誕生日について

テーマ:

昔の日本人は誕生日を祝うという習慣はありませんでした。なぜなら歳を取るのは元旦と決まっていたからです。いわゆる数え年というやつですが、ぼくが小学校へ入る前までは、年齢は満年齢ではなく数え年で表すのが一般的であったように思います。学校の年度は4月に始まるので、小学一年生には8歳と7歳の子が混じっていることになります。それで、いまでいう「はや生まれ」は「七つ学校」、「遅生まれ」は「八つ学校」とぼくたちの地方では表現していました。他の地方では「七つ入り」、「八つ入り」というところもあったようです。

 

そんなわけで、昔の日本人は元旦に新年と加齢の祝いをまとめてやっていたわけです。当然ぼくもお誕生会などというものを祝ってもらった記憶がありません。同世代のほとんどの人はぼくと同様だと思います。それでもアメリカ文化はじわじわと日本に浸透してきます。小学校3年の時に、お金持ちの同級生のお誕生日会に招待されました。あまり食べたことのないケーキやらご馳走をいただいたのですが、「へぇーっ、こんなことやるんや!」と奇妙な感慨に襲われたものです。

 

散々ご馳走になったのですが、誕生日プレゼントを持たないでいったことに思い至ったのはずっと後年のことです。まあ仕方がありません、バースディ・パーティの概念そのものがなかった時のことですから。

 

自家製食パン ( ちょっとこがしてしまった(-_-;) )

AD

心はどうやって生まれるのか

テーマ:

先日、NHK-ELのサイエンス・ゼロという番組を見たんですが、心を人工的に造り出すという試みにチャレンジしている人たちがいるそうです。科学によって意識というものも少しずつ解明されているということも言っていました。

 

しかし、この「心はどうやって生まれるのか」というタイトルには少し違和感を感じるんですね。もし科学がもっと進んでいけば、神経細胞がこのような状態になった時このようなことを人は考えている、ということが正確にわかるようになるかもしれません。そうなれば、本当に人間のように価値観を持ち、主体的に施行する人工頭脳をつくることができるかもしれない。

 

それでも、はたして心を造ったと言えるのか?という疑問は依然として残るような気がします。それは、ただ単にそのように反応し、そのように作動する機械を造っただけのことではないのか、という思いは消えないような気がするんです。

 

例えば、その機械が空を見て、「ああ、空が青いなぁ」と言ったとします。その時その機械の中には本当に青のクォリアが生じているのかどうかは確かめようがありません。その機械を作った人間から見れば、青い空を見たら「ああ、空が青いなぁ」と発言するメカニズムは既に分かっています。しかし、そのメカニズムは初めから最後まで物理現象によるメカニズムです。その機械の網膜に相当する部分に映る像は確かに青い色をしています。しかし、それは第三者としてのぼくがその網膜に映った像を見れば確かに青く見えるのですが、その機械の中では電気信号になって脳に送られます。そしてそのプロセスの中のどこをさがしても、電気的な作用があるだけでどこにもぼくが実際に見ている青い色あいそのものが見当たらないのです。

 

これがいわゆる心身問題です「意識のハードプロブレム」とも言います。が、特定の波長の光が視神経を刺激すればぼくたちには青く見える、ということは現在でも既に分かっていることです。しかし、物理現象がどうして意識上の青い色になるのかがどうしても説明できない。これ以上科学が進んでもより精密なメカニズムが分かるだけのことで、根本的に心身問題が解明されることはないように思えます。

 

そこで気づくのですが、物理現象から意識現象を説明する、ということがそもそも逆転した発想ではないかとぼくは思うのです。あえて主客二元的な構図で説明しますと、通常は客体があってそれを主観がとらえるというふうにぼくたちは考える。つまり、リンゴという客体があるから、ぼくという主観に赤くて丸いものが見える、と思いがちです。しかし、現象学的な表現でいえば実はこれは逆で、赤くて丸いものが見えるから、そこにリンゴがあると確信するわけです。つまり因果でいうと、客観が因で主観に果が生じるのではなく、主観が因で客観に果を想定しているわけです。

 

ここで、エルンスト・マッハの科学についての見方をご紹介しましょう。

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫(Wikipediaより)

 

感覚諸要素とは我々が直接見聞きする現象のことです。いわば「空が青い」というようなことです。「関数的関係を記述する」とは、光の波長や視神経パルスというような概念を使用して「空が青く」見えていることのメカニズムを明らかにすることです。「思考経済の原理に沿って」というのは、出来るだけ余分な概念を使わないでシンプルに説明する、ということでしょう。マッハにとっては、光だとか波長というのも、それを想定すればもっとも簡単に説明できるという、構成された概念であるということです。あくまで実在するものは「感覚諸要素(現象)」であります。

