元極道の僧侶 玄龍ケヴィダ

元極道の組長 玄龍ケヴィダがマインドフルネスやミャンマー瞑想修行で伝授した仏陀の瞑想方法ヴィッパサナー瞑想を日々の生活に採り入れて苦しみを解放する知恵を説く。

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アーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)

 

原文

瞑想修行者は、森に行き、木陰に行き、あるいは空き家に行って足を組んで坐り、身体を真っ直ぐにして、気づきを前面に向けて確立する。常に気をつけて、瞑想修行者は息を吸い、気をつけて瞑想修行者は息を吐く。

 

 

さて前回までは瞑想方法の心構えなどを含めて、私の個人的体験や経歴などを交えて記してきました。今回からはいよいよ、ブッダの瞑想方法の基礎でもありながら奥義でもある瞑想方法アーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)を書いていきます。

 

 

アーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)は文字どおり息、つまり呼吸を用いて瞑想修行をしていくものです。

 

ただ、ここで重要なポイントをしっかりと押さえていて欲しいと思います。

この瞑想方法は世にあるような呼吸法ではないということです。

 

私も様々な呼吸法を学んできましたし、また個人セッションのさいには瞑想に入る準備段階として呼吸法を用いることもします。

 

しかし呼吸法というのは、どこまで行っても人間が呼吸をコントロールしていくものであります。それでも一定の落ち着きや他の効能もあることは否定しません。

でもブッダの瞑想法は自我を超越するものです。

自我というのが分かりにくければ、この私という思いや感覚でもいいでしょう。

それが目覚めるということです。

 

 

そもそも私というものが、幻想にすぎないということを知るために瞑想修行をするのです。

じゃあ私という者が幻想であれば、瞑想をする者は一体誰なのか?

そういう問いも当然出て来るでしょう。

しかし今の段階では、そのような問いには答えないようにしていきます。

物事には順序があり、段階を大事にしないと余計に混乱を招くだけとということもあります。

 

今の時点で大事なことは、瞑想とは呼吸をコントロールすることではない。

このことを深く理解して欲しいと思います。

 

ところで呼吸というのは実に不思議な作用であります。

私自身が呼吸をコントロールすることも可能ですし、呼吸に意識が向いてないときでも呼吸は自然に流れています。

 

だから最初、あなた方が仮に興味を抱いて瞑想修行に専念するならば混乱するでしょう。

呼吸を「あるがままにさせる」ということが、どういうことなのか?

私自身も瞑想しながら呼吸を「コントロールしているのか?」或いは「コントロールしていないのか?」こういう初歩的なことでさえ分かりませんでした。

 

しかも瞑想修行などに志を持たない方には、呼吸などに何の興味も湧かずに人生を終えることも多いと思います。それよりも楽しみな旅行の計画、テレビ番組やゴルフの上達、グルメ情報、そういう類のものに興味をひかれるのではないかと思います。

 

人間というのは大事なものを失ってから、はじめて理解することがたくさんあります。

それは丁度、私が若い頃に流行った歌の歌詞のように「なんでもないようなことが幸せだったと思う、なんでもない夜のこと・・・二度とは戻れない夜・・・」こういう具合です。

 

これは逆を言えば「なんでもないようなことは幸せとは思えない」過去があるのです。

「なんでもないようなこと」とは何でしょうか?

子ども達との語らいや、洗面、食器洗い、便所掃除、車の運転、散歩、買い物など挙げればキリがないほどでしょう。そして普段の呼吸とは「なんでもないようなこと」の最下位のランクに位置づけられるような気がします。

 

それだけ「当たり前」すぎて「意識」することがないものとも言えそうです。

 

また「なんでもないようなこと」とは「無意識」にただ漫然と時を過ごしていることとも同じようなことではないでしょうか?

あるいは「なんでもないようなこと」とは目指すゴールがあって、その過程の道のりのプロセスとも同じようなことともいえそうです。

ゴールとは現代でいえば何らかの達成です。達成することが成功だという風潮の現代を考えるとゴールだけが全てであり、そのプロセスは些細なこと。そして軽いもの。

私が急いで物事を達成したいのに面倒な邪魔なもの。

私の成功を邪魔するもの。

こういう心理的パターンが自然に形成されるような気がします。

 

 

ところで、「当たり前」すぎて「意識」することがない時の状態とは

 

自動操縦装置が作動している人間ロボットのように機械的に作業をしているわけです。

その人間が持つ特性(自動操縦状態)は便利な能力でもありますが、一方では深刻な状況を作ることでもあります。

 

これらと関連することで見逃せない重要な点は我々、人間は古今東西から聖なるものと世俗的なこと、または善悪などと分けることが好きでした。

 

