100万円寄付したとかしなかったとか、そんなことばかり焦点が当てられている。しかし事の本質は、エキセントリックな人物が創立しようとした小学校に対し、財務省や大阪府が異常なまでの配慮をしたということにある。 
 

≪ 学校法人「森友学園」の小学校開設の認可を巡り、大阪府の松井一郎知事は21日、府私立学校審議会(私学審)が2015年1月に「認可適当」の答申を出す前、財務省近畿財務局から「口頭で森友側に売却するとの見通しが(担当課に)伝えられた」と述べた。府庁で記者団に明らかにした。財務省は毎日新聞の取材に対し「府に契約の見通しを伝えたことはない」と否定している。  ≫  ( 毎日新聞 )

 

森友学園の土地取得にめどが立たねば、大阪府は学校設立の認可をするわけにはいかない。一方、財務省側は平成28年度の学校開設を、埋設物撤去を学校側に委任して売却を急いだことの理由にしている。本来はあり得ない行政判断が行われていた咎が問われているのである。

今になって責任を擦り付け合っている、当時の理財局長と大阪府知事を証人喚問するのが妥当であろう。

 

しかし、この奇矯な人物の創立する小学校に、理財局長や大阪府知事がここまでサービスした理由は何だろうか? 安倍さんは、自分がこの件に関係しているなら政治家を辞めるとか言って力みかえっているけれど、行政の長としてその理由を明らかにする義務がある。100万円の寄付がどうのという前に、役人を呼びつけて真相究明すべきではなかったのか。それができないのはなにか後ろ暗い所があるのだろうと勘繰られても仕方があるまい。

 

事件が発覚する前は、「素晴らしい教育方針と妻から聞いている。」と言っていた。それが一転して今では「しつこい人」だ。この人の言葉は信用できない。

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責任ということ

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昨日(3/17) j前橋地裁で、福島原発事故における、東電と国の過失が認められる判決が出ました。

≪ 『原発避難訴訟 国に初めて賠償命じる判決 前橋地裁』  東京電力福島第一原子力発電所の事故で、群馬県に避難した人など、130人余りが起こした裁判で、前橋地方裁判所は「津波を事前に予測して事故を防ぐことはできた」として、国と東京電力の責任を初めて認め、3800万円余りの賠償を命じる判決を言い渡しました。原発事故の避難をめぐる全国の集団訴訟では、今回が初めての判決で、今後の裁判に影響を与える可能性もあります。 ≫ ( NHK NEWS WEB )

 

平成14年に政府の地震調査研究推進本部が発表した「長期評価」では、三陸沖から房総沖にかけてマグニチュード8クラスの巨大地震が、30年以内に20%の確率で発生することが示されていた。そして、平成18年に当時の原子力安全・保安院や電力会社が参加した勉強会で、福島第一原発については、14メートルを超える津波が来た場合、すべての電源を喪失する危険性があると示されていた。

 

それで、国と東京電力の責任に対し、3800万円余りの賠償を命じる判決が言い渡されました。この手の判決が言い渡されるたびに疑問が起きます。ここで責任を問われている、国あるいは東京電力というのは一体何者か?ということです。賠償金は結局税金と電力料金の中から払われます。もちろん、今の政権を支えている政治家を選挙で選んだのだから、国民が税金を通じて賠償することに異論があるわけではありません。しかし、政治家や経営者というのは、それなりの高い見識や判断力を見込まれて高い地位と報酬を与えられているはずです。過失があった場合は応分の責任を果たすのが当然でしょう。

 

しかし、この件で責任を取った政治家はいないし、東電も一部の幹部が交替しただけです。今回の事故の責任は、単に職を辞するくらいのことではすまされないはずです。東電の幹部は引退してもおそらく悠々自適の生活を送れるでしょう。しかし、多くの人が故郷を追われ今も帰れない、自殺者も出た、何か割り切れない思いを抱くのは、私一人ではないでしょう。

 

「マグニチュード8クラスの巨大地震が、30年以内に20%の確率」
「14メートルを超える津波が来たら、すべての電源を喪失する危険性」

 

