今回もリクエスト企画ですニコニコ飛び出すハート

札幌もみじ

通り魔殺人事件

1985年

通り魔殺人事件」とは、警察庁によると、「人の自由に出入りできる場所において、確たる動機がなく通りすがりに不特定の者に対し、凶器を使用するなどして、殺傷等の危害を加える事件」を言います。
 

今回は、「1985年の札幌もみじ台 通り魔殺人事件」のリクエストをいただきましたが、1980年代には現在よりも通り魔殺人事件が多く発生していました。

そのうち、リクエストくださった事件を中心に、よく似たもう一件の通り魔殺人事件も加えて見ていきます。

 

【1985年 札幌もみじ台 通り魔殺人事件】

 
朝日新聞(1985年9月3日)
 
1985(昭和60)年9月2日午後6時45分ごろ、札幌市白石区(1989年の分区で現在は厚別区)もみじ台にあるもみじ台ショッピングセンターの北西出入り口踊り場付近で、1人で本を買いに来て帰ろうとしていたもみじ台中学校3年の海藤恵子さん(当時15歳)が、背後から来た中年男性にいきなり胸や腹を包丁で刺され、間もなく失血死しました。
 
毎日新聞は目撃者の話として、「恵子さんはショッピングセンター内で男に追いかけられ、店外へ逃げたが踊り場付近で追いつかれ、腕で首を絞められたうえ、持っていた包丁で、わき腹を刺された」と報じています。
 
もみじ台団地に囲まれたショッピングセンター
北側のもみじ台北6丁目に
恵子さんの住む郵政官舎があった
 
ショッピングセンターの北西出入り口
階段の上の踊り場が刺された現場
(写真は現在)
 
犯人はそのまま逃走しましたが、殺人事件として男の行方を探していた警察は、9月6日になって近くに住む無職のA男(同42歳)を殺人容疑で逮捕しました。
凶器となった包丁に残された指紋が、前科のあるA男のものと一致したのが逮捕の決め手となりました。
A男が犯行に用いた文化包丁は、直前にショッピングセンター内の金物店で購入したものでした。
 
読売新聞(1985年9月3日)
 
読売新聞の第一報は、事件を恵子さんのポシェットをねらった物盗りの犯行のように報じていますが、逮捕後の取り調べで、A男は事件の10年ほど前から、当時の言い方では「精神分裂病」(以下、現在の呼称である「統合失調症」と記載)を発症して入退院を繰り返しており、1980(昭和55)年からは通院治療を受けていて、この日も「頭がくしゃくしゃしていて、女の子でも刺せば気が晴れるだろう」と犯行に及んだことが分かりました。
 
9月7日にA男は検察庁に送られましたが、札幌地検はA男の供述から精神鑑定が必要と判断し、札幌地裁も2ヶ月の鑑定留置を認めました。
その鑑定結果を参考にして札幌地検は11月7日に、犯行当時A男は「統合失調症で、心神喪失状態にあった」と判断し、不起訴処分にしました。
即日A男は、札幌市内の精神科病院に措置入院(強制入院)となりました。
 
読売新聞(1985年11月8日)
 
この事件では、犯人が逮捕されながらも、精神病による心身喪失状態で責任を問えないと裁判にかけられる以前に不起訴処分になったため、これ以上の情報がなく、A男の履歴や病状についても詳しいことは分からないままです。
 
【1988年 東京八丁堀 通り魔殺人事件】
札幌もみじ台の事件と似た通り魔殺人事件がその後も横浜や下関で起きていますが、2年半後の1988年に東京で起きた事件を見てみましょう。
 
読売新聞(1988年4月4日)
 
1988(昭和63)年4月3日午後1時55分ごろ、東京都中央区八丁堀の交差点の歩道で信号待ちをしていた根本昭子さん(当時42歳)を、「人間はみんな死ななきゃならないんだ」などとわめきながら坊主頭の男が果物ナイフでいきなり刺し、逃げる根本さんを執拗に追いかけてさらに何度も刺し失血死させる通り魔殺人事件が起きました。
 
八丁堀交差点(現在)
で刺され矢印のように逃げた根本さんを
B男が追いかけてめった刺しにした
 
朝日新聞(1988年4月4日)
 
110番通報で駆けつけた警察官が、現場から100メートルほど離れた路上で、返り血を浴びナイフを持って立っている男を見つけ、その場で取り押さえ殺人と銃刀法違反で現行犯逮捕しました。
 
調べによると、中央区に住む犯人のB男(同43歳)は、約20年前から統合失調症で八王子市内の精神科病院に入院していましたが、事件の前年(1987)6月に「治った」と言い張って退院し、弟が経営するマージャン店を手伝いながら通院治療を受けていました。
 
B男の自供によると、「小さいころから不幸続きだったので、人を殺せば幸せになれる」と思い、前々日の4月1日に近所の金物店で購入した果物ナイフを持ち、3日午後1時ごろ「誰かを殺そう」と外出し事件現場まで来たところ根本さんを見て、「女なら殺せる」と考え刺したとのことです。
 
朝日新聞(1988年6月8日)
 
B男の精神鑑定を行った東京地検は、1988年6月7日、鑑定結果から「男は統合失調症で、犯行時、心神喪失状態だった」とし、不起訴処分にしました。
B男は即日、都内の病院に措置入院となりました。
 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

【通り魔殺人事件と精神障害】

1980年代は現在よりも通り魔殺人事件が多く発生していたと書きましたが、警察庁の資料で発生件数の推移を見ておきましょうキョロキョロ

 

昭和61(1986)年度「警察白書」

(加工・西暦は小川、以下同)

 

ご覧のように「札幌もみじ台」の事件が起きた1985(昭和60)年は、統計がある限りで「過去最高(悪)」の16件(うち未遂が12件)の通り魔殺人事件が発生しています。

 

データが得られなかったので間が飛びますが、1993(平成5)年から2011(平成23)年の通り魔殺人事件の認知件数は下のようになっており、最も多かったのは2008(平成20)年の14件で、1985年の16件に次いでいます。

 

 

この2008年には、大きく報道された次のような通り魔殺人事件が起きていますが、いずれも犯人は精神障害者とは認められていません。

 

①土浦連続殺傷事件 3月19日・23日 茨城県土浦市

 犯人・金川真大(当時24歳) 2人死亡、7人負傷

 2013年2月死刑執行

②福岡連続殺傷事件 3月25日・4月14日 福岡県福岡市

 犯人・野地 卓(同22歳) 1人死亡、1人負傷

 無期懲役

③秋葉原通り魔事件 6月8日 東京都千代田区秋葉原

 犯人・加藤智大(同25歳) 7人死亡、10人負傷

 2022年7月死刑執行

④八王子通り魔事件 7月22日 東京都八王子市

 犯人・菅野昭一(同33歳) 1人死亡、1人負傷

 懲役30年

 

しかし、1993年から2011年の19年間の平均値は6.5件ですから、先に見た1981年から1985年の平均値9件より3割近く少なくなっています。
 
その後の2012(平成24)年から2023(令和5)年になると、認知件数が10件以上の年はありません。
 
CrimeInfo「通り魔殺人事件の認知・検挙事件数」
 
また、この12年間の平均値は6.6件ですから、1993年から2011年の平均値6.5件から変わっていません。
 
なお、これらの事件のうち精神障害者による犯行がどれぐらいあるかですが、先に見たように、1985年に起きた通り魔殺人事件では「精神障害者による犯行が8件と半数を占めた」と「警察白書」(1986)に書かれています。

 

ただし、ここで言われる「精神障害者」には、精神衛生法️/精神保健福祉法に則って、統合失調症など「(狭義の)精神障害者」だけでなく、覚醒剤などの薬物使用者・依存症者、知的障害者、精神病質者(サイコパス)が含まれています。

 

たとえば、内訳データの記載がある昭和57(1982)年度版「警察白書」によると、1981(昭和56)年の通り魔殺人事件の検挙件数6件(1986年度「警察白書」の表の青枠)の加害者内訳は、「覚醒剤使用者」が3件と半数を占め、「(狭義の)精神障害者」は1件、「その他」(広義の精神障害者以外)2件です。

 

しかも、ここでの「(狭義の)精神障害者」は「統合失調症以外」とのことですので、通り魔殺人事件の加害者には「(狭義の)精神障害者」とりわけ統合失調症者が多いということでは必ずしもないようです。

 
しかし1985年には、9月2日の「札幌もみじ台」事件に続き、9月19日に山口県下関市で精神科病院に通院歴のある男性が日本刀で母親を殺害したあと、通りに出て11名を殺傷する(うち死者3名)通り魔殺人事件が起きて日本中を震撼させたことから、精神障害と通り魔殺人の因果関係が大きくクローズアップされ、「だから精神障害者は怖い」という社会不安が広がったと思われます。
 
近年では、2021(令和3)年12月17日に大阪・北新地の雑居ビルに入る心療内科クリニックで、元患者である容疑者を含む27人が亡くなる放火事件が起き、容疑者も医師も死亡したため真相がよくわからないまま、精神障害者は殺人などの凶悪犯罪を犯す可能性が高いのではという不安が再燃しました。
 
炎と煙をあげる放火事件の現場
 
実際にはどうなのでしょうかキョロキョロ
 
次の表は、最新の「令和5(2023)年版犯罪白書」に掲載された「精神障害者等による刑法犯検挙人員」です。
 
刑法犯での検挙者総数に占める「精神障害者等」の割合は0.8%で、「等(=精神障害者の疑いのある者)」を除いた「精神障害者*」だけを見ると同割合は0.6%です。
 *先に述べた「(広義の)精神障害者」、表の注2(赤枠内)を参照ください
 
 
「令和元(2019)年版障害者白書」によると、精神障害者の概数は419万3千人で、人口の3.3%ですから、精神障害でない人が刑法犯で検挙される割合の方が精神障害者より約5倍も高いのですびっくり
したがって、「精神障害者は犯罪を起こしやすい」という「印象」は、事実無根の偏見に過ぎないことがわかります。
 
ただご覧のように、刑法犯のうち「殺人」(6.2%、「等」を除くと3.7%)と「放火」(12.6%、同10.3%)については割合の数値が高くなっています(この傾向はどの年も変わりません)。
 
これについて鈴木隆行・日本医療大学認知症研究所研究員は、「それらは外部への無差別的なものではなく、家族や自宅などの近親関係に対するものが多く、一般の犯罪とは同列には論じられない」と述べています(毎日新聞 医療プレミア「犯罪率は決して高くないのに……精神障害者への冷たい視線」2022年1月25日)。
 
これを裏づけるデータとして小川が見つけたのは、次のものです。
 
平成13(2001)年版「犯罪白書」
 
殺人事件における加害者と被害者の関係別構成比のデータ(1996年から2000年の累計)で、右が全検挙者で左が精神障害者が加害者のケースです。
 
一般に、殺人事件の被害者の大多数は加害者の身近な人間(知人や家族・親族)だとよく言われますが、このデータを見てもその通り(85%以上)で、「他人(第三者)」が被害者となったケースは15%以下に過ぎません。
この傾向は、加害者が精神障害者であってもなくても変わりません。
 
明らかに違うのは、全体では加害者の「知人」が被害に遭うケースが「親族等」よりやや多い(ほぼ同数)のに対し、精神障害者の場合は、先にあげた鈴木氏が「近親関係に対するものが多く」と言うように、「親族等」が被害者になるケースが7割にも上る点です。
 
このようにデータを見ても、通り魔殺人のように「精神障害者は相手かまわず人を襲う」という「不安」を裏づける事実はなく、「第三者」が被害者となる殺人事件の割合も精神障害の有無で違いはないということがわかります。
 
ちなみに、中村有紀子・越智啓太(法政大学)は、通り魔殺人事件を「精神障害型」「強盗型」「復讐型」の3類型に分けて、それぞれの犯人の属性(年齢や職業、婚姻歴の有無など)の特徴を考察していますが(日本心理学会第78回大会、2014)、3類型の件数割合などについては論じていません。
 
