま頭の中だとしても、意識の中心は両膝の中間あたりに感じるのではないかと想像します。

 

意識の中心は常に一定ではなく、その時の状況によって変わります。空手の試合において、相手に激しく突きと蹴りをくり出す時、意識はこぶしの先とつま先に集中します。その時、手や足に意志があるかのように感じます。いくら「手よ動け」と念じても手は動かないはずです。手を動かすのは実は手自身なのです。

 

読書に没頭している時、考えているのは読んでいる本の字だったりします。あなたはぼくの書いたこの記事を読んでいるわけですが、ディスプレイの文字が語っているように感じませんか? そのように感じたらあなたはこのディスプレイ上で考えているわけです。

 

人は考えない。考えているのは本のページまたはディスプレイである。

 

禅の坊さんが木を見れば木が自分であるというようなことを言います。奇妙なもの言いでありますが、自分の心というものが空間上のどこか(例えば頭の中)を占めている、という考えを捨て去れば納得いくような気もするのです。

 

シアトルから見るオリンピック半島の山々

AD

前回記事では、机や人間というような個物について、その普遍的な本質というものが存在しないということを述べたのですが、今回は個物以外の概念について考えてみたいと思います。

 

古代インドの哲学者龍樹は大乗仏教の祖とされている人ですが、『中論』という書物を表しています。その中に次のような一節があります。

 

すでに去ったものは去らない。 
いまだ去らないものは去らない。 
現在去りつつあるものも去らない。 

 

「すでに去ったもの」や「いまだ去らないもの」が去らない、というのはわかりますが、「現在去りつつあるもの」が去らないというのは、ちょっとその意味が分かりません。一体どうしたことでしょう。

 

龍樹のこのような奇妙なことばを理解するには、その背景を知る必要があります。中村元博士は「『中論』は論争の書である。」と言っています。そのころ説一切有部という有力な学派ががありました。その学派が概念がイデア的に実在するということを主張していたらしいのです。例えば、「走る」という動作についても、その「走る」というありかたの範型が形而上の領域に存在する。それも、人類が生まれる前から人類が滅びた後も実在する、というのです。それどころか、説一切有部の理論を拡大していくと、「走る馬」という概念ばかりか、「馬が走る」という命題さえもイデア的に実在する、というのです。

 

イデア的に実在するということは、それぞれの概念が個別に独立して存在するということでもあります。そうすると、「走る馬」と「走る」を組み合わせて、「走る馬は走る」という表現が可能であるばかりでなく、「走る馬は走らない」という表現も可能になるはずだ、というのが龍樹の主張です。龍樹は「走る馬は走らない」ということを主張したいわけではなく、説一切有部の主張することが正しければ、矛盾が生じるということを言いたいのです。無常を根本原理とする龍樹の立場では、永遠不変のイデアは認めることのできない概念です。

 

仏教は絶対的概念を認めません。すべては相対的で関係性の中から概念も生まれてくると考えるのです。だから、「走る」というありかたも、人間の生活様式やらいろいろの関係性から生じてくる、と考えられるのです。

 

では、「走る」のゲシュタルト崩壊を試みてみましょう。同じ字を続けてたくさん書き続けるとその字についてゲシュタルト崩壊すると言われています。ここではいろんな「走る」をもい浮かべてみましょう。「御坊哲が走る」、「トカゲが走る」、「稲妻が走る」、「ひかり号が走る」、「虫唾が走る」、「ダチョウが走る」、「妻が走る」、「キリンが走る」、「東京タワーが走る」、「日本が走る」、‥‥‥。
どうです、「走る」はゲシュタルト崩壊しましたか? 「走る」っていったい何だっけ? というような感覚に陥りませんでしたか?

 

そうですか、崩壊しませんでしたか。ではもうちょっと理屈で攻めたいと思います。
もし、「走る」がイデア的にあるのならば、その普遍的な定義も存在する筈です。おそらくほとんどの人は、「両足を交互に前に出して速く進む」といったところでしょうか。
問題になるのは「速く」が厳密に定義できないことです。ここはオリンピックの競歩の定義を援用して、「両足を交互に前に出し進む、かつ前に出した足が着地する前に後ろの足は地面を離れていなくてはいけない。」としましょう。普通にこの定義の通りにすれば、だれの目にも走っているように見えるはずです。

 