 

もう一つ、西田幾多郎の「善の研究」から引用します。

≪我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を抽象したのにすぎない。≫

 

明確に意識現象だけが実在で、物体現象というのは各人に共通で普遍的関係を抽象したものである、と述べております。マッハと西田について共通に言えることは、我々が実在している物理的世界というのは「構成された」一種のモデルであるということです。本当に実在するのは、「空が青い」という我々の意識がとらえた現象のみであるということです。

 

「空が青い」という我々の意識がとらえた事実から、「青く見えるときの光の波長は‥‥」であるという物理学的対応を導き出しているわけです。すなわち、「主」から「客」を導いている。

 

ところが、何事にも理由を知りたがる現代人はここで、「光の波長が‥‥だと、どうして青く見えるのだろう?」とあらためて問うのです。私にはこの問いがナンセンスなように思えます。そのように問いたくなるのは、物理的世界が実在であって、それが原因となり我々の意識が結果として生まれてくるという発想があるからでしょう。どうしても、「客」から「主」を導き出したがるわけです。

 

事実は逆であります。実は「空が青い」ということがまず何より第一義的な事実なのです。このような見方は禅仏教における真理観とも符合します。禅仏教においては実存的視点から見える光景がそのまま真実であり、その背後に隠れている真実など無いのであります。「柳は緑、花は紅」というのは端的にそのことを表す言葉です。

 

AD

(笑) について

テーマ:

なにか面白いことを述べようとしているわけではありません。最近というか結構前からですが、メールやSNSにおけるメッセージの中の ”(笑)” というのがどうも気に入らないという話です。こんなことを言うのは私が年寄りだからかもしれないのですが、結構年配の方でも使っていることがあるので、年は関係ないのかもしれない。

 

子供のころテレビでアメリカのお笑い番組をよく見ていましたが、オチのところで笑い声が入ります。スタジオ収録だから録音した笑い声を流しているわけです。笑い声で見ている人に面白いんだという印象を与えようという狙いがあるのでしょう。おそらくその脚本には、笑い声を挿入する箇所に「(LOL)」と書き込まれているはずです。

 

LOLとは Laughing Out Loud の省略形で、「爆笑」というところでしょうか、それでアメリカ人は手紙の中で面白いことを記した分の末尾に (LOL) と書く人もいるわけです。 ”(笑)” はその日本語版でしょう。中には、 ”(爆)” を使う人もいます。

 

私が”(笑)”を使う気になれないのは、”(笑)”と書いたところでちっとも面白くないからです。おそらく文章を受け取る側からすれば、”(笑)”は何の効果もないように思えます。メッセージを送る側から「ここは笑うとこです」と指定する、好意的に解釈すれば一種の照れとも受け取れますが、そこに書き手側の反知性的な自己満足のようなものを嗅ぎ取ってしまうこともあります。そこのところは、受け手が送り手の性格をどのようにみているかで大きく解釈が分かれますが、どちらにしろ”(笑)”はそれほど肯定的な効果をもたらさないと思うのです。

 

親しい人どうしのメールにおいてはたいして問題はありませんが、SNSで見知らぬどうしのメッセージのやり取りにおいて、”(笑)” を使用するのは極力避けた方が良いと思います。前に述べたように、”(笑)” には送り手が期待しているような効果は全くないからです。時には、”陳腐な悪意”ととられかねません。

 

哲学趣味の人々のSNSをのぞいてみると、この”(笑)”または単に”笑”が使われている場合が結構多い。しかもそのような場合に限って、そこは哲学的議論とはほど遠い場となっている場合が見受けられるのです。そこでは、この”(笑)”は自分の(あくまで独善的な)優位を強調する符号でしかなくなっており、しかしそれはあくまで独善的なものだから、結局自分の底の浅さを強調するものでしかないことを本人だけが分かっていないという状態に陥っているのです。哲学上の議論をする場合には自分を相対化できないとならないのですが、そこのところが分かっていない人が実に多い。それで意地の張り合いのようなやり取りになって、”(笑)”が飛び交うようになる。頭を冷やせば、そこにはくだらなさ過ぎて「笑うしかない」ような状況が生まれているのです。

 

 

ちょっと厳しすぎる言い方になったかもしれないけれど、決して”(笑)”を使うべきではないということではありません。上記のことはあくまでぼくの主観で、自分は”(笑)”を使うことはできないというお話です。あくまで、会話上の言葉にはもう少し注意しましょうというだけのことで、これは自戒の意味も込めてそう思うのです。

 

海王丸と私 (東京 江東区 青海)

AD

ひろい食いはいけないか?

