4月13日にこのブログへ「大震災への俳句」の一文を書いたが、その後、とてもとても私のような駆け出し俳人では震災の句は詠めないと気づいた。


私の俳句の師である富坂宏己氏は震災の翌々日に行なわれた岡山の閑谷学校の吟行句会の折のことをこう書かれている。

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私は何も詠めなかった。

現実に起った想定外の災害に圧倒されているだけなのだ。

冷静に着実に一句、一句詠むこと。

私の現実をみつめて。

それは、被災者となったとき、被災者として現実を詠み今日を乗り越えてゆくことだ。

 

閑谷の春の勢いも恐ろしく  宏己

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また、震災の句をどう詠むかという私の問いに答えて、こう言われた。

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『東日本の巨大地震をいかに詠むか。
私には手も足も出ません。安易な同情句や想像句は作れても所詮、野次馬俳句。
家族、近隣、親族、土地や家、そして仕事や同僚、今まで当然のように所属していた一切を、一瞬にして喪った経験を持たない私は、被災者の痛みを持っていない。


俳句が私の真の生きがいとなっていて、生きる拠りどころとなる人が生存していたら、第2の人生へ一歩を踏み出せるかも知れない。


災害に直面しなくとも、親族、近隣の中にいても、孤独と絶望を生きる人は多い。

逆境に打ち克つ典型となる人が被災者の中から生まれ、被災者に励まされるのは、被災しなかった人々となるかも知れない。
一緒にいてもバラバラな被災してない人に、美しく力強い連帯感を多くの被災者が見せてくれるかも知れない。
自然の美しさと狂暴さを知った俳句や、自然の一部である人事の大切さも見直されるかも知れない。
震災を逆手に取った秀句がうまれる日を信じたい。』

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その後も彼は一緒に所属するネット句会ほかでこんな句を詠まれている。

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涅槃図を掲げし寺も呑まれけり

春眠と呼ぶには疲れ過ぎてをり

花冷を遠ざけてゐる日差かな

東風強し羅針は北を射るごとく

今日の風生みつつ花は葉となりぬ

風を待ちをればしきりと樫落葉      

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昼下がり花こそ疲れをりにけり


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故に、とてもとても、軽々には詠めない。

5月23日の朝日新聞の記事に「南三陸町の志津川中学校にチリ共和国賞を授与」との記事があって、感激した。



南三陸町の志津川中学校は旧志津川町にあったが、1960年の昭和チリ地震津波で41人が亡くなった教訓を忘れまいと、海外で地震や津波が起こるたびに、生徒たちが募金活動を行って被災地に贈っていたそうだ。



そうした縁で、チリとの交流が始まり、1991年にはチリ国からイースター島にある本物と同じ石で作られた「モアイ像」が町に贈られ、防災と友好のシンボルとして海辺の公園に立っていた。

そしたら、この津波である。



志津川中では167人の生徒が家を失い11人が親を亡くし、「モアイ像」も上部が流されてしまったそうだ。

震災後、チリのパトリシオ・トーレス駐日大使が志津川中を訪れ、菅原貞芳校長に対し、「来年3月に再訪し、生徒たちにチリ共和国賞を授与したい」と持ちかけたという。

 

感激する話ではないか。

来年の3月といわずもっと早く元気づけてあげてほしい。



そのうえ、初めて知ったことだが「モアイ像」の『モ』は未来、『アイ』は生存を意味するそうで、モアイとは、未来に生きると言う意味になろうか。



余計に今回の美談に感激する。

これも「モアイ像」も早く復旧してあげて欲しい。

昨日の私の記事に、句友の直實氏から感想が入った。



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さすがにちゃんと見るところは見ているんだね。

小生も短歌は、今まではべとついた、貴族的な、女性のもったいぶり的なところが倦厭の基になっていたが、こと人類と自然の壮絶な営みになると短歌は十分な働きをするんだなと改めて思います。

三十一文字でやっとの表現じゃないか!

