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哲学塾

テーマ:ブログ
2012-02-12 21:14:12 posted by toorisugari-ossan

実は、先月から中島義道先生が主催している「哲学塾」に通っています。いままで先生のことはこのブログ上でも、何度か揶揄するような書き方もしてきたので、少しばつが悪いのですが白状しちゃいます。


私の哲学は我流で、あまりにも知識が無いため、哲学書を独力で読むことはできないのです。それでたまたまネットサーフィンで見つけた「哲学塾」に入塾希望を出したわけです。


本当は「哲学入門」のような講義を選択したかったのですが、時間の都合がつかないので、月2回の「西田哲学」を選びました。今日も3回目の講義を受けてきたところです。難しいです。ほかの皆さんは哲学専攻の人が多いらしく、ついていくのはなかなか大変です。


私は昔仏教を少し勉強したことはありますが、西洋哲学についてはプラトンもデカルトも呼んだことがありません。講義の途中で、「これはカントの意識一般だな」とか「プラトンのイデヤが……」というような言葉が飛び交うと、なんだか場違いな世界に来てしまったような感じがします。


しかし、話がまったく分からないと言うわけでもなく、先生の説明も噛んで含めるように丁寧なので、「なるほど、そういうふうに読むのか!」と気づかされることもあります。どこまで持つかはわかりませんが、今のところは講義の日がくるのが楽しみです。
得るところがあれば、ブログ上でも発表していきたいと考えています。


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死んだらあかん

テーマ:宗教
2012-02-11 17:22:22 posted by toorisugari-ossan

首都圏で毎日通勤していると、鉄道関係の人身事故が多いことで暗澹たる気持ちにさせられる。言うまでもなく、「人身事故」とはほぼ鉄道自殺のことであります。一昨日も総武線で人身事故があり、鉄道のダイヤが乱れていたようだ。


日本では毎年3万人もの人々が自殺するらしい。それだけこの世界には苦しみが満ちているということだろうか。死ぬことはとても恐ろしいと思えるのに、やむにやまれぬ事情というものが人それぞれにはあるのだろうが…。


「死にたい人には死なせてあげれば‥」という声もあるが、やはりちょっと待ってほしいと私は思う。


この世界はニヒルであると考えている私には、自殺が果たして倫理的に悪いことかどうかということは分からない。しかし、生身の人間としては死に対する恐怖があり、自死に対する嫌悪感がある。できることなら誰も自殺はしないでほしい。


人が自ら死を望むというのは、苦しい現実から逃れたいということなのだろう。決して死にたいから死ぬというのではないと思う。生きたいのだ。逆説的だが、よりよく生きたいからこそままならぬ現実をリセットしたいと願うのだ。なんとなく、リセットすれば別の何かが展開するという期待がそこにはある。


しかし、私はここに何か勘違いがあるような気がしているのである。
死は永遠の安らかな眠りであると考えている人がいるかもしれないが、おそらくそれは間違っている。死んで生き返った人は誰もいない、死んだらどうなるかは誰にも分からないのである。


死後のことは「端的に無である」とするなら、そこには時間も空間も無い。であれば、「安らか」とか「永遠」などという言葉も無縁である。死後の世界は我々の想像を一切受けつけないのである。


死と同時に時間がなくなるのであれば、死は人生の終わりとは言えないだろう。そしてそれはやはり、何かの始まりというわけでもないのだ。だったら、それは何だろうか?


そこで私は恐ろしいことを連想してしまうのである。
死が人生の終わりでもなくまた別の何かの始まりでもないのだったら、自死はその人の人生に対する怨念と苦しみの固定化ではないのか。だとしたら、それはいわゆる無間地獄のことではないのだろうか。


自分でも意味のないことを述べているのではないかということは承知している。死が想像を絶する出来事であると言っておきながら、私は語りえぬことを語っているのである。


しかし、生身の人間である私にとって、怨念と苦しみの中に自分の人生を固定してしまう、という想像は身震いするような恐怖を伴う。やはり、自分の人生の納得を求めるために、苦しくても生き続けることは意義のあることのように思える。何があっても生き続けてほしい。

