刑事フォイル

テーマ:

今朝、コーヒーを飲もうと思って、ポットをコンロにかけてスイッチを入れた。が、スイッチが入らない。当たり前である。T-falの電気ポットをガスコンロにかけてもスイッチが入るわけはないのだ。妻に大笑いされてしまった。物忘れもひどいが、とんちんかんな行動もふえてきた。これが歳をとるということなのだろうか。

 

刑事フォイルを演じるマイケル・キッチンは1948年生まれ、ぼくより一歳年長だが、ドラマの中のフォイルは忘れっぽくないしドジもしない。常に冷静で賢い、そしてしぶい。まったくぼくと正反対のようなおじさんで、かっこいいので連ドラ予約してビデオで見ている。

 

これがイギリス的というのだろうか、セリフまわしも落ち着いていて全体にしっとりとした重厚感がある。私のような年寄りには、はでなアメリカのドラマよりこちらの方がしっくりくる。フォイルはどんな事態が生じても動じることはなく、常に抑制のきいたしゃべり方をする。そして判断を過たない。遺伝子検査や声紋分析のような科学捜査がないにもかかわらず、大胆かつ適切な判断をし、真相にたどり着く。よく考えてみれば、そりゃないだろうというほど都合の良い推理と筋書きだが、そこは英国式の堅苦しいまでの生真面目さで堂々と視聴者を納得させてしまうのである。

 

それと、テーマ曲も素晴らしい、哀調を帯びたイングリッシュ・ホルンの音色が絶妙で、ドラマの雰囲気を盛り上げる上で実に効果的である。

 

まあ、面白いので、一度見てみて下さい。

AD

今朝寝床の中で、ウィリアム・ジェイムズの言葉を思い浮かべていた。

 

≪ずっと信じてきたもの、実際にそれに基づいて生きてきたのだが、それを表現することばを見つけることが出来なかったもの≫

 

それが「真理」であると、彼は言う。

 

ロマンチックだが、実に含蓄のある言葉だ。確かにぼくらはなにかを信じている。哲学をかじりかけた若者が「真理とか真実というものはない」とうそぶくことはままある。しかし、哲学をするということ自体が、何かを信じそれを求める営為でもある。信じているからこそ疑うのだ。そして言葉を模索する。

 

信じることがなければ疑うこともできないということを、あらためて実感した朝だ。

AD

長さとは何か?

テーマ:

ウィトゲンシュタインの「青色本」の冒頭は次のような一節から始まっています。

 

≪語の意味とは何か。
この問題に迫るためにまず、語の意味の説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うてみよう。
こう問うことは、「長さはどうして測るのか」を問うことが「長さとは何か」という問題に役立つのと同じ仕方で役立つ。 ≫

 

初めてこの文章を読んだときは一体何を言っているのかわかりませんでした。「長さとは何か」というのはあまりにも自明のことと思えたからです。しかし、あらためて考えてみるとなんだか落ち着かない気持ちになります。このような「感覚」をウィトゲンシュタインは「知的けいれん」と表現します。哲学はこの知的けいれんから始まるのでしょう。

 

「『長さはどうして測るのか』を問うことが『長さとは何か』という問題に役立つ」と彼は言います。「長さ」の意味に「長さの測り方」を対応させるというプラグマティックな考え方を提案しているのです。

 

小包のサイズを測るにはメジャーを当てて測ります。比較的遠方の距離は三角測量で測ります。非常に遠い銀河の場合には光のスベクトルの赤方偏移によって測定します。このように考えると、「長さ」というのは実は多義的な概念であるということが分かります。

 

と、ここまで読んで、あなたは少し困惑しているのではないかと想像します。「御坊哲は一体何を言っているんだ、『長さ』は『長さ』じゃないか」と思ったのではないでしょうか? そのような困惑についてウィトゲンシュタインは次のように述べています。

 

≪哲学的困惑の大きな源の一つ、名詞があればそれに対応する何かのものを見つけねば困るという考えに迫られるのだ。≫

 

小包のサイズと遠い銀河までの距離を、同じ『長さ』という概念に押し込めるていることには十分な根拠があります。科学的にはそれらを一つのカテゴリーで扱う方がシンプルな理論を形成できるからです。しかし、それらはもともと別のものとも考えられるのです。科学からの要請は、概念をより一般化することを我々に求めますが、ウィトゲンシュタインは概念に一意的な『本質』というものは存在しないというのです。