俳句は短すぎる感じだね。

この短歌を俳句で表現はできないよ。

いろんな文学ジャンルも適材適所みたいなところがあるということでしょうね。

いい見直しの機会を戴きました。

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もともと俳句は、五七五+七七の和歌から派生した連句俳諧の発句が独立したものである。発句には必ず季語を入れる慣わしだったので、現代無季俳句はそれとして、普通俳句は季語、季感というものを大事にする。

俳句をやり始めて以来、五七五の中で、あとの七七を言わずして読者に想像してもらえる省略の効いた俳句を作りたいものだと思って来た。


先日、短歌は少々まどろっこしい、説明が長すぎる等と言い切ってしまったが、先日の「朝日歌壇」を読んで、前言は少し言いすぎ、舌足らずな意見であると考え、本文に至るのである。


月曜日に掲載される朝日歌壇になんと3人の選者が同じ歌を採っているという異例の歌を発見した。震災を詠んだ歌である。



ペットボトルの残り少なき水をもて位牌洗ひぬ瓦礫の中に 吉野紀子


うん、成る程。ジンと来る感動的な歌である。

俳句ではとてもこれだけの説明はできない。

想像させる余地なく、言っていることがすべて腑に落ちてくる。

その他に、これも2人の選者が採った歌があった。


遺体運ぶ要請うけし搬送車パンと水積みて被災地へ向う 山村陽一


遺体を運ぶ車が生命の源の物資を運ぶという皮肉な写生で哀しい。

滅多に短歌を見ない筆者も、短歌というのはこういうものかと改めて感じたことだ。

同日の「朝日俳壇」に震災の句にこんな句があった。


地震(ない)津波棄郷の民へ花吹雪   時田氏(金子兜太選)


穀雨にもまめに割込む余震かな     板坂氏( 同 )

 

短歌は言うべきことを全て言って、感情を誘っている。

俳句は、場面をポンと置いて細かく説明せず、読者の解釈に任せている。



短歌は真面目だ。

俳句は、こんな悲惨な場面でも諧謔、客観がある。



短歌は、この歌の場合、季語を入れておらず季感はない。

俳句は、無季俳句容認派の金子兜太でさえ、季語の力を知って利用評価している。

この句の場合も、花吹雪と穀雨が短歌の背景説明に代わってよく働いている。

 

短歌が俳句に比べまどろっこしいというより、全く別の文芸に進化していると思うに至った。

共通しているのは日本語としての五・七のリズムだけと言ってよいかと思えて来た。

私に俳句を紹介してくれた「IH」さんはホトトギスの同人だが、詩作もされている。

句会のときに自作を朗読されたので知った。

彼に「俳句は省略にあるとか、季語を信頼して俳句を作るとよい、季語を修飾するような無駄な俳句を作るな」などと、およそ、「詩」とは真反対の「俳句という詩」を教わったものだから、私の中で俳句と詩が両立するのかという疑念や混乱があった。

司法書士の職を娘婿さんに譲り引退後に「詩集」を刊行され私も一冊いただいたが、皮肉なことに彼の教えのおかげでまどろっこしい気がしてまだ読まずにいる。彼の句集は多分ないと思う。

 

会社の営業所の大家さんの奥さんが俳句をやっておられることを30年間も知らなかった。

私も駆け出しですが俳句を始めたのですとちょっとお話したら、早速、近刊の句集を一冊戴いたことがある。津山出身の「西東三鬼」の流れを汲む現代俳句で素晴らしい感性の句集であった。

こちらの句集は、すぐにすっかり目を通し書き出したりしたものだから、えらい違いだと自分でもおかしくなったことだった。

 

誰かが言っていた。

俳句を始めてみると、短歌和歌の五七五の後に付く七七がなんとも冗長で説明的になる。

七七を省略して、読者が想像する余地を与えてあげる俳句、自分はその道を採りたい。

どうやら私もその口であるようだ。

 