では、この普通に走っている状態から、少しずつ歩幅を狭めていくことにします。そうすると、ある時点で「これはもう走っているとは言えないんじゃないか。」と言いたくなる時が来るはずです。例えば歩幅が1cmになったら、もう誰の目にも片足ずつ交互にその場飛びをしているようにしか見えないはずです。

 

問題は、「走っている」から「その場飛びしている」に変わるその境界が、だれでも一致するようには明確に引けないことです。「走る」の普遍的定義が困難なことが理解していただけたでしょうか。

 

仏教では、独自で存在できるという絶対的なものは認めないのです。なにごとも相対的であり関係性の中から生まれてくると考えます。というと、絶対的なものがなければ相対的ということも生まれないのではないかという人も時々いますが、それは西洋的な形式的な考え方に過ぎないと思います。絶対というのは一応矛盾のない概念としては存在しますが、現実には存在しない空疎で形式的な概念にすぎません。言うなれば絶対というのも関係性の中から生まれる相対的な概念なのです。

 

例えば、位置というものについて考えてみましょう。銀行は駅を出て、左に30メートルのセブンイレブンのある角をさらに左に曲がって、10メートル進んだところ、というふうに表現されます。これは銀行を駅からの相対関係で示しています。ロケーションを示すには、絶対表現というのもあってこちらの方は、緯度と経度でそれぞれ何度何分何秒で表現されます。でも、これは絶対と言っても、グリニッジ天文台と赤道を基準にした相対位置にすぎません。グリニッジ天文台と赤道が不動のものであれば、緯度と経度による表現は絶対的なものと言っても良いですが、地球は自転しながら公転もしているのだから、宇宙的な規模で見れば位置に関しては絶対的な基準はどこにもないのです。空間的位置に関する限り、絶対的基準がどこにもないにもかかわらず、私たちは相対的位置の中にいます。絶対はなくとも相対はあるわけです。

 

自家製ピザ

ゲシュタルトについてインターネットで検索していると、ゲシュタルト崩壊という言葉が頻繁に出てくる。その説明を読んでいるとどうも釈空観の説明に似ていることに気がつきました。

 

釈空観というのは、仏教の「空」を言葉で説明したものです。例えば、≪机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。≫ というような見方です。つまり、机は人間の生活習慣の中における使用目的という観点から、机の構成要素全体を統合しなければ「机」たり得ないわけです。あくまで、現代の人間の「恣意的」な視点によらなければ「机」は見えてこない。そういう意味で「机」は普遍的ではないわけです。

 

ゲシュタルト崩壊についてWikipedia から引用しますと、≪全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。≫となっております。たとえば「傷」という字をじっと凝視していると、「傷ってこんな字だったかなぁ」という感覚に陥るらしいのです。( 試したい方はこちらをクリック==>「ゲシュタルト崩壊」 ) これは、机が木切れの寄せ集めにしか見えないのと同じようなことだと思います。

 

つまり、仏教でいう空観とは、概念のゲシュタルト崩壊と言ってもいいのではないかと思うのです。例えば「人間」という概念について考えてみましょう。自分の父親を思い浮かべてみる。ぼくにかなり似ています。やはり人間でしょう。それからお祖父ちゃん‥‥、曾祖父‥とだんだんさかのぼっていくうちに顔かたちがかなり変わってきます、北京原人に似た人やクロマニョン人に似た人とか出てきて、ついには全身毛むくじゃらのチンパンジーとゴリラの中間みたいのまで行くと、「あれっ人間ってどんなだったっけ?」となります。これってゲシュタルト崩壊ではありませんか。

 

プラトンは人間のイデアというものが存在すると考えていました。人間にはいろいろなバリエーションがあって、各個人個人は姿かたちが違います。しかし、どの人を見ても人間であるということが分かるのは、範型としての人間のイデアというものがあるからだというのです。それは「普遍的人間」であり、人間の概念を規定するものと言ってもいいでしょう。もしそんなものがあれば、人間と人間以外は厳密に識別できるはずです。しかしどうでしょうか、「ネアンデルタール人は人間か?」と問われたら、おそらく人によって判断は分かれると思います。

 