 

「名詞があればそれに対応する何かのものを見つけねば困る」という感覚は、「時間とはなにか?」について考えれば、「長さ」よりは明瞭になると思います。
ぼくらはどうしても「時間そのもの」を取り出すことはできません。ウィトゲンシュタインのアドバイスは「『時間』という言葉がどのように使われているかを枚挙するしかない。」というものです。

AD

逃げるは恥だが役に立つ

テーマ:

「逃げるは恥だが役に立つ」というのは、知ってる人は知っているでしょうが、今週で終わったTBSのテレビドラマのことです。主演の新垣結衣さんの可愛らしさと、共演の星野源さんのちょっとずれたような演技、それに脚本家や製作スタッフの遊び心がうまくかみ合って、とても面白い作品に出来上がっていました。ぼくが今年見たテレビドラマの中では、同じTBSの火曜ドラマ「重版出来」と並んで、他を圧倒して面白かったと評価しています。

 

「逃げるは恥だが役に立つ」という題名なんですが、ハンガリーのことわざに「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」というのがあって、そこからとったということです。そこで、ぼくは思うんだけれど、ある種の人々にとって現代は非常に生きにくい時代でもあると思うんだけれど、そういう時にこのことわざが使えるのではないかと思うんです。

 

こんなことを思うのは、今朝の朝刊に「電通社長来月辞任」のニュースが一面にあったからです。電通は新入社員高橋まつりさんの自殺について次のように発表しました。

 

≪ 電通は二十八日夜の会見で、高橋さんの過労自殺に関する外部専門家による調査結果を公表。「長時間労働に加え、仕事の責任感や職場での人間関係が強いストレスが自殺の原因となった可能性は否定できない」とした。上司による高橋さんへのパワハラも認め、「十分なサポートが足りなかったと深く反省している」との認識を示した。 ≫

 

電通に企業体質を改めてもらいたいということはもちろんですが、高橋さんが、「会社を辞めてしまおう。」という発想にどうして至らなかったのかということが残念でなりません。「自死すること」と「会社を辞めること」を天秤にかける、そんな余裕もないほど追い込まれていたのでしょう。そういう時に、この「逃げるは恥だが役に立つ」を思い出してもらいたいのです。

 

死ぬ前に彼女はお母さんに次のようなメールを送ったと聞きました。

「お母さん、自分を責めないで、お母さんは最高のお母さんだから」

 

あえて、ぼくは死人に鞭を打ちたいと思います。そこまで、お母さんを気遣うことができるのに、なぜ逃げなかったのかと‥。ここで、自分を責めない母親がいるわけがないのに。あまりに悲しすぎます。

昨日(12/27)の東京新聞・夕刊に、太平洋戦争の開戦通告が遅れたのは、日本外務省が意図的に電報発信を遅らせたことが原因であるとする新証拠が発見された、との記事があった。

 

真珠湾攻撃が開始されたのは12月7日の午後1時19分、覚書がハル米国務長官に手渡されたのが一時間後の午後2時20分だった。

 

覚書は長文なので14部に分割されて送信された。1から13部までは12月6日の午前11時25分までに発信されていたが、結論となる14部は15時間後の12月7日の午前2時38分に送られた。

 

従来の説明では、1から13部までを先に暗号解読してタイプライターで清書しておけば、12月7日の朝に14部を追加すれば、開戦までに十分間に合ったはずが大使館の怠慢で12月7日の朝からすべての分の清書を始めたため間に合わなかったというものだ。つまり意図的に遅らせたわけではなく、すべて大使館員の責任であるというものであった。

 

しかし、当時の一等書記官である奥村勝蔵氏が、「夜半まで13通が出そろったが、後の訂正電信を待ちあぐんでいた」と1945年に証言している。当時のタイプライターは途中で訂正追加が出来ないので、訂正電報が届くまでは清書できなかったというのである。結局12月7日の朝から14通分の清書を始めたが、開戦には間に合わなかったというのである。

 

今回の新証拠というのは、その訂正電報らしきものが12月7日の午前0時20分と午前1時32分に発信されていることが、米海軍の傍受記録に残っていたというものである。そのとおりなら奥村氏の証言を裏付ける有力な根拠となる。

 

この新証拠の評価については、例によって歴史学者の立ち位置によって随分違うようだ。右寄りの人はどうしても大使館員に責任を押し付けたいらしい。

 

歴史家は歴史家で実証的な研究をしていただきたいのだが、この問題を大使館員の怠慢として矮小化したいという根性のさもしさが気に食わない。これが外務省本省の責任ではなく大使館員の責任なら、日本の罪は軽いあるいは日本は卑怯ではない、というふうに考えることができる、その思考回路がさもしいというのである。

 

日本が武士道精神に満ち溢れた正々堂々とした国であると思いたいのなら、開戦通告が届いたことを確認してから攻撃すればよかっただけのことではないのか?

