カズオ・イシグロの「充たされざる者」を読んだ! | とんとん・にっき

カズオ・イシグロの「充たされざる者」を読んだ!

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カズオ・イシグロの著作:
遠い山なみの光(1982年)
浮世の画家(1986年)
日の名残り(1989年)
充たされざる者 (1995年)
わたしたちが孤児だったころ(2000年)
わたしを離さないで(2005年)
夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語(2009年)


カズオ・イシグロの「充たされざる者」(ハヤカワepi文庫:2007年5月25日発行)を読みました。画像にあるとおり、940ページもある分厚い文庫本です。2年ほど前に購入して、この分厚さに怖じ気づいて、なかなか読み始めることが出来ませんでした。「私を離さないで」や「わたしたちが孤児だったころ」を読み始めて、何度も途中で挫折したことがあったからです。今年こそはと、一年発起して読み始めたら、登場人物の饒舌さに辟易しながらも、思っていた以上にすらすらと読み終わりました。この作品を読了し、カズオ・イシグロの全作品を読んだことになります。


どうして読み始めることが出来なかったのか、考えてみると、カズオ・イシグロの文章は「行きつ戻りつ」が多く、また「どうどうめぐり」が多いので、とくにこの「充たされざる者」はそうですが、なかなか話が進みません。出てくる人は皆饒舌ですが、妙にばかっ丁寧な敬語を使い、主人公の側からすればなにを言っても「糠に釘」「暖簾に腕押し」状態、次の行動を取ろうとする主人公は、空回りが続き焦りまくります。たらい回しが続き振り回されることが延々と続きます。どうもカズオ・イシグロの術中にはまり込んだようです。この作品はブラック・コメディとして書いたとはイシグロ本人の弁です。


「充たされざる者」は、「日の名残り」に次いでイシグロの長篇4作目で、とにかく長すぎます。「著名なピアニストである語り手のライダーは、危機に陥っているという閉鎖的な小さな町に、いわば救世主としてやってくる。コンサートと講演のために初めて訪れたはずのその町で、彼の目の前に過去の記憶や人物が次々に立ち現れ、ライダーは奇妙な既視感とともに、永久に目的地にたどりつけないカフカ的悪夢の世界に迷い込む」と、古賀林幸は「訳者あとがき」に書いています。


「充たされざる者」は、ライダーが次々に、町の人からわけの分からないことを頼まれます。ライダーにしてみれば、町の人たちの頼みごとは、あまりにも自分勝手な願いごとです。しかし、ライダーは実はなにひとつ、問題を解決することはできません。頼まれごとが手に負えなくなると、感情が爆発し、苛立って怒りの声を上げます。しかしライダーは、その後少し反省したりもします。ここら辺が行けども行けども目的の地に届かない、カフカ的な世界と言えそうです。


また、ライダーにとってデジャヴ、既視感のある風景や人物が次々と現れます。初めて訪れた町であるにも関わらず、頼まれて会いに行った女性とその息子は、いつの間にかライダーの妻と子供になっています。訪れた部屋は、自分がかつて住んでいた部屋そのものだし、道端のポンコツ車はかつて父親が乗っていた車です。そして登場する家族は皆、喧嘩をして口を利かなくなっています。ポーターのグスタフとその娘ゾフィー、ホテルの支配人ホフマン夫妻、ブロツキー夫妻もかつては口を利きませんでした。昔は大の親友だったアンリとクリストフも口を利きません。ライダーとボリスもちょっとしたことで口を利かなくなります。


なにしろ出てくる人がすべて、慇懃無礼で饒舌です。まずホテルに着いて、老ポーターが2個の重いスーツケースを顔を真っ赤にしながら持って、ライダーとエレベーターに乗ります。ライダーが「このホテルで働くようになって、長いんだね」と言うと、もうたいへんです。老ポーターの話は止まるところを知らず、1時間も喋っている感じで延々と続きます。


続けて古賀林幸は、「登場人物の何人か―たとえばボリス、シュテファン、クリストフ、ブロツキー―は、まるで入れ子細工のように、つまりロシアのこけしマトリョーシカをぱっかり割るとなかから次々に同じ人形が出てくるように、どうやら少年時代から青年、熟年、老年期までの語り手の姿が、『他人のかたち』ででてきてしまったものらしいのだ。この登場人物とそれぞれが語るエピソードの相似形、他人とも見え、しかしライダーの分身とも思える不可解なキャラクターに読者がおやっと気づいたところで、物語はがぜん面白くなる」と述べています。


この八方ふさがりの町に、ピアノを弾く人が3人います。ホテルの支配人の息子シュテファン、町を駄目にしたと嫌われているクリストフ、そして過去には名声を博したが今ではただの酔っぱらいのブロツキーの3人です。この3人がライダーの青年期、壮年期、老年期を表しているようです。彼の息子であるボリスも、ライダーの少年期の姿のようです。まさに「ロシアのこけしマトリョーシカ」です。そして、このライダーの4人の分身は、それぞれに大きな傷を負っています。


しかし、ブロツキーの妻、ミス・コリンズは静かに言います。「あなたの傷なんて、何も特別なものじゃありませんわ、ちっとも特別なものじゃありません。この町だけにだって、もっともっとひどい傷をもっている人がたくさんいるのを、わたくしは存じています。それでもあの人たちは一人残らず、あなたよりずっと立派な勇気をもって頑張っていますわ。自分の人生を生きています。何か価値ある存在になっています。なのにレオ、ご自分のことを振り返ってごらんなさい。いつだって自分の傷を気にかけてばかり」と、ブロツキーを非難します。


ライダー自身も自分のスケジュールのことはまったく知りません。何のためにこの町へ来たのか、演奏する曲目さえ決まっていません。ライダーのスケジュールを管理する女性担当者がいるのにもかかわらず。ライダーの両親がこの町を訪れるというのも、かつてそういうことがあったという話なのか? 「この町で持ちかけられるさまざまな求めに対処する自分の能力をあれこれ心配してきたことがいかに無意味だったか」、ライダーは実感します。「なあ、いつも最悪に思えるのは、それが起きているときさ。だが過ぎ去ってみれば、何であれ思っていたほど悪くない紋だ。元気を出しなさい」と、すすり泣いているライダーに電気技師は言います。


結局のところ、「充たされざる者」とは誰なのか? ライダーのことのようでもあり、いや、この物語に出てくる町の人たち全員が「充たされざる者」でしたし、あえて言うなら、われわれ読者もわけの分からない迷路に紛れ込んで「充たされざる者」になっているようです。


著者紹介

1954年11月8日長崎生まれ。1960年、5歳のとき、家族と共に渡英。以降、日本とイギリスのふたつの文化を背景にして育つ。ケント大学で英文学を、イースト・アングリア大学大学院で創作を学ぶ。1982年の長篇デビュー作「遠い山なみの光」で王立文学協会賞を、1986年に発表した「浮世の画家」でウィットブレッド賞を受賞。1989年には長篇第3作の「日の名残り」でブッカー賞を受賞した。1995年の第4作「充たされざる者」、2000年の第5作「わたしたちが孤児だったころ」の後、5年ぶりに発表した最新長篇「私を離さないで」は世界的ベストセラーとなっている。


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