例えば坐禅や瞑想というような宗教的行法は聖なるものであり、善だとみなす傾向があります。しかし便所掃除や皿洗いなどは世俗的なことであり悪とは言わなくても、低俗なことという

感覚を持っています。

 

実はこの分け方は仏教、とくに禅などでは分別(ふんべつ)といって修行するさいのポイントとして戒めています。

そして大切のことは私を含めてあなたが判断する、分別の低いと思われる行為や物は先程書いたように自動操縦状態で物事を進めていることが多いということです。

 

自動操縦状態は「無意識」で動いている我々の状況です。

分かりやすくいえば現代を代表するような、事故原因である「ながらスマホ」で物事をしていることです。

 

また「ながらスマホ」をしている方は、スマホの画面に映る何らかのもの(ゲームやその他)に意識を奪われて身体は他の動きをしているわけです。

 

それと同じように自動操縦状態下の人間はココロの画面に映る何らかのもの(思考や妄想)

に意識を奪われて身体は他の動きをしているわけです。

 

このような状態は思考や妄想に酔いしれていてシラフではありません。

また眼が覚めて起きているようでも半分は寝ている状態ともいえるのです。

 

真言宗開祖の空海は、このような人間の自動操縦状態を憂いて下記のように説いています。

 

”痛狂(つうきょう)は酔はざるを笑ひ、酷睡(こくすい)は覚者(かくしゃ)を嘲(あざ)ける。”
出典:般若心経秘鍵

 

 

人間の自動操縦状態とは心と体が分裂しているわけです。分裂すると当然、一体感がなくなり苦しみが生まれ葛藤するわけです。その苦しみを無くすために昔の賢人達が心身の統一、心身一如ということを説いてきたことは皆さんもご存じの通りでしょう。

 

そして心身が分裂する原因の多くは、心と体の間に思考が入ることです。

あなたが日常生活をしているときに、どこからともなく湧き上がる心のお喋りです。

そのことを仏教では猿心と表現したりしてもいます。

猿が落ち着きなく、次から次の木に移るような様子を表したものです。

例えばあなたが皿を洗っています。その途中で(油が落ちないな・・)(やっぱり前の洗剤の方が高いけどいいな・・)(でも旦那の稼ぎも減ってきそうだしな・・)(バイトでもしようかな・・)(でも寒いから体調を崩すと元も子もないしな)(そういえば今朝の薬飲んだかな)(今度はいつ病院の予約だったかな)

このように一つの思考が出てくると、次々に思考が連鎖していく状態です。

そして思考は多くの苦しみを作り出していきます。

 

このような「今している」ことから外れることを仏教では外道(げどう)ともいいます。

逆に「今してる」ことから外れなければ、例えば皿を洗っていても我々はブッダなのです。

ブッダは常に「今ここ」に存在します。

「今ここ」に気づきの光が差し込むこと、「今を生きること」これが瞑想修行者の生き方です。

 

ですから逆をいえば法要とかで綺麗な袈裟を着けて、「心ここにあらず」の僧侶の行法は仏教とはいえません。

 

ですから表面上の問題に騙されないように気をつけなければいけません。

 

曹洞宗の開祖である道元禅師は中国に渡り、長い間の苦労の末に如浄禅師に邂逅してから、そこで身心を脱落したといいます。

 

そのときの言葉に「眼横鼻直(がんのうびちょく)にして、一毫の仏法もなし」「柳は緑、花は紅」「本来本法性、天然自性身」「本来仏そのものである、すべてが禅である」と説いています。

 

これは悟り以前も悟り以後も身心脱落に関係なく、すべての現象や物事のありかたは変わりはないということを示しています。

 

ただ重要な点は、「私」という自己が見たり聞いたりするのか、「私」という自己が無くなって見たり聞いたりするのか、このことが重大な問題なのです。

 

よく人々が誤解することがあります。それは悟りを得た人間はスーパーマン的な超人になるのだろう。という勝手なイメージです。これは全くの間違いであります。

当たり前の「今」を苦しまずに「生きる」ことが悟りなのです。

しかし人類は「今」に満足できないから苦しんでるわけです。事実は本当はすべて完結しており「今」がすべてなのです。そのとき「柳は緑、花は紅」なのです。

 

また「今を生きる」というと「今を生きる」という考えで納得する人々が多数います。

「今を生きる」とは思考ではありません。

また、どうせ一度きりの人生だから今を楽しく生きればいいんだよ!というある種刹那的な私の現役時代のような生き方も「今を生きる」ことではありません。

それは「今を生きる」という「考え方」であり、思考の産物です。それらは過去の記憶から引っ張り出してきたものでしかありません。それはただのイメージです。

 