 

まあ、そんな理性があったなら無謀な開戦には踏み切らなかっただろう。それに、戦争は殺し合いである。卑怯もへったくれもない。やるからにはなにがなんでも勝たねばならない。相手の不意を衝くのは当たり前のことである。開戦前に通告しなければならないという意識はそれほど強くなかったかまったくなかった、というのは下種の勘繰りだろうか?
思うに、不意討ちがいけないのではなく、戦争をすることがいけないのである。

 

真珠湾攻撃について日本は卑怯だったし、南京事件については日本は残虐だった、どちらも素直に謝ればよいのではないだろうか。

禅的(哲学的)世界観

テーマ:

以下は、玄侑宗久さんの「死んだらどうなるの?」という本の、池田晶子さんによる書評です。

 

≪禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。
( 中略 )
私はまずそれを疑った。『意識は脳が生み出す』とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。≫

 

ぼくは玄侑宗久さんの本を読んでいないのですが、この書評だけで判断する限り池田さんの言うことはごもっともという気がします。

 

臨済宗妙心寺のご開山は関山慧玄という人ですが、ある修行者に死について問われたところ、「わしのところには生死なぞない」(慧玄が会裏に生死無し)と答えたのだそうです。釈尊も死後のことは無記としていたのだから、妙心寺派の僧侶である玄侑宗久師がこのことを知らないはずがないので、おそらく方便として死後のことに言及しているのでしょう。今回の記事では、この本の内容はともかく、池田さんの批判を通して禅の世界観について述べてみようと思います。

 

池田さんは、科学的知見を使用していることをとがめています。ぼくたちは通常ことの正否を判断するのには科学的に考えるのが良いとされているのですが、禅的観点からするとそれは違うのです。禅的にみるということは究極的な素朴さで見るということです。究極的な素朴さで見るということは、感性でとらえることのできない超越的なものを排除するということです。

 

超越的なものを排除すると、いったん科学は忘れなくてはなりません。よくよく反省すれば、「意識が脳に生じる」という知識も、ぼくたちは人づてに聞いたことをそのままうのみにしているわけです。光や電気とか引力というような概念も同じように教えられたから知っているだけの話です。

 

遠くの山を見た時、ぼくたちは太陽の光が山から反射されて、その光をぼくたちは見ていると考えるようになりました。本当にそうでしょうか? ぼくには見えているのは「光」ではなく、遠くの「あの山」なんです。見えているのは山であって光ではない、という気がするのです。

 

禅や哲学は科学を否定するわけではありません。科学をぼくたちの世界観の中で正しい位置に再配置しようということなのです。以前の記事「心はどうやって生まれるのか」でご紹介したマッハのことばを再掲します。

 

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫

 

「遠くの山が見える」という現象を科学は、光や反射とか視神経というパラメーターで関数的に記述するのです。あくまでそれは記述にすぎない。科学により、ぼくたちは、「光が目に入る」から「あの山が見える。」と考えがちだけれど、それは逆で、本当は「あの山が見える」から「光が目に入る」と想定しているのです。
「光が目に入る」というのは想定であって事実ではない、あくまで仮説であり、もっと突っ込んで言えばフィクションなのです。まず第一義的には「遠くの山が見える」という事実がある。このことを忘れてはならんと思うのです。

心はどこにあるのか

テーマ:

「心はどこにあるのか?」と問われると、たいていの人は脳にあると考えているのではないでしょうか。でも、これは医学・生理学が普及してからのことで、昔の人は心臓にあると考えていたようです。私はラテン音楽が好きでよく聴くのですが、歌詞の中にやたら"コラソン"という言葉が出てきます。この単語は、心臓という意味と心という意味を兼ねているのです。だからラテン系の人々にとっては、今でも心は心臓にあるんですね。