仏教では普遍的な人間のイデアというものを認めないどころか、各個人の同一性というものも認めません。御坊哲という個人について見ますと、幼稚園に行っていたころのぼくは、今の僕とは全然違います。このブログを書く前と書いた後の御坊もすでに変化しています。ぼくは毎日ご飯を食べ水を飲みそれを排泄しています。細胞も常に入れ替わっています。いわば台風のようなものです。台風はよく見てみれば空気が渦を巻いているだけで、その空気も常に入れ替わっています。一体台風そのものの本体は何なのでしょうか? ぼくたちは何を指して台風と呼んでいるのでしょう?
このように考えていくと、台風の全体性が失われてゲシュタルト崩壊しませんか?
御坊哲も台風みたいなものです。栄養を外から取り込んで、細胞を新陳代謝させ、老廃物を排泄する。この繰り返しです。台風よりは緩慢ですが、時間がたてばすべての細胞が入れ替わります。

 

仏教では、あらゆるものが常にダイナミックに変化していると見ます。その変化の中で比較的安定しているものが個物とみなされているのです。あくまで比較的安定であって絶対的ではありません。常に流動的ですから、すべては偶然的で完全なものは存在しません。イデア論とは真逆のものの見方をするわけです。

 

次回は龍樹の空観について述べたいと思います。 ( その2に続く )

心はどうやって生まれるのか

テーマ:

先日、NHK-ELのサイエンス・ゼロという番組を見たんですが、心を人工的に造り出すという試みにチャレンジしている人たちがいるそうです。科学によって意識というものも少しずつ解明されているということも言っていました。

 

しかし、この「心はどうやって生まれるのか」というタイトルには少し違和感を感じるんですね。もし科学がもっと進んでいけば、神経細胞がこのような状態になった時このようなことを人は考えている、ということが正確にわかるようになるかもしれません。そうなれば、本当に人間のように価値観を持ち、主体的に施行する人工頭脳をつくることができるかもしれない。

 

それでも、はたして心を造ったと言えるのか?という疑問は依然として残るような気がします。それは、ただ単にそのように反応し、そのように作動する機械を造っただけのことではないのか、という思いは消えないような気がするんです。

 

例えば、その機械が空を見て、「ああ、空が青いなぁ」と言ったとします。その時その機械の中には本当に青のクォリアが生じているのかどうかは確かめようがありません。その機械を作った人間から見れば、青い空を見たら「ああ、空が青いなぁ」と発言するメカニズムは既に分かっています。しかし、そのメカニズムは初めから最後まで物理現象によるメカニズムです。その機械の網膜に相当する部分に映る像は確かに青い色をしています。しかし、それは第三者としてのぼくがその網膜に映った像を見れば確かに青く見えるのですが、その機械の中では電気信号になって脳に送られます。そしてそのプロセスの中のどこをさがしても、電気的な作用があるだけでどこにもぼくが実際に見ている青い色あいそのものが見当たらないのです。

 

これがいわゆる心身問題です「意識のハードプロブレム」とも言います。が、特定の波長の光が視神経を刺激すればぼくたちには青く見える、ということは現在でも既に分かっていることです。しかし、物理現象がどうして意識上の青い色になるのかがどうしても説明できない。これ以上科学が進んでもより精密なメカニズムが分かるだけのことで、根本的に心身問題が解明されることはないように思えます。

 

そこで気づくのですが、物理現象から意識現象を説明する、ということがそもそも逆転した発想ではないかとぼくは思うのです。あえて主客二元的な構図で説明しますと、通常は客体があってそれを主観がとらえるというふうにぼくたちは考える。つまり、リンゴという客体があるから、ぼくという主観に赤くて丸いものが見える、と思いがちです。しかし、現象学的な表現でいえば実はこれは逆で、赤くて丸いものが見えるから、そこにリンゴがあると確信するわけです。つまり因果でいうと、客観が因で主観に果が生じるのではなく、主観が因で客観に果を想定しているわけです。

 

ここで、エルンスト・マッハの科学についての見方をご紹介しましょう。

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫(Wikipediaより)

 

感覚諸要素とは我々が直接見聞きする現象のことです。いわば「空が青い」というようなことです。「関数的関係を記述する」とは、光の波長や視神経パルスというような概念を使用して「空が青く」見えていることのメカニズムを明らかにすることです。「思考経済の原理に沿って」というのは、出来るだけ余分な概念を使わないでシンプルに説明する、ということでしょう。マッハにとっては、光だとか波長というのも、それを想定すればもっとも簡単に説明できるという、構成された概念であるということです。あくまで実在するものは「感覚諸要素(現象)」であります。

 

もう一つ、西田幾多郎の「善の研究」から引用します。

≪我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を抽象したのにすぎない。≫

 

