葬送行進曲

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先日、アレルギー性鼻炎を診てもらいに耳鼻科へ行きました。医院の待合室にはたいていは液晶モニターがあって、外国の美しい風景や草花とか山岳写真などのDVDソフトが流されています。私が行ったそのクリニックではクラシック曲のソフトがかかっていました。あれっと思ったのは、凱旋行進曲や威風堂々のように威勢のいい曲に続いて、葬送行進曲が聞こえてきたからです。正式に言うと、ショパンのピアノソナタ第2番変ロ短調第3楽章ですが、「葬送」のイメージが縁起が悪いということでBGMなどに使われることはまずありません。そこは耳鼻科だったので問題はありませんが、入院患者のいるような病院だったらギョッとする人もいたかもしれません。

 

実は私はこの曲が大好きなのです。このことは私が変わり者だからというわけではなく、ショパンのファンなら大概の人はこの曲が好きであると思います。葬送行進曲は他の多くの作曲家が作っているのですが、葬送行進曲と言えば誰もがショパンのこの曲を思い浮かべます。とりわけこの曲が名曲であることの証左でありましょう。

 

ダァーンダ-ダダーンと陰鬱なメロディーは葬送の列が近づいてくる様を表現しており、ドラマチックです。中間部は長調に転調していかにもショパンらしい華麗で哀切なメロディーが展開されます。終盤には再度行進の主題に戻り、そこからフォルティシモのクライマックスに盛り上げ、やがて行進は遠ざかっていく…。

 

是非一度この名曲に耳を傾けてみて下さい。

( =>ピアノソナタ第2番変ロ短調第3楽章 )

 

団地の片隅の山椒の木 今年も芽吹きました。 

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一昨日はへたくそなエイプリル・フール記事を書いたりして皆様方の失笑を買っている私ですが、政界では私よりもっとセンスのよくないというより下司な冗談がまかり通っているようです。このような事態に、あるニュースキャスターが、「政界では毎日がエイプリルフール」と言っておりました。

 

こういう状況が一番子供の教育上よくないんではないかと思うのです。やれ道徳教育だの、教育勅語だの掛け声掛けていれば、日本人の品性が上がるというものではないようです。言っている当事者たちが見苦しい状態をさらしているのですから。

 

森友問題の本質は、政治家と結びついている人が、特別な恩恵を受けることができるのではないかということでしょう。そのことは誰もが感じていることであります。当然、政治家や官僚はそのようなことを否定しなければならないのです。

 

役人は自分の潔白を証明するために、この件についてのやり取りを開示しなくてはならない。なのに関係文書はすべて破棄したと言ってのける。八億円もの値引きをした土地払い下げに関する資料は、会計監査を受けなければならないと専門家は言う。関係資料は5年間保持しなければならないはずらしい。罰則規定がないからと都合の悪いものは処分(したことに)してしまう。官僚の思い上がりでしょう。

 

政治家は自分の潔白を証明するために、このような土地払い下げが正当なものであるかどうか、そして関係資料を破棄してしまった役所のあり方が良いのかどうか、それらのことに対して態度をはっきりさせなくてはいけない。もし、それが良くないと判断するのであれば、関係した官僚を追及せねばならないはずです。

 

①森友学園に対する土地払い下げが正当なものであるかどうか?

②関係資料を破棄してしまった役所のあり方が良いのかどうか?

 

予算委員会において安倍首相は上記2点について質問された時、自分は森友問題に関係していないというだけで、聞かれたことにはまともに答えることはしませんでした。質問が理解できないほど頭がわるい訳ではないと思うのですが、国会という公の場で堂々とぼけた答弁が許されるということが情けなさ過ぎる。われわれ国民の意識が低すぎると思うのです。

 

森友学園に100万円寄付したかどうかというようなことは些末な問題です。行政府の長としては、官僚が国民に対して公平に対応するよう指導しなければならない。そこに不公平があれば官僚を追及しなければならない。というのはあくまで建前で、現実は、官僚は政治家の意図を忖度するからこそ、おのれの職分を逸脱したことを行うのです。だから政治家は官僚を追及はできない。また、そのようなもたれあいがお互いの力の源泉となっています。この構図を突き崩さない限り、日本はいつまでたっても三流国のままでしょう。選挙の時には是非このことを想起してもらいたいと思うのです。

 

 

