死後のことをも思い煩うことなく今を過ごす一つの方法 | 年金に頼らない生き方

年金に頼らない生き方

夢を語るには人生を重ねた高齢者こそふさわしい

還暦以後の生活設計が、年金だけでは窮屈になることが分かり、遅まきながら年金に上乗せする収入の道を作るために試行錯誤しつつも、会社設立までたどりついた経過を紹介します。


こんにちは、
「夢・実践塾」の中村です。


一般に西洋では
死に臨んで、いかに平穏な気持ちを維持するか、
という視点で語られることが多いようですが、

日本ではそれに加えて、
その根底に流れる別の感情があるように思われます。

「武士道」(新渡戸稲造)の中に見る他者への配慮のように、
残された人たちの心に悔いを残さない準備をする、
という視点が受け継がれている気がします。



最近よく目にするようになった「終活」のありかたに
その視点があるでしょうか?



私たち団塊の世代は生まれてから今日の今まで
常に商業マーケットのターゲット世代であり続けています。

ベビーブーマーは現代っ子と呼ばれる前から
常にマーケットのボリュームゾーンの一角を占めてきました。

その世代が還暦を通過するころになると
「終活」なる言葉が聞かれるようになりました。

しかし、そこにも商業マーケットとしての視点が絡んだ
ビジネスが混じりこんでいることには注意しておきましょう。



「終活」の内容自体はさまざまですが、
勉強になることもあります。

気づかなかったけれど大切な準備項目などもあり、
整理するには便利です。

しかし、
重要な視点が抜けているように感じるのは私だけでしょうか?



私は
還暦からの時間を思い煩うことなく過ごす方法という視点で
さまざまな事例や対策法を集めたりまとめたり、考えたりしています。


「終活」もその中の一つなのですが、
前述のとおり商業マーケットに乗せられた「終活」には
デジタル処理のような深みのない表面的な対策処理、
ノウハウ提供で終わっている例が多いようです。


それらのあれこれを整理し終えてすっきりしても、
自分だけの満足感だけでは真の「終活」とは言えないのではないか、
という気がするのです。


逝くときは一人ですが、
最後をまとめてくれるのは残った人たちなのです。

残された人たちの心に何の憂いも、心残りも、悔いも、
残さないように手当してはじめて「終活」が完成する
のではないかと思うのです。


じつは、自分で実際にやり始めてみると
この手当こそが自分の残りの時間を充実させてくれることにもなる
と気づきました。



人生最初の一回りを経験し、
還暦の声を聴く人たちのほとんどは
身近な人の「死」に触れ、葬儀参列を経験していますね。

そのような場面では、残された人たち
(家族や親類縁者だけでなく、親しかった身近な人たち)の
声を聞く機会があったことと思います。


ちなみに私は家族との死別の経験はありません。
祖父母は生前あるいは物心つく前に亡くなっていますし、
私を杖代わりに散歩する100歳目前の両親もいます。


しかし、学生時代の一時期をお寺で生活していたこともあり、
葬儀に触れる機会は普通の人よりははるかに多かったと言えます。


そのお寺で、
ある葬儀を手伝っていたとき、耳に残った言葉があります。

45年も前のことなのですが、その言葉とその日の情景は
折に触れ鮮明に浮かんできたものです。


蝉の鳴く声だけが大きかった静かな真夏の陽射しの下で、
セーラー服で参列していた高校生らしい子が
独り言のようにつぶやいたのが聞こえてしまいました。

「お父さんは幸せだったかな」
「お父さんの夢は何だったんだろう」

この言葉と、
お母さんらしき女性が無言でその女学生の肩に手をまわした情景は、
その後、年齢を重ねるごとに
さまざまな意味を持って思い出されることになりました。


耳にしたそのときは、
お父さんが亡くなったのか、
これからさびしくなるんだ。
お父さんも残念だったろうな・・・

感想は単純でした。

社会人になって結婚を考えるころは
その子のお母さんがそっと肩に手をまわしていた光景が
目に浮かび、お母さんとその子の暮らし向きが思われ、

我が子ができるころは、
子供たちが成人するまでは健康にはもっと気をつけて
子供たちにさびしい思いをさせないように責任を持とう。

そのように心がけて生活しました。
単純です。

また、
自分の子供たちが当時の彼女と同じくらいの年ごろになるころは
あの子は自分の進学や生活のことよりも
お父さんのことに思いをかけていたのだ。
社会人になってもどこにいてもその心配りで
必要とされる人になっているだろう、
と感心したこともありました。


そして、


還暦を過ぎて「終活」対策に取り掛かろうかという歳になると
その言葉と情景を
はじめて、逝く者としての目で解釈するようになりました。


残された人たちに悔いを残さないように逝くためにはどうするか、
という視点でした。

いわゆる多くの「終活」では触れていない部分です。



残された人というのは、
家族や親しくおつきあいしてきた身近な友人たちです。

その人たちが解決できないような問いとは、

たとえば子供たちが
「お父さんは幸せだったかな」
というような、
故人が答えてくれたら自分の気持ちが安らぐような
しかしもはや誰にも埋めてもらえない心残りです。

永遠に答えがもらえない問いです。

また、たとえば親しかった身近な友人たちが
「故人は悔いがなかっただろうか」とか
「故人は幸せな人生だっただろうか」
というような、
そんな思いが残る問いです。

そのような「問い」は永遠に問いのままで残る
「悔い」の入り混じった感情です。


残される人たちに答えのない問いを抱えさせたくありません。



そこで、私は逝く者として解決策を考え、
仮に対策を立ててみました。

残された人に答えが出ないような問いが出されないようにしておこう。


そのためには、今のうちから
「問い」に応えておくこと。
「悔い」の感情を持たれないように手当しておくこと。


「私は何も悔いはない。」
「こうして毎日を過ごしている今が幸せだ。」
と、
残される人たちに伝えておくことが
「終活」の究極だと仮定してみたら、

さらに大切なことが目の前に現れてきました。

このように仮定した時、
自分自身に残されている時間の意味にも変化が生じたことです。




伝えるだけでは足りないのです。

「本当に幸せな人生でしたね」と
心の底から言ってもらわなければなりません。


そのように言ってもらえるような時間を過ごすことが
求められるのです。



では、残された人たちから
「幸せな人生でしたね」と
心から言ってもらえるような過ごし方とはどのようなものか、

と考えれば、
なすべきことが見えてきます。

なすべきこととは、
自分自身が幸せだと思うことをすることです。


それができてはじめて「終活」が完成するのかなと考えています。



さて、

なすべきことが具体的に見えてきたのですが、
どこから手を付ければよいのか・・・

テーブルの上には問題集が山のようになっています(笑)



これらをすべて処理できれば・・・

還暦からの自分の時間を
思い煩うことなく楽しく過ごすことができ、

残された人たちからも
「幸せな人生でしたね」と言われることでしょう。



自分の死を具体的にイメージすると
生きることの本当の意味が見えてくるようです。

善く生きるってむずかしい!

残り時間、間に合うか?




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