もともと俳句は、五七五+七七の和歌から派生した連句俳諧の発句が独立したものである。発句には必ず季語を入れる慣わしだったので、現代無季俳句はそれとして、普通俳句は季語、季感というものを大事にする。

俳句をやり始めて以来、五七五の中で、あとの七七を言わずして読者に想像してもらえる省略の効いた俳句を作りたいものだと思って来た。


先日、短歌は少々まどろっこしい、説明が長すぎる等と言い切ってしまったが、先日の「朝日歌壇」を読んで、前言は少し言いすぎ、舌足らずな意見であると考え、本文に至るのである。


月曜日に掲載される朝日歌壇になんと3人の選者が同じ歌を採っているという異例の歌を発見した。震災を詠んだ歌である。



ペットボトルの残り少なき水をもて位牌洗ひぬ瓦礫の中に 吉野紀子


うん、成る程。ジンと来る感動的な歌である。

俳句ではとてもこれだけの説明はできない。

想像させる余地なく、言っていることがすべて腑に落ちてくる。

その他に、これも2人の選者が採った歌があった。


遺体運ぶ要請うけし搬送車パンと水積みて被災地へ向う 山村陽一


遺体を運ぶ車が生命の源の物資を運ぶという皮肉な写生で哀しい。

滅多に短歌を見ない筆者も、短歌というのはこういうものかと改めて感じたことだ。

同日の「朝日俳壇」に震災の句にこんな句があった。


地震(ない)津波棄郷の民へ花吹雪   時田氏(金子兜太選)


穀雨にもまめに割込む余震かな     板坂氏( 同 )

 

短歌は言うべきことを全て言って、感情を誘っている。

俳句は、場面をポンと置いて細かく説明せず、読者の解釈に任せている。



短歌は真面目だ。

俳句は、こんな悲惨な場面でも諧謔、客観がある。



短歌は、この歌の場合、季語を入れておらず季感はない。

俳句は、無季俳句容認派の金子兜太でさえ、季語の力を知って利用評価している。

この句の場合も、花吹雪と穀雨が短歌の背景説明に代わってよく働いている。

 

短歌が俳句に比べまどろっこしいというより、全く別の文芸に進化していると思うに至った。

共通しているのは日本語としての五・七のリズムだけと言ってよいかと思えて来た。