しかし、「強盗」や「復讐」だと動機が理解可能で、ある程度予防策も考えられるのに対し、「精神障害」、中でも妄想などを伴うことのある統合失調症や、覚醒剤などによる錯乱の場合は第三者に予測不能なため、発生件数自体少なくてもそれが喚起する社会の不安感は大きいと言えるでしょう。
 
【心神喪失・心神耗弱と不起訴処分】
たとえ発生の可能性が低くても、精神障害者による殺人事件に被害者遺族をはじめ多くの人がやりきれなさを感じるのは、精神障害が原因の場合、裁判以前に心神喪失あるいは心身耗弱*で検察が不起訴処分にするケースが多いからではないでしょうか。
 *刑法39条に、「1. 心神喪失者の行為は罰しない。 2. 心神耗弱者の行為は、その軽を軽減する。」とあり、「心神喪失者」とは「精神の障害によって,自己の行為の是非善悪を弁別する能力を欠くか,又はその能力はあるがこれに従って行動する能力がない者」、「心神耗弱者」とは「このような弁別能力又は弁別に従って行動する能力の著しく低い者」を言います。
 
平成18(2006)年版「犯罪白書」には、検挙された刑法犯のうち「精神障害者等」が約2400人ありますが、そのうち「心神喪失・心神耗弱」を理由に不起訴処分もしくは裁判で無罪になったのは約800人(約33%)で、3分の2は起訴もしくは裁判で有罪になっています。
 
また、不起訴あるいは無罪になった場合も、強制的な措置入院となるケースが大多数で、しかもその期限が定められておらずいつ退院できるか分からない「無期」入院もあります。
 
次のデータは、1996(平成8)年から2000(平成12)年の5年間に、殺人事件の刑事処分において検察庁で精神障害のため心神喪失・心神耗弱と認められ不起訴になった者と、裁判でそれらと認められ無罪あるいは刑の軽減を受けた者の合計702人の刑事処分後の状況を示したものです(平成13(2001)年版「犯罪白書」)。
 
 
ご覧のように、大部分(約85%)が「実刑・身柄拘束」「措置入院(強制入院)」となっており、「その他の入院」「通院治療」を含めると94%が何らかの措置を受けていて、「精神障害者は何をしても無罪放免」というイメージが正しくないことが分かります。
 
ちなみに、刑法犯として検挙された者(全体)のうち、実際に起訴されるのは一般にどれくらいあるかですが、次の表は2003(平成15)年から2022(令和4)年の起訴に関するデータで、起訴率が下がり続けて2022年には36.2%になっていることが分かります。
 
「その他の不起訴」は「嫌疑なし(犯罪事実がない)」「嫌疑不十分(証拠不十分)」があり起訴ができないケースですが、「起訴猶予」は犯罪の事実は認められるが何らかの理由であえて起訴しないケースです。
つまり、刑法犯全体においても、2022年では犯罪の嫌疑がある者のうち半数以上が「起訴猶予」になっているのです。
 
2023(令和5)年版「犯罪白書」
 
確かに、精神障害者の場合、殺人事件を起こしても実刑になるのは13%ほどで、大部分が「措置入院」になっていることについて、それが強制的で無期だとはいえ、多くの被害者遺族の処罰感情にそぐわないという事実はあると思います。
 
小川は行政書士の資格勉強をする中で、小さな子どもや重い認知症の人のような「制限行為能力者」(自らの意思に基づいて判断ができない、または法律行為をすることのできない者)という概念を学びましたが、責任能力が備わっていない者に対して、責任能力がある者と同じ形で行為責任を問うことができないのは、ある意味当然の論理だと思います。
 
そうした法の論理と、先に述べた被害者遺族のこれもまた当然の感情とどう折り合いをつければ良いのかとても難しい問題で、ここで結論的なことを言うだけの見識は小川にはありません。
 
最後に、そのこととも関係して考えておきたい問題があります。
 
北海道日高地方にある統合失調症の患者を中心とした非常にユニークな活動で知られる当事者施設「浦河ベテルの家」については、前にもこのブログで少し触れたことがありますが、そのメンバーの一人である山本賀代さんという人が、次のような詩を書いています。

 

あたしの どこがいけないの

あのこの どこが変でしょう

 

目に見えるもの 少し違うかもしれない

聞こえてくること 少し違うときもある

 

だけど それだけで 見下さないで 見捨てないで

 

私だって笑ってる 私だって怒ってる

私たちも愛し合う 私たちも語り合える

痛みもある 喜びも 苦しみも あなたと同じに 感じているはず

 

人間なんだ あなたと同じ

人間なんだ 私もあなたも

人間なんだ 病気とかでも

人間なんだ あなたも私も

 

同じ権利をください 裁かれる権利もください

同じ力をください 同じ立場をください

人と人として

 

自分の詩を歌う山本賀代さん(右)と

曲をつけた下野勉さん(左、故人)

 
ここで山本さんは、精神障害の当事者として、「裁かれる権利もください、人と人として」と訴えています。
 
精神障害者だからというだけで自分の意思を持たない無能力者として扱うのではなく、自分の行為に責任を負う一人の人間として「裁かれる権利もください」というのは、決して彼女の特異な主張ではなく、障害当事者の運動の中で上げられている声だと聞きます。
 
それについてはまだ調べられていませんが、きちんと受けとめて考えないといけないことがそこにあるのではないかと、今回のブログを書きながらあらためて思った小川ですショボーン
 

 

今週は事業所のお出かけイベントがあり
みんなでこちらに行ってきました↓
 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

来場の人たちの多くは、生きたフクロウが見られて喜んでいたようです。
しかし小川の本心を言うと、フクロウは大好きなのですが、それだけに
みんな足をヒモで繋がれていて
飛ぶことはもちろん、歩くことさえ少しの範囲しかできずにじっと耐えているかのようなフクロウたちに、心が痛くなりましたえーんえーんえーん
前回のおせんころがし殺人事件のコメントで、動物虐待についてのやり取りした後のことでしたので、なおのことそう感じたのかもしれません𓅓
 
読んでくださった方、ありがとうございましたおねがいドキドキ
次回もリクエスト企画です爆笑

今回はリクエスト企画ですニコニコ

おせんころがし殺人事件

1951年

 

毎日新聞(1951年10月11日夕刊)
 
【「おせんころがし」での惨劇】
戦後の混乱がまだ収まらない1951(昭和26)年10月10日の午後6時ごろ、千葉県夷隅郡興津町(いすみぐんおきつまち、現在の勝浦市)にある国鉄(現在のJR東日本)上総興津(かずさおきつ)駅の待合室に、途方にくれたようすの母子連れがいました。
 
1927(昭和2)年開業時のままの駅舎
 
母親は、神奈川県横須賀市田中町(現在の西浦賀)で「蛇屋」(ヘビから滋養強壮のための漢方薬などを製造販売する商売)を営む小林八郎さん(当時42歳)の妻てる子さん(同29歳)で、房総半島にヘビを獲りに行ったまま連絡がとれなくなった夫を、3人の子ども(長女9歳、長男6歳、次女3歳)を連れて探しに来たのです。
 
関東に多いという蛇屋(例)
 
ところが、駅に着いた時には乗るつもりだった最終列車が出てしまっており、どうしたものか困り果てていました。
 
そこに自転車を押した若い男が近づいてきて、どこに行くのかと母親に尋ねました。
彼女が具体的な地名を口にしたかどうかは不明ですが、西の方(館山方面)に行くと言ったのでしょう、その方角なら自分も行くので自転車に子どもを乗せるから一緒に行ってやろうと男が申し出たのです。
 
相手は見知らぬ男ですから当然警戒したはずですが、秋の日はもう暮れかけており、小さな子どもを抱えて心細かったのでしょう、男の誘いに彼女は乗ってしまいました。*
 *第1報の新聞各紙の記事では、助かった長女の話として、母子4人が興津町から小湊町まで歩いて行ったときに向こうから来た男と出会ってトラブルになったと書かれていますが、その後の調べでは、ここに述べるような経緯だったと考えられています。
 
 
男が荷台に長男を乗せて自転車を押し、母親が次女を背負って長女の手を引くというふうにして一行は、「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)」という西は館山へと通じる古い街道(現在は国道128号線がそれに沿って作られている)を歩き始めました。
 
しばらく行くと道は「おせんころがし」と呼ばれる高さ20メートルの断崖絶壁の中腹に作られた狭い道にさしかかります。
 
昭和の絵葉書「おせんころがし」
矢印が道で向こうに見える半島が小湊付近
手前が「孝女お仙の碑」
 
ここで、「おせんころがし」の由来について簡単に見ておきます。
いくつかの異なる伝承があるようですが、碑のそばにある勝浦市の案内板には、一番よく知られている話が書かれています。
 
 

おせんころがし

 

高さ二十メートル、幅四キロメートルにもおよぶこの「おせんころがし」には、いくつかの悲話が残されています。豪族「古仙家」の一人娘お仙は日ごろから年貢に苦しむ領民に心痛め、強欲な父を見かねて説得しましたが聞き入れてくれません。ある日のこと、領民が父の殺害を計画し機会をうかがっているのを知ったお仙は、自ら父の身代わりとなり領民に断崖から海に投げ込まれてしまいました。領民たちは、それが身代わりのお仙であったことを翌朝まで知りませんでした。悲嘆にくれる領民たちは、わびを入れ、ここに地蔵尊を建てて供養しました。さすがの父も心を入れかえたということです。

 

平成十二年三月

             勝浦市

 

上の話のお仙が断崖を投げ落とされたのは碑が建っている付近だったのでしょうが、この事件が起きたのは約4キロメートルに渡って続く「おせんころがし」をさらに西に行った安房郡小湊町(あわぐんこみなとまち:現在の鴨川市)です。
 
 
歩き始めてしばらくすると、男は母親に「やらせろ(性行為をさせろ)」としつこく言い寄り始めました。
 
彼女は男を怒らせないようにいなしながら、ひと気のない「おせんころがし」の暗い道を歩いていたのですが、日が変わって小湊付近まで来たとき、最初から彼女を襲うつもりだった男は、突然自転車を倒し長男の頭を石で殴って崖下に放り投げ、さらに長女の手足を引っぱって崖を突き落としたのです。
 
そして、3歳の次女をおぶったまま命乞いをする母親を男は押し倒し、首を紐のようなもので絞めながらレイプし、次女もろとも崖下に突き落としました。
 
それだけでなく、崖の途中で引っかかっていた母親を、男は降りていって石で頭を殴りつけとどめをさしました。
 
朝になり現場を通りかかった小湊町の誕生寺の僧侶が、崖から落とされながらただ一人命をとりとめて泣いている長女を見つけ、彼女の話から付近を探したところ、母親と2人の子どもの遺体を発見しました。
 
読売新聞(1951年10月11日夕刊)
 
上の読売新聞の記事は、長女を発見した酒井要道さんをお仙の碑に近い(直線距離で350メートルほど)興津町大沢にある九成寺(くじょうじ)の住職と書いていますが、正しくは「小湊山誕生寺」の僧侶です。
ちなみに、「日出山九成寺」の名はお仙の碑の下部に刻まれているそうですから(南房総観光ポータルサイト「房総タウン.com」)、碑の建立に関係したお寺ではないかと思われます。
 
この事件の犯人として最初に疑われたのは、被害者の夫である小林八郎さんでした。
彼を容疑者として指名手配した警察は、10月11日の夜に房総半島内陸部にある千葉県君津郡久留里(きみつぐんくるり、現在の君津市久留里)の旅館にいた夫を逮捕しました。
 
 
読売新聞(1951年10月12日)
 
しかし夫の疑いはすぐに晴れ、次に警察が有力容疑者と見たのは、10月17日に詐欺横領容疑で検挙されていた男でした。
 
読売新聞(1951年10月20日)
 
ところがこの男も事件には無関係と分かり、捜査は暗礁に乗り上げました。このままいけば、事件が迷宮入りした可能性もあったのです。
 
事態が大きく動いたのは、犯人が自ら犯行を自供したからです。
 
【栗田源蔵の罪と罰】
 

栗田源蔵

 