なんでも反対すれば良いというものではない

テーマ:ブログ
2012-02-05 21:01:26 posted by toorisugari-ossan

神奈川県知事の黒岩さんが、東日本大震災で発生した大量の震災がれきを処理の受け入れ方針を示し たとき、私は県民としてよく言ってくれたと思いました。
ところが、住民との対話集会では知事はつるし上げ状態、知事の説明が始まると、会場はヤジと怒号に包まれました。外見的にはまさに反対一色となりました。


放射能の危険性には閾値はなく、被曝量は少ないにこしたことはない、というのが常識になりつつあります。しかし、それにしても敏感にすぎるのではないかと思うのです。
がれきの処理は原発事故の影響の大きい福島県が県内処理するのを原則とされ、神奈川県で受け入れるのは宮城、岩手両県の分であります。神奈川県で扱うのは1キロあたり100ベクレル以下の比較的低線量のものであります。


比較的低線量とはいえ、分からないということは不安である、ということは理解できます。しかし、被災地には今も人々が住んでいるのであります。その人々は今現在も困窮しているのであります。その土地から少しばかりのがれきを持ってくるだけなのになぜそんなに拒絶反応を示すのだ。その人々はそのただ中に住んでいるのだというのに‥。自分の安全のためには他人はいくら苦しんでいても見て見ぬふりをするというのか。


復興にはがれき処理が急務です。復興が遅れれば、いずれめぐりめぐって被災地以外にもその咎が現れてくるはずです。多分それよりは、がれき処理による放射能のリスクの方が小さいだろうと私は見ています。


少なくとも、がれき処理による放射能のリスクはコントロール可能です。放射線量をウォッチしながら処理を進めていけばよいのです。それがレントゲンの間接撮影の年間4、5回ぐらいのリスクなら、私は進んでそのリスクを受け入れたいと思います。(おそらくそれほどのリスクはないはず、とも私は考えています。)


横須賀は知ってのとおり、米国の原子力空母の母港であります。移動する原子炉は不測の事態を引き起こす可能性があります。軍隊は秘密主義であります。つまり私たちのコントロールが効かないリスクを横須賀市民は受け入れています。その同じ市民が「放射性物質」とは呼べないほどのがれきの受け入れをめぐってヒステリックになるということが、私には理解しかねるのです。


家族を失い、家を失い、将来への展望に閉ざされた人々の困窮を横目に見ながら、あなたはのうのうと安逸をむさぼれますか。このたびの震災では、被災地以外の地にすむ人々は自分たちが直接的に救済に手を貸せないことに、いくばくかの罪悪感を感じているはずです。がれき処理を引き受けることなどは「安い」免罪符と言えるのではないだろうか。この程度の免罪符を買わないのなら、もう「絆」などという言葉は使うなと言いたい。

ピカソは天才

テーマ:ブログ
2012-02-04 18:58:09 posted by toorisugari-ossan

私は自分で言うのもなんですが、小・中学校の頃はなかなかの優等生でした。(ただし、高校では並、大学では劣等生、社会人になってからはおちこぼれです。)
それで、成績も良かったのですが、図工・美術はずうっとダメなままでした。絵がものすごく下手だったんです。とにかく画用紙に向かうと頭が空白になってしまうような気がして何もアイデアが浮かんでこない。図工の時間が嫌で嫌でしょうがない。それほど苦手でした。


中学生になっても、小学低学年のような絵しか描けない。いや、こういう言い方は不適切ですね。低学年の子の絵のほうが見ていて楽しいものを感じさせるのだから。


で、ある時「わいはなんでこんなに絵がへたなんやろ」と考えました。思い当たる節がありました。人はものを見た時必ず何らかの抽象化をします。そのものをそのままとらえるのは不可能なことです。私にとって人間の顔は輪郭があって目、鼻、口があるだけだったんですね。抽象化と言えば体裁がいいけど、要するに丸を描いてその中に目、鼻、口を描きこんで、人間の顔を描いたつもりになっていたわけです。


抽象というと、難解と同義語のように解釈する人がいますがそれはむしろ逆で、人間の能力が限られているから、複雑な現実から必要というか自分に関心のあるものだけを抽出するわけです。相対性理論は難しいけれど理論の中身は非常にシンプルな内容です。哲学でもそうだけれど、難しいものほど抽象化してシンプルに論じなければ人間の頭では処理しきれなくなります。