テーマ:

一般に拾い食いはいけないとされているけれど、ぼくは飯粒を落とした時は必ずそれを拾って食べます。若者から見れば、ばかばかしいというより愚かと言われてしまいそうだけれど、一定以上の年配の人ならこのようなメンタリティを理解してくれると思います。日本人にとってコメは単なる食べ物以上のもの、神聖なるものであります。「お米を粗末にしたらばちが当たる」とはよく言われたものです。

 

決して迷信を信じているわけではありません。多分ご飯を捨ててしまってもばちは当たらないような気がします。しかし、ばちは当たらなくてもおそらく罪悪感を感じます。ぼくは外食しても食べ残した記憶というものはありません。宴会などでもそうです。人の分まで食べます。もともと大食いということもありますが、他人が食べ残しても罪悪感を感じてしまうのです。

 

おそらく、これは理屈ではなく一つの信仰ではないかと思います。ぼくは全然信心深いたちではないけれど、だれも非宗教的ではいられないことの現れの一例ではないかと思うのです。人は必ず何かを信じています。信じずにはいられないのです。早い話が、歩いている時も大地が踏み出した足をがっちり支えてくれるはずと信じていなくては、怖くて道も歩けません。ばかばかしいことを言っていると思われるかもしれませんが、この世界のことは疑おうとすればいくらでも疑う余地があるのです。

 

合理的にものを考えると自負する人は、宗教を否定して科学を信じるというのですが、人に宗教を信じさせるメカニズムと科学を信じさせるメカニズムはほとんど同じです。というか、科学も一つの宗教だと言っても間違いはないと思います。
ある視点から見れば、シャーマンと医者の違いはほとんどありません。シャーマンに悪霊を追い出してもらえば確かに病気は治るのです。だからシャーマンは信じられるのです。確かにシャーマンに直せない病気はありますが、それは現代における医学についても同じことです。どちらも現実に病気が治るという事実から帰納された信憑構造を持っているということに違いはない。違いは現代医学の方が背景により大きな信憑構造を持っているということだけです。

 

科学者はこの宇宙に斉一な秩序すなわち法則があることを信じて日夜それを追及しているのです。つまりそれはこの宇宙を支配している統合的な力が存在していることを信じていることにより成り立っています。あると信じられている秩序を神と名付けてもなんの不都合もありません。科学はこれから探求しようとしているものを既に「ある」と措定しているわけで、ここに一つの信仰が生じているわけです。既存の宗教と違うのは、その神は例えば旧約聖書の神のような物語性はないというだけのことです。科学は「最後の宗教」と言ってもよいのではないかと思います。

 

以上本日のテーマは、ひろい食いから人間は信じる存在者であるということへの連想でした。

 

本日(12/17) の富士山

≪ この世界が有限個の要素によって成立しているなら、それらの要素の組み合わせは有限個しかない。だったら、永遠の時間の中では同じ組み合わせが繰り返し出現する筈だ。つまり今こうしている瞬間は永遠の中で何度でも到来する。 ≫

 

と、ニーチェは考えました。そして、「同じ人生が何度繰り返されようと、私はこの人生を肯定する。」というのが、ニーチェの積極的なニヒリズムとされているようです。

 

たいていの人の人生はそれほど平坦なものではなくて、少なからぬ苦難や恥辱に満ちているのではないでしょうか、絶対に思い出したくないということの一つや二つあるのが普通だと思います。しかし、それが永遠に何回でも繰り返される。想像しただけでめまいのような感覚に襲われるはずです。何度繰り返されようと己の人生を「Yes」と肯定する、それが超人への道らしい。確かに、常人にはなかなかそんなことは言えません。

 

ニーチェという人はずば抜けて感覚の鋭い人だと思います。文学者としても超一流です。しかし、論理的な思考という面からするとぼくらのような素人と同じレベルではないかという気がします。

 

世界の全要素が有限であるとしても、その変化が定常状態になっていなければ、決して同じ状態が出現しないことは少し考えればすぐにわかります。例えば完全に密閉された容器の中にたばこの煙が吹き入れられたとします。たばこの煙は時間とともに拡散します。そのうちに煙の粒子は少しずつ容器の壁に付着していきます。壁に付着する粒子の数と、壁からはがれる粒子の数が同じになった時に初めて定常状態になるわけです。そうなると、定常状態になる以前の状態は2度と出現しないことになります。

 

それと仮に、1兆の1兆乗の1兆乗年後に全く同じ瞬間がおとずれて、御坊哲と名乗る男がパソコンに向かってブログを書いていたとします、その男は細胞の一つ一つはもちろん、置かれている状況、考えていることや記憶に至るまで、すべて今の私と同じなのです。それでも果たしてその男は私なのか、という問題があります。ここでいう私とはいわゆる独我論的な「私」、ウィトゲンシュタインの言う「比類なき私」のことであります。永井均さんの<私>のことです。