犯行を自供したのは、1926(大正15)年11月3日に秋田県雄勝郡新成村(おかちぐんにいなりむら)の貧しい家に生まれた栗田源蔵(くりた・げんぞう)でした。

 

栗田の不遇な生い立ちについては、この事件を扱った多くの記事にほぼ同じ内容で書かれていますので、ここでは概要にとどめます。

 

病弱な父親と必死に家計を支える母親には栗田に愛情を注ぐ余裕はなく、今で言う「育児放棄」状態で大きくなっても夜尿症が治らず、学校ではいじめにあって小学3年で中退、丁稚奉公先を転々としますがどこも追い出されるようにして辞め、1945(昭和20)年に19歳で軍隊に招集されるも夜尿症が原因で2ヶ月で除隊となりました。

 

戦後は北海道の美唄(びばい)炭鉱で働くうちにそれまでと打って変わった粗暴さを身につけた栗田は、真偽は不明ですが北海道でも4人を殺害したと語っています。

ちなみに、のちに書いた「手記」で栗田は、すでに1944(昭和19)年、知人女性と性行為をしながら首を絞めて殺したと告白しています(下のリスト❶)。本当であれば初めての殺人です。

 

北海道から千葉に来て闇物資のブローカーとなった栗田は、1948(昭和23)年1月に同じ闇屋仲間で「情婦(愛人)」でもあった村井はつさんを、他に愛人ができたことからじゃまになり撲殺したことを自供しています(下のリスト①)。

 

ここで、表沙汰になった限りで栗田が関わったと思われる殺人事件を、「立件された事件」(①〜④の4件7人)と「立件に至らなかった事件」(❶〜❺の5件5人、詳細不明の北海道の件は除外)に分け、リストにしておきます(リスト内は敬称略)

 

<立件された事件>
1948(昭和23)年1月 千葉県駿東(すんとう)郡原町(現・沼津市)
村井はつ(同17歳、交際していた女性)石で撲殺 1953年3月3日白骨遺体発見
1951(昭和26)年8月9日 栃木県下都賀郡小山(おやま)(現・小山市)
増山文子(同26歳)強姦・絞殺し屍姦
1951(昭和26)年10月11日 千葉県安房郡小湊町(現・鴨川市)
小林てる子(同29歳)強姦、長男(同6歳)、次女(同3歳)殺害
1952(昭和27)年1月13日 千葉県千葉郡検見川町(現・千葉市花見地区)
鈴木きみ(当時25歳)と叔母のいわ(同64歳)が殺され、きみは強姦される
 
<立件に至らなかった事件>
1944(昭和19)年 知人女性を性行為しながら絞殺(手記)
1947(昭和22)年11月 宮城県松島町
氏名不詳の女性(同22−3歳) 仙台駅前で知り合い殺害
1948(昭和23)年3月 福島県石城(いわき)郡小名浜町(現・いわき市小名浜地区)
霜田ハル江さん(同23歳)絞殺
1951(昭和26)年6月 静岡県田方(たかた)郡函南(かんなみ)(現・函南町)
氏名不詳の若い女性 殺害し十国峠に埋める 遺体発見できず
1952(昭和27)年3月(遺体発見) 山形県米沢市上山裏(かみのやまうら)
氏名不詳の女性 防雪林内で絞殺された女性の白骨遺体が見つかる
 
読売新聞(1953年12月4日夕刊)
リスト❺の事件
自供したが立件に至らなかった
 
栗田が最初に殺人犯として逮捕されたのは、リスト④の事件によってです。
 
「おせんころがし」の事件からわずか3ヶ月後の1952(昭和27)年1月13日、千葉県検見川町(けみがわまち)の鈴木いわさん宅に押し入った栗田は、居合わせたいわさんを出刃包丁で刺し殺し、姪の鈴木きみさんの首を絞め仮死状態で性的暴行をした上で殺害、衣類などを奪って逃走しました。
 
警察は、事件現場に残された指紋と、前科のあった栗田のものとが一致したことから容疑者と見て栗田方を家宅捜索し、鈴木さんから奪った多数の衣料や血のついた包丁が発見されたため、1月17日に窃盗容疑で栗田を逮捕し取り調べたところ、18日に強姦・殺害についても自供したのです。
 
千葉地方裁判所は、1952(昭和27)年8月13日の判決公判で栗田に死刑を言い渡しました。
 
栗田が判決を不服として東京高裁に控訴したため、1952年11月25日に控訴審の公判が開始されました。
 
ところがその直後、1951(昭和26)年に起きた「栃木人妻殺し事件」(リスト②)の手口が栗田のものとよく似ていると追及された彼は犯行を自供、それをきっかけに、迷宮入りすると見られていた何件もの殺人事件の自供を新たに始めたのです。
 
なぜ栗田が余罪を自供したのかよくわかりませんが、控訴はしたものの死刑判決を覆せないだろうと諦めた栗田が、すべて話してスッキリしたいと思ったのでしょうか……。
 
読売新聞(1953年1月8日)
 
警察・検察が捜査を再開したところ、リスト①の事件の被害者村井はつさんの白骨遺体が1953年3月3日に栗田の自供どおり発見されました。
 
読売新聞(1953年3月4日)
 
記事の見出しにある「小平」(「おだいら」ですが、一般には「こだいら」の読みで知られる)とは、1945〜46(昭和20〜21)年にかけて、戦争末期から戦後の混乱に乗じ、食糧の提供や就職の斡旋など言葉巧みに若い女性を誘っては強姦し殺害した連続殺人事件の犯人である小平義雄(1905ー1949)のことです。
 
小平事件を報じる読売新聞(1946年)
(文春オンライン「小平事件」2021.8.22)
 
そしてついに1953(昭和28)年7月に栗田は「おせんころがし殺人事件」(リスト③)も自分の犯行だと認めたため、警察は助かった長女にいわゆる「面通し」をさせて証拠を固めました。
 
こうして、小林てる子さんら母子3人が「おせんころがし」で無惨な死を遂げてから1年10ヶ月、ようやく犯人が突き止められたのです。
 
読売新聞(1953年7月15日)
 
「おせんころがし殺人事件」を含むリスト①〜③の事件で改めて宇都宮地方裁判所に起訴された栗田に対し、1953(昭和28)年12月21日に宇都宮地裁は求刑どおり死刑判決を言い渡しました。
一審で2回の死刑判決を受けたのは、栗田が初めてのことだったそうです。
 
読売新聞(1953年12月21日夕刊)
 
千葉地裁の死刑判決に加え、宇都宮地裁の死刑判決に対しても不服として両方を東京高裁に控訴した栗田ですが、1954(昭和29)年10月21日に控訴を取り下げたため、死刑が確定しました。
 
読売新聞(1954年10月22日夕刊)
 
死刑が確定した栗田源蔵は、宮城刑務所に収監されました。
 
その後、控訴を取り下げながらも「おせんころがし殺人事件」については当日に別の窃盗事件を秋田で起こしていてアリバイがあると言い出し、再審を求める動きをするなど不可解な行動も見られました。
しかし、彼の言う「秋田の窃盗事件」では別の人物が容疑者として逮捕されており、死刑制度の是非についての議論はありましたが、栗田の冤罪を信じる人はほとんどいませんでした。
 
こうして1959(昭和34)年10月14日、宮城刑務所で栗田の死刑が執行され、33歳に約20日足らずの人生を虚しく終えたのです。
 
読売新聞(1959年10月16日)

 

サムネイル

小川里菜の目

 
戦前・戦中そして敗戦後まもなくという時代の不運に加え、極貧の家庭に子どもと関わる余裕のない両親からのネグレクト、いじめを受け小学校を3年で中退した学歴のなさ、そしてその結果でもありますが、まともな仕事に就けなかった栗田源蔵の悪行には、本人だけに責任を負わすのは酷と言わざるを得ない同情の余地があったとは思いますショボーン 
しかし、命ごいする女性や3歳・6歳という小さな子どもであっても、自分の欲望を満たすためになら何のためらいもなく命を奪う栗田の冷酷さには、同情の余地を帳消しにして余りある罪深さを感じざるをえません。
 
死刑執行を待ちながら、獄中で栗田は「懺悔録」と題する手記を書いており、そこには立件されるには至らなかった多くの殺人についても書かれていたそうです。
 
内容の一部は『週刊サンケイ』(1970年12月14日号)が掲載したようですが、2度の面会で栗田の信頼を得、手記の書籍化を一任されたという加藤美希雄氏が、栗田の死刑が執行された後の1963(昭和38)年1月、手記に補足・編集を加え、タイトルも『陵辱ーこの罪を負って私は地獄に堕ちる!』(あまとりあ社)にして出版しています。*
 *ミゾロギ・ダイスケ「女性や子どもばかり7人を殺害……日本で初めて二度「死刑判決」を受けた男の歪んだ快楽」(現代ビジネス、2021.11.05)を参照しました
 
 
栗田は立件されなかったものを含めると、10人以上の女性と性的関係を持っては殺害するを繰り返しており、その際に首を絞めて仮死状態にしたり絞殺してから屍姦する猟奇的な行為をしています。
 
その行為について栗田は、まだ幼い頃に近所の高齢男性が「女と睦まじくしているとき、叩いたり、痛めたりすると、凄い……」と言うのを聞いたからだと手記に書き、本にもそれが掲載されているそうです。
 
いわゆるSM行為は本来それによって双方が快感を得て楽しむものであって、一方的に苦痛を与え殺害までしてしまう栗田の行為は、単なる歪んだ性虐待・性犯罪でしかありません。
 
この本を小川は入手できずに読んでいませんが、そうした栗田の行為は、かつて聞いた老人の言葉に刺激され身につけた性嗜好というだけでは説明がつかないものを小川は感じるのです。
 
そこで、2つの可能性を考えてみました。
 
人間が取り結ぶ性関係は単なる生殖欲求に尽きるものではなく、基本は人と人との親密な(intimate=もっとも奥深い)関係性の上に成り立つものだと小川は思います。
ですから、たとえ「遊び」の関係であったとしても、そこには最低限の相互尊重や好ましさの共有が必要でしょう。
そうした親密な関係性を欠いた一方的・支配的な快楽追求は、どのようなものであったとしても性暴力でしかないと小川は思うのですキョロキョロ
 
ということは、栗田のように他者との親密な関係を育む能力・感性を身につける機会を幼少期から持てなかった人間は、人間らしい性行為をしようにもできない可能性が高く、ただ「刺激の強い」行為を求め繰り返すしかないのです。
 
もう1つの可能性は、抑えの効かない性欲の亢進や他者との共感の回路が機能しないなど、何らかの先天的で病的な異常があったのかもしれないということです。
 
栗田がどちらだったのか、両方が作用し合ったのか、あるいは第三の可能性があったのか、これ以上は小川にはわかりませんが、そんな男の身勝手な性欲のはけ口にされて命を奪われた多くの女性たち、とりわけ「おせんころがし」で殺害された母親と小学生にもならない幼い子どもたちのまだ言葉にすらできない無念さに、73年という年月を超えて憤りを禁じえない小川ですショボーン
 
 
GWも後半ですねにっこり
GW中は1日だけ休みがあったので、国際盲導犬デーin神戸に行ってきました🦮
 
 
 
 
 
 
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取り上げたい事件がたくさんあって、
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次もリクエスト企画にしようと思っていますおねがい
みなさんからの温かいコメント、いいねに
いつも感謝しておりますニコニコ飛び出すハート
 
これからもよろしくお願いいたしますラブ

「しごき」という名のリンチ殺人

東京農業大学ワンゲル部

死のシゴキ事件

1965年

 
    