うーん。今日は何を述べたいのか分からなくなってきました。絵の話でしたね。


そこで私は自分の絵の下手さを慰撫するために都合のいい理屈を考えたりしたわけです。つまり、私は数学や理科の得意な抽象的な論理志向人間だから、絵が下手なのは当然なのだと考えたのです。(その時、レオナルド・ダ・ビンチのことは頭に浮かびませんでした。はは。)


傲慢にも私は、そういえばピカソも抽象的な絵を描いている、「ワイもピカソみたいな絵なら書けるんやないやろか?」と考えました。


実際、ちょっと頑張れば描けそうな気がしたんです。もちろん気がしただけです。描けるわけがありません。私の抽象化はただの簡略化に過ぎませんから‥。


ピカソは内面を抽象しているんですね。しかもそれを具体的なデザインとして頭の中で組み立てています。生半可な才能ではできないことです。彼は写実的な絵も描いていますが、基本的に描く能力がすごいのだと思います。彼は考えたことをそのままなんでも描けるという本物の天才なのでしょう。


しかし、私はピカソの絵を一枚たりともほしいとは思わないのです。好奇心で彼の絵を眺めることはあっても、自分の部屋に彼の絵を飾りたいとは思いません。長く眺めていると、どちらかというと気分が悪くなります。うーん、芸術って一体何なのでしょうね。

マーチングバンド

テーマ:ブログ
2012-01-29 21:46:04 posted by toorisugari-ossan

昨日ジョギングをしていたら、賑やかな音楽が聞こえてきた。小学校の校庭でマーチングバンドの練習が行われていたのだ。「小学生でもこんな本格的な演奏ができるんだ。」と私は感心してしまった。私の子供の頃と比較すれば隔世の感がある。日本もそれだけ豊かになったということなのだろう。それにしても堂々たる演奏ぶりだ。音楽であれスポーツであれ、子供の頃にそれなりの達成感を味あわせるということは、教育的見地からして非常に望ましいことだろうと思う。特にこれと言って特技の無い私から見れば羨ましい限りだ。つい引き込まれて、寒い中を30分も立ち見してしまった。


30分も聴いていると、それなりにミスも目立つようになってくる。特に大きなホルンは体の小さな小学生には大きな負担らしく、時折しんどそうな表情を見せる。そのたびに指導の先生の叱声が飛ぶ。「それじゃぁ、練習にならんだろう。もう一度っ!」と繰り返させる。
そのうち喝を入れるためなのか、「腕立て10回っ!」と叫ぶ。子供たちはその場でめいめい腕立て伏せをやり出した。(うーん、ここで腕立て伏せをやらせるのか。)  小学生にレベルの高い演奏をさせるためには、それなりの高い緊張感をもたせることは必要だろう。


しかし、正直に言うと私は少し嫌な気持ちになったのだ。私には教育の専門知識はないし、たまたまの通りすがりジョガーが先生の指導方針について云々するのは出過ぎというものだろう。ただ、自分の小学生の頃の運動会の練習を連想してしまったのだ。


私のいた御坊小学校のその頃の運動会の練習というのはほとんどが行進の練習だった。全校生徒が2500人以上というマンモス小学校だったからだろうか、要は円滑に儀式を進行することが第一の目標で、参観の親たちに整然と教育が施されていることを見せたかったのだろう。やたら、「姿勢が悪い」「ちゃんと手を振って」「足をそろえて」だのうるさく言われた。だらだらした態度を見せると、「はい、もう一度っ!」と何度でも繰り返させられる。それが何日間も続くのだ。


それはまあ、北朝鮮軍の行進に比べればちょろいものではあったが、小学生にとってはなんともうんざりするような「練習」だった。今振り返れば、あれは軍国主義の残滓だったかとも思う。
現に戦前から教師を続けていた人もいて、その教師はやたら「精神がたるんどる。」と「性根が入ってない。」というのが口癖だった。


マーチングバンドの先生の叱咤も、自分の指導技術を観客に見せるためというより、生徒に達成感を何とか味あわせてやりたいという気持ちからであって欲しいと思う。



御坊哲のおもいつくまま

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