ボルドー、ワインの歴史 その5 | ろくでなしチャンのブログ

ボルドー、ワインの歴史 その5

            ボルドー、ワインの歴史 その5

 

 

 16世紀頃、メドックは「ソヴァージュ・エ・ソリテール~Sauvage et Solitaire~未開で寂しい地」と呼ばれており、貴族達の狩猟場として使われる程度だったとされます。森と沼地の荒れ果てた土地で、道路も無く、マルゴー、サン・ジュリアン、ポイヤック、サン・テステフの各地区への移動手段は船しかなく、それぞれ小さな港や波止場があった程度であり、土地所有者の多くは不在地主だったと言われます。

 1599年になってフランス王アンリー四世はオランダの土木建築業者ハンフリー・ブラッドリーにフランス全土の沼地干拓の許可を与えますので、メドックの干拓が始まるのは17世紀からとなります。

                    メドックの変遷1 地勢と干拓 こちらへ

 

 それでは、村名AOCの格付けシャトーの最も古い歴史(創設時期とオーナー)をみてみましょう。但し、各シャトーの正確な資料が得られておりませんので推測程度とお考えください。

 

St´ESTEPHE(サン・テステフ)
 

PAUILLC(ポイヤック)

 

シャトー・グラン・ピュイ・ラコスト 詳解はこちらへ
 15世紀 ドゥ・ギロー 18世紀 1750年 ピエール・デュカス取得

シャトー・グラン・ピュイ・デュカス 詳解はこちらへ
 15世紀 ギロー家

 

Saint Julien(サン・ジュリアン)

 

シャトー・デュクリ・ボーカイユ 詳解はこちらへ
 15世紀~1446年 フォワ・ド・カンダル家 1666年ベイシュベルから分離

シャトー・ラグランジュ 詳解はこちらへ
  13世紀~1287年 テンプル騎士団の荘園

シャトー・ベイシュヴェル 詳解はこちらへ
 15世紀
~1446年 フォワ・ド・カンダル家

               18世紀~1757年 ブシェ・ド・ビュド公爵取得

シャトー・ブラネール・デュクリュ 詳解はこちらへ
 15世紀~1446年 フォワ・ド・カンダル家 1666年ベイシュベルから分離

 

Margaux (マルゴー)

 

シャトー・ラスコンブ こちらへ
 12世紀~1152年(シャトー・ディッサンの一部)

シャトー・デュルフォール・ヴィヴァン こちらへ

 14世紀 デュルフォール・ド・デュラ伯爵 

シャトー・ディッサン  こちらへ

 12世紀~1152年 判明はセギュール家

シャトー・キルヴァン  こちらへ

 12世紀~1147年    18世紀~1710年(マーク・キルヴァン)取得

シャトー・パルメ  こちらへ

 14世紀 デュルフォール・ド・デュラ伯爵(葡萄栽培17世紀?)

シャトー・プリューレ・リシーヌ こちらへ
  12世紀 ベネディクト会葡萄栽培

シャトー・ドーザック こちらへ

  12世紀OR13世紀?

 

 サンテステフは、格付けシャトーの葡萄畑が見られません。ポイヤックで15世紀からギロー家が、サン・ジュリアンではカンダル家がシャトー・ベイシュベルの基礎を作ったようです。マルゴーではデュルフォール・ド・デュラ伯爵の名前が現れています。他に見られるシャトーもそうですがワイン造りを行っていたのか、単なる所有だけだったのか不明です。

 

 いずれにしても16世紀には、村名AOC地区に於ける葡萄栽培は殆ど行われておらず、シャトーで造られたワインに独自の名前(シャトー名)を付けて販売するのは1660年のポンタックのワインの出現を待たなければなりません。

        ポンタックのワイン物語 その1 こちらへ  


 

シャトー・マルゴー

 

 10世紀にはラ・モテー~ La Mothe、12世紀にはラ・モット・ド・マルゴ~La Mothe de Margauxと呼ばれていた地所を1572年~1582年の間に、ピエール・ド・レストナックは買い集め、必要により土地の交換を行い、1区画にまとめ上げます。

 小麦等を植えていた畑を葡萄樹を植え替えてワイン生産主体に切り替えます。

 シャトー・マルゴーの所有者レストナック家(フュメル家)は、「オー・ブリヨン」も1694年に3分の2(フランソワ・ジョゼフ・ド・フュメル)取得しています。

 

 

シャトー・ラトゥール

 

 一帯は14世紀頃から葡萄栽培が行なわれていたと言われ、共同所有者が小作農民から地代を受け取る共同領主の土地だったとされます。1595年にアルノー・ド・ミュレが領主や周辺の小規模農園から葡萄畑を買い集めます。アルノーの息子ドニは微小な所有地を合併し、さらに隣接する土地を購入して、1650年までには、小さな土地の寄せ集めだった領地を、管理人の経営する地所に変え、シャトー・ラトゥールの基礎を築きあげます。
 ドニ死亡よりドレード・ド・レストナックの一族に受け継がれます。レストナック家は前記シャトー・マルゴーを所有していましたから、メドックで最初に葡萄園の経営を始めた一族と言う事が出来るでしょう。

 

 1670年にはルイ14世の秘書だったとされるジャバンヌ家が取得し、1678年には婚資としてクロゼー家にもたらされます。

 やがて1695年、クロゼー家のマリー・テレーズ・ド・クロゼー~Marie Thérèse de Clauzelの婚資としてアレキサンドル・ド・セギュール侯爵~Alexandre de Ségur がシャトー・ラトゥールを取得することとなります。