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奇跡的な天体ショー

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昨夕(3/31) 日没直後に月の入りが観測されるという、非常に珍しい現象が見られました。しかも満月。昨日の午後5時半ごろ撮影したものです。こんなことはめったになく、日本では250年振りだそうです。こんなすごいことが起こっていたのに日本のメディアではほとんど報道されませんでした。科学記者は勉強が足りないと思います。

私は科学ニュースの配信会社 United Science Online 800 ( USO800 ) と契約していたので、この写真を撮ることができました。

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よく考えて欲しい。

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( 朝日新聞デジタルより ) 

 ≪  これまで3度の運転差し止めの司法判断が出ていた関西電力高浜原発3、4号機。1年前の大津地裁決定の後、大阪高裁が出した決定は一転、「再稼働容認」だった。差し止めを求めていた住民らは「東京電力福島第一原発事故を忘れたかのような決定だ」と落胆した。一方、原発に経済的に依存する地元・福井では歓迎する声が…… ≫

 

下級審では割合リベラルな判決が出されるのだが、上級審になるにしたがって行政の思惑通りの判決が出る傾向がある。三権分立とは名ばかりで、最高裁長官も最高裁判事も人事権は内閣が握っているわけだから、考えてみればそれは当然のこととも言える。法律の専門家としての矜持を持ち続ける人は出世がしにくい仕組みになっている。いきおい裁判官の上目遣いのヒラメ官僚化がはびこるのである。

 

森友学園の問題で、「忖度」という言葉が飛び交っている。官僚が総理大臣夫人の意図を「忖度」することがあったのかどうかということが問題になっている。しかし、元官僚出身のある評論家にいわせると「官僚から忖度を取ったら何も残らない。」らしい。官僚は出世するかしないかで収入も大きく違うし、出世すれば個室や秘書付きの役職にも天下りできるし、何度も退職金を受け取ることができる。出世するには政治家に「あいつは役に立つ」と見込まれなくてはならない。それで、無理な注文も通してしまうヒラメ官僚だらけになるのである。

 

森友問題では政府は苦しい答弁に終始しているように見受けられる。夫人付き秘書官が財務省に問い合わせをした行為さえ、それは秘書官の個人としての行為だと言い張る始末だ。

政治家が地元の陳情を受けて、役所に問い合わせるということは普通にありうることだが、問題はその結果だ。受け付けられていい陳情と受け付けるべきでない陳情があるわけで、森友の場合は、絶対受け付けられるべきではない要求が受け付けられているということが問題なのである。

 

なぜ森友側にとってこれ以上はない条件で国有地の払い下げが決定されたのか、その経緯を詳らかにする必要がある。しかしその経緯を記した文書は既に破棄されているという。はたしてそれは役所として正しい在り方なのか、それを追及する義務は行政側にあるはずである。しかし、やろうとしない。官僚側にも政治家側にも明らかになってはまずい事情がそこにあると断定しても間違いないだろう。

 

政治家や官僚それに裁判官までもが、あからさまな国民への裏切り行為をして恥じない。それなのに「美しい国」を標榜する。日本はそんな夜郎自大な国に成り下がっているのである。

100万円寄付したとかしなかったとか、そんなことばかり焦点が当てられている。しかし事の本質は、エキセントリックな人物が創立しようとした小学校に対し、財務省や大阪府が異常なまでの配慮をしたということにある。 
 

≪ 学校法人「森友学園」の小学校開設の認可を巡り、大阪府の松井一郎知事は21日、府私立学校審議会(私学審)が2015年1月に「認可適当」の答申を出す前、財務省近畿財務局から「口頭で森友側に売却するとの見通しが(担当課に)伝えられた」と述べた。府庁で記者団に明らかにした。財務省は毎日新聞の取材に対し「府に契約の見通しを伝えたことはない」と否定している。  ≫  ( 毎日新聞 )

 

森友学園の土地取得にめどが立たねば、大阪府は学校設立の認可をするわけにはいかない。一方、財務省側は平成28年度の学校開設を、埋設物撤去を学校側に委任して売却を急いだことの理由にしている。本来はあり得ない行政判断が行われていた咎が問われているのである。

今になって責任を擦り付け合っている、当時の理財局長と大阪府知事を証人喚問するのが妥当であろう。

 