「あなたは、同じ川に2度入ることはできない」。2度目に入る川は、1度目の川と同じように流れていますが、水は先ほどの水ではありません。先ほどより上流を流れていた水です。しかも、あなたも川も変化しているはず。こんなことを、ヘラクレイトスは言います。

 

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。鴨長明『方丈記』です。

 

「今を生きる」とは「私がいないことであります」もう一度言いますが「考え方」ではありません。

事実の体験なのです。

心身一如の境地には「私」は存在しません。森羅万象と同根だと禅では説きます。

言葉以前の存在としての「なにか」概念以前の「なにか」なのです。

そういう「なにか」を禅では本来の面目とも説いています。

 

 

それを宇宙や神仏と一体だとも表現することもあります。

しかし今流行りのスピリチュアル系の方々が言うような、宇宙と繋がるというような意味ともまったく違います。それは「考え方です」

それは別に昔の剣豪達のような強者だけの境地ではありません。

歩いても心身一如にはなれるのです。

 

心身の分裂は、人類の持病でもあります。

それをとりもどすためには一心というキーワードが大切です。

 

例えば掃除をするにしても、料理をするにしても注意集中して心を込めて物事をすると、その対象(掃除や料理)と主体(私やあなた)は一体になっています。

*実はそのときこそ森羅万象、宇宙と一体になっているのです。

ですから今までの経験上でも皆さんが味わったことの、あることも多いと思います。

集中した意識の清々しさとでもいいましょうか。

ここで示す集中というイメージは決して堅苦しい緊張的なものではありません。

意外に思われるかもしれませんが、集中とリラックスは表裏一体なのです。

 

また日本の古来の道という名称が付くものには、作法も含めて一心に集中するような型が多いことだと思います。書道や武道、華道、茶道、弓道、柔道などです。

これらは心身の統一を達成するための道でもあります。

 

ところで仏教には瞑想の基礎としてサマタ瞑想という技法があります。

これは天台宗などに伝わった摩訶止観(まかしかん)という瞑想方法です。

摩訶止観(まかしかん)とは、仏教の論書の1つで、止観(止は三昧、観は智慧。仏教瞑想はこの2つから成る。上座部仏教でいうサマタとヴィパッサナー)に該当します。

 

当然ですがアーナーパーナサティ・スートラにも摩訶止観(まかしかん)は含まれています。

真言を唱えるマントラの行法なども(サマタ瞑想)の部類に入ります。

 

サマタ瞑想の特徴は、それがなんであれ特定の対象に注意を集中して一心に同じことを繰り返す技法だといえます。

 

対象はある意味で何でも良いとも言えます。これを仏教では方便(ほうべん)と説いています。

子どもが包装に使われているプチプチ(エアーキャップ)を一生懸命プチプチしているもの

立派なサマタ瞑想なのです。

ですから掃除にしろ料理にしろ散歩でさえサマタ瞑想の方便の対象になります。

 

しかしサマタ瞑想の対象のなかで、実は最も入りやすく瞑想に適しているのが呼吸なのです。

 

なぜならば我々の日常生活は複雑です。掃除や料理も確かにサマタ瞑想の方便になるのですが対象の理想はシンプルで常に我々と共にあるものです。また我々がコントロールも可能でありコントロールを忘れても自然に作用しているものです。そしてあらゆる宗教や民族、文化、言語を超えて普遍的なもの・・

 

それは呼吸なのです。

呼吸は常にあなたと共にいるからです。また呼吸はイスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、ユダヤ教徒であろうが関係ありません。キリスト教徒はキリスト教徒の呼吸をするわけではありません。

生まれてから死ぬまでの間ずっと呼吸は我々を離れることはないのです。

そしてコントロール可能でもありながら、コントロールしなくても可能なのです。

我々にとって意識的、無意識な領域に常に遍満しているのが呼吸なのです。

 

瞑想とは全人類が目覚めることが可能となる行法です。

すべての人々が苦しみから解放される修行の型なのです。

 

ですからブッダが説いたアーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)は呼吸を羅針盤に解放への道のりを進むと言っても過言ではありません。

 

今後のイベント情報

 

2016年11月26日(土)

一泊二日 伊勢神宮ツアー

マインドフルネス・リトリートin愚狂庵

 

12月2日、3日,4日連休
元極道の僧侶 玄龍・正仙が織りなす本音&スピリチュアルトーク&セッション愛媛松山

 

2017年1月15日(日) 伊勢マインドフルネス瞑想ワークショップ

 

2017年3月25日(土)
スピリチュアル・サミット2 (サムシング・グレートに向けて)

 

 

個人セッション希望の方

 

マインド・フルネス心身治癒プログラム 個人セッションの問い合わせ&予約

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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新年明けましておめでとうございます^^

 

今年最初のマインド・フルネス瞑想のワークショップを開催します!