30年以内に20%の確率なら、自分の任期中に発生しない確率は8割以上、それに必ずしも14メートルを超える津波が発生するとはかぎらない、少ない確率のリスクに金をかけるよりも、自分の任期中に経営実績を上げて評価されたいという気持ちは分からないでもないが、現実にリスクは発生した、見識ある人間なら己の罪の深さを思い知るはず。

 

 

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WABI-SABI(わび・さび)

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先日、図書館で「翻訳できない世界のことば」という本を借りてきました。結構話題になっている本で、昨年から予約していたものがやっと順番が私にまわってきたのです。著者はエラ・フランシス・サンダースさんという若い女性イラストレーターです。で、いろんな国に住んだ経験から、それぞれの土地には一言では翻訳できない言葉あることを知り、それを紹介したいと思い立ったのだそうです。

 

例えば、イクトゥアルポク(iktsuarpok) というのは、イヌイット語の名詞で、「誰か来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出てみること」だそうです。人口の希薄な氷雪の世界に住むイヌイットにとっては、人との出会いがそれほど貴重で新鮮な出来事なのでしょう。そのように思いを巡らせると、「イクトゥアルポク」がとても素敵な響きに感じられます。

 

で、この本には日本語からは"boketto"(ぼけーっと)、"tsundoku"(積読)、"wabi-sabi"(わび・さび)、の3つが収録されています。このうちの"wabi-sabi"についての意味は次のようになっています。

 

(意味) ≪ 生と死のサイクルを受け入れ、不完全さの中にある美を見出すこと。≫

 

(解説) ≪ 仏教の教えがルーツにある日本のこの考え方は、不完全で未完成であるものに美を見出す感性です。うつろいと非対称性をくらしのなかに受け入れるとき、わたしたちはつつましく、満たされた存在になります。 ≫

 

わびとさびはもともと別概念ですが、現在ではひとくくりに使用されることが多いので、一つの概念として扱って問題はないと思います。私たち日本人は、わびさびの意味を体感しているかのように思いがちですが、あらためてこのように表現されると、「はっ」と気づかされるものがあるのではないでしょうか。西洋的な理念は真・善・美における完全性を求めますが、日本においては仏教の無常観に基づいて、そのような理念は排除します。無常の中ではすべては過渡的で不完全でしかないのです。その辺は西洋式庭園と日本式庭園を比較してみれば明瞭です。西洋のそれは幾何学的な直線と曲線によって表現されますが、日本のそれは非幾何学的かつ非対称的です。
( 参照==>「リアルな世界に完全なものは存在しない」 )

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分類と偏見

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今ではそんなことはもうないだろうが、金髪碧眼という言葉が外国人(と言っても白人だけだが)の代名詞だった。それで白人を見ると、栗毛であろうと茶髪であろうと、黒髪より薄い色で茶色がかっていれば、それをみな「金髪」と呼ぶ人が日本には少なからずいた。欧米人の髪の色のバリエーションは非常に多くて、レッド、ブラウン、ブルネット、ブロンドなどと多彩に呼び分けされている。ところが、日本人の髪の色はほとんど黒一色なので、髪の色を細分化する発想が無かったのである。 

ペルシャ人やアラブ人は日本人の目から見れば白人にしか見えないが、欧米の基準によると非白人になるらしい。かつて南アフリカでは公的な人種差別であるアパルトヘイト制度が存在した。その時、重要な貿易相手国であった日本人は(全然名誉なことではないが)名誉白人とされた。 

つまり、分類というものは分類する側の関心や価値観による恣意的な視点から行われる、ということを私達は肝に銘じておくべきだろう。

悪魔の証明って

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学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地払い下げ問題に関して、共産党の小池晃書記局長が、学園側が自民党国会議員に便宜を図るよう求めた記録が存在すると主張し、安倍晋三首相を追及した。

 

小池氏 「私どもは、ある自民党国会議員事務所の面談記録を入手しました。そこには、森友学園側と(売却に関わった)近畿財務局や大阪航空局とのやり取りが克明に記録されている。記録は、2013(平成25)年8月5日から始まります。一部紹介します。」 ‥‥( ある政治家の事務所に籠池氏が来訪し、いろいろなやり取りがあったことを述べる)‥‥