昨年(2023)、小川が体罰やいじめを無くしたいと言っているからだと思いますが、アメブロを通じて東京都在住の元教師の方からメッセージをいただきました。

それは、その方が1970年代に東京のK大学に在学中、部活で先輩たちが後輩全員に、火のついたタバコを皮膚に押し当てる「根性焼き」をしており、非常に苦痛で怒りを覚えたにもかかわらず、自分たちが先輩になると今度は後輩に同じことをしてしまったという悔恨の告白でした。

その部活では、先輩が後輩に根性焼きをすることが「伝統」になっており、当時は何も考えずそれに従ってしまったというのです。

その話がずっと小川の心に残っていましたので、今回は大学の部活動で死者まで出したシゴキ事件を取り上げました。

 

【ワンダーフォーゲルとは】

ドイツの古語で「渡り鳥」を意味するワンダーフォーゲル(Wandervogel)とは、19世紀末にドイツの学生が始めたもので、本来は自然に親しみながら仲間と共にプランを立て野山を歩いて語り合い、楽しみながら健全な心身を鍛え成長する野外活動を言います。

 

「ワンゲル」と略称されるこの活動は、第二次対戦後に日本の学生の間でも広がりましたが、長い歴史と訓練のノウハウを持つ山岳部と異なり、山登りについてはいわば素人集団に誰もが気軽に参加できることで、上級生による未熟な指導や未経験者・体力のない学生に過酷な訓練を課すといった問題が、一部の大学のワンゲル部で見られることになりました。

 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 

今回取り上げたのは、その中でも最悪の結果を引き起こした事件です。

 

【事件の概要】

朝日新聞(1965年5月22日)

 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 

1965(昭和40)年5月15日から18日にかけて、東京農業大学ワンダーフォーゲル部は新入生を対象とした奥秩父を縦走する足掛け4日、実質2泊3日の「新人錬成山行(れんせいさんこう)」を行いました。

 

一行は、監督と他のOB、4年生6人、3年生4人、2年生8人、そして1年生(新入生)28人の合計48人でした。

 

その過程で監督と上級生から1年生に対する激しい「シゴキ」が加えられ、新入生のうち造園学科1年の和田昇くん(当時18歳)が入院先の東京・練馬病院で5月22日午前3時40分に死亡、同じく造園学科1年の木村弘君(同19歳)が全身の打撲と右手首骨折など2ヶ月の重傷で慶應病院に入院、さらに農業学科1年の松本定君(同18歳)も重傷で自宅療養するという事件が起きました。

 

事件は、和田君の死を不審に思った練馬病院が警察に届け出たことにより発覚しました。

 

和田君の遺体は22日に東大法医学教室で司法解剖され、その結果、和田君の「背中には直径20センチぐらいのえぐられたような傷あとがあり、みけんから鼻にかけて大きな打撲傷。また特に下半身の打撲傷がひどく、出血していた。この外傷のため内臓がひどく圧迫された」(朝日新聞、1965年5月22日夕刊)と分かりました。

 

彼の直接の死因は、肺水腫肺炎による呼吸困難ですが、東京地裁は判決文でその原因を、「ほとんど全身に見られる皮下筋肉組織に及ぶ広汎高度の外力による挫滅の結果による循環機能障害(いわゆる外傷性二次性ショック)をおいては考えられない」としています。

 

この「新人錬成山行」は、次のようなルートで行われました。

 

山行行程表

(東京地裁判決文別紙)

 

そこで山行の行程においていつどのような「シゴキ」が行われたのか、東京地裁判決文をもとに次のような表を作ってみましたのでご覧ください。

なお、「シゴキ」については亡くなった和田君に関するものだけを要約記載しており、木村・松本両君その他へのものは割愛しています(表中敬称略)

 

東京地裁判決文をもとに小川が作成

 

上の表にある「シゴキ」の加害者は、判決文に名前のある者の一部ですが、傷害致死罪・暴行罪などで起訴・有罪となった以下の7人のみ実名を記載し、他は仮名にしています。

 

 ①石塚彬丸(よしまる、当時25歳):監督、同大卒業生で同部OB、事件時は会社員

 ②渡辺利治*(同21歳):主将、造園学科4年

  *直接振るった暴力で地裁判決文が名前をあげているのは松本君に対する殴打

 ③森 茂(同23歳):副主将、農芸化学科4年

 ④寺岡 広(同21歳):副主将、林学科4年

 ⑤薄倉英行(同21歳):総務、造園学科4年

 ⑥藤岡 徹(同20歳):装備、農学科3年

 ⑦古屋隆雄(同21歳):農学科4年

 

なお、②渡辺から⑥藤岡までの5人が、同部の最高意思決定機関である運営委員会の構成メンバーで、5月初めに「新人錬成山行」の計画を立てた際、例年どおりということなのでしょうが、「錬成のためには新入生に暴行を加えることもやむをえない」と決定し、上級生で確認し合っていたようです。

 
しかし、15日の深夜に新宿駅を出て、塩山駅からバスと徒歩で16日未明に山行の出発点に着き、早朝5時半には山を登り始め、2回の休憩を取って昼前に宿営地である笠取小屋に到着、水なしの乾パンだけという昼食の後すぐに笠取山にピストン登山(同じ道の往復)というハードスケジュールのため、この日早くも1年生の中にへばる者が相当数出始めていました。
 
というのも、新入生は不慣れというだけでなく、笠取山へは荷物なしで登りましたが、それまでは自分のものに加え部と上級生の荷物など合計約20kg(重傷の木村君の証言では約30kg)を背負って歩かされていたからです。
それに対して上級生は、サブザック一つという身軽さでした。
 
次の写真は、16日の笠取山登山の時にたまたま一行に遭遇した一般登山者が撮り、朝日新聞社に提供したものです。
 

朝日新聞(1965年5月29日)

白く見えるのが黄色いシャツを着た1年生

黒く見えるのが緑色のシャツを着た上級生

最後尾(矢印)の新入生はすでに遅れてふらついていた

 
かつて日本山岳会に所属し山歩き40年というベテランの撮影者は、次のように話しています。

 

笠取小屋から農大の一行のすぐ後ろについて私も笠取山に向かった。農大生の最後尾についた一人はとくに疲れがひどく、平地でも上級生に腕を支えられ夢遊病者のようによろめいていた。笠取山正面の急斜面にかかった時は完全に立てず、はってのたうち回っていた。それでも上級生2人がかかえて強引に頂上まで登らせたらしい。額と鼻のわきにはなぐられたような傷があり、口のまわりもはれ上がって口も満足にきけなかった。(中略)

16日夜は強い雨だったから、テントの連中はほとんど眠れず、翌朝2時に起きての雲取山行きでさらにへばったのではないか。落伍者の体調も考えず追い立てる上級生などは、昔の軍隊の行軍よりひどい。

 

和田 昇君
 
亡くなった和田君は非常にまじめな性格で、この山行を楽しみに張り切って参加しており、初日(16日)は元気の良さで目立つほどだったそうです。
ですので、上の記事では最後尾でふらつく1年生が和田君ではないかと書かれていますが、別の学生だった可能性があります。
 
しかし登山未経験者だった和田君は、初日に頑張りすぎて体力を消耗し、17日になると急に疲れが出て歩行のペースが落ちました。それは、初日に元気だったことから、荷物をさらに5kgほど増やされたことも一因でした。
 
それでも上級生は、和田君の調子が前日までから急に変わったため、気が緩んだのではないか、疲れたように偽っているのではないかとさえ疑い、「気合を入れる」ために特に彼に厳しく当たったようです。

 

新入生に対して「シゴキ」として振るわれた暴力をまとめると、次のようなものでした。

 

①手で殴打する

顔面の平手打ちが最も多いのですが、手拳(こぶし)による殴打もあり、倒れている1年生を上級生が抱えて立たせてから殴り倒すこともありました

 

②木棒で殴打する

先端を尖らせた長さ約50cm〜1m50cm、太さ約2〜5cmの生木の棒で頭部や臀部を殴打しました

「精神棒」「シゴキ棒」と称したこの棒は、監督の石塚がナタで生木を切って現地で作り、これで殴るよう上級生に渡したとみられています

亡くなった和田君の背中に15〜20cmの「えぐられたような傷」があったそうですが、素手ではできない傷ですから、木棒もしくは次にあげる登山靴でのよほど強い打撃でできたものではないでしょうか

 

③登山靴で蹴る・踏みつける

遅れて歩く1年生の背後から臀部を蹴るほか、倒れている者の顔面を登山靴で踏みつけました

 

1960年代の登山靴(例)

 

④ロープで殴打する

棒状(長さ約40cm、太さ約4cm)に束ねたザック用細引きロープで顔面を殴打しました

 

棒状に束ねたロープ(例)

 

⑤暴言その他の虐待

暴行は、「蹴られたくなかったら、さっさと歩け」「遅れやがって」「甘ったれるんじゃない」「立て馬鹿野郎」「こんなに根性のない奴は初めてだ」などの暴言(いずれも地裁判決文より)を伴っていたほか、四つん這いで歩いたり足を投げ出して倒れている者の両足を持って道を引きずったり、歩いている間は水分補給をいっさい許さず、昼食も乾パンを水なしで無理に口に詰め込ませました。

 

重傷を負って入院した木村君は、取材に応じて自分の体験を次のように話しています太字加工は小川)

 

1日目、30キロの荷をしょわされ歩かされた。しばらくして倒れたところ、シリを木の枝でたたかれた。直径5センチぐらい、なま皮をはいだ枝で、先をナイフでとがらしてあった。

一行からちょっとでも遅れると、クツでシリや足をけられて痛みだした。また、荷が重すぎて、1日目で左手がしびれだした。上級生に実情をいったところ、厳しい言葉でしかられ、またたたかれた。

3日目も、ちょっとでも遅れると棒で頭をなぐられロープや素手でほおを打たれた。口の中が切れて血が出てきた。歩いているあいだ一切、水は飲ませてくれない。昼食になるとカラカラののどに乾パンを押込まれる。早く食べたものからジュースを一口ずつ飲ませてくれるという状態だった。

何度なぐられたか数え切れない。新宿に着いた時は一人で歩けなかった。

(朝日新聞1965年5月22日夕刊)

 

このような状況で、石塚監督はその様子を写真に撮り、約100枚を自分のアルバムに整理して貼っていたそうで、警察が石塚の止宿先の家宅捜索でカメラなどと共に証拠品として押収しました。
 

朝日新聞(1965年6月4日夕刊)

 
押収された写真を見た記者は、次のように書いています太字加工は小川)
 

みんな身長ほどもあるナマ木を持って、上級生たちがたむろしている姿はまるで暴力団のなぐり込み。地べたに倒れた新人の腹の上にドロだらけの大きな登山グツが乗っかったり、頭をかかえてしゃがんでいる新人の上に棒切れをふりあげていたりする。完全に目をつぶった新人の両手足を四人がつかんでまるで死んだ動物でも扱うようにひきずっているところもある。”なぶり殺し“の現場そのもののふんいきがなまなましく伝わってくる写真ばかり。そんな光景を石塚や上級生が笑いながらみている姿も写っている。

しかも、どんな神経なのか、この写真には被害者の名前が矢印できちんと書込んである。いかにも楽しそうにシゴキ、写真をとった彼らの気持ちがさむざむと感じられる写真集だ。

朝日新聞(1965年6月4日夕刊)

 

次の写真は、石塚がアルバムに貼っていたうちの1枚で、新入生が東京農大の応援歌「青山ほとり」を歌いながら「大根踊り」をさせられている写真です。
 

週刊『昭和タイムズ 昭和40年』ディアゴスティーニ

 

事件を担当した東京・練馬警察署は、大学生のクラブ活動中の出来事ということから慎重に捜査を進めましたが、亡くなった和田君を除く1年生全員27人から事情を聴取した結果、極めて悪質な集団暴行事件であると断定して、まず5月25日に渡辺利治主将を傷害致死、藤岡徹副主将を暴行の容疑で逮捕しました。
 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 
さらに、OBや上級生の証拠隠滅の動きを察知した警察は、監督や他の上級生の責任追及のための証拠固めを急ぎ、最初に逮捕した渡辺・藤岡両容疑者の自供も踏まえて5月28日にさらに6人の学生の逮捕状を取ったほか、6月4日には先に見たように石塚彬丸監督を傷害致死容疑で逮捕しました。
 

