安倍晋三首相が「杉原千畝の勇気ある行動は日本人の誇り」と言ったらしい。 

http://www.sankei.com/politics/news/180114/plt1801140024-n1.html 

今までこのブログで何度も指摘してきたが、杉原さんが偉いのは、日本政府・外務省にたてついたからだということを忘れてはいないだろうか。政府側の人間としては、松岡洋右外相による訓令に違反したかどで彼を外務省から追い出したことを先ず恥ずべきだろう。つまり、そのときの日本政府が人道的立場に立っていたならば、杉原氏の行為は美談でもなんでもなかったということをころっと忘れている。 河野外相がこのことを謝罪し正式に名誉回復が図られたのは1991年になってからのことである。 

http://www.sugihara-museum.jp/about/honor.html 

 

つまり、祖国日本は杉原氏の行為に対して長い間冷淡であった。つまり、日本政府を支えていたわれわれ日本人が彼に冷淡であったことを意味するのである。ところが、彼に救われ生き延びたユダヤ人が彼を探し当て、イスラエル政府が彼のことを顕彰すると、手のひらを返したように、彼の功績をまるで日本人全体の手柄であるかのように勘違いする。頓珍漢な話である。彼の功績に対する栄誉は彼一人のものであり、日本人たる私たちのものではない。ある意味、日本人の一人として恥じねばならぬ性質のものでもあるのだ。

 

もし、杉原氏の行為を称揚するのであれば、助けを求めてやってくる難民に対して、日本は一貫して冷酷であったことの説明がつかない。

https://www.refugee.or.jp/jar/report/2017/06/09-0000.shtml?gclid=EAIaIQobChMIicz01JTc2AIVCQUqCh1gJgwqEAAYAyAAEgJFZPD_BwE

 

難儀をしている人々がいたら、杉原氏のように手を差し伸べる。それでこそ正義人道というものだろう。シリア難民を危急から救うために、カナダはチャーター機を飛ばして2万5千人もの難民を受け入れた。ドイツはもっと大勢の難民を受け入れている。だが日本だけは一貫して知らんぷりである。

 

そんな国日本の宰相が安倍さんである。「杉原千畝の勇気ある行動は日本人の誇り」とは、どの口で言えるのか。

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左翼が保守で右翼が革新

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思い込みを脱するということはなかなか難しい。私も長らく「左が革新で、右が保守。」と思い込んでいた。ところが最近テレビで、「左が保守で右が革新」だという人がいて、思わずうなってしまった。よくよく考えてみればその通りである。憲法を守りなんとかこの体制を維持していこうというのが左で、改憲によりこの国のあり方を変えたいというのが右の考えていることだろう。 

このように考えると、最近の若者の右への傾斜が説明できる。若者は常に変革を望んでいるのだ。老人が支配するこの退屈な体制に倦んでいるのだろう。 

 

しかし、問題は変革の先に何があるかということだろう。そのことについては昔も今も変わっていない。


スターバックス本社 

 

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人生に成功する秘訣?

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今朝テレビを見ていたら、将棋の羽生善治さんに羽鳥アナウンサーがインタビューをしていて、最後に羽鳥さんが「人生に成功する秘訣は何ですか?」と訊ねた。羽生さんはちょっと考えてみて、一言「分からないですね。」と答えた。 

羽生さんは前人未到の永世七冠を達成した人である。世間的に見れば人生の成功者と見なすのが常識かもしれない。それでそのような質問をすることにも違和感が無いのかもしれないが、本来は「人生の成功=将棋における成功」ではないし、羽生さんはまだ若い。そのような質問をするということは、ある意味失礼であるように私には感じられた。 

羽生さんは将棋に真摯に向き合い生きてこられた方である。その質問についてもおそらくまともに考えてみたのだろう。そして「分からない」と答えた。当然だろう、他人から見れば極めつくしたかのような将棋についてでさえ、彼は「まだ分からない」というのである。人生の成功についてなど分かったなどと言えるわけがない。 

私は私で、羽生さんの「分からない」にとても真摯なものを見たような気がして、非常な感銘を受けたのである。

 

( 葉山 仙元山ハイキングコースから伊豆の大島を望む )

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知識とは何か?