 

 

シャトー・ラフイット

 

 ガスコーニュ語の古語で「小高いところ」を意味するラ・イット~La Hiteと呼ばれる地所は1572年当時、60ほどの小作地からなっており、主に小麦が栽培されていたとされます。この地所を1670年代から1680年代始めにかけて買い集めワインの生産を本格化させたのが、ジャック・ド・セギュールです。

    (別説 アレクサンドル・ド・セギュール候が1716年に購入)

 ジャック・ド・セギュールの資産はアレキサンドル・ド・セギュール侯爵に引き継がれたため、シャトー・ラフイットとシャトー・ラトゥールがセギュール家のものとなります。

 

 シャトー・ラフイットはポイヤック村のサンテステフ寄り、つまり北端に位置し、シャトー・ラトゥールはポイヤック村の南端、サンジュリアン村近くに所在しますが、この時代シャトー・ラフイットとシャトー・ラトゥールは明確に区分けされていなかったものと思われます。独立したシャトー経営が為されていなかったからです。

 これらのワインは評判も良かったようで、アレキサンドルの息子ニコラ・アレキサンドル・ド・セギュール侯爵(1697-1755)がワイン造りの技術改善に積極的に取り組んだとされます。

 

シャトー・カロン・セギュール

 ニコラ・アレキサンドル・ド・セギュール侯爵は1718年、ジャン・ド・ガスクの娘と結婚し、婚資としてシャトー・カロン・セギュールを取得します。

 

 

シャトー・ムートン

 

 歴史は明らかではありません。一説には13世紀まで遡るとするものもありますが、葡萄栽培の歴史は不明です。1718年にニコラ・アレキサンドル・ド・セギュール侯爵が取得したとされ、シャトー・カロン・セギュールと同様ジャン・ド・ガスクの娘との婚資としてもたらされたものか、ラフィットと地続きの地所であるシャトー・ムートンを買収したのかは不明です。

 後にムートンはジョゼフ・ド・ブラーヌ男爵が取得し、「シャトー・ブラーヌ・ムートン」と呼称し、1853年、ナタニエル・ドゥ・ロートシルトに売却され、シャトー・ムートン・ロートシルトと変わります。

 因みに、ブラーヌ男爵家はムートンを売却し「カントナック」を取得しています。一説にはセギュール家の地所の一部が分割され、同地を取得(少なくとも1725年以前)との記述も見られますが、セギュール家が一代帝国を造り上げる過程での売却は考えにくいところですが、葡萄畑の交換用地としての可能性は若干残ります。

 

 

シャトー・ディッサン

 

 マルゴー地区の「ラ・モットゥ・カントゥナック」と呼ばれていた地所で、15世紀には「シャトー・テオボン」と呼ばれていた、シャトー・ディッサンも年代は不明ですが、セギュール家が取得していたようです

 

 1152年の、後のヘンリー2世とエレオノール妃との結婚式に使われたワインだったとか、14世紀には、今日のシャトー・マルゴーと並ぶ2大シャトーであり、15世紀には「テオポン」と呼ばれていた等の記述も見られますが、シャトー・マルゴーが造られたのはどんなに頑張っても16世紀末であり、1152年の結婚式にシャトー物として供されていたとの説は無理がありすぎるのでは。

 

まとめ

 

  ニコラ・アレキサンドル・ド・セギュール侯爵は、シャトー・ラトゥール、シャトー・ラフイット、シャトー・ムートン、シャトー・カロン・セギュールを所有していたことになります。これら広大な葡萄畑を所有していたことにより「葡萄の王子」のニック・ネームを得たのでしょう。

 しかし、1755年に死亡し4人の娘達に受け継がれ、初めてそれぞれ独立したシャトーとなったものと思われます。

 場合によりシャトー・ディッサンやシャトー・パルメも所有していたのかもしれません。シャトー・パルメはシャトー・ディッサンから分割されていますので・・・・・。

 

ぶどう 5代シャトーの内、4つまでが登場しておりますのでグラーヴのシャトー・オーブリオンを見てみましょう。

 

 葡萄栽培の記録としては、1423年のものが残されており、畑は1509年にジャン・ド・セギュール~Jean de Ségurが取得しています。このセギュールとニコラ・アレキサンドル・ド・セギュール侯爵との関係は不明です。

 1525年4月、ネゴシアンであったアルノー1世・ド・ポンタックの息子、

ジャン・ド・ポンタック(1488年~1589年)はオー・ブリオン領主であり、リブルヌ市長の娘であるジャンヌ・ド・ベロンと結婚し、シャトー・オー・ブリオンの地所を婚資として取得し、1550年にはワイン醸造専用のシャトーを建設したとされます。

 さらに、ボンタック家はサンテステフ、ル・タイヤン、バ・メドックの地所をも手に入れていきます。

 いずれにしても、メドックのワイン造りは、1500年代末から1600年代半ばにかけて、シャトー・マルゴー、シャトー・ラフィット、シャトー・ラトゥールが先行したものと思われます。

 

 

ボルドー、ワインの歴史 その1 こちらへ
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ボルドー、ワインの歴史 その3 こちらへ

ボルドー、ワインの歴史 その4 こちらへ

 

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