 

それに対して安倍首相は次のように答える。

 

安倍首相 「まず、読まれた文書は、どういう文書かも分からないですよね。本当のことかどうか分からないものを、立証する責任はそちらにある。そこで、国会議員の事務所、まるで私の事務所であるかのごとくの印象を与えていますよ。印象を与えていますが、そういう事務所がどこの事務所かということを、われわれは知らないんですから。今、小池さんが『その事務所はどこだ』と言われたらいいじゃないですか? ないものを証明するのは、いわば『悪魔の証明』といわれている。その事務所の名前も出さずに、これは調べようがない。それと、不当な働きかけはなかったと(財務省の)局長から聞いているわけですから、そうお答えしているわけです」

 

悪魔の証明とは、「存在しないものを存在しないと証明する」ことで、論理的には不可能とされている。例えば雪男を発見すれば、それはそのまま雪男が存在することの証明となる、しかし、雪男が見つからないからと言って、雪男が存在しないということは言えない、というようなことである。

 

しかし、安倍さんの言っていることは屁理屈というものだろう。国有地を9割引きで民間に払い下げる。そんなことは通常あり得ない。私立学校の理事長が政治家の媒介なしに、土地代を8億円も値引きできる権限を持つ役人に面会できるわけがない。

 

常識的に考えれば、安倍さんの支持母体である日本会議の幹部である籠池氏に、役人たちが配慮したのだろう。なにしろ総理夫人が名誉校長なのだから、当然籠池市の背後に総理の後光がさして見えたはずである。

 

国有財産を9割引きで売り払うことが、正当な行政であるかどうかの判断力を問われていることに気づかないのか。今回の件に関して自分の影響を払しょくしたいのであれば、交渉経過を自分から積極的に追及すべきなのに、「挙証責任は野党にある」とばかりに気色ばむ。すでに馬脚は現れているのである。こんなお粗末政治家の支持率がいまだに50%以上もあるなんて、一体どういうことなのか。

 

安倍さんはこの「悪魔の証明」という言葉が好きらしくて、以前TPP問題で甘利氏が追及された時にも、この言葉を出して反論している。しかし、イラク戦争を支持したことを追及された際には、次のように答えていたことを山本太郎議員に皮肉られている。

 

「大量破壊兵器が無いと証明出来なかったイラクが悪いといことは申し上げておきたいと思います」

 

これこそ悪魔の証明の要求ではないのか。美しい日本の国の政治はお粗末である。

希望は戦争

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最近つくづく思うのだが、少数の資本家が大多数の労働者を搾取するのは、たいして深刻な事態ではないと考えるようになった。本当に深刻なのは労働者間に格差が生まれることである。
昭和三十年代、私の周りの人々は多少差があったとしても、庶民と呼ばれるたいていの人々は貧乏だった。ところが、グローバル化の波とともに先進国では庶民の間で格差が広がる傾向にある。時給千円で働く非正規雇用労働者はフルタイムで働いても月収20万円に到達しない。到底一人だけの収入では独り立ちできない。夫婦共稼ぎでも可処分所得はごくわずかで、子供を育てるには相当な無理が伴う。一方、団塊の世代の共稼ぎの公務員夫婦などの場合、夫婦合わせて約五千万円程度の退職金を受け取り、なおかつ月約40万円の年金がもらえる。庶民と呼ばれる人々の中に、億単位の金融資産に手の届く人たちがかなり出ているのだ。

 

この格差の広がりはバブル崩壊による高度成長の終焉とともに加速されてきた。企業が業容拡大から収益重視に路線変更したからだ。それは、高度成長期に企業内ポジションを確保した中高年層と、大学を卒業しても低賃金の非正規雇用に甘んじるしかない若年層の世代間格差をも生むことになった。

 

今からちょうど10年ほど前に、当時31歳のフリーターであった赤木智弘氏の「『丸山眞男』をひっぱたきたい 希望は、戦争。」という文章が「論座」に掲載された。その中の最も過激な部分を以下に引用する。

 