震災のような大きな出来事を一句をもってすべてを表すことは到底出来ない。

それでも、少しでも気持ちを表しておきたいという思いに駆られる。




三月の海見晴るかす読経かな(前作)

三月の海見晴るかす祈りかな

三月の海に流るる読経かな



いつか、震災の句を確定したいものだ。

昨日、東電の賠償枠組みが発表された。

先立って11日に、米国戦略国際問題研究所のジョン・ハレム所長が日経新聞に警鐘を寄稿している。東電の「上限無し」賠償は、日本の原子力産業を損なうというものだ。

市民や政治が抱く憤りは分かるが、上限のない賠償では、日本のみならず世界の投資家は原子力産業に対するリスクには耐えられない。東電のみならず日本の原子力産業の信用は消し飛んで世界の原子力市場にも影響を与える。

米国が導入した「原子力損害賠償制度「プライス・アンダーソン法」のような制度の導入の検討を含め原子力産業に安全と信頼を求めることとバランスする投資家への配慮を考えるべきで、拙速な判断は問題がある、という意見だ。

 

勿論、原子力産業ありきの論である。

私は、そのことも含めた冷静な判断をすべきであり、当面の賠償のスタートは即刻暫定実施をすべきであると考える。

どうもそこのところを混同して、直にやるべきことと、じっくり将来を構えるべきところを混同しているように思えて、現政権の判断に不安を感じている。

いずれにしても、賠償制度などに基づかない上限のない賠償を前提にした東電の賠償などというのは言語道断と思える。時間がかかる論を目先で逃げているポピュリズムに走っている。

いずれ、有限賠償という話になり、あの時はその場逃れの判断だったことが露呈するであろう。

9.11の首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンは、現地時間の2日午前1時(日本時間同日午前5時)頃に実行された作戦で殺されたようだ。
ジュリアーノ市長の記事を書いて間もなくだったから少々不思議を感じた。

他国(パキスタン)でアメリカの作戦部隊が同国に知らせず作戦実行できる不思議を感じる。昔、金大中氏がKCIAによって大阪から拉致されて韓国へ運ばれたが日本政府は何も出来なかったと同じことだ。

これから、テロリスト集団の報復作戦はどうなるだろう。
北アフリカでの独裁者への民衆のアピールの様子を見ると、カミカゼ的なテロ作戦が今後にわたって有効な作戦であり大方の賛同と共感を得られるかどうか、時代が変わりつつあるような気がする。


9.11の時、ニューヨーク市の市長だったジュリアーノ氏のスピーチの内容が話題になっていた。

とんでもない災害の時にその地の行政の長は何をい言ったか。

復興への道筋は、何よりその地に世界中から人が来て励まし、金を落としてくれるのが一番だと言ったに相違ないはずだ。

金は天下の回り物、人の元気も天下の回りものだと私も思う。



ジュリアーノ元市長のスピーチの原文を探してみた。

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On Saturday night, I walked through Times Square. It was crowded; it was bright; it was lively. Thousands of people were visiting from all parts of the United States and all parts of the world. And many of them came up to me and they shook my hand and patted me on the back and said, "We're here because we want to show our support for the city of New York."

And that's why there's never been a better time to come to New York City. I say to people across the country and around the world: If you were planning to come to New York sometime in the future, come here now. Come to enjoy our thousands of restaurants, the museums and sporting events and shopping and Broadway; but also come to take a stand against terrorism.