 

心が心臓にあると考えられたのは、感情が高ぶった時に心臓の鼓動をより強く意識するというところにあるんだと思います。現在脳にあると考えられるようになったのは、科学的知見もさることながら我々の意識に占める視覚と聴覚の比重が大きいからではないでしょうか。もし膝の前面に目が、そして膝の外側に耳があったらどうでしょうか? 足を前に出すと、上の方に自分ののっぺらぼうな頭が見えるのです。たとえ脳がそのまま頭の中だとしても、意識の中心は両膝の中間あたりに感じるのではないかと想像します。

 

意識の中心は常に一定ではなく、その時の状況によって変わります。空手の試合において、相手に激しく突きと蹴りをくり出す時、意識はこぶしの先とつま先に集中します。その時、手や足に意志があるかのように感じます。いくら「手よ動け」と念じても手は動かないはずです。手を動かすのは実は手自身なのです。

 

読書に没頭している時、考えているのは読んでいる本の字だったりします。あなたはぼくの書いたこの記事を読んでいるわけですが、ディスプレイの文字が語っているように感じませんか? そのように感じたらあなたはこのディスプレイ上で考えているわけです。

 

人は考えない。考えているのは本のページまたはディスプレイである。

 

禅の坊さんが木を見れば木が自分であるというようなことを言います。奇妙なもの言いでありますが、自分の心というものが空間上のどこか(例えば頭の中)を占めている、という考えを捨て去れば納得いくような気もするのです。

 

シアトルから見るオリンピック半島の山々

前回記事では、机や人間というような個物について、その普遍的な本質というものが存在しないということを述べたのですが、今回は個物以外の概念について考えてみたいと思います。

 

古代インドの哲学者龍樹は大乗仏教の祖とされている人ですが、『中論』という書物を表しています。その中に次のような一節があります。

 

すでに去ったものは去らない。 
いまだ去らないものは去らない。 
現在去りつつあるものも去らない。 

 

「すでに去ったもの」や「いまだ去らないもの」が去らない、というのはわかりますが、「現在去りつつあるもの」が去らないというのは、ちょっとその意味が分かりません。一体どうしたことでしょう。

 

龍樹のこのような奇妙なことばを理解するには、その背景を知る必要があります。中村元博士は「『中論』は論争の書である。」と言っています。そのころ説一切有部という有力な学派ががありました。その学派が概念がイデア的に実在するということを主張していたらしいのです。例えば、「走る」という動作についても、その「走る」というありかたの範型が形而上の領域に存在する。それも、人類が生まれる前から人類が滅びた後も実在する、というのです。それどころか、説一切有部の理論を拡大していくと、「走る馬」という概念ばかりか、「馬が走る」という命題さえもイデア的に実在する、というのです。

 

イデア的に実在するということは、それぞれの概念が個別に独立して存在するということでもあります。そうすると、「走る馬」と「走る」を組み合わせて、「走る馬は走る」という表現が可能であるばかりでなく、「走る馬は走らない」という表現も可能になるはずだ、というのが龍樹の主張です。龍樹は「走る馬は走らない」ということを主張したいわけではなく、説一切有部の主張することが正しければ、矛盾が生じるということを言いたいのです。無常を根本原理とする龍樹の立場では、永遠不変のイデアは認めることのできない概念です。

 

仏教は絶対的概念を認めません。すべては相対的で関係性の中から概念も生まれてくると考えるのです。だから、「走る」というありかたも、人間の生活様式やらいろいろの関係性から生じてくる、と考えられるのです。

 

では、「走る」のゲシュタルト崩壊を試みてみましょう。同じ字を続けてたくさん書き続けるとその字についてゲシュタルト崩壊すると言われています。ここではいろんな「走る」をもい浮かべてみましょう。「御坊哲が走る」、「トカゲが走る」、「稲妻が走る」、「ひかり号が走る」、「虫唾が走る」、「ダチョウが走る」、「妻が走る」、「キリンが走る」、「東京タワーが走る」、「日本が走る」、‥‥‥。
どうです、「走る」はゲシュタルト崩壊しましたか? 「走る」っていったい何だっけ? というような感覚に陥りませんでしたか?

