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■愛の夢チャリティーコンサート領収書がそろいました。ご協力感謝!
※文中、赤い字でひとこと追記しました。
ハンガリーの先生方は
いつも認めてくださっていて
日本の先生の評価や
自分のイメージと違い過ぎて
びっくりすることもありました。
30代半ば、
2番目の先生から3番目の先生に
直接ご紹介頂いた時
(偶然、某所での講演の休憩時に
お会いして)
私のことを、
『野谷さんだ。私の生徒だ。』と
仰るのだと思ったら
『野谷さんだ。とても良いピアニストだ。』と
紹介してくださったのも
びっくりしましたし、
その後任の先生に
レッスンを受けるようになって
しばらく経ってから
『君は自分の部屋で
自分の為にピアノを弾いていてはいけない。
どうやったら
ステージでオーディエンスのために
弾く機会が得られるかを
もっと考えなさい。』
と言われてびっくりしました。
コンクールを勧められもしましたけれど
色々あって
(経済的なこと、健康上のこと、
何より自分を信じられなかったこと)
身動きできず、
勧められた海外のコンクールは
とうとう一度も受けませんでした。
東京のコンクールも
本格的なコンクールを受けられたのは
先生方がハンガリーへ帰国されて
何年も経ってから
もう、40歳になる直前、
これもいろいろあって
やっと必死に受けて、、
(当時は今の大手の音楽団体、Pも、Jも、Tも、なかった頃です)
本当は50代になってからではなく
不十分でも30代のうちに
もっともっと
そういう活動をするべきだったのかもしれませんが
色々な事情でできなかったのです。
ただ、
思うのは、
30代のうちにもっとそういうことができて
演奏の場が沢山得られて
もっと活躍できていたら
今の音色は出せなかったということ。
40代でさえ
コンサートの録画を見ると、
確かに
20代の頃とは別人に
技術的には弾けていたけれど
音は今より硬かったのです。
そして、
レッスンする上でも
特に楽な弾き方に関しては
今、伝えられている
伝え方はできなかったと思います。
病気や経済的なことや
色々なことに
押しつぶされそうになりながら
身動きできなかった時期に
沢山のことが分かった・・というか、
30代~40代前半で学んだことが
消化吸収できて
醸造発酵するかのように
複数の先生方の教えを
統合や分析ができて、
それを一生懸命に
自分が生徒に教えながら
さらに実際に自分の体で弾きながら
考える時間があったから
自分の演奏も
レッスンも
変わっていき、
常識では無理な生徒を
短期間で音大に入れたり、
音大の大学院まで卒業されていても
ピアノを弾くことは
手が痛いのを我慢することだった
という方を治せたりというように
大きく変えられるようになったと
言えるかもしれません。
一人の人間が
総ての面において完璧などということは
あり得ないから
十分できなかったことや
失敗もあったでしょうけれど、
それでも
楽な弾き方や
感動できる表現のコツといったことが、
専門家からびっくりされるほど
伝えられるようになったり、
自分の音が大きく変わったのは、
思うに任せない時期に
学びを消化吸収・醸造発酵できたことや
それを注ぎ込んで教えることから
学んだことなどが
あったからこそではないかと考えます。
そう考えれば
無駄に思える
思うに任せなかった長い年月も
必要な時間だったと言えるのかもしれません。
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Megumi(野谷 恵)