 

残席まだありますので友人を誘っての参加お待ちしております。

 

 

東京や関西、四国でのイベントやワークショップをさせて頂いていますが、私自身の住む三重県内でもマインドフルネス瞑想の素晴らしさを伝えたいという想いから、企画する運びになりました。お気軽に問い合わせ、参加して頂ければ嬉しく思います。

 

 

愛媛松山でのマインド・フルネス瞑想ワークの様子です

 

 

日時 平成 29 年 1 月 15 日  13時30分~16時30分

会場  伊勢市ハートプラザみその 教養娯楽室(大)

 

■ 住所 伊勢市御薗町長屋2767番地

■ 電話 0596-22-6602 

FAX 0596-22-6603

駐車場有 無料

会費  3,000円(資料代金込)

定員  15名

講師  新垣 玄龍(仏教僧)ブログhttp://ameblo.jp/tomiwaka/

 

 

マインドフルネス瞑想 身心を健康に保つワークショップ 病気を自ら癒す、防ぐ方法

昨今、マインドフルネスという言葉をテレビや雑誌などを通じて、御存知の方もいると思います。マインドフルネスとは仏教の瞑想法から宗教的な部分を除いて、純粋に瞑想の効果だけを人生や生活に求めていくものです。

 

マインドフルネスの効果は身心の癒し、心の安定、病気の痛みに対する緩和、人間関係の改善、仕事の効率アップなどと素晴らしいものがあります。
欧米の医療では心療内科、ペインクリニック等でも幅広く、積極的に導入されており
企業ではグーグルやマイクロソフト等の最先端の会社が社員の仕事の効率アップを目的とした企業研修を採用しています。


(医療関係では特に患者の病気に対する症状の緩和が発表されています)
下記URLを参考にして下さい。
報道動画 サイエンスゼロ  マインドフルネス瞑想とは

https://www.youtube.com/watch?v=8yUiGDc61q4

 

NHKスペシャル キラーストレス2
身心の疾患がストレスに関係してることやマインドフルネスがストレスをどのように防ぐかを検証している番組です。

https://www.youtube.com/watch?v=PVFnv4eeeaQ

 

三重県内では本格的なマインドフルネス瞑想を学べて体験する場所がありません。そこで定期的に一般の方々が受講できるような料金設定でマインドフルネスの団体ワークショップを開催することにしました。

 

起業家、主婦、医療従事者やカウンセラー、身心に現在、疾患を抱えてる方々も含めて
この機会にマインドフルネスの理論と実践を提供していければ嬉しく思います。
私自身とすれば、身心の不調を抱えた方々が多数参加されて緩和されていくことを実感して頂ければ嬉しく思います。
(重い心臓病や心療内科に通院されている方は主治医に相談したうえで受講願います)

 

13時30分  マインドフルネス瞑想 理論
         マインドフルネスの定義
         マインドフルネスの心得
         身心を一体にすることで心身は癒される
         注意集中力の必要性
         自動操縦状態の半眠半醒からの目覚め
         生活をマインドフルネスにするために

14時30分  マインドフルネス瞑想 実践
         坐る瞑想・ボディスキャン・ボディワーク(各30分)

16時      シェアリング

16時30分   解散

 

 

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奈良イベント

 

申し込みは下記からお願いします。
 

申し込み・問い合わせはこちら

 

*参加する方々は各自ヨガマットを持参下さい。また軽いストレッチ&ヨガをしますので動きやすい服装でお越し下さい。入金確認後に正式な予約申し込みとなります。


一度申込みされた方のキャンセル返金は致しませんので御了承願います。

*個人セッションとは別枠の団体ワークです。
*個人的な相談を希望の方は対応できませんので改めて、私の個人セッションを受講して頂くことをお勧めします。
 連絡先 genryu1230@gmail.com

 

振込先  

振込口座先
ゆうちょ銀行
記号12260
番号10248961
名義人 アラカキ ゲンリュウ

 

他の金融機関から振り込みの場合


店名二二八(ニニハチ)
店番228 貯金種目 普通貯金 口座番号 1024896
名義人 アラカキ ゲンリュウ

 

 

講師プロフィール


新垣玄龍 ケヴィタ(ミャンマー出家名)

 

IMG_20161005_084056319.jpg

 

 

