東京オペラシティアートギャラリーで「ザハ・ハディド」展を観た! | とんとん・にっき

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東京オペラシティアートギャラリーで「ザハ・ハディド」展を観てきました。


僕がザハ・ハディドを知ったのは、香港の「ザ・ピーク」(1983年)の国際コンペティションで、ザハ・ハディドが勝ったときでした。正直言って、当時はよく理解していませんでした。今、図面や模型を見てもどこがどうなっているのか、よくわかりませんが、図面が今までにない表現だったので、それには驚きました。次に「ヴィトラ社消防所」(1993年)でした。これは若い友人が「ヴィトラ社消防所」を訪れ、写真を撮ってきたのを見せてもらいました。たぶん、建物ができてすぐのことだったと思います。


そして、代々木体育館の裏に建てられたシャネルの「モバイルアート」でした。つるりとした外形が、今までにない不思議な印象を与えていた建築でした。建物ができる前から何度か足を運び、実際に建物の中へも入ることができました。コンビニでチケットを購入する、その仕方がよくわからず、何度も試みた苦い思い出としても、よく覚えています。


日本でも「富ヶ谷のビル」(1986年)や「麻布十番のビル」(1987年)の計画があったことは、今回初めて知りました。札幌のレストラン「ムーンスーン(内装)」(1989-90年)が、ザハ・ハディドの初めての実現した計画だったというから、これには驚きました。なにしろ初期の計画はほとんど実現せず、 「アンビルドの女王」の面目躍如です。


2009年10月には、「高松宮殿下記念世界文化賞」受賞記念建築講演会「ザハ・ハディト 建築を語る」の招待状が来たので、赤坂の鹿島KIビルでザハ・ハディドの講演を聞くことができました。帰りがけにザハ・ハディトの写真を撮ろうと思ったのですが、あまりにも近くにいたので焦りまくって、うまく撮ることができませんでした。



展覧会の構成は、以下の通りです。


I アンビルトの時代/日本との関わり

II 三次元を操る/形にこめられた意志
III シームレスな思考/プロダクトから都市計画まで
IV 〈新国立競技場〉で目指すもの



I アンビルトの時代/日本との関わり
イラクの進歩的な家庭に生まれたザハは、多様な文化的背景をもつ人々と交流しながら少女時代を過ごし、ベイルートの大学で数学を学びました。その後1972年に渡英したザハは、幼いころからの夢であった建築家を目指して英国建築家協会付属建築学校(AAスクール)に入学します。ここで当時講師であったレム・コールハースに出会い、卒業後は彼の主宰するOffice for Metropolitan Architecture (OMA)に参加、3年後の1980年には自身の事務所を設立します。独立後、〈ザ・ピーク〉の国際コンペティションで1等になるなど早くから世界的な注目を集めるようになりましたが、そのどれもが計画の途中で中止となり、10年以上にわたって実作に恵まれませんでした。しかしこの時期は建築と都市に関する膨大なリサーチと実験を繰り返した期間でした。この間には日本と関連するプロジェクトも存在し、札幌のレストラン〈ムーンスーン〉の内装がキャリア初の実現プロジェクトとなりました。本展の前半では、「アンビルトの女王」と呼ばれた時代にあって精力的に描かれたペインティングやドローイング、都市や空間の可能性を探った模型、札幌のレストラン内装を含む3つの日本のプロジェクトなど、初期の仕事を紹介します。


II 三次元を操る/形にこめられた意志
1993年〈ヴィトラ社消防所〉でようやく竣工の機会を得たザハは、その後つぎつぎにプロジェクトの実現に恵まれます。コンピュータによる三次元解析、施工技術の進歩や、建築の新しい姿を求める人々によって、前衛的すぎると言われ続けたザハの設計は現実のものになり、世界各国でプロジェクトが進行しています。一目で印象に残るザハの建築ですが、その形はどのような考えにもとづき、生み出されるのでしょうか。〈ヴィトラ社消防所〉をはじめ、〈ベルクイーゼル・スキー・ジャンプ台〉、〈ロンドン・アクアティクス・センター〉、〈ヘイダル・アリエフ・センター〉など代表作の模型や映像、高層建築のスタディ模型などから、その思考と感覚を探ります。