しかし、この奇矯な人物の創立する小学校に、理財局長や大阪府知事がここまでサービスした理由は何だろうか? 安倍さんは、自分がこの件に関係しているなら政治家を辞めるとか言って力みかえっているけれど、行政の長としてその理由を明らかにする義務がある。100万円の寄付がどうのという前に、役人を呼びつけて真相究明すべきではなかったのか。それができないのはなにか後ろ暗い所があるのだろうと勘繰られても仕方があるまい。

 

事件が発覚する前は、「素晴らしい教育方針と妻から聞いている。」と言っていた。それが一転して今では「しつこい人」だ。この人の言葉は信用できない。

責任ということ

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昨日(3/17) j前橋地裁で、福島原発事故における、東電と国の過失が認められる判決が出ました。

≪ 『原発避難訴訟 国に初めて賠償命じる判決 前橋地裁』  東京電力福島第一原子力発電所の事故で、群馬県に避難した人など、130人余りが起こした裁判で、前橋地方裁判所は「津波を事前に予測して事故を防ぐことはできた」として、国と東京電力の責任を初めて認め、3800万円余りの賠償を命じる判決を言い渡しました。原発事故の避難をめぐる全国の集団訴訟では、今回が初めての判決で、今後の裁判に影響を与える可能性もあります。 ≫ ( NHK NEWS WEB )

 

平成14年に政府の地震調査研究推進本部が発表した「長期評価」では、三陸沖から房総沖にかけてマグニチュード8クラスの巨大地震が、30年以内に20%の確率で発生することが示されていた。そして、平成18年に当時の原子力安全・保安院や電力会社が参加した勉強会で、福島第一原発については、14メートルを超える津波が来た場合、すべての電源を喪失する危険性があると示されていた。

 

それで、国と東京電力の責任に対し、3800万円余りの賠償を命じる判決が言い渡されました。この手の判決が言い渡されるたびに疑問が起きます。ここで責任を問われている、国あるいは東京電力というのは一体何者か?ということです。賠償金は結局税金と電力料金の中から払われます。もちろん、今の政権を支えている政治家を選挙で選んだのだから、国民が税金を通じて賠償することに異論があるわけではありません。しかし、政治家や経営者というのは、それなりの高い見識や判断力を見込まれて高い地位と報酬を与えられているはずです。過失があった場合は応分の責任を果たすのが当然でしょう。

 

しかし、この件で責任を取った政治家はいないし、東電も一部の幹部が交替しただけです。今回の事故の責任は、単に職を辞するくらいのことではすまされないはずです。東電の幹部は引退してもおそらく悠々自適の生活を送れるでしょう。しかし、多くの人が故郷を追われ今も帰れない、自殺者も出た、何か割り切れない思いを抱くのは、私一人ではないでしょう。

 

「マグニチュード8クラスの巨大地震が、30年以内に20%の確率」
「14メートルを超える津波が来たら、すべての電源を喪失する危険性」

 

30年以内に20%の確率なら、自分の任期中に発生しない確率は8割以上、それに必ずしも14メートルを超える津波が発生するとはかぎらない、少ない確率のリスクに金をかけるよりも、自分の任期中に経営実績を上げて評価されたいという気持ちは分からないでもないが、現実にリスクは発生した、見識ある人間なら己の罪の深さを思い知るはず。

 

 

WABI-SABI(わび・さび)

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先日、図書館で「翻訳できない世界のことば」という本を借りてきました。結構話題になっている本で、昨年から予約していたものがやっと順番が私にまわってきたのです。著者はエラ・フランシス・サンダースさんという若い女性イラストレーターです。で、いろんな国に住んだ経験から、それぞれの土地には一言では翻訳できない言葉あることを知り、それを紹介したいと思い立ったのだそうです。

 

例えば、イクトゥアルポク(iktsuarpok) というのは、イヌイット語の名詞で、「誰か来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出てみること」だそうです。人口の希薄な氷雪の世界に住むイヌイットにとっては、人との出会いがそれほど貴重で新鮮な出来事なのでしょう。そのように思いを巡らせると、「イクトゥアルポク」がとても素敵な響きに感じられます。

 

で、この本には日本語からは"boketto"(ぼけーっと)、"tsundoku"(積読)、"wabi-sabi"(わび・さび)、の3つが収録されています。このうちの"wabi-sabi"についての意味は次のようになっています。

 

(意味) ≪ 生と死のサイクルを受け入れ、不完全さの中にある美を見出すこと。≫

 