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最近、SNS上で「知識とは何か」について議論したのだが、知識がなんであるかは難しいものらしい。この世界で起こっていることについての情報を知識というのだろうと漠然と思っていた。が、どうやら100%確実な保障のある知識というものは存在しないこと、知識が知識と言えるためには「正当な根拠」が必要であることは理解できた。正当な根拠がなければ、それは知識ではなく、単なる「信念」でしかないのである。

 

知識がなんであるかが難しいというのは、「正当な根拠」の「正当性」が厳密には定義できないことにある。

 

100%確実な知識というものはあり得ないと前述したが、生きていくためにはどうしても知識が必要である。私たちが幼児の頃はたいていは知識を両親から教えられる。私たちが未知の社会の中へ入って行くには、親から得た知識は必須である。そしてその知識の正当性の根拠は親の権威ということになるだろう。幼児にとっては、「パパは何でも知っている」のである。

やがて子供が学校に行くことになると、そこには親よりももっと物知りな教師がいて、親の知らないようなことがたくさん書かれている教科書というものがある。私たちは学校で、それまでとは比較にならないほどの知識を学ぶのである。そしてその知識の正当性の根拠となるものは、教師や教科書の権威である。

 

そして、もっと深くものごとを学び考えるようになると、教師や教科書の知識も必ずしも正しいとは言えない場合が多々あることを知るようになる。場合によっては、自分自身がその方面の知識における権威になっていることもあるかもしれない。しかし、その権威的知識と言えども、それを支えるより広範な知識は別の権威によって支えられているという構図はそのままである。その信憑構造というものは広く深く堅牢になっているということは言えるが、100%確実とは言えないのである。

 

知識に100%の確実性を求めることができないとなると、その正当性の根拠は科学に置ける場合と同様に反証可能性に求めるしかないだろう。

 

知識における反証可能性とは、その知識に対する反論がなされた時、その反論を評価し原知識を再検証する手順を用意しているかどうかにかかっている。検証の結果により反論の一部でも正しいということになれば、原知識は訂正されなければならない。知識が知識と言えるためにはそういう態度が必要なのである。反論されても、検証・再評価の手順がないのであれば、それは知識ではなく単なる信仰に過ぎない。

 

ケーススタディとして、「竹島は日本の領土」という日本のスローガンについて考えてみよう。

 

中学生にとってそれは教科書から得た知識と言っていいかもしれない。しかし、高校生の場合だと微妙であるような気がする。高校生ともなれば、竹島について韓国が日本と正反対のことを主張していることも、それが韓国に実効支配されていることも、国境が実質的には軍事力によって決定されるということも知っているだろう。それらのことを鑑みるならば、日本側の主張の正当性は唯一歴史的検証にかかっていることを理解できなくてはならない。

 

そこまで思い至れば、実証的な歴史研究者の意見に耳を傾けなければならない。現実には日韓ともに自分の側に都合のいい恣意的解釈をする研究者の言い分を採用しているので、誰が実証的研究者かということを見極めることは難しいかもしれないが、実際に歴史研究者の著作に自ら目を通すということは必須である。少なくともこの件に関する知識を知識たらしめるには、そのような努力をすることが必要になる。 

 

相手がどのように反論しようとも、聞く耳もたないで我が政府の言い分だけを信じているなら、それは知識ではなく単なる「信仰」であると言った方が良い。


※個人的には、実証的な歴史研究家として池内敏氏を推薦したい。

 

( 葉山 仙元山ハイキングコースからの眺望 )

このところニュース番組がちとおかしい。相撲の話ばっかりやっている。それも全放送局でやっているから、NHKで放映している取り組みの一年分の放送時間よりも多いのではなかろうか。

そのニュースの内容がまた問題である。全然中身がないのだ。物言わぬ親方の心中がどうだのこうだのと憶測でまわりの人間が言っているだけのことで、一向に問題の核心が伝わってこない。毎日々々同じことを繰り返しているうちに、横綱の暴力事件から貴乃花親方の相撲協会改革の話に重点は写ってきているかのように見受けられる。貴乃花親方は何も言っていないのに‥‥。

 

面白くない(と私は思うのだが)話を長々と引っ張っているのは、巧妙なモリカケ隠しではないかと勘繰ってしまう。どう考えても相撲協会内部のいざこざをこれほど大きく取り扱う理由が見つからない。そんなことは週刊誌に任せておけばよいのだ。電波が公共のものであることが忘れられているような気がする。

 

以上はテレビの視聴者としての私の意見だが、相撲の一ファンとしての意見も述べておきたい。

被害者である貴ノ岩を協会から隔離するような行為は問題だと思う。協会に対して不信を抱いているためにそういうことをするにしても、やはりそれなりの態度表明は必要である。自分自身が協会の理事という役職であるからには、協会側の当事者でもあるわけだから、何も言わないというのは通らない。子供でも分かる理屈である。

 

世間では貴乃花の人気が高く、その相撲道への真摯さ純粋さを評価して、旧態依然の相撲協会に対する貴乃花親方の改革への姿勢を高く買っている人々も多い。しかし、私はそういうところになにか危ういものを感じる。