土曜日の夜タイムズスクエアを通った。

そこは人で一溢で、明るく、生き生きとしていた。

全米各地からそして世界中から何千人もの人が訪れていたのだ。

そして、大勢の人が私に握手を求め、私の肩を叩いてこう言う。

「私たちはニューヨークを支援したくてここに来ているのです。」

そして、今ほどニューヨークへ来る良いタイミングはないとも思うのです。

私はこの国を行き来している人、そして、世界中の人に言いたい。

もし、いつかニューヨークへ行ってみたいと思っているなら、今、来て下さい、と。

数多くのレストランや美術館で楽しみ、スポーツイベントや買物やブロードウエイを援けるために来て楽しんでください。

そして、それはテロリズムに対して立ち上がるためにもなるのです。 (筆者訳)

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同じことが東北大震災にもいえる。

東北に行ければなお良いが、自分の住んでいるところで平常な生活、活動をすることが一番だと思う。

自分が自粛を止めることだ。

自分から風評を吹き飛ばして、普通の生活を取り戻すことだ。

芭蕉と曽良は、1689年陽暦5月16日(陰暦3月27日)(以下陽暦表示)に、江戸深川を出立し奥州を一周する旅に出る。

日光を経て6月後半に東日本大震災の地、福島、仙台、松島、石巻、登米、一関などを歩き、尾花沢から日本海側の酒田へ出て、越後越中を通り山中温泉へ着いたのが9月の10日、17日まで泉屋久米之助宅へ逗留している。

そこで、上記の紀行文にあるとおり曾良と別れて、小松、敦賀、関が原から終着地の大垣へ10月3日に着く。大垣を出立する10月18日までの156日間を「奥の細道」の旅としている。約2400キロの旅の紀行文と俳句を残した。

芭蕉はこの旅の3年後に亡くなるが、芭蕉自筆の原本を基に旅から13年後の1702年に「おくのほそ道」として出版され今の私たちにこれを残してくれた。

 

奥の細道に書かれた発句62句のうち芭蕉の句は50句、曾良の句が11句、低耳1句である。推敲途上の自筆草稿本の注釈をつけている全句を、句だけだが紹介しているネットがあったので、私も読みがてら転記して紹介する。

今の時代はありがたいことだ。30秒で奥の細道全句を知ることが出来る。

ふり仮名も振ってあって読みやすい。

背景の理解や深い解釈は解釈本によらなければ分からないことは当然である。

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草の戸も住み替る代ぞ雛の家
行く春や鳥啼き魚の目は泪
あらたふと青葉若葉の日の光
(「あなたふと青葉若葉の日の光」  自筆本 )
剃り捨てて黒髪山に衣更            
(曾良)
暫時(しばらく)は滝にこもるや夏(げ)の初め
かさねとは八重撫子の名成るべし        
(曾良)
夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉
木啄も庵は破らず夏木立
(「木啄も庵はくらはず夏木立」  自筆本 )
野を横に馬牽(ひ)きむけよほととぎす
田一枚植ゑて立ち去る柳かな
(「水せきて早稲(苗)たはぬる柳陰」 次に「柳哉」と訂正、
 そして貼紙して「田一枚」の句をその上に清記  自筆本 )
卯の花をかざしに関の晴着かな         (曾良)
風流の初めや奥の田植歌
世の人の見付けぬ花や軒の栗
(「目にたゝぬ花を頼に軒の栗」に貼紙をして、「世の人」の句  自筆本 )
早苗とる手もとや昔しのぶ摺
笈(おひ)も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)
(「弁慶が笈(おひ)をもかざれ帋幟(かみのぼり)」  自筆本 )
笠島はいづこ五月(さつき)のぬかり道
桜より松は二木(ふたき)を三月越し
あやめ草足に結ばん草鞋の緒
松島や鶴に身をかれほととぎす         
(曾良)
夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛(しらが)かな     
(曾良)
五月雨の降り残してや光堂
(「五月雨の」の句はなく、次の二句あり。
 「五月雨や年々(としどし)降りて五百たび」
 「螢火の昼は消えつゝ柱かな」  自筆本 )