明確に意識現象だけが実在で、物体現象というのは各人に共通で普遍的関係を抽象したものである、と述べております。マッハと西田について共通に言えることは、我々が実在している物理的世界というのは「構成された」一種のモデルであるということです。本当に実在するのは、「空が青い」という我々の意識がとらえた現象のみであるということです。

 

「空が青い」という我々の意識がとらえた事実から、「青く見えるときの光の波長は‥‥」であるという物理学的対応を導き出しているわけです。すなわち、「主」から「客」を導いている。

 

ところが、何事にも理由を知りたがる現代人はここで、「光の波長が‥‥だと、どうして青く見えるのだろう?」とあらためて問うのです。私にはこの問いがナンセンスなように思えます。そのように問いたくなるのは、物理的世界が実在であって、それが原因となり我々の意識が結果として生まれてくるという発想があるからでしょう。どうしても、「客」から「主」を導き出したがるわけです。

 

事実は逆であります。実は「空が青い」ということがまず何より第一義的な事実なのです。このような見方は禅仏教における真理観とも符合します。禅仏教においては実存的視点から見える光景がそのまま真実であり、その背後に隠れている真実など無いのであります。「柳は緑、花は紅」というのは端的にそのことを表す言葉です。

 

ア・プリオリは疑えない

テーマ:

(哲学的)アプリオリという概念は間違っておぼえられ易いものらしい。『必然的にそうでなくてはならない』というところから、無反省に思い込むことがアプリオリの意味であると勘違いされているケースもあるようです。

 

アプリオリの概念が難しいのは、それが余りにも当たり前のことだからだと思います。典型的なアプリオリな命題としては矛盾率(無矛盾率)があります。

 

矛盾率とは、A=BとA≠Bは同時には成り立たない、つまり「背反するものが同時に成立することはない」ということです。このことは誰もが正しいと認めていますが、決して証明されたわけではありません。証明も否定もできないのです。そもそもわれわれが「証明」と称しているもの自体が矛盾率を前提としているので、矛盾率の真偽を証明しようと思っても、その証明に矛盾率を使わなくてはならなくなるのです。

 

矛盾率のように、一般に論理学でいうところの論理はみなアプリオリです。それを無条件に認めなければ思考そのものが不可能になります。「演繹」とは前提から論理をつないで思考することですが、正しい前提から演繹されたものはすべてアプリオリに正しいとみなされます。

 

演繹の例としては三段論法があります。

 

大前提: 全ての人間は死すべきものである。 
小前提: ソクラテスは人間である。 
結論 : ゆえにソクラテスは死すべきものである。

 

この時、前提が正しければ結論は必然的に正しくなります。三段論法の正しさはアプリオリに保証されているのです。ただしここで注意しなくてはいけないのは、三段論法はアプリオリに正しくても、結論は必ずしもアプリオリに正しいとは言えません。上の例でいうと、大前提は法則で、小前提は法則の適用条件となっています。一般に法則は事実から帰納されたもので、アプリオリな正しさは持っていないのです。だから結論もアプリオリに正しいとは言えないのです。

 

あと、アプリオリなものとしては「意味上の」正しさというのがあります。
「(同性婚でなければ、)A君がBさんの夫ならば、BさんはA君の妻である。」
「2は1より大きい」
「無人の部屋のなかに哲はいない。」
以上の命題は定義に照らして正しい命題です。これは疑えません。

 

≪無矛盾律を否定する者は、打たれることが打たれないことと同じでないと認めるまで打たれ、焼かれることが焼かれないことと同じではないと認めるまで焼かれるべきだ≫(イブン・スィーナー、Wikipediaより引用)

人は水の近くに住む。(和歌山県御坊市)

ア・プリオリってなんだろう?

テーマ:

「ア・プリオリ」は「先験的」という意味ですが、学問領域によって微妙に意味が違うようです。哲学においては、「経験的事実などに基づかなくとも、『必然的にそうでなくてはならない』という判断」を「ア・プリオリである」というふうに言います。

 

時々、「すべての人が死ぬのはア・プリオリな事実である。」という人がいたりしますが、これは間違いです。「すべての人が死ぬ」というのは必然で普遍的事実のように考えられていますが、哲学的には必然的でも普遍的でもないのです。「すべての人が死ぬ」ということは、「江戸時代以前に生まれた人で生き残っている人は一人もいない」というような経験的事実から帰納的に導き出された知識だからです。おそらく子供は教えられなければ、自分もパパもママもずっと生き続けると、思っているはずです。