≪ 苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
 戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
 丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
 社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
 しかし、それでも、と思う。
 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。≫ (朝日新聞社 「論座 2007年1月号」)

 

ル・サンチマンに満ちた内容で、思想的には整合性があるとはいいがたい。論理的に論駁するのも難しくはないだろう。実際に多くの識者が論駁を試みた。それらに答えて赤木氏はさらに、 「けっきょく、『自己責任』 ですか」という文を再び「論座」に発表した。

 

≪ 右派の思想では、「国」や「民族」「性差」「生まれ」といった、決して「カネ」の有無によって変化することのない固有の 「しるし」によって、人が社会の中に位置づけられる。経済格差によって社会の外に放り出された貧困労働層を、別の評価軸で再び社会の中に規定してくれる。
 たとえば私であれば「日本人の31歳の男性」として、在日の人や女性、そして景気回復下の就職市場でラクラクと職にありつけるような年下の連中よりも敬われる立場に立てる。フリーターであっても、無力な貧困労働層であっても、社会が右傾化すれば、人としての尊厳を回復することができるのだ。
 浅ましい考えだと非難しないでほしい。社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだから。≫( 朝日新聞社 「論座 2007年6月号」 )

 

貧しい若者のほとんどが、彼を論難した識者より彼の方に共感を抱いたのではないかと思う。彼自身自分の主張が建設的なものでないことは十分理解している。しかし、「一生懸命働いてきた老夫婦にとって、3年に一度くらい海外旅行へ行くのは庶民のささやかな楽しみ」というような感覚をもった中高年などに説諭されたくないのだ。

 

格差是正という観点からは彼らが政治に期待するものは何もない。要するに右でも左でも、彼らが経済的に取り残されるのは同じなのだ。ならば、慰安婦問題や領土問題で強気に出てくれる右の方がましである。せめて日本人としてのほこりを慰撫してくれるからである。

 

中高年世代はもっと緊張すべきだと思う。少なくとも、自分たちののほほんとした生活は、貧しい若者の犠牲の上に成り立っているという程度の認識は必要である。彼らが落ちこぼれない仕組みを作る義務は本来私たちにあったのだから、『自己責任』ではすまされない話である。

真理はないか?

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「真理はない」などと軽々しく言うべきではないと思う。もともとないものであるなら「ない」とさえ言えない。少なくとも、「ない」と言えるためにはその対象が明確に定義されていなければならない。たいてい真理の存在有無を論じているところでは、「真理とは何か?」という問題が並行して行われているのが常である。それがなんであるかわからないものの存在について論じることは、空港へ名前も姿形も知らない人を迎えに行くのと同じである、その議論に出口はない。

 

もともとないものをないということの奇妙さというものを、もう少しわかりやすく説明してみよう。私があなたにいきなり、「ギカリメンテロチは存在しない」と言ったとする。あなたの反応は多分、「???」だろう。「ギカリメンテロチ」をあなたは実際に経験したことがない。そしてそれがどのようなものであるかも聞かされたことがない。「ギカリメンテロチは存在しない」という言表はあなたにとって何の意味もないのである。同様に、「真理」が何を意味するかも分からないまま、「真理はない」と言うなら、そして本当にそれがないのなら、その言表は意味を持たない。

 

以上のことを踏まえると、ウィリアム・ジェイムズの次の言葉が実に意義深いもののように私は感じる。

 

≪ずっと信じてきたもの、実際にそれに基づいて生きてきたのだが、それを表現することばを見つけることが出来なかったもの≫

 

哲学というのは、それを表現する言葉を模索し続ける行為なのだろう。

 

六国見山 (鎌倉市) から見る富士

( 毎日新聞より )
 
「金田法相 指示認め撤回…共謀罪「提出後に議論」文書配布」
 
 金田勝年法相は7日午前の衆院予算委員会で、「共謀罪」の成立要件を絞り込み「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案に関し、「国会提出後に法務委員会で議論すべきだ」と記した文書を自身の指示で作成したと認め、撤回して謝罪した。政府・与党内で提出に向け調整中の同法案に関し、野党は予算委で度々追及している。法務委での質疑を求める文書に野党は「質問封じだ」と強く反発している。