(解説) ≪ 仏教の教えがルーツにある日本のこの考え方は、不完全で未完成であるものに美を見出す感性です。うつろいと非対称性をくらしのなかに受け入れるとき、わたしたちはつつましく、満たされた存在になります。 ≫

 

わびとさびはもともと別概念ですが、現在ではひとくくりに使用されることが多いので、一つの概念として扱って問題はないと思います。私たち日本人は、わびさびの意味を体感しているかのように思いがちですが、あらためてこのように表現されると、「はっ」と気づかされるものがあるのではないでしょうか。西洋的な理念は真・善・美における完全性を求めますが、日本においては仏教の無常観に基づいて、そのような理念は排除します。無常の中ではすべては過渡的で不完全でしかないのです。その辺は西洋式庭園と日本式庭園を比較してみれば明瞭です。西洋のそれは幾何学的な直線と曲線によって表現されますが、日本のそれは非幾何学的かつ非対称的です。
( 参照==>「リアルな世界に完全なものは存在しない」 )

分類と偏見

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今ではそんなことはもうないだろうが、金髪碧眼という言葉が外国人(と言っても白人だけだが)の代名詞だった。それで白人を見ると、栗毛であろうと茶髪であろうと、黒髪より薄い色で茶色がかっていれば、それをみな「金髪」と呼ぶ人が日本には少なからずいた。欧米人の髪の色のバリエーションは非常に多くて、レッド、ブラウン、ブルネット、ブロンドなどと多彩に呼び分けされている。ところが、日本人の髪の色はほとんど黒一色なので、髪の色を細分化する発想が無かったのである。 

ペルシャ人やアラブ人は日本人の目から見れば白人にしか見えないが、欧米の基準によると非白人になるらしい。かつて南アフリカでは公的な人種差別であるアパルトヘイト制度が存在した。その時、重要な貿易相手国であった日本人は(全然名誉なことではないが)名誉白人とされた。 

つまり、分類というものは分類する側の関心や価値観による恣意的な視点から行われる、ということを私達は肝に銘じておくべきだろう。

悪魔の証明って

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学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地払い下げ問題に関して、共産党の小池晃書記局長が、学園側が自民党国会議員に便宜を図るよう求めた記録が存在すると主張し、安倍晋三首相を追及した。

 

小池氏 「私どもは、ある自民党国会議員事務所の面談記録を入手しました。そこには、森友学園側と(売却に関わった)近畿財務局や大阪航空局とのやり取りが克明に記録されている。記録は、2013(平成25)年8月5日から始まります。一部紹介します。」 ‥‥( ある政治家の事務所に籠池氏が来訪し、いろいろなやり取りがあったことを述べる)‥‥

 

それに対して安倍首相は次のように答える。

 

安倍首相 「まず、読まれた文書は、どういう文書かも分からないですよね。本当のことかどうか分からないものを、立証する責任はそちらにある。そこで、国会議員の事務所、まるで私の事務所であるかのごとくの印象を与えていますよ。印象を与えていますが、そういう事務所がどこの事務所かということを、われわれは知らないんですから。今、小池さんが『その事務所はどこだ』と言われたらいいじゃないですか? ないものを証明するのは、いわば『悪魔の証明』といわれている。その事務所の名前も出さずに、これは調べようがない。それと、不当な働きかけはなかったと(財務省の)局長から聞いているわけですから、そうお答えしているわけです」

 

悪魔の証明とは、「存在しないものを存在しないと証明する」ことで、論理的には不可能とされている。例えば雪男を発見すれば、それはそのまま雪男が存在することの証明となる、しかし、雪男が見つからないからと言って、雪男が存在しないということは言えない、というようなことである。

 

しかし、安倍さんの言っていることは屁理屈というものだろう。国有地を9割引きで民間に払い下げる。そんなことは通常あり得ない。私立学校の理事長が政治家の媒介なしに、土地代を8億円も値引きできる権限を持つ役人に面会できるわけがない。

 

常識的に考えれば、安倍さんの支持母体である日本会議の幹部である籠池氏に、役人たちが配慮したのだろう。なにしろ総理夫人が名誉校長なのだから、当然籠池市の背後に総理の後光がさして見えたはずである。

 

国有財産を9割引きで売り払うことが、正当な行政であるかどうかの判断力を問われていることに気づかないのか。今回の件に関して自分の影響を払しょくしたいのであれば、交渉経過を自分から積極的に追及すべきなのに、「挙証責任は野党にある」とばかりに気色ばむ。すでに馬脚は現れているのである。こんなお粗末政治家の支持率がいまだに50%以上もあるなんて、一体どういうことなのか。