貴乃花親方が純粋で真摯な人であるというのはたぶん本当なのだろう。そして、相撲界にとって良いことを考えているのかもしれない。だとしても、何も言わない人が改革のリーダーというのは望ましくあるまい。いずれ協会の理事長になりたい意向を漏らしているらしいが、相撲取りとして素晴らしいということと経営者として優れているということとは別のことである。現役時代の人気に支えられて、物言わぬまま改革を断行すれば独断に陥る可能性がある。公益法人のリーダーは不言実行の人ではなく有言実行の人であるべきだ。

 

1978年のあがたの森 (長野県松本市)

ピカソ

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私はクリエイティブな才能に欠けているらしくて、子供の頃から図工と作文が大嫌いだった。なにかを生み出すということに喜びを見出すタイプの子供ではなく、寝転がって本を読んでいるほうが面白い、そんな子供だった。そんな私が歳をとって一念発起、文章上手になってやろうと、もうブログを8年以上書き続けているが、一向にうまくならないのはやはり才能に欠けているのだろう。

絵の方はもっと絶望的で、写生画を見たとおりに描こうと思っても描けない。自分でも不思議なのだが、目を対象から話した途端に像から具体性が消え去ってしまうのである。だから写生画を描こうとしても、どうしてもマンガみたいな絵になってしまう。画家としての「目」をもっていないのだろう。

 

そんな私なのだが、中学校の美術の教科書のいわゆる抽象画を見て、「えらい簡単な絵やないか、こんなもんならワイにも描けるんとちゃうやろか。」と思った。それで美術の先生に、「ピカソの絵みたいなもんやったら、ぼくでもちょっと頑張れば描けるような気がするんやけど。」と言ったのだが。先生は笑いながら、「うーん。哲君、それは無理やと思うよ。ちょっと頑張ればどころか死ぬほど頑張っても無理な気がする。」とおっしゃった。そこで私は、「でも簡単な線しかないやないの、こんなんやったらまぐれで描けたりすることもあるんとちゃうの?」とさらに聞いたら、「あのね、ピカソの絵は描こうと思って描けるような絵ではないんだよ。まぐれでは絶対に描けないんだ。」

 

今になって先生の仰ったことがわたしにもわかるようになってきた。おそらく「描く」技術においては、どんな画家もピカソには及ばないような気がする。ピカソはおそらく描こうと思えばどんなものでもかけるのだろう。彼自身、「俺は子供の頃からラファエロのような絵を描いていたんだぜ。」と豪語する。実際に、子供の頃の絵を見ても確かにものすごくうまい。しかし、ある程度画家として認められだしたころから、写実的な絵を描くことには興味をもてなくなったようだ。

 

もし描こうと思えば、ルノアールのように美しい女性を描くことも彼ならできただろう。しかし、彼の関心は美しい女性を征服することにあり、その美しさを描くことにはなかったのである。彼の言動には女性への尊敬が感じられない。心の底に女性への憎しみをもっていたのではなかろうかと思う。女性の愚かさを描いた「泣く女」シリーズは彼の最高傑作でもある。彼が心の底になにか鬱屈を抱えていたことは間違いない、そこから発する怒りにも似たエネルギーと描く技術があいまって不世出の天才がうまれたのだろう。

 

 

 

 

わいせつかそれとも芸術か?

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「ニューヨークのメトロポリタン美術館に展示されている、バルテュスによる少女の下着が見える構図の絵画が芸術か、わいせつかを巡り論議を呼んでいる。」らしい。 

https://matomedane.jp/page/1482 

美術とは必ずしも美しいものを描き出すことではない。ピカソの傑作「ゲルニカ」は全然美しくない。むしろ気持ちが悪くなるような絵である。ムンクの絵なども自分の部屋に飾りたいような絵ではない。それでも彼らの絵に価値があるとされるのは、それらの絵がわれわれの心を揺さぶるからである。われわれの内面を抉り出す作品は、醜くても価値があるのである。だから、醜いもの、恐ろしいもの、あらゆるものを描くことが美術の範疇内でありうる。

 

私のような才能のないものが醜いものを描いたとしても、本当の醜さは描けない。ただのへたくそな汚い絵になってしまうだろう。しかし、名人が醜さを描けば、本当の醜さがキャンバスに表現される。あらためて「みにくさ」の本質というものが浮き彫りにされるのである。そういう意味で、ただわいせつな絵とわいせつを描いた絵は区別されるべきだと思う。

醜いものと醜さを描いているもの、わいせつな絵とわいせつを描いている絵、それらの境界は必ずしも明確ではない、醜さを描いたものは醜く、わいせつを描いた絵はわいせつだからだ。しかし、それらの区別は厳然としてあるのではないだろうか。私はバルテュスの絵はまがうことなき芸術であると思う。

