いい加減、加計学園問題にはうんざりしてきた。文部科学省内では「総理のご意向」文書が出回っている。前次官もそれは認め内容も真実だと言っている。なのに官邸はなぜか真実の究明に消極的であるならば、もうそれは「総理のご意向」があったとみなすべき事態のはずだ。なのにジャーナリズムの論調は甘すぎる。 

官邸の言い分では、文部科学省内で誰かが「総理のご意向」を勝手にねつ造して、行政を恣意的にコントロールしたということになる。それこそ由々しき問題で、総理からすれば徹底的にその張本人を追及して懲罰せねばならないはずなのに、安倍さんは全然そのことについては全然関心がないようだ。面妖なことである。 
 

安倍さんは李下において冠を正してしまった。そして、その冠の中には何も入っていないと口で言うだけで、一向に冠を脱いで見せようとはしないのである。

「アベ首相はうそをついている。」 はっきりそのように断定すべき時期だと思う。

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すべてを陽炎と見よ

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図書館で、永井均さんの「哲おじさんと学くん」という本を借りてきた。その中に、「第49話 そもそも存在しないものでも「絶対確実に」存在できる」という興味深い一節があったので引用する。(永井先生は日本を代表する哲学者の一人である。)

 

【 引用開始 】( 以下は哲おじさんと学くんの対話である。)

 

学 : でも、例えば小説の中の登場人物がデカルトのように考えて、「私は今確かに思っている、だから私は存在している!」と言ったら、どうなる?

哲 : そいつがそう思ったなら、そいつは間違いなく存在する。ただし、もちろんそいつにとっては、だが。

学 : 「そいつにとって」はだとしても、「そいつ」なんてそもそも存在していないのに?

哲 : いや、その小説の中では、そいつは存在する。ただし、そして、そいつがそう考えた以上、そいつはそいつ自身にとって疑う余地なく、絶対確実に存在する。

 

学 : でも、それは本当の存在の仕方じゃないよね?

哲 : それが本当の存在の仕方ではないと言うなら、小説の中ではなく、この現実世界において、誰かデカルトのように考えた場合だって同じことではないか。その人が、「私は今確かに思っている、だから、私は疑う余地なく存在している!」と言ったとしても、所詮は言葉の上でのつながりに由来する確実性に過ぎないのだから、疑う余地なく存在するその存在の仕方は、疑う余地がないにもかかわらず、本当の存在の仕方ではない、ということになるだろう。

学 : そうなんじゃない?

 

【 引用終わり 】

 

永井さんは、デカルトは歴史の中に存在し、「そいつ」は小説の中に存在する、と言っている。が、実は両者の存在の仕方は同じだと言っているのである。一見理不尽なことを述べているようだが、その通りなのである。

 

われわれは「ある」や「存在する」という言葉をそのように使っているのだ。哲おじさん(永井)も「所詮は言葉の上でのつながりに由来する確実性に過ぎない」と言っているように、小説の中の人物が「絶対確実に」存在する、と言ってもそれは言語によって構成されたものに過ぎない。逆に言うなら、デカルトもそれにこの現実世界のだれであっても、「ぼくは考えてい、だから僕は存在する。」と言ったとしても、実はその存在は言語によって構成されたものに過ぎないと考えるべきなのではないだろうか。

 

龍樹の「すべてを陽炎と見よ」という言葉は、そのように考えると納得がいくのである。

高尾山にて

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「同姓同名の職員は実際いる」

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五日の衆院決算行政監視委員会で、民進党の今井雅人氏がメールの写しに記載された送信者である係長本人と受信した十人の名前を読み上げると、常盤豊文科省高等教育局長は「同姓同名の職員は実際いる」と認めたが、松野博一文科相は「メールを含む文書は、出所、入手経緯が明らかでない」と繰り返し、調査を拒否した。首相も「文科相が答弁した通りだ」と同調した。 

「同姓同名の職員は実際いる」と他人事みたいな言い、「メールを含む文書は、出所、入手経緯が明らかでない」と繰り返す。だから調査しない、と堂々と国会の場でとぼけてみせる。 そして、それがまかり通る。こんな理屈の通らないことを言っている文科省が道徳教育を推進している、ブラックジョークか?