 

そうですか、崩壊しませんでしたか。ではもうちょっと理屈で攻めたいと思います。
もし、「走る」がイデア的にあるのならば、その普遍的な定義も存在する筈です。おそらくほとんどの人は、「両足を交互に前に出して速く進む」といったところでしょうか。
問題になるのは「速く」が厳密に定義できないことです。ここはオリンピックの競歩の定義を援用して、「両足を交互に前に出し進む、かつ前に出した足が着地する前に後ろの足は地面を離れていなくてはいけない。」としましょう。普通にこの定義の通りにすれば、だれの目にも走っているように見えるはずです。

 

では、この普通に走っている状態から、少しずつ歩幅を狭めていくことにします。そうすると、ある時点で「これはもう走っているとは言えないんじゃないか。」と言いたくなる時が来るはずです。例えば歩幅が1cmになったら、もう誰の目にも片足ずつ交互にその場飛びをしているようにしか見えないはずです。

 

問題は、「走っている」から「その場飛びしている」に変わるその境界が、だれでも一致するようには明確に引けないことです。「走る」の普遍的定義が困難なことが理解していただけたでしょうか。

 

仏教では、独自で存在できるという絶対的なものは認めないのです。なにごとも相対的であり関係性の中から生まれてくると考えます。というと、絶対的なものがなければ相対的ということも生まれないのではないかという人も時々いますが、それは西洋的な形式的な考え方に過ぎないと思います。絶対というのは一応矛盾のない概念としては存在しますが、現実には存在しない空疎で形式的な概念にすぎません。言うなれば絶対というのも関係性の中から生まれる相対的な概念なのです。

 

例えば、位置というものについて考えてみましょう。銀行は駅を出て、左に30メートルのセブンイレブンのある角をさらに左に曲がって、10メートル進んだところ、というふうに表現されます。これは銀行を駅からの相対関係で示しています。ロケーションを示すには、絶対表現というのもあってこちらの方は、緯度と経度でそれぞれ何度何分何秒で表現されます。でも、これは絶対と言っても、グリニッジ天文台と赤道を基準にした相対位置にすぎません。グリニッジ天文台と赤道が不動のものであれば、緯度と経度による表現は絶対的なものと言っても良いですが、地球は自転しながら公転もしているのだから、宇宙的な規模で見れば位置に関しては絶対的な基準はどこにもないのです。空間的位置に関する限り、絶対的基準がどこにもないにもかかわらず、私たちは相対的位置の中にいます。絶対はなくとも相対はあるわけです。

 

自家製ピザ

ゲシュタルトについてインターネットで検索していると、ゲシュタルト崩壊という言葉が頻繁に出てくる。その説明を読んでいるとどうも釈空観の説明に似ていることに気がつきました。

 

釈空観というのは、仏教の「空」を言葉で説明したものです。例えば、≪机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。≫ というような見方です。つまり、机は人間の生活習慣の中における使用目的という観点から、机の構成要素全体を統合しなければ「机」たり得ないわけです。あくまで、現代の人間の「恣意的」な視点によらなければ「机」は見えてこない。そういう意味で「机」は普遍的ではないわけです。

 

ゲシュタルト崩壊についてWikipedia から引用しますと、≪全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。≫となっております。たとえば「傷」という字をじっと凝視していると、「傷ってこんな字だったかなぁ」という感覚に陥るらしいのです。( 試したい方はこちらをクリック==>「ゲシュタルト崩壊」 ) これは、机が木切れの寄せ集めにしか見えないのと同じようなことだと思います。

 

つまり、仏教でいう空観とは、概念のゲシュタルト崩壊と言ってもいいのではないかと思うのです。例えば「人間」という概念について考えてみましょう。自分の父親を思い浮かべてみる。ぼくにかなり似ています。やはり人間でしょう。それからお祖父ちゃん‥‥、曾祖父‥とだんだんさかのぼっていくうちに顔かたちがかなり変わってきます、北京原人に似た人やクロマニョン人に似た人とか出てきて、ついには全身毛むくじゃらのチンパンジーとゴリラの中間みたいのまで行くと、「あれっ人間ってどんなだったっけ?」となります。これってゲシュタルト崩壊ではありませんか。

 

プラトンは人間のイデアというものが存在すると考えていました。人間にはいろいろなバリエーションがあって、各個人個人は姿かたちが違います。しかし、どの人を見ても人間であるということが分かるのは、範型としての人間のイデアというものがあるからだというのです。それは「普遍的人間」であり、人間の概念を規定するものと言ってもいいでしょう。もしそんなものがあれば、人間と人間以外は厳密に識別できるはずです。しかしどうでしょうか、「ネアンデルタール人は人間か?」と問われたら、おそらく人によって判断は分かれると思います。