 

双子はいくら似ていても別人格です。ぼくと友人の久和君は一心同体だなんてことを言ったこともありますが、やはり別人格です。この世界はあくまで私の世界として開かれており、久和君はその世界の一点景であります。なぜ私は久和君でなくて御坊哲なのか、なぜこの世界は御坊哲の世界なのか、実に難問です。

 

以上のような観点からしますと、1兆の1兆乗の1兆乗年後の御坊哲は、今の私にとって、時間を経て生まれてきた双子の片割れではないのかと考えるのが妥当であるような気がします。そのような視点が、ニーチェには欠けていたのではないかと思うのです。

 

しかし、まあ私の人生が一回性であろうが何であろうが、とにかく肯定的に受け入れよ、というのはお釈迦様の教えでもあります。

 

※ 永劫回帰についてはいろいろな解釈があるようですが、機械論的な理屈で実存的な問題を抉り出そうとしている点で、哲学的に厳密な解釈というものは馴染まないような気がします。あくまで文学として、個人個人の感覚で受け止めるのが正解であるような気がします。

 

関門跡 - ここから向こう側が「関内」で、こちら側が「関外」 ( 横浜 )

既に時機を失してしまったかもしれないのだけれど、今頃になってこの本を取り上げるのには理由がある。一時期この本は本屋さんに平積みされていたけど、どうしても金を出してまで買う気にはなれなかった。それで市立図書館で予約していたのだけれど、いまだにウェイティングリストには百人単位の待ち行列があり、到底今年中には僕まで順番が回ってきそうにない。そこで、アマゾンで探したら88円(送料257円)の古本があったので、それを買うことにしたのだ。

 

読んでみて、かなりしっかりした文章なので意外な感じがした。ゴーストライターは使っていないということなので、なかなかの文才だと思う。ただ、前半は学問的な内容が多く、ぼくのような知識のない人間が読み通すには少し忍耐がいる。30万部も売れたのがちょっと信じられないほどだ。

 

この本を読んであらためて感じることは、不遇なポスドクがあまたいる中で彼女はずいぶん恵まれているということだ。早稲田-女子医大-ハーバード-理研のいずれもにおいて、指導教官や上司から破格の厚遇を受けている。後からボロカスにたたかれることになった学位論文のお粗末さからして、それほど優秀な資質を持った研究者には思えないのだが、その世界において一流と言われる人たちがそろいもそろってどうしてそのことを見抜けなかったのだろう。そこにはやはり年配の男性にとって彼女は魅力的な女性であったという、下世話な推測を払しょくすることはできない。そのことがお互いに不幸な災厄を招くことになってしまったということだろう。

 

もうすでに終わったことでもあり、関係者は十二分な罰をうけたと思う。しかし、黙っておれないのは、小保方さん自身が本当のおのれの非を認めず、その責任を「善意の協力者」でしかない若山教授に擦り付けようとしていること、そして世間のかなり多くの人がその言い分をまともに信じている、ということに対する義憤からである。「あの日」に対するアマゾンの書評を見る限り、小保方さんに対して肯定的な見方は否定的なものより3倍も多い。

 

「こんな若い女性が一人でこんな大それたことをできるわけがない。」、「したたかなおっさんたちに彼女ははめられた。」そんな印象を持っている人が多いようである。しかし、研究一途に生きてきた学者の多くはプライドは高くてもそれほどしたたかではない、むしろ世間知らずなナイーブな存在であるということはもっと知られるべきであると思う。論文のインチキが暴露されて、小保方さんが実は優秀な科学者などではなかったと気付いたとしても、それまで肩入れしていた手前、手のひらを返して悪しざまには批判できない、超一流と言われる学者ならなおさらそうである。だから若山教授は自分の責任回避のための最低の弁解しかしないし、笹井教授は「彼女は科学者には向いていない」と内心は思いながら、彼女に対して「研究頑張って下さい」みたいな遺書を残して自死するに至ったのである。

 

専門家のほとんどが小保方さん対して否定的であるにもかかわらず、一般にそれが伝わらないのは、高度な科学上の問題だからだろうが、丹念に記事の内容を読んでいけば素人でも小保方さんに非があることが理解できる。その辺を素人であるぼくが分かりやすく説明したいと思う。問題となる点は整理してみるときわめて単純なのである。術語の意味は理解できなくとも良いので、我慢して読んでいただきたい。

 

我々の体は最初はたった一個の受精卵が分割していくことでできる。分割を繰り返すうちに細胞は特定の組織を構成するように分化していく。この既に分化してしまった細胞に刺激を与えることによって、再びいろんな組織になりうる「多様性」をもったもの(STAP細胞)に初期化する、というのがこの研究の目的である。