 

私達は経験がなければどんな知識を持つこともできませんが、その経験を可能にする判断能力がもともと備わっていなくては、経験は可能ではありません。その生来の能力が「論理」です。日常的に「論理」という言葉はよく使われますが、哲学で「論理」というときはア・プリオリな判断能力を言います。

 

例えば、一つと二つを識別するとか、「あるものが、赤色であって同時に緑色であることはできない」のように、どう考えても必然であるような判断はア・プリオリな論理だといえます。

 

論理の中の重要な機能として「推論」があります。推論には帰納的推論と演繹的推論がありますが、特に注意しなくてはならないのは、演繹的推論はア・プリオリですが、帰納的推論はア・プリオリな論理ではないということです。

 

帰納的推論とは、経験的事実をもとに法則を予測するような推論です。例えば、万有引力の法則は、空中で話したものは地面に落ちるとか地球が太陽の周りをまわっているとか、そのような経験的事実をもとに想定されたものです。万有引力の法則に限らず、自然科学における法則はすべて帰納的推論によってできたものです。

 

その帰納的推論がア・プリオリな論理ではないということから、自然科学の法則は「論理的根拠を持たない」という一般常識からはちょっとずれた結論が導かれます。一見奇妙に感じますが、哲学的にはこれは常識であります。自然科学の法則は「厳密な」意味において必然性を持たないのです。それ故、自然科学の理論はどれも永久に仮説のままです。反例一つで覆る可能性があるため、厳密な必然とは認められないのです。

 

科学法則に論理的必然性がないことを初めて指摘したのがイギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームです。ヒュームは「原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはない。」と言い、因果関係そのものが習慣からくる心理的なものであると結論付けました。

 

カントは帰納法による科学法則に厳密な必然性がないことは認めたのですが、因果関係そのものはア・プリオリであると主張しました。因果律がなければ、法則そのものが存在しえないからです。世界に因果律が存在するという前提がなければ、科学者は宇宙の秩序を探ろうという動機を失ってしまいます。カントは超越論的観念論の構成主義が正しくなければ、自然科学が不可能であると考えたのです。

 

アメリカの八百屋さんの店先でROMANESCOという野菜が気になりました。どうもカリフラワーの仲間らしいです。

 

超越論的ってなんだろう?

テーマ:

在野からはレベルの高い哲学は生まれない、というのは残念だけれども当たっていると思います。やはりアカデミックな場で切磋琢磨されないと、考え方は洗練されないし、独学だと述語一つの意味が分からなくて、何か月もドツボにはまったような状態になってしまうこともあるのです。

 

前々回の記事「何かを知っているということ (その3)」で、「超越論的」という言葉を「認識に関する条件を見極めようとする態度」という説明でその場をやり過ごしたのですが、正直に白状すると、ちゃんと説明しろと言われてもできないのです。中山元訳の「純粋理性批判」の7巻を買いそろえたのが約2年前ですが、いまだにこの言葉の意味がよく分かりません。「超越論的」という言葉はカントが作った言葉で、彼自身がその意味を次のように説明しています。

 

≪わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、私たちが対象を認識する方法そのものものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。≫(純粋理性批判 B025)

 

一読してなかなかわかるものではないと思います。要は認識の対象についてではなく認識そのものを吟味するというような趣旨であることはうかがえますが、「アプリオリに可能なかぎり」などという言葉が出てくると戸惑います。

 

「第4の誤謬推論」の中でカントは、「超越論的な観念論者は経験的な実在論者でもある。」と述べています。超越論的という言葉を経験的という言葉と対比させて考えてみましょう。

 

「経験的」というのは、経験的事実をもとに整合性のあるものの見方をしようということでしょう。例えば、目の前にリンゴがあるとして、どの角度から見ても一つのリンゴとして矛盾のない見え方をする、それを手にしたときの肌触りも確かにリンゴである。かじってみればまさしく甘酸っぱいリンゴである。つまりそれはリンゴの実在そのものである。そこにはいささかの矛盾もありません。これが経験的実在論でしょう。

 

しかし、現代の学校教育を受けた人はたいてい、超越論的実在論の立場をとります。つまり、リンゴの実体が赤の波長の可視光線を反射し、結果的に私たちの脳にリンゴの像をつくる、というような見方です。これが、10月8日の記事「この世界は”現実”なのか?」で取り上げた問題です。目の前にあるありありとした、経験的事実としてのリンゴは実は私たちの脳の中にある、それが「経験的観念論」というわけです。超越論的実在論の立場をとる限り、目の前のリンゴに実在性を与えることはどうしてもできなくなる、というのがカントの主張です。