 

仏教では普遍的な人間のイデアというものを認めないどころか、各個人の同一性というものも認めません。御坊哲という個人について見ますと、幼稚園に行っていたころのぼくは、今の僕とは全然違います。このブログを書く前と書いた後の御坊もすでに変化しています。ぼくは毎日ご飯を食べ水を飲みそれを排泄しています。細胞も常に入れ替わっています。いわば台風のようなものです。台風はよく見てみれば空気が渦を巻いているだけで、その空気も常に入れ替わっています。一体台風そのものの本体は何なのでしょうか? ぼくたちは何を指して台風と呼んでいるのでしょう?
このように考えていくと、台風の全体性が失われてゲシュタルト崩壊しませんか?
御坊哲も台風みたいなものです。栄養を外から取り込んで、細胞を新陳代謝させ、老廃物を排泄する。この繰り返しです。台風よりは緩慢ですが、時間がたてばすべての細胞が入れ替わります。

 

仏教では、あらゆるものが常にダイナミックに変化していると見ます。その変化の中で比較的安定しているものが個物とみなされているのです。あくまで比較的安定であって絶対的ではありません。常に流動的ですから、すべては偶然的で完全なものは存在しません。イデア論とは真逆のものの見方をするわけです。

 

次回は龍樹の空観について述べたいと思います。 ( その2に続く )

ゲシュタルトからの連想

テーマ:

ゲシュタルトという言葉は以前から耳にしたことがあるが、どういうものか知らないままにすましてきました。心理学に詳しい人の言うには、ドイツ語の形とか状態の意味なんだそうです。絵画を眺めた時に、近接した部分に緑と茶色の部分があるとそれを一本の木として認識する、見ようによっては画布の上に緑と茶色の絵の具がおかれているだけかもしれないが、それらを統合された一本の木の形として見るときに、それをゲシュタルトというわけです。

 

生まれつき盲目であった人が、治療によって視力を獲得しても、その直後は何も見えないんだそうです。正確に言うと見えていても何が何だかわからないということらしいのです。人が視界の中に入ってもそれを人と認識することはできない。輪郭線が見えても、その内部と外部の区別がつかないのでゲシュタルトを構成できないということらしい。視界の中のパターンが読み取れない、いわゆるカオスになっているのでしょう。

 

ゲシュタルトというのは視覚における"概念"というべきもののような気がします。逆に言うならば、概念は思考空間におけるゲシュタルトと言えばよいでしょう。視覚の中でゲシュタルトを見出せなければ視的認識能力はなくなり、概念がなければ思考は不可能になるでしょう。そういうことから我々は無意識のうちに、視野の中のパターンを常にチェックしてゲシュタルトを模索しているはずです。時には間違ったゲシュタルトをでっちあげたりします。道端の縄が蛇に見えたりすることがあります。いわゆる錯視ですね。

 

星座について言いますと、星の分布のパターンからゲシュタルトを形成しているわけで、恋人同士が星座を見ながら語り合っているというのは、ロマンチックでなかなかいいものです。これは錯視というようなものではありませんが、星座を構成する各星々は我々地球人には近接しているようにも見えてもそれは見かけ上に過ぎません。いわば、潜在的なゲシュタルトへの志向が強引に作り上げた統合に過ぎない訳です。

 

思考における概念形成につても同じようなことが起こりえます。思考するためには概念形成がどうしても必要です。そのため我々の潜在的な、概念形成への志向性はとても強い。時には関係のない星を統合して星座を作ってしまうように、強引に概念を作ってしまうということも考えられます。いったん概念ができると思考は概念による道筋が出来てしまいます。ゲシュタルトができると視覚的な認識力が安定するのと同じことです。
 

私達の学生時代には、社会の動きを何でも階級闘争という言葉を使用して論じるということが流行っていました。近頃は心理学をかじった素人が、やたら「それはエディプス・コンプレックスだ」などと言い出す風潮もあります。
階級闘争とやエディプス・コンプレックスが間違っているというわけではありませんが、概念を乱用して楽な思考に流れるというのは感心しません。ときには、その概念がどのような要素を統合したものであるかを良く分析し反省せねばならないと思うのです。