日本民藝館で「柳宗理の見てきたもの」を観た! | とんとん・にっき

日本民藝館で「柳宗理の見てきたもの」を観た!



日本民藝館で特別展「柳宗理の見てきたもの」を観てきました。「柳宗理」とはどんな人なのか?


柳宗理(やなぎ そうり、1915年6月29日 - 2011年12月25日)は日本のプロダクトデザイナー。ユニークな形態と意外な実用性を兼ね備えた作品が多く、代表作に「バタフライ・スツール」がある。実父は柳宗悦、祖父は柳楢悦。工業デザインの他に玩具のデザイン、オブジェなども手がける。金沢美術工芸大学客員教授。本名は柳 宗理(やなぎ むねみち)。(「ウィキペディア」による)


1915年東京都原宿に父・柳宗悦と母・兼子の長男として生まれる。次男に美術史家・柳宗玄、三男に園芸研究家・柳宗民がいる。1934年東京美術学校洋画科入学。バウハウスにいた水谷武彦の講義でル・コルビュジェの存在を知り、デザインに関心を持つようになった。1940年東京美術学校洋画科卒。商工省の水谷良一に誘われ、日本輸出工芸連合会の嘱託となり、当時輸出工芸指導官として来日していたシャルロット・ペリアンの日本視察に同行。日本各地の伝統工芸に触れる。1942年、坂倉準三建築研究所の研究員となる。1943年に太平洋戦争の下、坂倉が設計を進めていた日本文化会館の手伝いのために、研究員の身分のまま陸軍の報道班員として南方戦線の激戦の地フィリピンへ渡る。1946年に復員し、敗戦後は工業デザインの研究に着手する。松村硬質陶器シリーズのデザインをするも終戦直後の物資不足の中、焼成の燃料持参でなければ窯業所は生産を行わない為、海中に沈没した軍の徴用船から石炭を運びだし焼成にこぎつけた。1950年、柳宗理デザイン研究所を開設。1952年に第1回新日本工業デザインコンクールに出品し第1席「レコードプレイヤー」(日本コロムビア製作)、2席を併せて入選。この賞金で財団法人柳工業デザイン研究会を設立する。この頃、日本工業デザイン協会創設に参加した。1955年、金沢美術工芸大学産業美術学科教授に就任。1957年第11回ミラノ・トリエンナーレに招待出品し、「バタフライ・スツール」及び「白磁土瓶」が金賞受賞。その後デザイナーとして国際的に活動。1977年日本民芸協会会長に就任、翌年には日本民芸館館長に。1980年イタリア在住のデザイナーでさえも推挙がなければ困難とされる「ミラノ市近代美術館」でデザイナー初の個展を開いた。2011年12月25日、肺炎のため東京都内の病院で死去。96歳没。(「ウィキペディア」による)


日本民藝館の創立者である父の柳宗悦(1889-1961)は、卓抜した眼によって民藝美という新たな価値を生み出していきましたが、宗理もまた「日本民藝館は純粋な美の存在をより輝かす場所である」との信念を胸に、自らの眼と足で国内はもとより世界各地への旅の中で、様々な品物を見つけ出していきました。宗悦と宗理に共通するものは、伝統的な暮らしの中から生まれた日常の器物への関心と、「無心の美」への共鳴でしたが、おのずとそこには各自の眼の働きが作用しており、柳宗理ならではの美意識や造形感覚が表れています。特に宗理の眼を惹きつけたものは、現代社会の中で今もなお手仕事が純粋な形で残っている、アジアやアフリカなどの諸地域で生まれた生活の造形でした。


展覧会の構成は、以下の通りです。


展示室1階

玄 関 特別展 柳宗理の見てきたもの―アフリカの布を中心に

第1室 併設展 スリップウェアと欧米の古陶

第2室 併設展 日本の民窯

第3室 特別展 柳宗理の見てきたもの―柳家の食卓


展示室2階

第1室 併設展 朝鮮時代の磁器

第2室 併設展 田島隆夫の地機織

第3室 特別展 柳宗理の見てきたもの

第4室 併設展 神と仏の造形

大展示室 特別展 柳宗理の見てきたもの








特別展「柳宗理の見てきたもの」

2011年のクリスマスの日に他界した柳宗理(1915~2011)。世界的な工業デザイナーとして活躍する一方、約30年間にわたり日本民藝館の三代目館長として活動しました。本展では、宗理が蒐集した当館コレクションの逸品をはじめ、柳家から遺贈された陶磁器や染織品、仮面などを展示。また、父宗悦から受け継いだ食器類も併せて展観し、柳宗理がどのようなものを見つめながら生活し、デザイン活動の糧としてきたのかを紹介します。


「日本民藝館」ホームページ


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