 

この多様性が獲得できたことを検証するためには、下記の3つのチェックをパスしなければならない。
①OCT-4遺伝子の発現 (緑色に光る)
②免疫不全マウスに移植するとテラトーマ(良性腫瘍)ができる。
③キメラマウスができる。

 

上記のチェックは①②③と順に難しくなっている。そして、①②が小保方さん、③が若山先生の分担となっている。覚えておかなくてはいけないのは、①②がパスしていなければ、そもそも③を実施する意味がないということである。

 

そして、小保方さんの論文には数多くの難点があるが、中でも最大の問題点は②のテラトーマに関する疑惑である。実験結果としてのテラトーマの写真として全然別の研究である学位論文に使用された写真が使われていた。この一世一代の研究において、彼女の担当分としてはよりによって最も重要な写真が、何年も前の全く別の研究論文の写真が使いまわしされていた。彼女は単なる勘違いだというが、写真を解析すると、学位論文用のクレジットが付加された上からさらに新しいクレジットが上書きされていた。すでに学位論文用に編集されていたものに対してさらに加工が加えられている。彼女の言い分は受け入れにくい。そもそも、すでに何年も前に終わっている学位論文の資料と、Nature用論文の資料は別フォルダで管理されているはずである。日常業務でもこのような間違いはめったにあるものではない。

 

まあ、それが単なる間違いであっても、本当に②の実験が再現できれば、功績の大きさに照らしてその程度のミスは帳消しされる。しかし、再現できないのだから、本当に②の実験が行われたのかどうかが疑わしいのである。再現できなくても悪意がなかったというには、実際に②の実験をやったということを示さねばならない。真正な実験結果の写真とそれを根拠づける実験記録がなければならないが、それもないという。

 

手記「あの日」にはどうでもよい経過がだらだらと書かれているが、肝心のこの辺の言い訳がなされていない。もっとテラトーマの実験時の状況について詳しく述べるべきであるはずなのに、この辺の記述が実にあいまいなのだ。

 

≪ 培養系で三胚葉系の細胞腫への分化が確認されたので、次は多能性を示すための2つ目の実験である免疫不全マウスへの移植実験を試みた。ES細胞などの多能性幹細胞は、免疫不全動物の生体内に移植すると自発的に分化し、様々な組織を含む奇形腫(テラトーマ)を形成する。スフェア細胞はES細胞とは異なり、生体内での増殖率が低く、ただ注入するだけではテラトーマを形成することはなかった。しかし、研究室が得意としていた組織工学の技術を使ってテラトーマに似た組織を作ることができた。 ≫(P.51)

 

他のことはだらだらと書いているにもかかわらず、テラトーマの形成実験についてはたったこれだけである。しかも、『テラトーマに似た組織を作ることができた。』という表現が気になる。実験方法の正否ではなく、「悪意の有無」に焦点を移しているからこのような表現になるのだろう。

 

手記の後半では、「STAP細胞を造ったのは若山教授である」ということを強調し、さも若山先生がこの実験の主要部分を担っておるにもかかわらず、彼が責任の回避を行っているような印象操作が行われている。しかし、そもそもSTAP細胞をつくるもととなるSTAP細胞は、彼女が作っているはずなのである。前にも述べたように、②の実験が成功していなければ③を実施する意味はないのである。若山先生の責任を問う前に、②のテラトーマ形成の実験が良心的に行われたことを先に証明することが彼女に課せられた義務である。そのことから意図的に目をそらしながら、若山先生の責任を問うというのはお門違いというか、そこには明白な邪悪さが感じられる。

 

それと、毎日新聞の須田桃子記者の取材には『殺意を感じる』と表現しているが、須田記者のどのような取材の仕方が殺意を含んでいるのか具体的記述が一切ないのも不可解である。須田記者の「ねつ造の科学者」には小保方さんへの問い合わせ内容が明確に記述されているのだから、それらの一つ一つに反論する姿勢があってもよいだろう。でなければ、このような手記を書く意味がない。

 

学位論文でページ単位のコピペをしておきながら、「あれは下書きだった。」と言い訳をする。それならメールで本物をすぐ再提出しろと言われても、、2か月も経ってから印刷物で送ってくる。電子媒体で送ることの意義を理解していないはずはないのに、わざわざ手間暇かけて印刷したものを送ってくるわけだ。再三、電子媒体のものを請求されて、やっと送ってきたところ、なぜか何年も前に完成されているはずの文書の最終更新日がつい3日前になっている。あなた、こんな人を信用できますか?