藤岡副主将               渡辺主将

 

 石塚監督
 
最終的に起訴されたのは、監督と部のリーダー(運営委員)である主将・2人の副主将・総務・装備、そして4年生1人の計7人でした。
他に、和田君に何度も暴行した未成年の2年生1人が家庭裁判所に送られ、保護観察処分になっています。
 
警察の捜査と並行して、大学も5月25日に緊急教授会を開き、主将の渡辺利治を退学処分に、他の上級生全員を無期停学処分にすることを決め、6月2日には同部部長の新屋和夫助教授を「監督が不十分」として3ヶ月の休職処分にすると発表しました。
 
なおウィキペディアに、2年生のうち「シゴキ」に批判的で、この山行でも新入生への暴行に加担しなかった学生がひとりいたと書かれていますが、教授会は「事件と直接関係ないとみられる学生」についても「教育的な立場から全員を処分した」と記事には書かれています。
 
積極的に「シゴキ」を止めることまではしなかったとしても、その場を支配していた「空気」の中で、監督や上級生・同輩からの圧力を感じながらも「シゴキ」に手を貸さなかったとすれば、それだけでもとても勇気ある行動だったのではないでしょうか。
 
その事実を知りながら、軽重をつけず一律に処分した同大教授会は、「連帯責任」の名のもとに集団の全員に制裁を加えるという、よくある「体罰」の論理と変わらないのではないかという疑問を抱かざるをえません。
 
起訴された7人の初公判は、1965(昭和40)年8月27日、東京地裁刑事第7部(津田正良裁判長)で開かれました。
 
被告らは、個々の暴行についてはほぼ認めましたが、「共謀」については全員が否認したほか、「倒れている和田君を登山グツでけったのも激励のためだった」(石塚)とか「和田君が眠いからなぐってくれといわれてやった」「気力をふるいたたせるためなぐっただけで、和田君の死因に影響を与えるようなことはしていない」と口々に述べたそうです。
 
毎日新聞(1965年5月27日夕刊)
 
それに対して、1966(昭和41)年5月23日の論告求刑公判で大塚利彦検事は、アウシュビッツ強制収容所の例をひきながら「人間を人間として扱わず、馬や野良犬などの動物のように考えている行為だ。錬成とはいえない意味のない暴行で、たとえ、先輩から受けついだ方法であったにしても、無批判に受け入れた責任は大きい」として、石塚監督と渡辺主将に懲役5年、他の5人の被告に懲役3年を求刑しました。
 
毎日新聞(1966年5月24日)
 
1966(昭和41)年6月22日の判決公判で津田裁判長は、石塚・渡辺両被告に懲役3年執行猶予3年(求刑は懲役5年)、森・寺岡・薄倉・藤岡・古屋の5人に懲役2年執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡しました。
 
判決文は、同部の人間性を軽視した「伝統的錬成方法」とそれを無批判に踏襲した被告人等の「自主性の欠除」を次のように厳しく批判しています。

 

大学は人間形成の府であるから、そこで行われることはすべて、人間形成につながらなければならないのであって、聊(いささ)かも人間性を軽視するが如き行動は許されない。従って、体力を鍛錬し、精神力を涵養するにしても、ただ肉体、気力の錬磨であってはならないのであって、そこには個人の価値を尊ぶ自主的精神の育成がなければならぬ。殴る蹴るということは、一個の人格を否定する行為であり、その対象は物体に等しく、訓練される動物と選ぶところはない。このような事が大学体育部の名に於いて行われてよい筈(はず)はない。大学のクラブ活動には、考えること、批判することは不可欠のものであるが、農大ワンダーフォーゲル部に於いては下級生は上級生の行うことに絶対服従し、現役学生は先輩の為したことに無批判的に従って居るという実情であって、かかる風潮が、新人錬成の場に於いて殴る蹴るという方法を生みこれを伝統的な不変的錬成方法にまで育てたのである。

 

さらに判決文は、「本件を悲惨なものとしたことには参加の自由はあっても離脱の自由がなかったということである」と指摘しています。

 
執行猶予がつけられたのは、この事件が「伝統という抗し難い壁の中」で起きたもので被告等の個人的要因のみから生じたものでないこと、被告等は自らの行動を反省し被害者や家族に対し贖罪しようとしていること、和田君の父親である和田嘉平さんが「父としての悲しさを超え被告人等の行為を許したいと証言し被告人等の反省を認めている」との理由からでした。
 
この地裁判決は、双方が控訴せずに確定しています。

 

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小川里菜の目

 

この事件は、新入生が命を落とす事態まで至ったため明るみに出ましたが、それがなければ闇に葬られたことでしょうショボーン

 

ということは、同部においてはこれまでにも錬成山行で重軽傷者が出ていたのでしょうし、さらに東京農大に限らず運動部の活動で広く同様の「シゴキ」が行われている可能性があります。

 

朝日新聞(1965年5月25日夕刊)は、「伝統の名でのさばる暴力」という見出しで、実例を紹介しています。

 

 

某大学のサッカー部は新人を毎週1回練習のあとで一列に並べ、先輩がビンタを張ることを“伝統”にしている。「なぜわれわれはひっぱたかれるのですか」などと聞こうものなら「そんなことを聞く根性がイカン」とまたピシャリ。実は、ひっぱたいている本人も理由がわからないのである。「自分も新人のとき上級生にそうされた」——これがたった一つの理由なのだ。

新人同士が向かいあって並び、互いにひっぱたき合う。これも伝統的な行事になっている野球部もある。(略)この場合は敵を徹底的にたたきのめす“不屈“の精神と根性を養うのが目的だといい伝えられている。

 

のちに何人もの死者・行方不明者・自殺者を出した戸塚ヨットスクールのいわゆる「スパルタ教育」にもつながるものですが、力づくで人間を生命の危険を感じる限界にまで追い詰めることが精神的な強さ(根性)を鍛えることになるという非科学的な精神主義が運動部において根強くあり(戸塚宏も学生時代にヨット部でそれを身につけた)、それが指導者・先輩による「シゴキ」や「体罰」を生んできたのですびっくり

 

農大ワンゲル部の「シゴキ」にもありましたが、運動中の水分補給が推奨された小川の世代と異なり、いま35歳ぐらいより上の世代までは、部活中に水を飲むことはどこでも禁止されていたようですガーンあせる

 

今となってはまったく非科学的で生命の危険すら引き起こしかねないことなのですが、科学的な根拠があるかどうかよりも、「苦しさに耐えることで精神面が鍛えられるはずだ」という「信念」(主観的思い込み)がその理由だったのでしょう。

 

苦しいだけで効果がなく身体にも悪いとわかって今では誰もしない「うさぎ飛び」が、足腰を鍛えるためのトレーニングと称して広く行われていたのも、「根性を鍛える」という同じ理由からだったと思います。

 

『巨人の星』より

 

先にあげた新聞記事には、「このようなバカげたことを歓迎する空気が、大学当局や父兄の一部にあることも事実のようだ」と書かれていますが、最初は「バカげたこと」と感じていた本人自身が、それをやり続けるうちに次第に肯定的になり、そのうちそれを強制する側に回るというのが怖いところです。

 

東京地裁の判決文でも、「被告人等は新人、2年の時には体に手をかける錬成方法に疑いを抱いたが3年になってからはこれを肯定するようになったといい、身体に手をかける錬成方法は絶対必要であると供述している」と書かれています。

 

そこには、自分が苦しい思いをしてやったことを否定したくないという自己肯定の欲求が働いているでしょうし、何より学年が上がるにつれて「身体に手をかけられる」側から「かける」側に自分が立つことがもたらす優越感が大きかったのではないでしょうかキョロキョロ

 

この事件について知った時、最初は小川は、上級生らが新入生に「シゴキという名のいじめ」をして楽しんでいるのではないかと思いました。

 

しかし、東京地裁の判決文に書かれたシゴキの様子を読むにつれ、和田君を死に至らしめるほどの暴力を振るった上級生の中には、本当にそれが彼のためになると信じ、ある意味「善意」で殴ったり蹴ったりした者も多かったのではないかと思えてきたのです。

 

それはとても怖いことです。

なぜなら、悪いことと知りながら悪を行う人と異なり、善いことだと信じて悪を行う人は、自分の悪行を反省することができないまま悪を重ねてしまうことになるからです。

 

(オウム教団から見た)悪人を殺すことは、その人を救う慈悲の行為だ」という、まやかしでしかない「ポア」の論理で、教祖の命ずるまま幼い子どもさえも容赦せずに殺人を重ねたオウム真理教の信者たちに、その最も醜悪な姿を私たちは見ることができるでしょう。

 

最後に一つ付け加えておきたいことがあります。

それは、この事件にはワンゲル部だけでなく東京農大自体が当時持っていた暴力的な体質が関係しており、農大当局もそれに対して決して無関係ではなかったということです。

 

5月26日、亡くなった和田昇くんの慰霊祭が大学で行われました。

 

 

この時に、一部の学生が「事件の真相を発表せよ」「責任を明らかにせよ」と追及したことから、翌27日に大学は体育館で「経過報告」を行いました。

 

しかし、二千人ほど集まった学生たちのほとんどはその内容に満足せず、ただちに同大学学生会が緊急学生会に切り替えて「農大から暴力追放」など6項目を決議しました。

 

朝日新聞(1965年5月28日)

 

学生大会が5月28日に続いて開かれましたが、「農大からの暴力追放」に関連して同大学応援団の暴力的な勧誘や学内での行動に批判の声が上がったことから、応援団員と見られる学生たちが壇上に駆け上がってマイクを奪ったり「学生大会」の横断幕を引きずり下ろしてわめくなどの暴力行為におよび、会場は「異様な光景」を呈したそうです。

 

朝日新聞(1965年5月29日)

 

先に見たように、この事件で大学は、ワンゲル部の主将を退学に、他の上級生を無期停学にしましたが、学生たちは、学内の暴力に目をつぶって学生だけに責任を負わせるのはおかしいという理由で処分の撤回も要求したそうです。

 

処分しないことが妥当とまでは思えませんが、大学側が事件を生んだことへの自らの責任に口を閉ざしたまま、第三者のような顔をして直接(末端)の当事者だけを処分して終わりとすることへの学生たちの不満や怒りは十分理解できます。

 

その後の経過については調べられていませんが、この事件がきっかけとなって、運動部のあり方の見直しだけでなく、東京農大にあったとされる暴力容認の土壌が払拭される方向に進んだのであれば、和田君の無念の死も決して無駄にはならなかったと思い、そうあってほしいと願う小川ですショボーン

 

【 追記  2024,4,25

このブログをアップした後で、読者の方から石塚元監督のその後についてご教示をいただきました。

改めて調べたことを追記しておきます。

 

石塚元監督の出身地は、在日米軍横田基地のある東京都西多摩郡瑞穂町で、石塚家はその地の旧家・名家らしく、代々の当主には「幸右衛門」という名跡(みょうせき)があって、石塚彬丸(りんまると読むようです)も襲名後は第6代「石塚幸右衛門」を名乗っています。

事件当時彼はある会社に勤めていましたが、裁判時には無職となっていますので、起訴により解雇されたか辞職したと思われます。

その後彼の名前が公の場に出てくるのは、1997(平成9)年4月に瑞穂町の町議会議員になった時です。

実は彼の父親である第5代幸右衛門(石塚敏之助)は、瑞穂町ができた時(昭和15年、この年に息子の石塚元監督が誕生した)の初代町長で、その後にも1期町長になっており、彼はいわゆる地元の世襲政治家になったのです。

さらに石塚元監督は、2001(平成13)年5月から四期連続して2017(平成29)年まで瑞穂町長になっています。

次の写真は、2010(平成22)年に福生(ふっさ)青年会議所が開いた「瑞穂町長を囲む会」での石塚元監督/町長(まもなく70歳になる)です。

 