政治は数の力さえあれば何でも通る。強姦犯だって無罪放免に出来てしまう。国連特別報告者に注意されても、「言いがかりだ。」と言って逆切れしておればなんとかごまかせる。 政府を告発するような次官がいれば、「黙らないと下ネタを御用新聞にリークするぞ」と脅す。まあ、これは失敗したみたいだけど。

報道の自由度だっていつの間にか72位まで低下。もう台湾や韓国よりも下になっている。もはや先進国とはとても言えない状態だ。なのに、掛け声だけは『美しい国日本』。恥を知ることはかつて日本人の美徳だったはずだが、いつの間にこんな破廉恥な国になってしまったのだろう。

 

「同姓同名の職員は実際いる」って、いったいこれは何なんだ!

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安倍ちゃん論点がずれてるよ。

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安倍さんは言う。「前川さんは、私の意向かどうか確かめようと思えば確かめられた。次官であれば大臣とともに私のところにきてじかに聞けばいいではないですか。」 

でもね、首相補佐官は「総理は言えないから私が言う」って言ったんだよ。安倍さんはむしろ首相補佐官に、「勝手なことを言うんじゃない」と叱責して首にするべきじゃないのか。 

「総理の意向」という文書についても、身に覚えのないことなら、その文書の出所を徹底的追及して、「おれがこんなことをするはずがない。こんな文書をばらまいた奴も、それを真に受けて行政判断をゆがめたやつはみんな懲戒処分だ。」っていうべきなのに、なぜか言わないんだよね。

特攻隊は美しいか?

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前回記事で引用させていただいたブログの絶対善進さんご本人からコメントをいただいたので、そのことについてもう少し論じたいと思います。

 

≪ いいですか?ミツバチは敵が来たら自分の命も考えずに敵に向かっていきます。群れを守るために。これほどの利他的行為がありますか。特攻隊と同じです。だから特攻隊に感動するのです。種族を守る為自分の命もささげる。大自然は難なくそれをやってしまいます。大自然には人間は叶いません。 ≫

 

端的に言って、論理が粗雑であるように思います。我々から見れば崇高に見える特攻隊も、アメリカ側から見ればただの狂気にしか見えません。特攻隊が善であれば、イスラム過激派の自爆テロもまた善であるでしょう。特攻隊も自爆テロも人類全体から見ればなんら益のある行為であるとは思えません。

 

しかし私も若い頃、特攻に散った若者の遺書を読んで感動した記憶があります。献身は人の心を揺さぶるようにできているのでしょう。特攻隊には確かに普遍的な美しさはあると思います。

 

前回記事でも述べましたが、アリやミツバチのようにシンプルな生き物は、種族保存という観点から見れば、ある意味究極の高見に到達しているわけです。だから彼らは心理的な矛盾は感じないし、自分の献身的な行動に対する価値判断すら行わない。もはやそこには善悪などという倫理もないと考えます。しかし、人間のように複雑な生き物になると個体ごとの遺伝子にかなり相違が生じる。そうなると、個体保存本能と集団保存本能が背反する場合があって必然的に複雑な進化の過程をくぐり抜けることになります。集団の外部環境が厳しくなると集団に奉仕する本能が弱いと集団そのものが生き残れないが、その集団が安定している場合は、利己的な個体が増殖することになる。

 

つまり、われわれは集団の危機になれば、崇高な献身を称揚し自分もまた英雄的にふるまおうとするが、同時に自分の生き残りを模索しながら、他人の抜け駆けは許さないといったセコイ性質をもった生き物である。だから、善だ悪だと声高に叫んだりもする。その辺のところは以前記事にしたことがあるので読んでください。 ( クリック==>「せこさが憎い‥」 )

 

特攻隊を美しいと感じる心性が我々にあるとしても、それを善しとすることには大きな疑問があります。

 

東京 三鷹市 ジブリの森美術館

進化について考えるとき、人は冷静でいられなくなるらしい。進化論はその中に私たち自身も含まれる。つまり、自己言及的な学説である。本来は客観的であるべき学説に、つい主観を忍ばせたくなるのである。

 