 文書は6日に法務省が報道機関に配布。「建設的議論には、委員からの質問通告が極めて大まかな要旨のみでは不十分だ」などと記し、国会提出後に法務省刑事局長を交えて法務委員会で議論すべきだとしていた。 

 
衆院の予算委員会で、共謀罪について野党の質問にろくすっぽ答えられない法務大臣が、法案提出後に法務委員会で議論すべきだと寝言を言っている。国会で追及されている単純な矛盾点をクリアできないまま法案提出して、後は数の力で押し切ろうという魂胆が見え見えである。恥という言葉を知らないのだろうか。
 
また、最近『発見』された陸上自衛隊の南スーダンにおけるPKO活動に関する日々報告には、戦闘の深刻化とPKO撤退の可能性も認識していたことが記されていた。この間政府は一貫して、「戦闘行為ではなく『武力衝突』である」と奇妙な主張をし続けていたのである。
 
この文書については昨年九月に開示請求されたものの廃棄を理由に不開示とされていた。武力衝突を戦闘行為ではない、公的文書を捨ててしまったから開示できない、などと公の場で堂々と言える神経というのは一体なんなのだろう。頭が悪すぎるのか、それとも鈍すぎるのか?
 
極めつけは稲田大臣の次の言葉だ。
 
「憲法上、戦闘を想起するような言葉を使わないように武力衝突のような言葉を使った。」
 
正気か? 法律家のくせに自分が何を言っているのか分からないのだろうか? どろぼうをしても、「どろぼう」という言葉を使わなければ犯罪にならないのか?
 
こんなやりとりがさも当然のようにまかり通ることが子供への教育上良い訳がない。若者の政治への無関心としらけが助長されないかと心配だ。
前回は、すべてが観念であるとすると、その観念の位置づけが出来なくなる、というようなことを述べました。へたくそで恐縮ですが、下図のような概念図となります。バークリーの言うように、すべてが観念であるとすると、一番上位のこの絵そのものを吹き出しの中へ入れなくてはならなくなるのであります。
どうしてこのようになるかと言うと、二つの理由があります。ひとつは、認識というものについて、「主観が客体を認識している」という構図の上で考えているということ。二つ目の理由は、我々が世界を把握しようとするときの視点が実存視点と客観視点の二つがあるということです。実存視点とは生身の自分自身が世界を「見つめる」視点で、客観視点とは自分自身をも含めた世界を俯瞰する架空の視点のことです。学としての哲学は客観的でなくてはならないことから、この世界を客観視点から俯瞰しようとします。
 
ここで、観念論と実在論のどちらでもない禅的一元論ともいうべきものの見方をご紹介しましょう。まず、自分が見ている景色というものを思い出してみましょう。実際に私たちが見ている風景は下図のようなものです。
前出の図と違うのは、木を見ている私がこの図の中にはないということです。素朴に反省してみれば、客体を認識している主観というものがどこにもないということがよくわかります。あなたは、「そんなことはない。木を見ている「私」はちゃんとここにある。」と言うでしょうが、その「私」は実は他者としての「私」なのです。私たちは他者とコミュニケーションをとるうちに、他者の中に「私」と同型のものを見出します。そして、その他者が木を見ている光景を、自分が木を見ている場合にも適用してしまうのです。しかし、自分が木を見るときは、実は木しかそこにないのです。
 
道元禅師の正法眼蔵の中に次の有名な一節があります。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。


禅の目的は自己究明にありますが、それは自分が考えているような自己というものが、どこにもないということを知るということです。万法とは感官に触れるものすべて、つまり森羅万象のことです。最後の句は「森羅万象が私に悟らせてくれる」というような解釈が一般的ですが、私はもっと直接的な解釈がよいと思っています。「森羅万象を認識する自分は存在しない、森羅万象がそのまま自分でありそのまま悟りである。」と言った方がしっくりします。禅僧が、「山を見れば自分が山になる。木を見れば自分が木になる。」と言ったりするのも、このような文脈から見れば理解できます。