 

裁判の判決に服したわけですから、その後こうして政治家となり町長を務めたこと自体、非難すべきことではありません。

 

しかし、今年83歳になった彼が、かつて自分の行った「シゴキ」によって、まだ18歳で命を奪われた和田昇君や重傷を負った木村弘君・松本定君(後遺症はなかったでしょうか……)とそのご遺族・ご家族にどのような贖罪をしたのか、その時の真摯な反省から、町長として学校でのいじめや体罰をなくし町民の人権意識を高めるためにどのように努力し実績をあげたのか問いただしたいですし、それに応える責任が石塚彬丸(幸右衛門)氏にはあると思う小川です。

 

参照資料

・新聞の関連記事

・東京地方裁判所 昭和40年(合わ)182号判決

 

 

 

 先週は大阪で3日間の介護研修に参加しました。

帰りに同僚4人でネモフィラを見に行きました音譜

雲っていて18時前でしたが、綺麗な写真が撮れましたにっこり

 

 

 

 

 

 

読んでくださり、ありがとうございましたニコニコ💙





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六本木ディスコ

照明落下事故

1988年

 

「トゥーリア」のビルから脱出する客たち

朝日新聞(1988年1月6日)

 

不時着する宇宙船のイメージのはずが……

 

本当に落下した照明装置

 

朝日新聞(1988年1月6日夕刊)

 

【事件の概要】

1987年(昭和62年)5月8日、東京都港区六本木に高級ディスコクラブ「TURIA(トゥーリア*)」(地下1階、地上2階)がオープンしました。

 *「トゥリア」と「トゥーリア」の2つの表記がありますが、このブログでは会社名以外は「トゥーリア」に統一しました

 

「トゥーリア」の内部

毎日新聞(1987年7月 高橋勝視撮影)

地下1階がダンスフロアで正面はDJブース

頭上の3重の照明装置(全体重量6トン)の2重目が

従業員のボタン操作で点滅しながら昇降した

 

 

アレンジャーは空間プロデューサーの山本コテツ氏で、内装を手がけたのはSF映画「ブレードランナー」の美術コンセプトを担当したシド・ミード氏。

 

 

近未来惑星に故障した宇宙船が不時着したというコンセプトで、宇宙船に模した照明装置が吹き抜けの2階天井から吊り下がり、音楽に合わせて点滅しながら上下に動くという構造でした。

 

1988年(昭和63年)のまだお正月気分が抜けない1月5日午後9時40分ごろ、「トゥーリア」のウリだった巨大照明装置のうち、たくさんの照明やビデオモニターがついた1.6トンもある鋼鉄製の輪「ミドルリング」がフロアーで踊っていた30人ほどの客の上に落下、直撃を受けた3人が死亡、14人が重軽傷を負う大惨事となりました。

 

 

亡くなった3人

毎日新聞(1988年1月6日夕刊)

 

亡くなったのは、自衛隊中央病院高等看護学院3年で卒業を間近にひかえた大分県出身の溝部明美さん(当時21歳)、群馬県桐生市から友人と遊びに来ていた英会話学校職員の高木恵子さん(同26歳)、そして世田谷区に住む会社員の平田昌徳さん(同24歳)です。

 

朝日新聞(1988年1月6日)

 

毎日新聞(1988年1月6日)

 

【ディスコ「トゥーリア」と事故原因】

ディスコクラブ「トゥーリア」を作ったのは、1986(昭和61)年7月に設立された「トゥリア企画」(山田友直社長)で、運営は「エラ・インターナショナル」(佐藤俊博代表)に委託していました。

 

「トゥリア企画」は、丸晶興産(赤城明社長、1981年12月設立)という不動産会社の丸がかえ子会社なのですが、この親会社は都心のビルやマンション用地の地上げで急成長し、年間売り上げ250億円を超えていた、まさにバブル経済の波に乗った会社でした。

 

そして、このディスコの入ったビル一帯を再開発するまでの3年間限定でオープンさせたのが「3」を意味する「トゥーリア」でした。

 

問題の照明器具は、世界各地のイベントなどで使われていたアメリカのバリライト(VARI-LITE)社製の照明装置(自動で動く照明)というふれ込みで話題を呼んだのですが、実際に「トゥーリア」で使われていたのは、受注した日本の「電子照明社」(大島弘義社長)が「バリーライト」と称して下請け会社に作らせたコピー商品でした。

 

バリライト(例)

本来はこうした照明器具単体の名前ですが

これを用いた大規模な照明装置全体が

当時「バリライト」と呼ばれていました

 

事故は、落ちたミドルリングを昇降させるために、照明装置を吊り下げたワイヤーを巻き取るドラムにモーターの回転を伝えるローラーチェーンが、重量計算を間違えた設計ミスによる強度不足で切れたことが原因で、それによりドラムが空回りして照明装置が落下したと分かりました。

 

 

読売新聞(1988年2月18日)

 

報道によると、使われていた2連式チェーンの「最大許容荷重」は1.3トンしかなく、そこに1.6トンのミドルリングの重量がかかったのですが、動かす時に実際にかかる負荷は「最大許容荷重」の2倍以上の3トンにもなったそうです。

 

しかも、設計では1日に4〜5回昇降させるとなっていたにもかかわらず、実際には店側の説明で1日に15〜20回、客の証言ではもっと頻繁に何十回と上下させていたとのことです。

 

事故のあった日、DJブースのボタンで装置を動かしていたのは22歳の女性従業員で、ミドルリングを上昇させていたところ突然停止し、直後に落下したそうです。

当初、彼女の操作ミスが疑われましたが、もちろん彼女には設計上の制限など何も知らされていなかったでしょう。

 

また、前年の1987年11月にリングの昇降がうまく働かなくなり、「ミドルリング」だけ動きを停止させていたことがあったそうです。

12月4日に電子照明の社員が点検して使用を再開したのですが、この時は操作盤のスイッチを修理しただけで、チェーンは点検しませんでした。

その後、12月26日にも定期点検がありましたが、やはりチェーンは見ておらず、動作確認だけで「異常なし」と判断されました。

 

こうして、事故を未然に防げたかもしれない機会が活かされないまま、定期点検からわずか10日後に惨劇が起きたのです。

 

朝日新聞(1988年1月6日夕刊)

 

この事故では、照明の昇降装置を設計・製作した会社(電子照明社の下請け会社)の桜井敏社長だけが業務上過失致死傷罪で起訴され、1992(平成4)年2月26日、東京地裁の原田国雄裁判長は被告に、禁錮2年執行猶予3年(求刑は禁錮2年)の有罪判決を言い渡しました。

 

判決理由で原田裁判長は、「綿密な強度設計をせず、経験に頼って部品選定をした安易な設計態度が事故を招いた」と指摘し、さらに元請け会社も照明装置の正確な予定重量を示さなかったとして、「他の関係者が注意を払っていれば(事故が)避けられた」ことから執行猶予をつけたと述べています。

 

朝日新聞(1992年2月26日夕刊)

 

こうした事故の責任追及でよくあるように、ここでも末端の末端の業者だけが責任を負わされ、3人もの死者を出した事故にもかかわらず、ディスコの所有者も運営者も照明装置納入(元請)業者も誰ひとり責任を問われないまま終わりました。

 

判決文を読むことができませんので詳しくはわかりませんが、裁判長が「他の関係者が注意を払っていれば避けられた」と判断したのであれば、それを唯一起訴された被告に執行猶予をつけて罰を軽減する理由とするのではなく、「注意を払わなかった」他の関係者の過失責任を問うべきではないのかと思わざるをえません。

 

なお、3年という期間限定でオープンしたディスコクラブ「トゥーリア」は、この事故により8ヶ月で閉店となりました。

 

また、事故現場の跡地の一隅に、慰霊碑代わりの地蔵尊が建立されたようですが、ほぼ誰も責任を取らなかった事故の結末を思うと、こうした形ばかりの慰霊で犠牲者の無念が晴れたとはとうてい思うことができない小川です。

 

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

平成の大不況のもとで生まれ、その中で生きてきた小川にとって、1980年代のバブル時代の日本は金銭的にも豊かだし、ディスコで踊る当時の若者たちの映像を見ても生き生きしているようで、すべてが輝いて見えますおねがい飛び出すハート

平成生まれの小川にとって、バブル時代のイメージはまさにゴールドカラーなのです。

 

しかし、「バブル(泡)」と言われるように、その豊かさも精いっぱいふくらませた風船を金色に塗った見かけの輝きでしかなかったことがバブルがはじけてわかり、その負の遺産をその後の世代が負わされ続けたわけですキョロキョロ

 

そうしたバブル時代の見せかけの華やかさと浮かれたような輝きの裏面を、いや本当の顔を、バブル崩壊に先立ってかいま見せたのが、バブル経済真っ只中の1988(昭和63)年に起きた、このディスコ事故ではなかったでしょうかキョロキョロ

 

当時、六本木を象徴する人気ディスコだった「マハラジャ」の生みの親である菅野諄(まこと)さん(当時52歳)を、朝日新聞がコラム「六本木このごろ」の第1回で「ディスコ演出家」として取り上げています。

 

朝日新聞(1988年4月5日)

 

車は3台。BMW、ベンツ、そしてロールスロイス。田園調布に230坪(760平方メートル)の自宅。プール付き。灰色と白の細かな格子模様が入ったスーツは、イタリアの「ジャンニ・ベルサーチェ」。ネクタイは同じイタリアの「アルマーニ」。フランスの「シャルル・ジョルダン」の黒い革靴。腕の時計はスイスの「ロレックス」、390万円。

 

いかにも「バブル」の体現者といういでたちの菅野氏は、勤めていた証券会社を31歳で「脱サラ」してこの業界に身を転じて大成功した人物。

 


当時のマハラジャ

彼は、バブルが膨らんでいく中で「新しい上流志向が出て来る」と感じたそうです。

 

土地の値上がりを前提にした投機が経済の主な原動力となり、「財テク(財務テクノロジー)」という名の「金もうけ術」に普通の人びともが踊らされて少しでも多く儲かる投機先を探し回した時代。

 

小川も祖父にそのころの話を聞くと、自宅や勤務先にまでマンションや宝石などを投資目的で買わないかというセールスの電話がうるさいほどかかってきたそうですびっくり

 

もちろん、バブルと言えどもすべての人が一攫千金によって上流志向を実現できないのは明らかですショボーン

 

けれども、当時の女子学生たちが気分だけでも高級志向を満たそうと競って身につけたシャネルやルイヴィトンなどのブランド品と同じように、ディスコも豪華な内装やきらびやかな照明、そして場にふさわしくない服装の人は丁重に入場を断るという「演出」で、来客が「特別」な高級感を味わえるよう競い合ったのです。

 

記事の中で菅野氏が、高級ディスコは「夢と希望と錯覚を売る」仕事だと言っていますが、事故が起きた「トゥーリア」にはまさに「夢と希望と錯覚」が詰まっていました。

 

「トゥーリア」に、不動産業の親会社が地上げ*で儲けた資金が投入されていたことは先に述べた通りです。

 *地主や借地・借家人と交渉し土地の売買契約や立ち退き契約を取りつけること。更地にした土地の転売や再開発で多額の儲けを得ることができた。バブル期には暴力や嫌がらせなどで無理やり土地を売らせたり立ち退かせたりする悪徳不動産業者も横行した。

 

読売新聞(1988年1月7日夕刊)

 

また、開店からわずか3年で閉店すると決めていたように、短い期間で儲けられるだけ儲けてサッと次のトレンド(流行の波)に乗り換えるという、その場その時の儲けがすべての根無草のような商いの仕方も、いかにもバブリーです口笛

 

さらに、1億7千万円を投じた豪華な内装と言いながら、一番の売り物である照明装置にさえ安価で粗悪な模倣品を使うという実体の安っぽさは、まさに見かけで「錯覚」を誘うやり方そのものでしょうショボーン

 