III シームレスな思考/プロダクトから都市計画まで
ザハの仕事の特徴のひとつとして、スケールを自在に行き来しながら設計を行っている点が挙げられます。指輪やブレスレットなどの装飾品から食器、家具、照明器具などプロダクト・デザインの仕事を多数行うと同時に、建築はもとより都市計画といった大きな規模のプロジェクトを手掛けるなど、ザハのデザインする対象にはスケールの境界がありません。そのデザインに一貫して見られるのは、「動き」に対する独特の視点と感覚です。一見すると奇抜に思える彼女の設計ですが、その作品は周囲のエネルギーを自然に取り込み、新しい流れを作り出すといった流動性に焦点を当てて作られていることがわかります。


IV 〈新国立競技場〉で目指すもの
2020年東京オリンピックの会場となる〈新国立競技場〉国際デザイン・コンクールは募集段階から注目を集めていましたが、ザハ案が採択されてからは景観や費用などの問題を巡ってさまざまな形で議論が行われ、メディアにも採り上げられてきました。はたして、ひとつの建築がこれほどの議論を呼び、一般的にも注目を集める機会が近年あったでしょうか。ザハの建築は、私たちが見ようとしなかったものを露わにするべく打ち込まれた楔(くさび)ともいえるでしょう。展覧会では、コンクール応募から最新の計画までを展示することで、私たち自身の目で新しい建築を、そして東京の都市を考える場を作ります。





ザハ・ハディド
1950年 イラク、バグダット生まれ

1977年 英国建築協会付属建築学校(AAスクール)卒業
     Office for Metropolitan Architecture (OMA) 参加

1980年 ザハ・ハディド・アーキテクツ設立

1983年 〈ザ・ピーク〉国際コンペティション1等

1993年 〈ヴィトラ社消防所〉竣工 2004年 プリツカー賞受賞

2012年 大英帝国勲章デイム・コマンダー (DBE) 受章

2012年 〈新国立競技場〉国際デザイン・コンクール最優秀賞



「ザハ・ハディド」展

バグダッド生まれ・ロンドン在住のザハ・ハディド(1950-)は、現代の建築界を牽引する巨匠であり、世界を席巻する建築家です。1980年に自身の事務所を設立、83年には〈ザ・ピーク〉の国際コンペティションで勝利し、そのコンセプトとともにザハの名は一躍世界に知られることになりました。しかしこのプロジェクトをはじめ、ザハの設計は当時の施工技術や建築思考に収まらない前衛的な内容だったため、独立後10年以上にわたって実際に建てられることはなく、長らく「アンビルトの女王」(アンビルト=建設されない)の異名を与えられていました。1993年〈ヴィトラ社消防所〉が初めての実現プロジェクトとなってからは大規模なコンペティションで次々に勝利を重ね、かつ実際に建てられるようになりました。そしてこのたび〈新国立競技場〉国際デザイン・コンクール最優秀賞選出により、日本でも実作の建設が決定しました。日本初の大規模個展となる本展では、ザハ・ハディドのこれまでの作品と現在の仕事を紹介し、その思想を総合的にご覧いただきます。アンビルトの時代に膨大なリサーチにもとづいて描かれたドローイングから、世界各地で建てられるようになった実作の設計、スケールを横断する例であるプロダクト・デザインを含め、展示空間全体を使ったダイナミックなインスタレーションで紹介します。東京オペラシティアートギャラリーでは〈新国立競技場〉コンクール募集要項が発表されて以来その動向に注目し、その過程でザハ・ハディドの展覧会を計画してきました。その後、競技場をめぐってさまざまな議論が展開されていますが、設計者に関する情報が限られていると感じています。本展が、初めてザハの名を目にした方から初期よりご存知の方まで、鑑賞者それぞれの視点でザハの建築を体験し、その思想に触れる機会となることを願っています。


「東京オペラシティアートギャラリー」ホームページ


zaha1 「ザハ・ハディド」展

入場チケット












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