昭和49年生沖縄出身。
小学生の頃は極貧の生活。中高は度重なる事件を起こす(中学ボイコット事件、未成年飲酒傷害致死事件等)
沖縄青年開発隊副隊長を務める。
22歳の頃から事業設立し様々な業種で起業し成功する
26歳で右翼団体を設立。
29歳で地元ヤクザの有力団体の構成員になり
32歳で有力団体の組長を継承する。
沖縄刑務所服役中に弁護士を使わず本人訴訟で国家賠償請求(刑務所)を提訴して勝訴(地元新聞社に掲載される)
この頃に獄中で拷問と悪名高い厳正独居に入る。
三畳半の獄舎に二年間人と一切の接触を絶たれ便所も食事も獄舎で過ごす。
獄舎で殆ど座禅瞑想をして過ごす中で覚醒体験を得る
その後、仏道へと本格的に傾斜していく。
福岡刑務所服役中には全国紙の実話マッドマックスに(獄中処遇改善闘争記)一年連載する。
40歳で仏道修行するために一切を捨てて修行の旅に出た後に組織から絶縁される。

修行経歴 
国内
興禅寺(臨済宗)      
安泰寺(曹洞宗)        
常境寺(日蓮宗)
太江寺(真言宗)
四国遍路野宿行脚

国外

パオ森林僧院(テーラワーダ仏教)ミャンマー
修羅界(極道現役時代)
六道輪廻の修羅道にて約12年の荒行を達成する

瞑想シェアハウス愚狂庵 庵主 
瞑想コーチ
フードバンクISE 代表
イベント&講演活動中
自身の半生を統合した(人生を豊かに生きるため方法)玄龍メソッドを完成させて世界への普及を目指している

 

今後のイベント情報

 

2016年11月26日(土)

一泊二日 伊勢神宮ツアー

マインドフルネス・リトリートin愚狂庵

 

12月2日、3日,4日連休
元極道の僧侶 玄龍・正仙が織りなす本音&スピリチュアルトーク&セッション愛媛松山

 

2017年1月15日(日) 伊勢マインドフルネス瞑想ワークショップ

 

2017年3月25日(土)
スピリチュアル・サミット2 (サムシング・グレートに向けて)

 

 

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私は極道現役の頃から、いやもっと以前から内面的な部分に関心を抱いていました。

 

その影響は今考えれば、私の亡くなった父親との会話や生活が大きかったような気がします。もちろん今も元気でいてくれる母親も敬愛していて私の大きな支えですが、父親は学歴こそ低いものの様々な本を読んでいました。心理学のフロイト、ユングなどのコンプレックス、自我という概念などを知ったのも酔った父親がリビングのソファに座りながら私に講義をしたことが始まりです。

 

当時の私は「心理学」がなにか理屈が多すぎて、つまらないという感覚を持っていたことも確かですが私の父親は酒乱の傾向が強かったために、私は嫌々ながらでも「特別講義」をたびたび受講したのです。真面目に聞いてないと殴られるからです笑

 

そんな私の父親は精神錯乱状態の末に行方不明になり何年か後に、一本の地元警察からの連絡が入り地元の雑木林で腐乱死体で亡くなっていたのです。亡くなった現場には父親が愛してやまなかった三本くらいのビール缶(オリオンビール)が無造作に転がり落ちていたようです。

 

私は地元警察の遺体安置場へ一人で出向き、父親の遺体と対面したのでした。

独特の壁についたシミ、まったく日の当たらない場所、警察の事務的処理の対応に混乱しながらも、あの無残な姿や腐敗臭が充満する部屋で、私は乾いたマスクをしながら茫然としていたことが今でも鮮明に焼き付いています。

 

警察の死因の断定は「自殺」という結論でした。確かにあのような腐乱した状態では検視など到底不可能だと思います。

しかし「自殺」とはいっても私自身の現在の解釈では父親はおそらく、断食しながら自然に死を選んでいったというのが間違いない事実だと確信しています。

*現場付近にはロープや刃物などの自殺に使用されたものは発見されていない。

 

その死を決して断食しようとした、頑固一徹な姿勢のなかでもビールが欲しかったのかと当初は居た堪れない気持ちで一杯であり、家族とも「その出来事」を未だに語り合うことが多くありません。

 

しかし現在は最後まで人生を喜劇のように終えていってくれたな・・と微笑ましい余裕で父親を回想することすらあるのです。

人の人生を喜劇にするか悲劇にするかは、捉える側の問題だということを流れゆく季節の恩恵と瞑想修行のなかから私は多く学びました。

その人間の深い痛みが癒されるのは本当に時間がかかります。

しかし時間が経過するだけでは完璧ではありません。

その痛みと真に向き合う瞑想の智慧と勇気がなければ、それは起こりません。

だからといって焦る必要もありません。向き合うことのタイミングの時期があります。

身体の傷でいえば、深い傷の手当は包帯で包んで触れなれないように隠すことが一番です。

しかしある程度の傷が回復してきたら、少しばかりの勇気をもって包帯を解き、空気に晒すことが求められるのです。

 