西田幾多郎の「善の研究」の第2編第2章のタイトルは「意識現象が唯一の実在である」となっています。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

「意識現象」というと、なんとなくそれはリアルではない一種の幻影のようなニュアンスがあります。少なくともそれは「実体」ではないというのが大方の受け止め方でしょうが、西田はそれこそが実在であるというのです。物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり論理的に各人にとって共通で整合性のあるモデルとして、構成した仮説であると言っているのです。 
 
意識現象は物体現象に対する言葉で、それぞれ「観念」と「物そのもの」に相当する。したがって、このままだと西田は観念論者とされてしまうところですが、西田は次のように断っています。

 ≪余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象と言えば、物体と別れて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意ではでは真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。またバークレーの有即知というのも余の真意に適しない。直接の実在は受動的でない。独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。≫ (P.73)
 
ここで西田は意識現象という言葉を「純粋経験」と言い直す。そしてそれは「受動的でない。独立自全の活動である。」といいます、つまり主観によって認識されるものではないと言っているのです。私の目の前にあるリンゴがあるとします。そのリンゴの『見え』が純粋経験ですが、それは私に認識されて見えているのではなく、まず『見え』そのものがある。そしてそのことから「私がリンゴを認識している」と推論されているのだということです。

つまり、リンゴの『見え』という純粋経験があって、「私」という認識主体があると想定されている、と言うのが本当である。そこのところが理解できれば、「 個人あって経験があるにあらず、経験あって個人があるのである。」という言葉も了解できます。

観念論と実在論のつづき

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前回は、科学的実在論が必然的に観念論を導き出す過程について述べた。実在論は必然的に観念論を導き出すが、観念論から実在論には戻れない。科学的実在論によれば、我々に直接接するのがセンスデータだけだからである。我々の側から見れば、物そのものの前に感覚の壁が立ちはだかり、物そのものは仮説的推論によって存在すると推定するしかない。
 
矛盾のない仮説的推論というのは無限にある。例えば、「私は実は培養液に浸された脳であって、今見ている光景は電気的刺激を人為的に外から与えられることによって、見せられているビジョンなのだ」というような説を言い出す人も出てくるわけである。
 
ならば、実在性を観念そのものに与えて、観念以外のものはないのだ、ということにしてしまおうというのがバークリーの観念論だ。
 
しかし、このバークリーの考え方にも重大な問題がある。そもそも観念とは科学的実在論から生まれた概念だからである。観念論側から見れば、科学的実在論とは仮説的なものになるが、「観念」という概念そのものが、光、視神経や脳などと同様に仮説の部品であったものだということだ。
 
であるから、「観念」という言葉は暗黙の裡に『意識の内側にあるもの』というニュアンスを含意している。しかし、バークリーは意識の外側は何もないと言いながら「観念」という概念を使用しているのである。時々、哲学をかじったことのある人が、「山も川も自分の外側にあると思っているものも全部、自分の脳の中にあるんだ。」というようなことを言います。しかし、すべてが脳の中なら、その脳は一体どこにあるんだ、という問題が出てくる。
 
西田幾多郎はこの問題を『自覚に於る直観と反省』という論文の中で、「英国にいて英国の完全な地図を描く」と言う哲学的な問題として取り上げている。
 
ここで言う「英国の完全な地図」とは、あらゆる要素を一定の縮尺率で書きこんだものと言う意味である。例えば家一軒々々はおろか、もっと微細なものまですべてが記されているそんな地図である。もちろんそんなものは実現不可能であるが、あくまで思考実験として考えてみるのである。

この地図が例えばどこかの大きな広場で描かれていたとする。と、「英国にいて」とあるので、この広場自体も地図上に記載されていなければならない。ならば当然、この地図そのものもこの地図上に記載されねばならない。

勘のいい方はもうお分かりだと思うが、地図の中の地図にもこの地図が記載されていなくてはならない。というわけで、地図の中の地図の中の地図の中の地図の中の‥‥、というわけで無限に循環してしまう。
 
すべてが脳の中と言ってしまうと、その脳自体もその脳の中に位置づけしなくてはならなくなるのでこういう問題が生じるのである。
 
( まだまだつづく )