 

 

 

 

失われた時を求めて

テーマ:

何年か前、京都で夜の木屋町を歩いていた時のこと、ホルモン焼のにおいが立ち込めていた一角があって、そこを通りかかった時突然に、半世紀も前の学生時代の記憶がよみがえってきた。フラッシュ・バックというのだろうか、奇妙な臨場感を伴って、昭和四十年代の暗い街角をさまよっているような感覚に襲われた。

 

あるドラマを見ていて、それが「プルースト効果」というものだということを知った。早速インターネットで検索して調べてみると、嗅覚は脳のなかでも原始的な感情を司る大脳辺縁系に直接つながっているので、より本能的な情動と結びつきやすいとのこと。つまり、においはぼくらのこころの奥深い情動を揺り動かすのだと聞いて納得した。

 

プルーストの小説「失われた時を求めて」のなかに、主人公がマドレーヌを紅茶に浸したとき、その香りをきっかけとして幼年時代の記憶が鮮やかに蘇る、そのシーンにちなんで「プルースト効果」と名付けられたらしい。そのような学術的(?)な名称がついているくらいだから、これは一般的な現象であるはずで、誰にでもにおいに刻み込まれた記憶の一つや二つはあるのでしょう。

 

お彼岸の線香のにおいを嗅ぐとより季節の深まりを感じるとか、田舎の家の畳のにおいでやさしかったおばあちゃんを思い出すとか、‥‥。
さしずめ、今この記事を読んでいるあなたは、チョコレートのにおいを嗅ぐたびに、好きな女の子から初めてバレンタインのプレゼントをもらった時のことを思い出しているのではないでしょうか。

 

和歌山県の田舎町で育ったぼくは、子供のころ家族に連れられて大阪の親せきに行ったことがある。天王寺駅で降りると、街の食堂からバターを焦がしたようないい匂いがしてきた。その時以来、オムライスを食べるたびに天王寺の光景がよみがえる。オムライスは僕にとって、「大都会」のにおいになってしまった。

 

以前からにおいと記憶の結びつきにはなにか感ずるところがあったのですが、「プルースト効果」という言葉を知って、それが妙に腑に落ちたものですから、こんなとりとめもないことを書いているのです。タイトルに「失われた時を求めて」と打ちましたが、小説は読んでいません。そのうち読んでみようと思います。

 

コスもクロック (横浜)

ある人のブログを除いていたら、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」という言葉かを見かけたので、早速 Wikipedia で調べました。

 

①. どんなものでも正しいといえるためには根拠が必要である。あるものAが正しいといえるにはその根拠Bが必要である。また根拠Bが正しいといえるにはその根拠Cが必要である。また根拠Cが正しいといえるにはその根拠Dが必要である…と根拠を要求すれば無限に続くことになる(無限背進)のではないか

 

②. どこかで「原理」や「証明はなくても正しいとみなす」といったそれ以上根拠を問えないような理由(ナマの事実)を立てて1の連鎖を止める場合、その理由自体は正否が保障されないので確実ではない

 

③. もしA→B→C→D→…の連鎖がどこかでAに戻ってくるならば循環論法になり無効になる

 

ぼくらが日頃正しいと考えていることは、すべて上の3つのケースのいずれかに当てはまる。だから本当に正しいということはないのではないかという趣旨のようです。

 

ものごとの根拠について少し考えれば、ものごとについて思考するにはその前提が必要であることが分かります。前提がなければなにごとも底なしのニヒルに陥ってしまいます。だれもが無意識のうちに自分の価値観を前提にものごとを考えているのは間違いのないことです。つまりこの世にそれだけで独立して正しいといえるものはないんだ、ということは認識していなくてはならないと思います。

 

例えば、「すべての人間は平等である」ということは、現代の社会では自明のことのよう思われていますが、ぼくらの心の中のどこを探しても、この「平等」の観念がそれだけ独自では見つからない。たいていの男は美しい女性をそうでない女性より好むし、もてる男はたいていスポーツができるか頭がいいか男前です。オリンピックでは自国の選手を応援するし、よその子供より自分の子や孫の方が可愛い。人間は差別する存在者そのものです。価値観を生み出すものが人間の欲望であるならば、「人間の平等性」というものは直接そこからは導き出されることはないように思えます。人類の歴史を振り返っても、ほとんどの時代には厳しい身分制度がありました。「すべての人間は平等である」という観念が行き渡ったのはごく最近のことです。

 

人間は自然状態におかれると、必ず強者が社会を支配します。大雑把に言いますと、1%の強者(支配者)と9%の強者の取り巻き(官僚・役人)と90%の弱者(被支配者)、というような構造ができるのが常です。つまり、ぼくらは確率から言って、ほとんどが弱者ということになります。この「ほとんど弱者」という自覚こそが「平等原則」や「民主主義」を成立させている源ではないかと思います。