 

私の父親は学歴に対する「コンプレックス」を強く持っているようでした。

真面目な本でも自らは決して図書館などで借りることはしない性格でした。

*父親自身が借りるのは恥ずかしからと、代わりに母親が借りてくる係りでした。

タクシーの運転手やトラックの運転手を生業にしながら、寝る前は常に本を読んでいたことを覚えています。父親は終戦直前の沖縄で生を授かり、アメリカ軍が一番最初に上陸してきた読谷村の防空壕で家族や地域の皆と避難して生きてきた経歴があります。

 

そういう非常事態の最中では、当時の父親のような赤子が泣きわめいていると周囲から本当に迷惑がられたという話も実際に祖母から聞きましたし、「記憶にないはずの父親」の口からも直接聞いたことがあります。沖縄ではこういう類の話はいくらでもあります。

要するに防空壕で皆が潜んでいる運命は一蓮托生です。ですから赤子の泣き声で敵兵に見つかれば皆殺しにされるという恐怖心が充満していた状況下だったようです。

 

そういう非常に凄惨な歴史に翻弄されながらも、生きてきた父親は仮に裕福な時代に恵まれた環境で育ったいたならば、好きな学問をしながら、持ち前の探求心を思う存分発揮できて生前とは全く違った生き方が出来たのだろうと思うことがあります。

 

また一方では私は父親は学問が好きだったというよりも、実のところ自分自身の不安感とどのように対峙していくべきか?という(人生の大いなる疑問)を心理学や哲学という学問によって解決したいと望んでいたのだろうとも感じるのです。

 

というのも私の父親が情緒不安的で晩年悩んでいた頃に、「心理学」など糞の役にも立たない!」と頭を掻き毟りながら絶叫してた、あの絶望的な悲壮感は強烈なインパクトを私に与え続けているからです。

 

そして実は私自身もそんな父親の姿を重ねては、自分自身が父親の遺伝子を引き継いでるからには「発狂」しうる可能性があるという「恐怖」へと駆り立てられていくことが度々ありました。

そのような恐怖と向き合うことができなかった、血気盛んな私は何かに追われるような切迫感と共に、様々なことに挑戦して創造しては破壊することを繰り返してきました。

その狂気の波は次第に大きくなり、私を若くして武闘派組織の組長へと担ぎ上げていきました。私は極道時代の頃を振り返ると「死に場所」を探していたという表現がピッタリでした。

過激に生きて狂気と情念のなかで太く短く派手に死んでやる。

そういう想いを常に抱えて生きていました。ですから私は組織同士の喧嘩が大好きでした。

特に状況が切迫すればするほど武者震いが身体を駆け巡り、その緊迫感と爽快感に酔うことが好きでした。

でも極道世界というのは皆様が考えるような、無謀な喧嘩を長引かせてするものではありません。必ず政治的な駆け引きや打算があり幕引きを上手にするのが本当の組織の長の役割なのです。これは勘違いして貰いたくありませんが、極道組織や私の過去の組織を批判しているのではありません。

 

そういう意味で私は組長の器ではありませんでした。

というのも「死に場所」を探していく、狂犬のようなチンピラ風情な男は組織にはやっかい者であり実際に所属していた組織には多大なる迷惑をかけたことも数えきれない程であります。

 

少々脱線しましたが、父親の一連の騒動から死に至るまでのことは、私が最初の結婚を迎える前後のことでした。

あの頃の家族は父親の錯乱ぶりに、皆が疲労困憊状態に陥りました。

というのは父親は一日中、精神が錯乱して眠らない日々が続いたのです。

そして酒乱で暴力的になる性格を持ち合わせていれば、家族は父親に「殺されるかもしれない」という不安感に苦悩することは理解してもらえるでしょうか?

安心して眠れない日々が何カ月も続きました。父親の相手をしていた気の強い母親でさえも大量の安定剤を飲んで自殺を図ったくらいでした。母親は手早い対応の救急車に搬送されたお陰で無事に後遺症もなく復活しましたが・・

 

この一連の騒動は私が最初の結婚を迎える前後の時期でした。23歳くらいの頃でしょうか・・

その頃生まれた息子は現在18歳になります。

 

ここに父親との思い出を記したのは大事な理由があります。それを下記にまとめてみました。

 

1、私自身が私の死という恐怖の呪縛から解放されるために「なにか」しなければいけないと         決めたこと。

 

2、それが現在の出家という修行僧の生き方に辿り着いたこと。

 

3、様々な修行方法を模索しながら、最終的にはブッダの教え(瞑想)を体験することで解放されたこと。

 