つけ加えて言えば、これだけの事故が起きても、丸投げの連鎖ゆえに「知らなかった」とほとんど誰も罪に問われることなく、うやむやに事が済まされてしまう無責任さも、バブルを生んだ土壌でありまたその結果でもあるのでしょうか。

 

「失われた30年」と言われるように、生まれながらに「景気のよさ」とは無縁の生活を生きてきた小川には、たとえ「錯覚」であっても「夢と希望」があるかのように若者たちがディスコではじけていた時代を見ると、羨ましく思うことがありますラブ

 

しかしよく考えてみると、錯覚でしかない「夢と希望」で一時の楽しみを得ることは、麻薬がもたらす幻想と快感におぼれて薬物依存者が身を滅ぼすことと同じなのかもしれないとも思います。

 

結局、「夢と希望」は、自分が今立っている地に足をつけ、根を下ろして地道に生きることを通してしか生まれてこないのではないかという、平凡な結論に踏みとどまるしかないと思い直した小川ですキョロキョロ

 

 

 

1988年に起きた事件のうち、これまでにブログでアップしたものです

  ↓

 

 

 

またお読みくださると嬉しいですニコニコ花

 

桜が満開ですね🌸

時間がなくて、ゆっくり花見はできませんが

仕事帰りに見る夜桜に癒されていますにっこり

 

 

 

読んでくださり、ありがとうございますニコニコ飛び出すハート

 

 

「チバリーヒルズ」

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看守を殺して逃走 

中野刑務所脱獄事件

1961年

 

1983(昭和58)年に廃庁される直前の

住宅に取り囲まれた中野刑務所

(『中野のまちと刑務所』)

 
【事件の概要】
 
朝日新聞(1961年1月21日夕刊)
 
1961(昭和36)年1月21日、東京都中野区新井町にあった中野刑務所で、窃盗犯として服役していた清水義平(ぎへい、当時27歳)と武藤照雄(同28歳)が、2人の作業を担当していた看守の梁瀬三喜雄さん(同37歳)を殺害して脱獄する事件が起きました。
 
清水義平
 
清水は東京杉並区生まれの元水道配管工で身長162cm、1958(昭和33)年7月に窃盗41件、寸借詐欺7件、業務上横領などで捕まり、懲役4年6月(執行猶予を取り消された2年分を含む)の刑で服役、1963(昭和38)年5月に出所予定でした。
 
 
武藤照雄
 
武藤は川崎市生まれで身長168cm、神奈川県立の工業高校を卒業し成績も中程度だったそうですが(母親の話)、どこで道を踏み外したのか詐欺や窃盗で4回捕まっています。
1960(昭和35)年4月に女性の留守宅から鏡台など5点を盗んで捕まり、懲役1年の刑を受けて、この年の7月に出所予定でした。
 
中野刑務所は、25歳未満の男性成人受刑者で、刑期1年以上7年以下で入所歴のない者を収容していましたが、配管など営繕(建物や設備の改築・修繕)の仕事ができる者がいなかったので、経験のある清水と武藤が累犯刑務所から移されてきていたそうです。
2人は、5ヶ月ほど前から所内での仕事を一緒にしていて親しくなったようです。
 
黄色い丸が殺害事件が起きた学生寮
 
朝日新聞(1961年1月22日)
 
この日も2人は、昼食後に刑務所内の分類舎と呼ばれる建物で水洗便所の工事をしており、午後0時30分ごろに梁瀬看守が2人を連れて東門から構外に出、大八車(だいはちぐるま)で材料倉庫に洗面台を取りに行きました。
 
大八車(例)
 
その時、「ここの便所の修理も依頼されている」と嘘の作業を申し出た2人は、倉庫の近くにある学生寮(法務省職員子弟の学生が入っている刑務共済組合の施設)に梁瀬看守を誘い込みました。
2人は2階の便所で作業をするふりをしながら隙をみて武藤が梁瀬看守を突き飛ばし、清水が工事用のカジヤ(釘抜)で彼の頭を殴り、さらに用意していた麻縄で首を絞めて殺害、逃走したのです。
カジヤ(例)
 
午後1時半ごろ、勤務明けで帰宅途中の同所企画室長が、刑務所西側の公舎脇を走って逃げていく2人の服役者を見つけ追いかけましたが見失ったので、すぐに刑務所に通報*し、非常点呼をしてそれが清水と武藤であると判明しました。
 *当時、同刑務所に勤務していた職員の回想(「忌まわしい脱獄の日の記憶」)では、梁瀬看守が2人を連れて構外に出たまま連絡がないため、脱走と直感した正担当の看守が上司に連絡したのが第一報と書かれている
 
その後、看守部長が、鍵がかけられた上記学生寮の大便所の中で頭を殴られ血まみれになった梁瀬看守の遺体を発見しました。
 
刑務所は当初、2人が逃走しただけと考えて内々で見つけて処理するつもりだったようですが、看守が殺害されていることが分かったために警察に通報しました。
 
警視庁は、午後4時50分に都下に特別緊急警戒を発令、野方(のがた)警察署に特別捜査本部を設置して警視庁捜査一課や各署の捜査員、さらに機動隊員ら合わせて610人を投入し、2人の行方を探しました。
また中野刑務所も、看守や職員360人の捜査班を編成して徹夜で捜索を続けました。
 
毎日新聞(1961年1月23日)
 
上図のように彼らは、まず清水の友人2人を頼って訪ねますがいずれも転居していたため、梁瀬看守から奪った金で服を買い飲食をした後に映画館に入り、その夜は土管の中で寝たそうです。
 
 
翌22日の朝、東京都北区の国電(現在のJR)王子駅近くの映画館に入ろうと開館を待って映画館街をうろついていたところ、新聞で2人の写真を見ていた中学3年生から目撃通報があり、まず武藤が王子署員に逮捕されました。
 
読売新聞(1961年1月22日夕刊)
 
逮捕・連行される武藤照雄
毎日新聞(1961年1月22日夕刊)
 
清水もつい先程まで一緒でまだ付近にいるとの武藤の供述から、警察は北区一帯を包囲捜査していたところ、午後0時40分ごろに北区豊島にある下川タバコ店に「自首したい」と現れたため、店の公衆電話からの通報により急行したパトカーによって逮捕され、野方署の捜査本部に身柄を移されました。
 
清水義平逮捕の瞬間
毎日新聞(1961年1月22日夕刊)
 
こうして、窃盗犯に過ぎなかった2人が殺人を犯してまで行った脱走は、わずか1日で終わりを遂げたのです。
 
【裁判と判決】
清水と武藤の2人は、強盗殺人(梁瀬看守の腕時計と現金3千円を奪った)と加重(暴行を加えた)逃走罪で起訴され、1961(昭和36)年3月14日から東京地裁で審判が始められました。
 
ひと月半のスピード審理の末、4月28日に開かれた判決公判で荒川裁判長は、主犯格の清水に求刑通り死刑を、武藤に同じく求刑通り無期懲役を言い渡しました。
 
報道によると判決文では、「清水は酒を飲みたいため脱獄を計画し、内妻から音信の絶えていた武藤をさそって計画を実行したもので、受刑者が看守をあざむいて殺したことは同情の余地がない」と述べています。
 
朝日新聞(1961年4月28日夕刊)
 
2人は控訴しますが、東京高裁は1962年4月30日、東京地裁の判決を支持して控訴を棄却しました。
 
読売新聞(1962年5月1日)
 
さらに1963(昭和38)年3月28日、最高裁第一小法廷は上告を棄却し、清水への死刑が確定したのです。
 
読売新聞(1963年3月28日夕刊)
 
清水義平の死刑は、1967(昭和42)年10月26日に執行されています。 
 
武藤照雄の消息は分かりませんが、当時の無期懲役であればすでに出所している可能性が高いと思われます。
 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

清水義平と武藤照雄の2人は、窃盗(主に空巣泥棒)や詐欺・横領の前科はありますが暴行や傷害など暴力犯罪はそれまでにしておらず、刑期も満期まで務めたとしても清水であと2年4ヶ月、武藤に至っては半年ほどすれば出所できるところでした。
 
ところが、この事件を起こしたために清水は死刑となり、武藤も無期懲役になってしまいました。
単なる脱走ならまだしも、看守を殺害すればどうなるかぐらいは予期できたはずなのに、なぜこのような愚かなことをしたのか、まったく合理性を欠いた、常識では理解し難い脱獄事件ですびっくり
 
刑務所で清水は配管工の腕を買われ、他の服役者を指図して営繕の仕事をし、気が弱く見栄っ張りな遠藤は相棒でした。
 
服役態度や気分の安定などで囚人が1級から4級に分類*されていたうち、清水と武藤は近々3級から2級への昇格(最上位ランクの1級は、当時936人の服役者中2人だけ)が決まっていた模範囚だったそうです。
事件当日、2人の作業に看守が丸腰の梁瀬さん1人しかつかなかったのは、その安心感が災いしたとも言えますキョロキョロ
 *中野刑務所は当時、全国で唯一の「分類センター(分類刑務所)」として、効果的な矯正措置を講じるために囚人を分類する役割を担っていました
 
脱獄の首謀者は清水で、以前に犯した窃盗が発覚して執行猶予が取り消され刑期が2年延びた1年前くらいから脱獄の意志を同房の囚人仲間に漏らしていましたが、遠藤(隣の房)に話を持ちかけたのは前日の20日だったそうです。
 
清水は、神戸あたりに高跳びをするなどと遠藤に話して仲間に引き込みましたが、それが「計画」という名に値するようなものでなかったことは、わずか1日の「自由」で逮捕・自首したことからも明らかです。
 
しかも(遠藤には予想外だったようですが)、これまでしたこともなかった殺人を犯してまで逃げるにしては、そもそも何のための脱獄だったのか目的が不明で、新聞も、毎日新聞は「ただ出たい一心」、読売新聞は「酒がさせた殺人脱獄」と見出しにあげています。
 
毎日新聞(1961年1月23日)
 
読売新聞(1961年1月23日)
 
今では、2016(平成28)年に「再犯の防止等の推進に関する法律」(再犯防止推進法)が制定されて、矯正と再犯を防ぐための取組が刑務所内でも、また出所後においても、下の図のようになされてきています。
 
犯罪者・非行少年の処遇と社会復帰支援の取組
(法務省)
 
ただ次のデータを見ていただくと、刑法犯の検挙者数と再犯者数が毎年減少している一方、再犯者率は50%弱の水準(2022年で47.9%)で高止まりしていることが分かります。
 
 
再犯者率が高い要因としては、再犯時に「学歴なし」「職なし」「住居なし」「65歳以上」「知的障害あり」などが統計的にあげられるようですが(政府広報「再犯を防止して安全・安心な社会へ」2023)、ここには貧困などの社会問題や社会福祉の課題が大きく関係していると小川は思いますキョロキョロ
 
このように、犯罪者の更生と再犯防止は今日でも未解決の問題ですが、ましてやこの脱獄事件が起きた63年前には、犯罪者には刑務所の規律を守り課された刑期を務めさせることが中心で、それ以外にはわずかな工賃を与えて職業技術を伝授する(清水らが行っていた配管工事もその一つ)取組がなされていた程度でした。
 
とすれば、自分を待ちわびている家族がいるとか、やりたい仕事や受け入れてくれる職場があるといった出所後に希望の持てる人は良いとしても、配管工としての腕を持ちながら酒好きで窃盗やかっぱらいがやめられない清水や、出所が近づいても内妻からの連絡が途絶えて見捨てられた気持ちになっていた遠藤のような囚人は、将来の希望もなく刑務所での生活にも意味を見出すことができないでいたことでしょう。
 
強制収容所や刑務所、精神科病院の閉鎖病棟など、強制的に自由が抑圧された拘束状態に置かれた人間には独特の異常な反応が見られることがあり、精神医学や心理学ではそれを「拘禁反応」と呼んでいますが、ただ「酒が飲みたい」「シャバの空気が吸いたい」など一時の欲求を満たすためだけに殺人まで犯すという彼らのまったく割に合わない行動は、一種の拘禁反応も影響したのではないかと思えるほど非合理なものです。
 