 

「平等原則」がいかに人間の本能には違背しているとしても、大多数の人間が社会建設のために参加するための「共通の前提」となりうるのは平等原則以外にはあり得ません。ぼくらが「すべての人間は平等である」という原則を共通の価値観であると措定(仮定)しなければ、政治や社会における議論はなにひとつとして可能にはなりません。何故なら他にぼくらの共通の前提となるべきものはなにもないからです。また、民主主義がいかに非効率で愚劣な制度であったとしても、ぼくらはそれを捨てる訳にはいきません。なぜなら、ほかに平等原則に基づいた制度をまだ思いつくことができないからです。

 

平等原則や民主主義が、ぼくらの本能に根差していないということは、肝に銘じておくべきことのように思います。いわばそれは建前のことで、その裏には本能に根差した本音がときには頭をもたげてくることがあるからです。

 

トランプはアメリカ・ファーストを主張して選挙に勝ちましたが、このスローガンには、アメリカ人以外は切り捨ててよいというメッセージが含まれています。米国民のほとんどが移民か移民の末裔であるにもかかわらず、メキシコや南米からのニューカマーは追い返せだとか、アメリカが言い出しっぺのTPPはやめてアメリカに有利な二国間協定をきめるなどと、露骨に自国中心主義を打ち出してきています。ヨーロッパでも、他国からの移民は受け付けないという排外主義を主張する右派勢力が台頭してきています。その背景には、政治的優遇を受ける権利は自分のレベルまでとし、自分以下のレベルの「弱者」は切り捨てるべきだという「本音」がのぞいているのです。

 

はたして、優遇されるべきは自分までで、それ以下のレベルは切り捨ててもよい、というような恣意的な線引きが上手く行くでしょうか。トランプ氏を支持したのは格差に取り残された白人が多いとのことですが、4年後にはその格差が縮まっているでしょうか? その可能性は薄いと思います。自分が弱者であることを忘れても、たいていの人は弱者なのです。平等原則を忘れた弱者は誰も守ってくれません。資本主義の盲点をついて巨万の富を稼ぎ出したトランプが格差を埋める政策を打ち出す、そのようなことは幻想以外のなにものでもないということを、アメリカ国民が早く気付いてほしいと願うばかりです。

 

山二つ ( 神奈川県藤沢市江の島 )

苫米地さんは脳機能学者であり、また、認知科学、分析哲学者を自称する方ですが、著書の多くはわりとくだけた説明をする、学者らしくない人です。たくさんの著書をものにして、セミナーを開いたりして結構影響力のある人らしいのですが、その主張の中に一部腑に落ちない点もあるので、このブログで取り上げることにしました。

 

彼は自分の主張の根拠として、物理学における不確定性原理と数学における不完全性定理を引き合いに出すことが多いのですが、その引用のされ方に相当な疑問が見受けられるので問題にしたいと思います。

 

不確定性原理とは「粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない」という原理です。それは現在の科学力では正確に測れないということではなく、原理的に不可能であるということを意味します。そのことから苫米地氏は次のように言います。

 

≪ また、量子論は、宗教的な運命論を否定します。量子の状態はすべて確率であるという点で、確率100%の現象はない、ということになります。この世のすべての現象は、可能性の高いか低いかの違いはあるものの、すべて確率によって決まるということです。 ≫(P.128~129)

 

「宗教的な運命論」というのは神がすべてを決定しているという考えのことでしょう。ここで苫米地氏は、不確定性理論により未来は決して決定していないということから、神がすべてを決定しているはずがないという結論を導き出しているのです。ここには明らかな論理の飛躍があります。

 

未来は確率的にしか決定していないことから、神が未来を決定する能力がないということを導き出しているわけです。しかし、私に言わせれば、未来が自然法則によって必然的に決定されているならば、それこそ神は世界の創生だけにかかわっているだけで、その後は神の存在感はまったくなくなってしまいます。
苫米地さんの言い分を認めるならば、未来は確率的にしか決定していないにもかかわらず、現実にはその確率の中の一過程を選び取っているわけで、それこそその決定には我々にとって不可知な力が働いていることになります。むしろそれこそが神の御業と言ってもいいでしょう。少なくともこれは神の不存在の理由にはならないと考えます。

 

次に、苫米地さんが神の不存在の根拠としている不完全性定理について説明したいと思います。不確定性原理と名前は似ていますが、こちらは数学の定理です。苫米地さんの考え方の筋道をかいつまんで言うと次のようになります。

 