4、父親のような心理的に不安定になった人間を少しでも救いたいこと

  *実際は私が救うのではなく、あくまでも本人が瞑想を実践してから本人が救われる

 

5、この一連の父親の騒動が実は私の瞑想修行の始まりだということ

 

 

特に5に示したのは重要なポイントです。

私は警察の薄暗い遺体安置場で、父親の腐乱した姿を30分以上観察させられたのです。

顔などはミイラのように変り果て、父親の生前の面影は全くなく、遺体には白い布が被せられていて血と土が混ざり、なんといっても腐敗臭は目眩がするくらい強烈なものでした。

布から垣間見える骨・・やけに歯だけが薄気味悪く白く輝いていたのでした。

父親の持ち物として財布だけが唯一の押収品であったようなので、その免許証などで身元を照合したのだと思います。

また最終確認として歯型の照合で本人と断定したような説明を受けたのを覚えています。

財布のなかには僅か三千円くらいの札が残っており、それは私が持ち帰ってきたのですが

腐敗臭が付着していて、何度綺麗に石鹸で洗っても臭いが落ちることはありませんでした。

人間が死んだときの腐敗臭の強烈さが本当に衝撃でした。

その腐敗臭は私の記憶にこびりつき、たびたび深い影と共にやってきました。

私は父親の遺体を見ながら何故だか涙は出ませんでした・・

それよりも妙な安堵感がありました。この騒動の終止符がやっと訪れた・・・

それと同時に強烈な罪悪感や救えなかったことへの葛藤が津波のように押し寄せてきました。

 

ところでブッダの瞑想方法のなかには不浄観という、悟りに至るための瞑想方法が説かれています。

 

これは簡単にいえば身体の不浄さをずる行法の一つ。 様々なバリエーションがあるが、一般的には、自身や他者の身体が腐敗・白骨化していく様を観想し、そこへの執着を断つことを基本とする。 九相図は、それを図画化したものです。

 

私の父親は酒乱ではありましたが、一方ではとても優しく家族思いの性格でもありました。

夏になれば家族で海へと出かけたり、キャンプをしたりと楽しい思い出も多々あるのです。

また学校帰りで小腹をすかせた私に卵焼きをよく作ってくれました。父親が薄く焼いた卵焼きは、私の今でも料理のレシピになっているくらい大好物でした。

またジャガイモを油にあげた、自家製ポテトチップスをよく料理してくれたりもしました。

 

そういう親愛なる父親の腐乱遺体を観察する機会は世の人々には、あまりないことでしょう。

なぜならば現代の葬儀というのは、遺体に化粧して綺麗に整えて火葬されていくからです。

 

私は別に現代の葬儀に異義を唱えているのでもありません。

 

ただ断言できることとして、私は仏門の道を歩む前から、不浄観という瞑想方法の基礎を身をもって父親から伝授されたわけです。

 

しかし、私の父親の一連の事件は私自身に重たい深い影を刻むことになりました。

 

ブッダの生前にも、この不浄観の瞑想修行をして、その重さに耐えられずに「自殺」する僧が多数いたようなのです。

 

「不浄観は仏教の厭世的側面を表すものです。そのような側面が仏教には確かにあります。しかし、ただいたずらに生を否定しているわけではありません。

 

その昔、釈尊が不浄観を修することを弟子の比丘らに勧め、これを多くの比丘が熱心に修した結果、生を穢らわしいものと厭うようになった比丘らが次々と、刃物を用いて首を切るなどして自殺するという事態に至っています。そのため釈尊は比丘らに不浄観を修すことを一先ず止めさせ、かわりに持息念を説かれています。

 

このようなことがあったこともあり、不浄観は特に貪欲・色欲(性欲)の強いものにこそ推奨される瞑想となり、逆に厭世観の強い者や瞋恚の強い人には推奨されぬ瞑想となっています。厭世観の強い者がこれを修すると自殺してしまう可能性があり、瞋恚の強いものがこれを修めればその不浄なる対象に対して嫌悪・怒りを覚え、逆に瞋恚を強めるなど、逆効果となってしまうおそれがあるためです」

C) 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺. All Rights Reserved.から引用

 

 

上記引用した箇所にもあるように、厭世観の強い者がこれを修すると自殺してしまう可能性があり、瞋恚の強いものがこれを修めればその不浄なる対象に対して嫌悪・怒りを覚え、逆に瞋恚を強めるなど、逆効果となってしまうおそれがあるわけです。

 

私は不浄観という瞑想方法を詳細に調べていくなかで、本当に私自身が仏門に導かれているんだと悟ることがありました。

 