蚤虱馬の尿(しと・ばり)する枕もと
涼しさを我が宿にしてねまるなり
這ひ出でよ飼屋(かひや)が下の蟇(ひき)の声
眉掃(まゆは)きを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉     
(曾良)
閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉の声
五月雨をあつめて早し最上川
有難や雪をかをらす南谷
(「めくら」を消して、「かほら」(かをら)に  自筆本 )
涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰幾つ崩れて月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな
湯殿山銭ふむ道の泪かな            
(曾良)
温海(あつみ)山や吹浦(ふくうら)かけて夕涼み
暑き日を海に入れたり最上川
(「暑き日を海に入れたる最上川」  自筆本 )
象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花
汐越(しほごし)や鶴脛(はぎ)ぬれて海涼し
象潟や料理何くふ神祭             
(曾良)
蜑の家(あまのや)や戸板を敷きて夕涼み   
 (美濃の国の商人低耳・ていじ)
(「蜑の家に戸板敷てや夕涼み」に貼紙して  自筆本 )
波こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣    
(曾良)
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天の河
一家に遊女も寝たり萩と月
早稲の香や分け入る右は有磯海

塚も動け我が泣く声は秋の風
秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子
あかあかと日は難面(つれな)くも秋の風
しをらしき名や小松吹く萩すすき
むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
石山の石より白し秋の風
山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ
行き行きてたふれ伏すとも萩の原        
(曾良)
今日よりや書付消さん笠の露

終宵(よもすがら)秋風聞くや裏の山      (曾良)
庭掃(はい・はき)て出でばや寺に散る柳
物書(かい・かき)て扇引きさく余波(なごり)哉
月清し遊行の持てる砂の上
(「露」に貼紙して「月」  自筆本 )
名月や北国日和定めなき
寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
浪の間や小貝にまじる萩の塵
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ


「閑話休題」の意味を長い間取り違えていた。

閑話を休題にして本題に戻そうというのがどうやら正解で、今の話題を休題にしてちょっと息抜きの閑話だが・・・、というのは間違いだそうだ。

 

閑話休題。


もうひとつ意味を取り違えていた話だが、ある句会でこんな句が点数を取った。

あと三里傾ぐしるべの遍路道  生野菜
これに、「さあ後三里、同行二人の旅は続く。 鯨」と評された。

さてこの「同行二人」である。

読者は、これをどう読んで、どういう意味だかご存知だろうか?


私は、この意味を「同行者とふたり連れ」の意と思っていたのだ。
ところが、お遍路さんの場合の笠などに書いている「同行二人」とは、いつも弘法大師さんがついて一緒に歩いてくれているということであったのだ。

しかも、「どうこうににん(ふたり)」でなく、「どうぎょうににん」と読むのだった。

何故そう思い込んでいたかというと、私には、芭蕉の「奥の細道」の山中温泉の下りが頭にあったからだ。その原文を引くと、

 

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曾良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に、
行行てたふれ伏とも萩の原             曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ残ものゝうらみ隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。

予も又
今日よりや書付消さん笠の露
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この句の解釈をネットで見るとこんな具合だ。
「笠に書き付けた「同行二人」は、曾良を介添えとして修行の旅を続ける意。
その曾良が病を得て修行の旅から離脱するにあたり、これまでの曾良の心遣いに謝意を表するとともに、笠についた朝露で「同行二人」の書付を消し、一人行脚する覚悟を語った句。」


書付とは笠に書いた「同行二人」の文字のことなので、私は、芭蕉と曽良の二人連れとばかり思っていて、お遍路でも傘に同行二人という書付をすることを知らなかったのだ。

(もう少し触れておくと、芭蕉は「衆道」であったという嵐山光三郎著「悪党松尾芭蕉」を興味深く読んだことがあったので、同行二人とかこの句がそうだなどと俳句の中にそんなにおいを見つけようというような邪念があったことも禍している)

 
しかし、今になってよく考えて見ると、辞書には、同行(どうぎょう)とは、「心を同じくしてともに仏道を修める人々」とあるし、芭蕉と曽良の場合も単なる二人連れの意味で「同行二人」と書き付けたのではない。

やはり「どうぎょうににん」と読む修行の意味を強く持っていたのだと気づいた次第で、後の祭りだと判じた次第だ。