苫米地さんは神の概念を万能であるとしていて、その「万能」の意味を「言葉で表現できることは何でもできる」と定義しているようです。つまり、「いかなる楯も突き破る鉾といかなる矛をも通さない盾を同時に造る」とか「『この紙に書かれていることは嘘です』と書かれた紙に書かれていることの真偽を知る」というような能力も「万能」の中に含まれていなくてはならないとしているのです。そして、神さえもこのようなパラドクスを解けるはずがないから、「神は万能でない」つまり、「万能の神は存在しない」、よって、「神は存在しない」という奇妙な論理を展開しているのです。

 

「『この紙に書かれていることは嘘です』と書かれた紙」に書かれたような文のことを「自己言及文」と言います。不完全性定理というのは自己言及パラドックスに関する定理なのです。「不完全性」という名前から、なんとなく「数学に何かの欠陥がある」というようなニュアンスに解釈されがちですが、そうではありません。無矛盾な数学の体系の中に「この命題は証明できない」という意味の命題が存在するということを証明したのが第一不完全性定理定理です。

 

「この命題は証明できない」という意味の命題がもし証明できたならば、その数学体系は矛盾しているということになります。もしこの命題が証明できないことが証明できたなら、この命題の意味からしてやはり「この命題は証明できない」という命題が証明されたこととなりやはり矛盾となります。つまり、数学体系が無矛盾であれば、この命題は証明も否定の証明もできないわけです。証明も否定の証明もできない命題が存在する、このことを指して数学体系が「不完全」であるといっているのです。ここでいう「不完全」の意味のニュアンスが理解していただけたでしょうか。

 

第一不完全性定理をさらに発展させて、「その系の中ではその系の無矛盾性を証明することが出来ない」という第二不完全性定理が導き出されます。そのことがさらに数学の「不完全性」というものを印象付けているのですが、よく考えてみればこれは当たり前のことであります。人間自身に例えれば、自分でで自分の論理を積み上げているかぎり、その理論の評価は自分ではできません。」 明らかな矛盾が露呈した場合、自分で矛盾を認識できるのは数学も人間も同じですが、矛盾が発見されなかったとしても、人間も数学も自分自身の無矛盾性を証明することはできないのです。

 

苫米地さんは、このことから「完全なシステムは存在しない」と言い、さらに「完全なシステム」であるはずの神も存在しないと主張するのです。それはあたかも、「神はどんな重いものでも持ち上げられるはずだが、神でも持ち上げられないほど重い岩を造れないのは神ではない。」と言っているように私には聞こえます。

 

神は人知を超えた超越的存在とされているのですから、その存在も非存在も論理的には証明され得ないとするのが妥当であると思います。

 

最後にもう一点、先にあげた不確定性原理によって展開された量子論を、「空」と関連付けていることに注文をつけたいと思います。「空」の概念は仏教においては根本的なものであり、科学上のいかなる発見があろうとなかろうと影響のあるものではないということを強調したいと思うのです。量子論がいかに「空」と合致しようと、それによって「空」の概念が補強されるということはありません。色即是空ですから、どのようなものも「空」に合致するのは当たり前なのです。

 

苫米地さんは脳機能学者あるいは認知科学者かもしれませんが、分析哲学者であるかどうかは疑わしいと思います。

 

小田原駅のステンドグラス

カストロが死んだ

テーマ:

11月25日、キューバのカストロが90歳で死んだ。団塊の世代より上の人には感慨深いものがあったのではないでしょうか。

 

トランプ次期米大統領は「残忍な独裁者が死去した。」と声明を発表したが、私はそうであったとは思わない。確かにカストロはキューバの社会主義体制を維持するために、人々の人権をある程度抑圧したということはあったと思う。しかし、アメリカの傀儡であったバチスタ政権は、アメリカ資本やマフィアと共に大衆を搾取する腐敗したろくでなし政権で、それを倒したカストロに大義は確かにあった。

 

革命によって、キューバにおける権益を失ったアメリカはカストロを追い落とすために経済封鎖を行った。製糖産業以外にめぼしい産業のないキューバが経済封鎖されれば、ソ連に頼るしかなかったのだ。カストロが独裁者だというなら、アメリカがカストロをそのように追い込んだという一面もある。

 

私個人は、カストロが理想主義者であり、キューバを愛していたことは間違いないことだと信じている。決して金日成と同列に語られるべき革命家ではないし、またキューバは北朝鮮でもない。キューバは貧しいながらも、教育や医療に力を入れているし、医療制度については先進国より充実しているといえる面もある。なにより、開放的な音楽や文化も健在で、人々の表情が北朝鮮に比べて圧倒的に明るい。

 

アメリカがもっとキューバに対して寛容になれば、キューバは我々と十分価値観を共にできる国であると私は考えている。それにしても、これから経済を発展させねばならないキューバにとって、トランプ大統領の登場はあまりにも間が悪すぎるような気がする。

 

江の島から見る富士山