 

(整理)
   ○ 超越論的実在論 <=> 経験的観念論
   ○ 超越論的観念論 <=> 経験的実在論

 

経験的というのが経験的事実に基づく態度なら、超越論的というのは何を根拠にしているのでしょう。カントは「アプリオリに」と言っています。「ア・プリオリ」とは「先験的」と訳されます。つまり、経験的事実などに基づかなくとも、「必然的にそうでなくてはならない」ということです。

 

だとすると、カントは超越論的観念論の立場をとっているわけですが、超越論的実在論を排除する必然的理由というものも明確には示してはいません。超越論的実在論も一応論理的な整合性があるわけです。

 

このことには大きな理由があります。そもそも、純粋理性批判を著すのは、ヒュームの因果律への懐疑が大きなきっかけとなったというのはカント自身が述べているところです。因果関係がアプリオリであるためには、どうしても超越論的観念論による構成主義でなければならない、というのがカントの「必然」であったようです。因果関係がアプリオリであるかどうかはどうも議論の余地があるようで、もう少し純粋理性批判を理解したら改めてこの場で論じたいと思います。

 

ドーム菊 (横浜市港南区港南台)

(前回からの続き)
G.E.ムーアは「外界の証明」の証明をする前に、カントの講義を行ったらしい。直接の資料を読んでいないので、それがどのような内容であったかは私にはわからないのですが、純粋理性批判初版の中の〝第4の誤謬推論-(外的な関係の)観念性の誤謬推論"についてであったことは間違いないと思います。

 

「第4の誤謬推論」の中でカントは、「超越論的観念論」と「超越論的実在論」について述べています。「超越論的」というのは「認識に関する条件を見極めようとする態度」というくらいの意味だと受け止めて下さい。カント自身は「自分は超越的観念論者」であることを表明しているのですが、ここではまず「超越論的実在論」から説明することにします。

 

自然科学を学校で教わった人はたいてい「超越論的実在論」者となります。空間と時間が人間とは独立に実在し、その中に物体が実在している、そういう考え方のことです。カントは「こうした超越論的な実在論者は、のちになると経験的な観念論者の役割演じるようになる。」と言います。

 

10月8日の記事「この世界は“現実”なのか?」でも述べたように、感覚の壁の外に実在としての認識の対象物があると前提すると、「いま私の目の前にあるリンゴは、実は私の脳みその中にある像である。」というように結論付けるしかなくなります。結局、外的なものの実在を前提すると、「すべては頭の中の像である」という結論に至ります。つまり対象の実在というものは感覚の壁の外にあると推論するしかない。これがカントの言うところの「経験的観念論」です。外的な実在というものを前提としながら、結局その実在は推論によるしかないという矛盾に陥らざるを得ないのです。

 

一方カントの拠って立つところの「超越論的観念論」では空間と時間は人間の直感のための感性の形式であると考えます。つまりそれらは我らの内にあるわけです。つまり、空間と時間内にあるものはすべて感性のとらえた「像」(=表象)であるということになります。そして、一応物自体というものはあるとしても、表象と物自体との関係性というものは何とも言えません、我々とは没交渉です。我々に認識できるものはあくまでも表象でしかないのです。ということは、各表象間に整合性があれば、それは正しい世界観でもあります。その表象に実在性を与えても何の問題も無い訳です。つまり、真理というものを感覚の壁の外から内に引きずり込むことが可能になります。

 

ですから、超越論的観念論の立場に立てば、目の前にありありとした赤いリンゴは表象ではありますが、その背後に物自体というものを想定する必要はないので実在的なものであるということができます。カントは「超越論的な観念論者は経験的な実在論者でもある。」というのはそういう意味でしょう。

 

テーブルの上にリンゴがあるのを見かけたとき、「リンゴがある」と言います。「リンゴがある」という言葉はそういう時に発する言葉であり、「ある」という言葉の意味はまさにそういうことであるということ。経験的実在論の立場から言えば、それ以上でもそれ以下でもないということになります。

 

(整理)

   ○ 超越論的実在論 <=> 経験的観念論

   ○ 超越論的観念論 <=> 経験的実在論

 

御坊祭り (和歌山県御坊市)