「キリンは高い木の葉を食べるために首が長くなった。」式の表現をすることがある。問題は「食べるために」という表現である。進化をコントロールするコーディネーターはいない。すべては偶然である。背の高いキリンは高い所にある食べ物を食べることができた、それで生き残っている。それだけのことに過ぎない。進化論というのは、いわば「なるべくしてなる。」という当たり前すぎる原理にのことである。

 

何億年もかけて成し遂げた成果が余りに精妙であるために、おそらくそこになんらかの「意志」が働いてかのように見える。結果から見れば、人類は「種族繁栄」を目指しているかのように見える。次に、ある人のブログから、「善」についての定義を述べたものを引用する。

 

≪ ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、いわゆる種族保存である。
ならば、この大自然の、大宇宙の意志というのは、命を賭けて種族を保存せよと言う事ではないだろうか。そうであれば、この大宇宙の意志を絶対的に正しい(絶対善)と言わずに何を正しいと言うのだろうか。ゆえに絶対的に正しい事、絶対善とは種族保存のことである。 ≫

 

残念ながら、「大宇宙の意志」というものの根拠を我々は見つけることができない。ありとあらゆる生物が何億年も種族保存を目論んできたかどうかは不明である。生物の変異はむしろランダムであったと想定される。過去には生存に適さないおびただしい生物が生まれたとも考えうる。ただ生存するのは生存するのに適したものだけなわけで、当然のことながら、現在生存しているのは「生存に適したもの」だけなわけである。

 

人間が種族保存という観点から見て、究極的進化を経たものであるならば、「種族保存が絶対善」であると言っても問題ないだろう。もしわれわれの本能がそこまで洗練されていたなら、誰もが種族保存を目指しているわけで、その時には種族保存の崇高さを疑う必要など何もなくなってしまうだろうからである。もしかしたら、アリのようにシンプルな生き物は、そういう高みにすでに到達している、と言っても良いかもしれない。しかし、善というものが本能とまったく一致してしまったら、そもそも善などという概念は意味をなさないだろう。

 

善というのは基本的には利他行為を指すのだろうが、もともと多義的な言葉なのだろう。もともと複雑な心を持つ人間が、その時々の生活習慣に合わせて恣意的に使用してきたものだ。早い話、戦国時代の倫理と現代の倫理が同じであるわけはない。進化論から得た知見をもとに、善を一意的に定義するという発想には無理がある。

 

ダーウィンのいとこにフランシス・ゴルトンという人物がある。進化論から刺激を受けて、人類を人為的に「進化」させようという優生学というものを唱えた人である。それがやがてナチスによる人種政策の思想的基盤となった。彼らには、現に生まれてきた個々の人間の意識には関心を持たない。おそらく、神になりかわって、美しい架空の人間の形を作ろうとしていたのだろう。

 

横浜 イングリッシュガーデンにて

It's unfair.

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トランプ大統領が、米国のパリ協定離脱を表明した。同協定は同国の経済と雇用に打撃を与えると主張し、離脱は「米国の主権を改めて主張する」意味合いがあるとしている。

 

彼の言い分によれば、協定は「他国に利益をもたらし、米国の労働者には不利益をもたらすだけだ。」それに、「中国は今後十三年、温室効果ガスの排出量を増やすことができ、インドは2020年までに石炭の生産を倍増できる。パリ協定は非常に不公平だ。」と述べている。

 

トランプはパリ協定は "very unfair" だと言うが、一人当たりの温室ガス排出量で言えば、アメリカ人は中国人やインド人の何倍も排出している、現時点での不公平は無視した論理を主張しているのである。
豊かなアメリカ人の生活は、ある意味途上国の貧しさの上に築かれていることに思い至らないのだ。

 

"It's unfair." というセリフはアメリカ人の口癖のようなものである。筑紫哲也氏は生前、"It's unfair."の正しい翻訳は、「それは不公平だ。」ではなく「おれは気に入らない。」とするのが良い、と言っていたように記憶している。まさにトランプの言い草がそれだ。

 

世界の人口の4.4%のアメリカが、温室ガスの18%近くを排出している。アメリカはより大きくガス排出量を削減すべき責任を負っている。なんでも、「アメリカ第一」を声高に叫べばそれが通ると考えている、トランプ自身がunfair そのものではないのか。私達はあと3年半もガキ大将の横暴に耐えねばならないのだろうか。