 

安倍さんはこの「悪魔の証明」という言葉が好きらしくて、以前TPP問題で甘利氏が追及された時にも、この言葉を出して反論している。しかし、イラク戦争を支持したことを追及された際には、次のように答えていたことを山本太郎議員に皮肉られている。

 

「大量破壊兵器が無いと証明出来なかったイラクが悪いといことは申し上げておきたいと思います」

 

これこそ悪魔の証明の要求ではないのか。美しい日本の国の政治はお粗末である。

希望は戦争

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最近つくづく思うのだが、少数の資本家が大多数の労働者を搾取するのは、たいして深刻な事態ではないと考えるようになった。本当に深刻なのは労働者間に格差が生まれることである。
昭和三十年代、私の周りの人々は多少差があったとしても、庶民と呼ばれるたいていの人々は貧乏だった。ところが、グローバル化の波とともに先進国では庶民の間で格差が広がる傾向にある。時給千円で働く非正規雇用労働者はフルタイムで働いても月収20万円に到達しない。到底一人だけの収入では独り立ちできない。夫婦共稼ぎでも可処分所得はごくわずかで、子供を育てるには相当な無理が伴う。一方、団塊の世代の共稼ぎの公務員夫婦などの場合、夫婦合わせて約五千万円程度の退職金を受け取り、なおかつ月約40万円の年金がもらえる。庶民と呼ばれる人々の中に、億単位の金融資産に手の届く人たちがかなり出ているのだ。

 

この格差の広がりはバブル崩壊による高度成長の終焉とともに加速されてきた。企業が業容拡大から収益重視に路線変更したからだ。それは、高度成長期に企業内ポジションを確保した中高年層と、大学を卒業しても低賃金の非正規雇用に甘んじるしかない若年層の世代間格差をも生むことになった。

 

今からちょうど10年ほど前に、当時31歳のフリーターであった赤木智弘氏の「『丸山眞男』をひっぱたきたい 希望は、戦争。」という文章が「論座」に掲載された。その中の最も過激な部分を以下に引用する。

 

≪ 苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
 戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
 丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
 社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
 しかし、それでも、と思う。
 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。≫ (朝日新聞社 「論座 2007年1月号」)

 

ル・サンチマンに満ちた内容で、思想的には整合性があるとはいいがたい。論理的に論駁するのも難しくはないだろう。実際に多くの識者が論駁を試みた。それらに答えて赤木氏はさらに、 「けっきょく、『自己責任』 ですか」という文を再び「論座」に発表した。

 

≪ 右派の思想では、「国」や「民族」「性差」「生まれ」といった、決して「カネ」の有無によって変化することのない固有の 「しるし」によって、人が社会の中に位置づけられる。経済格差によって社会の外に放り出された貧困労働層を、別の評価軸で再び社会の中に規定してくれる。
 たとえば私であれば「日本人の31歳の男性」として、在日の人や女性、そして景気回復下の就職市場でラクラクと職にありつけるような年下の連中よりも敬われる立場に立てる。フリーターであっても、無力な貧困労働層であっても、社会が右傾化すれば、人としての尊厳を回復することができるのだ。
 浅ましい考えだと非難しないでほしい。社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだから。≫( 朝日新聞社 「論座 2007年6月号」 )

 

貧しい若者のほとんどが、彼を論難した識者より彼の方に共感を抱いたのではないかと思う。彼自身自分の主張が建設的なものでないことは十分理解している。しかし、「一生懸命働いてきた老夫婦にとって、3年に一度くらい海外旅行へ行くのは庶民のささやかな楽しみ」というような感覚をもった中高年などに説諭されたくないのだ。

 

格差是正という観点からは彼らが政治に期待するものは何もない。要するに右でも左でも、彼らが経済的に取り残されるのは同じなのだ。ならば、慰安婦問題や領土問題で強気に出てくれる右の方がましである。せめて日本人としてのほこりを慰撫してくれるからである。

 

中高年世代はもっと緊張すべきだと思う。少なくとも、自分たちののほほんとした生活は、貧しい若者の犠牲の上に成り立っているという程度の認識は必要である。彼らが落ちこぼれない仕組みを作る義務は本来私たちにあったのだから、『自己責任』ではすまされない話である。