ブッダ生前の当時の修行者達は墓場へ出向き、あの頃は土葬だったのでしょうか。

腐敗していく人間の姿を「すべては無常」という仏教の根本教理を体験するために、わざわざ墓場で瞑想したわけです。

 

別に私自身は好き好んで不浄観を修行したわけではありません。

しかし親愛なる父親の腐敗した白骨化していく姿をまざまざと見せられたのです。

それは強烈な無常観を教えられました。

人はある意味でどこまでいっても人の死は人の死です。自分事ではないのです。

特に現代の日本のような葬儀では無常観を感じることは難しいと思います。

現代人は死というものに対峙しないように避けて通る傾向があるからです。

死と生は表裏であり、死を深く意識しなければ本当の生は輝きません。

芸術でも生ばかりを強調したものは駄作です。それは真実じゃないからです。

 

ところで仏教の瞑想方法には、肉体的・性的な欲望を鎮めるための『不浄観(ふじょうかん)』や心の動揺を鎮めるための『持息念(じそくねん)』、すべてが不浄・苦に過ぎないと知るための『四念住(しねんじゅう)』があります。

 

この心の動揺を鎮めていく瞑想方法こそ、アーナーパーナサティ・スートラの最初の部分なのです。

 

瞑想の初歩の段階は呼吸に焦点をあてて、ある一定の集中力を養いながら心身を整えていくことが理想なのです。正しい集中は心身に癒しを与えます。

瞑想指導者のなかには集中力を軽く考えている者達が多数います。

これは大きな間違いです。

一定の集中が整わないと瞑想は困難です。瞑想には純粋な「気づき」「洞察」が起こることが大切です。そのためには、どうしても普段は散乱しているエネルギーを統合させることが必要です。

 

そこから段階を得ながら、徐々に瞑想を進めていく必要性があります。

*これは後に記述していくことにします。

 

まあでも私は数奇な運命とでもいいますか、瞑想を修行するために生まれてきた宿命とでもいいますか、強烈な不浄観を半生のうちに否が応でも体験させられたのです。

 

それではアーナーパーナサティ・スートラの紹介をします。

 

アーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)

 

 

瞑想修行者は、森に行き、木陰に行き、あるいは空き家に行って足を組んで坐り、身体を真っ直ぐにして、気づきを前面に向けて確立する。常に気をつけて、瞑想修行者は息を吸い、気をつけて瞑想修行者は息を吐く。

十六の考察

最初の四考察(身体に関する組み)

 

1、息を長く吸っているときには、「息を長く吸う」と知り、息を長く吐いているときには、「息を長く吐く」と知る。

2、息を短く吸っているときには、「息を短く吸う」と知り、息を短く吐いているときには、「息を短く吐く」と知る。

3、「全身を感じながら息を吸おう。全身を感じながら息を吐こう」と訓練する。

4、「全身を静めながら息を吸おう。全身を静めながら息を吐こう」と訓練する。

 

第二の四考察(感受に関する組み)

 

5、「喜悦を感じながら息を吸おう。喜悦を感じながら息を吐こう」と訓練する。

6、「楽を感じながら息を吸おう。楽を感じながら息を吐こう」と訓練する。

7、「心のプロセスを感じながら息を吸おう。心のプロセスを感じながら息を吐こう」と訓練する。

8、「心のプロセスを静めながら息を吸おう。心のプロセスを静めながら息を吐こう」と訓練する。

 

第三の四考察(心に関する組み)

 

9、「心を感じながら息を吸おう。心を感じながら息を吐こう」と訓練する。

10、「心を喜ばせながら息を吸おう。心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。

11、「心を安定させながら息を吸おう。心を安定させながら息を吐こう」と訓練する。

12、「心を解き放ちながら息を吸おう。心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。

 

第四の四考察(智慧に関する組み)

 

13、「無常であることに意識を集中させながら息を吸おう。無常であることに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。

14、「色あせていくことに意識を集中させながら息を吸おう。色あせていくことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。

15、「消滅に意識を集中させながら息を吸おう。消滅に意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。

16、「手放すことに意識を集中させながら息を吸おう。手放すことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。

 

 

以上

アーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)はパーリ語で説かれています。

 

参考文献

 

アーナーパーナサティ・スートラ(出息入息に関する気づきの経)

実践ヴィパッサナー瞑想

呼吸による癒し

ラリー・ローゼンバーグ著

井上ウィマラ      訳 

 

今後のイベント情報

 

2016年11月26日(土)

一泊二日 伊勢神宮ツアー

マインドフルネス・リトリートin愚狂庵

 

12月2日、3日,4日連休
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2017年1月15日(日) 伊勢マインドフルネス瞑想ワークショップ

 

2017年3月25日(土)
スピリチュアル・サミット2 (サムシング・グレートに向けて)

 

 

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