 

横浜 イングリッシュ・ガーデンにて

日本の恥

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産経ニュースより引用します。

 

≪ 菅義偉官房長官は24日の記者会見で、今国会で審議中の組織犯罪処罰法改正案を批判した国連特別報告者のケナタッチ氏が日本政府の抗議に対し、改めて反論文を発表したことについて不快感を示した。「日本政府は国連の正規のルートを含めて反論文を受け取っていない。何か背景があるのではないかと思わざるを得ない」と述べた。≫

 

法務大臣がろくろくまともな答弁もできないまま、多数の力で衆議院を通過させた共謀罪に対し、国連のプライバシー権に関する特別報告者ジョセフ・ケナタッチ氏が、「法律の広範な適用範囲によって、プライバシーに関する権利と表現の自由への過度の制限につながる可能性がある」と懸念を表明する書簡を安倍総理宛てに送付し、国連のウェブページで公表した。

 

以下はライブドア・ニュースからの引用。

 

≪ この書簡に対して菅官房長官は22日の記者会見で、「この特別報告者というのは独立した個人の資格で人権状況の調査、報告を行う立場であって、国連の立場を反映するものではない」「書簡の内容は明らかに不適切なものでありますので、強く抗議を行っている」「プライバシーの権利や表現の自由を不当に制約する、恣意的運用がなされるということは全く当たらない」などと強く反発して見せたが、ケナタッチ氏はこれに対して「私が日本政府から受け取った『強い抗議』は、ただ怒りの言葉が並べられているだけで、全く中身のあるものではなかった」「唯一つの望みは、日本政府が私の書簡で触れたプライバシーの権利に着目した保護と救済の制度に注意を払い、法案の中に導入することだ」などと反論している。≫

 

産経ニュースでは「批判」とだけなっているが、ケナタッチは日本政府に対し懸念を示し見解を求めてきたのである。菅氏は「この特別報告者というのは独立した個人の資格」と言っているがれっきとした国連における公職である。彼は職務上の義務を果たすために日本政府に見解を求めた。だから政府は正当な言い分があれば、それを述べればいいだけのことであるのに、なぜか抗議で答えたのである。だから、ケナタッチ氏は「私が日本政府から受け取った『強い抗議』は、ただ怒りの言葉が並べられているだけで、全く中身のあるものではなかった」と述べたのだ。

それに対して、菅官房長官は、「何か背景があるのではないかと思わざるを得ない」といちゃもんをつけたわけである。

 

多数を背景とした議会運営と同様に、国際的にも屁理屈が通じると考えているのだろう。恥ずべきことだ。

 

菅氏は、 前川喜平前事務次官のことを「すでに退官された一私人」と言ったように、自分たちに都合の悪いことを言う人間はすべて「一私人」にしてしまう。今回も国連特別報告者を強引に一私人としてしまいたいようだが、もっとも重要なことは政府の言い分に正当性があるかどうかということであることを忘れているようだ。

輪廻転生について

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元外務官僚の佐藤優さんはとても頭のいい人で話も面白い。「ゼロから分かるキリスト教」というのを読んだのですが、内容は結局というかやはりというかさっぱりわからなかった。キリスト教の知識がゼロなのに、シュライエルマッハーがどうのカール・バルトがどうのと言っても分かるわけがない。 分からないのに面白いのはやはり語り口が巧みだからだろう。

それはそうと、仏教について次のように述べられていたのがちょっと引っかかってしまった。 

《 仏教の場合は現在間はないけれども、中観においても、とくに唯識においても、人間は悪に傾きやすいという人間観を持っています。われわれは輪廻転生を何度も繰り返しているわけです。もしかしたら前世はサソリだったかもしれないし、その前はミミズだったかもしれないし、或は仙人だったかもしれない。天女だったかもしれない。いろんな輪廻転生がある。でも、私がかつてミミズだった時の記憶、皆さんがかつてトカゲだった時の記憶は今残っていない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」とかいう記憶は残念ながら残っていないのだけれど、それはわれわれが思い出せないだけで、大きなわれわれの無意識の中には残っているんだと、仏教は考えるわけ。》 (P.114) 