目的論と進化論

テーマ:

こどもが、「地球上にはどうしてこんなにいろいろな生物がいるの?」という疑問をもった時に、「人間が食べたり、ペットにしたりするためだよ。」と目的論的に説明してやると、簡単に納得するらしい。というようなことを、先日の記事「なにごとも目的論的に解釈したがるということについて」で述べた。

アリストテレスは、ある対象の本質を知るには、その対象の最終目的を調べると良いと言う。すべてのものは、単に潜在的である状態から、現実にそのものである状態に移ろうと努力しているというのである。

例えば、ドングリというものが何であるかと考える場合には、「ドングリの目的」について考えてみる。つまり、ドングリは最終的に何になるのかを考えてみるわけである。そのドングリが椎の木になるならば、椎の木がそのドングリの目的であり、つまりそれは「椎の実」ということになる。

 

目的論の問題点は、根拠を示せないままなにかの意志が働いていると仮定することである。

われわれ人間について反省すると、「目的」という言葉を使うときは必ず欲望(欲求)に基づいている。最終目的はすべて欲望(欲求)に還元されてしまうはずである。われわれは欲望に基づいて目的を設定するのであって、最初に目的があるわけではない。「目的」という言葉はその程度のものである。

 

ところが、往々にして自然を擬人化してその潜在的可能性を欲望であるかのように見立てることから進化論への誤解が生じる。

「キリンは高い枝の葉っぱを食べることができるように首が長くなった。」だとか、「ガゼルはライオンに食べられないように速く長く走れるようになった。」というような表現をよく耳にする。「~のために~」というような目的論的な表現はまるで「種」というものがなにか主体性をもっているかのように響く。

キリンという「種」が首を長くしようと目論んでいるわけではない。誰かがガゼルを速く走らせてやろうと考えているわけでもない。キリンもガゼルも各個体はただ生きて死ぬだけである。生きている間に子供を残せば、子孫が生き残る。ただそれだけのことである。どの子孫が生き残るかは自然の側に選択権がある。それは単なる運かもしれないし、首が長いとか走るのが早いというのは選択される確率を高めるかもしれない。

 

つまり、「キリンは高い枝の葉っぱを食べることができるように首が長くなった。」のではなく、首が長いキリンとして生まれた個体が子孫を残し続けたというだけの事である。
 

進化論を考える上で間違いやすいのは、種が変化していくという考えである。そうではなく、遺伝子の変異は無作為に起こる。つまり種はどんどん枝分かれしていく。枝分かれしていく過程で生存に適さないものは淘汰されていく。言うなれば、残るべきものが残る、という当たり前のことを言っているだけなのだ。


進化論は目的論とは最も遠い考え方である。一種のニヒリズムであると考えた方が適切である。

トランプ米大統領が、イスラエルの首都をエルサレムと認定するとともに、テルアビブにある米大使館をエルサレムに移転することを表明した。このことは世紀の暴挙と言ってもよいくらいのことだと思う。しかし、この問題の異様さは1995年にすでに米議会が決議したということにもある。政治家が自分の当選を第一に優先することは、アメリカも日本も一緒である。議員たちがユダヤ・ロビーににらまれるのをおそれた結果、通るはずのない法案が通ってしまったのだ。アメリカの中東政策は一貫してイスラエル寄りである。アメリカの大衆自身がこのことに自覚的でない。 
アメリカのメディアは軒並みユダヤ系である。当然ニュースもイスラエル寄りになる。ナチスによるユダヤ受難の映画は数多くつくられるが、パレスチナ人に対するイスラエルのナチス顔負けの陰湿で過酷な所業については全然触れられない。いつの間にか,「イスラム教徒≒テロリスト」的なイメージが浸透しているという結果になる。 

第二次世界大戦前に、現在「イスラエル」と呼ばれる地には、もともとイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が混在していたが、人数的には圧倒的にアラブ人が多かったのである。イスラエル建国時点でさえ、アラブ人はユダヤ人よりも2倍も多く住んでいた。現在イスラエルに住んでいるユダヤ人の大半は2,3代さかのぼれば出自がヨーロッパである。そして逆に、いわゆるヨルダン川西岸地域に住むアラブ人は、ほとんどが本来ならばイスラエル内に住んでいたはずの人々なのだ。今となってはもう取り返しがつかないが、イスラエルという国は本来は存在すべき国ではなかったと私は思う。

 

日本がフェアな国であると世界に認められたいなら、ここははっきりとトランプに「No!」と言わなければならない。