輪廻転生ということはよく言われるが、おそらくそれは仏教本来の考え方ではない。釈尊の教えはそのような超越的な物語とは相いれない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」という記憶が大きなわれわれの無意識(阿頼耶識)の中には残っていたとして、誰がそのようなことを確かめたのか疑問だし、そのようなことから生産的な思想が生まれてくるはずもない。 このようなヨタ話から仏教を語り、ひいては日本人の精神文化まで語ってしまうことには問題がある。

 

世界は有限であるが無限か、肉体と霊魂は一つのものか別のものか、悟りを得たものは死後に生存するかしないか、それらの問いに釈尊は答えなかったと言われている。このことを指して「無記」と言う。このことと輪廻転生説は明確に背反している。

 

あるところで上記のような話をしていると、「禅定を深めてゆくなら、一切の前世の記憶を思い出す能力が開発されるのだということが、原始仏典の『沙門果経』に説かれています。」ということを教えてくれた人がいた。率直に言って、仏典というのはこのように矛盾だらけなのだ。

 

充足理由率というのは「なにごともこのようであって他のようでないことの理由がある。」という原理のことである。「無記」という概念は仏教にとって極めて大切な概念であるにもかかわらず理解しにくいのは、われわれが無意識のうちに充足理由率を受け入れているからだろう。その一方で、輪廻転生説のようなある意味荒唐無稽と言ってもいいような言説も、図式的にはシンプルであるためやすやすと受け入れてしまうのである。

 

もともとこの世界は訳の分からない世界である。そのわけのわからなさをそのまま了解し受け入れよ、と釈尊は言うのである。そのような視点に立てば、輪廻転生説というのはいかにも荒唐無稽である。禅定を深めて「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」と言う人がもしいたとしたら、たぶんその人は詐話師であるか、良く言って思い込みの激しい妄想家に違いない。

 

鎌倉 建長寺の唐門

「誰も知らない世界のことわざ」(エラ・フランシス・サンダース著)より引用します。

≪カラスが飛び去るから梨が落ちる? それとも、梨が落ちるせいでカラスが飛び去る? このことわざは、いかにも関係がありそうな2つのことがらの間に、必ずしも因果関係があるわけではないことを表しています。けれども、2つのことが同時に起きるとき、私たちの頭の中では、気軽に「意味あり」と結びつけられてしまうのです。関係性の判断ミスは、経済や政治、それに哲学の上では大問題。哲学では、このことにapophenia(アポフェニア)≫という洒落た名前をつけています。一言で言えば、私たち人間には、意味のない情報から、意味のあるパターンを見出そうとする傾向があるのです。≫

 

[カラスが飛び立った時に梨が落ちる確率] が [カラスが飛び立たない時に梨が落ちる確率] より大きい場合には、「カラスが飛び立つ」ことと「梨が落ちる」ことの間になんらかの因果関係があると考えられる。しかし、このことわざはそういう統計情報に基づいた話ではなく、近接した事象を関係づけたがる我々の傾向性を指摘しているのだろう。

 

「アポフェニア」を検索してみると、「無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用のことである。」という意味らしい。「無意味なノイズや偶然の存在を信じてしまうこと」という説明もあり、どちらかと言うとネガティブなニュアンスがある。

 

しかし、われわれに与えられる情報というのは、もともとすべて無作為で無意味なのではなかろうか? アポフェニアというのは、視覚で言えばゲシュタルトを模索する操作に相当するものだろう。

 

ルビンの壺の図というのはご存知だと思う。見方によって壺に見えたり、向かい合っている人の顔に見えたりする。どちらが正しいという根拠を持つわけではない。この図形を見ることを通してわかるのは、われわれが無意識のうちに全体を、部分の寄せ集めとしてでなく、まとまりのある構造として見ようとしていることである。それがなければ私たちの視野はカオスになってしまい、ものを視認することができなくなってしまうだろう。

 

それと同様に、もしアポフィニアというものがなければ、われわれは因果関係というものに実感を持てないような気がするのだがどうだろうか? 我々はこの世界の事象について思考を巡らせる場合には、すでに無根拠ななんらかの文脈に拘束されていると見るべきだろう。また、そうでなければ我々は何も解釈できなくなってしまうだろう。