しかし、いずれにしても彼らの身勝手極まる振る舞いの犠牲となり殉職された看守の梁瀬三喜雄さんの悲劇は決して忘れられてはなりません  ショボーン
 
梁瀬三喜雄さん
 
清水が21日に脱獄決行を決めたのは、看守が「おとなしく、気さくな簗瀬さんだったため」だと読売新聞は報じています。
 
凶悪犯が収容されていなかった中野刑務所だからかもしれませんが、囚人に対しても同じ人間として気さくに接していたらしい梁瀬さんの優しさを逆手にとって情け容赦なく惨殺した清水に対しては、心の底から怒りが込み上げてきますプンプン
 
群馬県高崎市出身で、父親と同じ刑務官(看守はその階級)の職についた梁瀬さんは、妻のいのさん(同39歳)と長女・美智子さん(同11歳)、長男・隆君(同9歳)の4人家族で、刑務所の東隣りにある官舎アパートに住んでいました。
 
黄色の枠で囲んだ建物群が官舎アパート
 
まさに目と鼻の先にある職場で夫を殺害された妻のいのさんは、「つねづね危ない仕事だとは思っていましたが、まさかこんなことになるとは思ってもいませんでした」と涙ながらに繰り返していたということです。
 
毎日新聞(1961年1月23日夕刊)
 
1月23日に官舎アパート2号館35号の梁瀬さん宅で、近親者や同僚だけの内輪の葬儀が行われたことを、毎日新聞が「都内ニュース」紙面で上のように報じています。
 
梁瀬三喜雄さんと遺族のご無念、とりわけ突然に父親を奪われたまだ小学生の2人のお子さんの悲しみと深い心の傷を想うと、涙が溢れて言葉も出ない小川ですショボーン
 
 
【付記:中野刑務所について】
中野刑務所のルーツは江戸時代の伝馬町牢屋敷にまで遡るそうですが(場所は異なる)、大正の豊多摩監獄時代には大杉栄が、昭和に入っての豊多摩刑務所時代には治安維持法違反容疑で中野重治、小林多喜二、埴谷雄高、亀井勝一郎ら著名人が多数収監され、終戦からひと月余り後には哲学者の三木清がここで獄中死しています。
 
十字舎房(後の分類舎)の内部
 
1957(昭和32)年に中野刑務所と改称されてからは、1972(昭和47)年に学生運動のリーダーだった藤本敏夫が歌手の加藤登紀子とここで獄中結婚したことでも知られています。
 
住宅密集地にあった中野刑務所は、住民の強い要求もあって1983(昭和58)年に廃止・解体され、1985(昭和60)年に区民のための「平和の森公園」となりました。
 
刑務所の建物で今も保存されているのは、豊多摩刑務所時代のれんが造りの正門(「平和の門」として2021年に中野区の有形文化財に指定)のみです。
 
 
 
 

 

本日、4月2日は国連が定めた「世界自閉症啓発デー」です💙

 

 
この日は世界各地で自閉症に関する啓発の取り組みが行われます。日本でも自閉症をはじめとする発達障害について広く啓発活動に取り組んでいます。
今日は職場のみんなでイベントに参加しました。
 

 

 
世界や日本各地の代表的な建物等をブルーにライトアップする取組が行われます。
 
 
さっき、仕事帰りに見に行ってきました💙
 

 

 

 

 
最後までお読みくださり、ありがとうございましたニコニコ💙

新橋第一ホテル

女性歯科医殺人事件

1972年
 

週刊現代 1972年7月13日号

 
【事件の概要】
 

毎日新聞(1972年6月26日夕刊)
 
1972(昭和47)年6月26日、東京の新橋第一ホテル(現在の第一ホテル東京)新館3階3304号室で、熊本県八代市の歯科医・谷崎アヤコさん(当時37歳)がじゅうたんの上に仰向けになり、全裸で殺されているのが発見されました。
 
遺体には、ホテルの浴衣や彼女のワンピース、下着などがかけられていました。
 
司法解剖の結果、死因は手か幅の広い帯のようなもので首を絞められての窒息死で、胃の内容物から食後1〜2時間、死亡推定時刻は午後8時ごろ、ベッドもシャワールームも使われた形跡がなく、谷脇さんは部屋に戻った直後に殺害されたものと考えられました。
 
彼女の全身には、襲われて必死に抵抗したためか皮下出血が見られ、隣りの部屋の宿泊客が「助けて、誰か来て!」という女性の叫び声を聞いていたのですけれど、フロントにも警察にも通報するのをためらったそうです。
 
なお、遺体には死後に性的暴行を受けたあとが認められました。
 

谷崎アヤコさん


 

遺体を発見したのは、被害者と一緒に熊本から上京していた歯科医の知人男性2人(AさんとBさん)、そしてホテルの従業員です。

 
谷崎さんとAさん・Bさんの3人は、6月25日から2日間の予定で霞ヶ関ビル12階で開催されていた日本歯科医師会の講習会に参加するため、24日に東京に来ていました。
 
6月25日の講習会を終えた3人は、午後6時半ごろから有楽町のガード下の焼き鳥屋で夕食を共にしていましたが、谷崎さんは「気分が悪い」と言って7時半ごろ1人で先にホテルに帰りました。
 
有楽町ガード下の飲食街
 
その後、映画を観に行った男性2人のうち、Aさんは体調が悪いと言って午後8時半ごろにホテルに戻り、谷崎さんの部屋の筋向いの自室で横になっていたそうです。
 
読売新聞
 
午後11時ごろBさんが映画から戻ったので、2人は焼き鳥屋の代金を清算しようと谷脇さんの部屋をノックしましたが応答がありませんでした。
 
翌6月26日の朝9時ごろ、谷崎さんがなかなか起きてこないのを不審に思った2人が彼女の部屋のドアをノックしますが、やはり応答がありません。
 
そこでホテルの従業員に鍵を開けてもらい一緒に室内に入ったところ、変わり果てた姿の谷崎さんが床に横たわっていたのです。
 
毎日新聞
 

警察は、谷崎さんが犯人を部屋に招き入れたように見えることから顔見知りの犯行と考え、まず同じホテルに宿泊していたAさんとBさんから事情聴取しました。

 

読売新聞(1972年6月27日)

 

ところが遺体に残された体液から判明した犯人の血液型「O-非分泌型*」が2人と合わず、また部屋や彼女のバッグの留め金に付着していた指紋とも一致しなかったのです。

 *ABO式血液型を決める物質の分泌量が遺伝的に少ないタイプ

 

朝日新聞(1972年6月27日)
 

次に疑われたのは、谷崎さんが卒業した九州歯科大学の2年先輩で、東京で歯科医をしているCさんです。

 

歯科医師会の講習会は月に1回2日間、全部で10回開催されていました。

Cさんは、谷崎さんが講習会で毎月上京するたびに会って「情事」を重ねていた3年来の不倫相手です。

 

この時にも、東京に着いた6月24日に谷脇さんは、AさんとBさんに「叔母の家に行く」と嘘をついてCさんと落ち合い、六本木のレストランで食事をしますが、新橋第一ホテルに戻ってきたのは午前0時を回っていたようです。

 

けれども、このCさんの血液型も指紋も、犯行現場のものとは一致しませんでした。

 

また、ダンスが趣味の彼女は、上京時にダンスで着る夜会服や靴を必ず持参し、ダンスホールなどで踊りを楽しんでいたのですが、有楽町のダンス教室で知り合ってよく一緒に踊っていた男性が疑われました。

しかし、彼には確かなアリバイがありました。

 

さらに、谷崎さんが事件の日に購入代金を支払う予定だった歯科器具の営業マンも疑われましたが、やはり血液型や指紋が一致せず、容疑が晴れました。

 

また、気分が悪いと先に帰ったはずの彼女が、わざわざホテルの先のパーラーに寄って果物(ビワと桃)を買ってホテルに戻っていることから、来客の予定があり、その人物が犯人だったのではないかとも考えられましたが、該当者は浮かびませんでした。

 

読売新聞(1972年6月28日夕刊)

 

谷崎さんの事件から2ヶ月半ほど後の9月4日午後11時半ごろ、同ホテルで女性宿泊客が部屋に入ろうとしたところ、つけてきた男に鍵をひったくられそうになる事件が起きました。

 

そして鍵の強奪未遂から2時間余り後の5日午前1時ごろに、同じ男の声で女性の部屋に「一緒に食事をしよう」という電話があり、怖くなった女性がフロントを通じて警察に届け出ました。

 

毎日新聞(1972年9月6日夕刊)

 

電話が内線だったことからその男も宿泊客と思われ、谷崎さんの事件との関連を視野に警察は捜査しましたが、男を突き止めるまでには至りませんでした。

 

こうして警察は、谷崎さんの交友関係や変質者など4300人を調べ、54000人もの指紋を照合しながら、有力な容疑者が浮かぶことなく捜査は暗礁に乗り上げ、1973(昭和48)年10月20日に捜査本部は解散してしまいます。

 

そして、ついに犯人が分からないまま事件は公訴時効を迎え、迷宮入りになったのです。

 

週刊朝日(1972年6月号)
 


サムネイル

小川里菜の目

 

谷崎アヤコさんについて、もう少し見ておきますキョロキョロ

 
彼女の郷里の天草には、海藻に付着した牡蠣の殻から石灰を製造する地場産業があり、今も熊本県宇城(うき)市に谷崎石灰工業所という会社があります。
これが谷崎さんの実家に関係あるかどうかは分かりませんでしたが、彼女は石灰製造を生業(なりわい)とする比較的裕福な家庭に生まれました。
 
カトリック系の女子校である八代白百合学園高等学校を卒業した谷崎さんは、1953(昭和28)年に福岡の九州歯科大学(現在は公立大学法人)に入学します。
 
歯科医となった彼女は、1961(昭和36)年に天草諸島の御所浦島(ごしょうらじま)にある市立診療所に勤務しました。
 
ダンスが好きだった谷崎さんが、建設会社でトラック運転手をしていた男性とダンスを通じて知り合い、両親の反対を押し切って、男性が婿養子になる形で結婚したのもこのころです。
 
一男一女に恵まれた彼女は、事件の前年の1971(昭和46)年、八代市に念願の谷崎歯科医院を開業しました。
 
読売新聞(1972年6月26日夕刊)
八代市の谷脇歯科医院
 
そこに至るには、トラック運転手をやめて家事や子どもの世話をし、開業後は歯科技工士見習いとして診療も手伝う夫の協力と支えがあり、夫婦仲も決して悪くはありませんでした。
 
ただ谷崎さんは、現状に満足して与えられた枠に収まる「わきまえた」女性ではありませんでした。
 
それが、事件の被害者でありながら奔放な行動を叩かれる原因となったのですキョロキョロ
 
犯人探しが暗礁に乗り上げる中、この事件を取り上げた週刊誌などが、殺人事件の被害者であった谷崎さんの私生活に好奇の目を向け、次のようなタイトルで競うように書き立てました。
 
    

「夫も知らなかった2児の母のもう一つの夜の私生活」

 

「女歯科医の奔放なプライバシー」

 

「あまりに高くついた東京アバンチュール」

 

「谷脇さんは女王さま」

 

 

朝日新聞(1972年6月28日)
 

八代市に夫と子ども2人(小学3年の長女と小学1年の長男)の家庭があり、丁寧な仕事ぶりで患者からの評判も良い開業医でありながら、派手な衣装に身を包んでダンスに興じたり、毎月上京しては愛人との密会を重ねていた谷崎さんを、殺された本人にも落ち度があったと言わんばかりに週刊誌は書いたのです。

 

東京日比谷にあったダンスホール

 
警察は当初、顔見知りの犯行にこだわったようですが、遺体に性的暴行をしている異常さから見ても、彼女の「不倫のもつれ」が事件の原因とは思えませんし、実際に彼女の不倫相手や考えられる限りの友人・知人も容疑者とはなりませんでした。
 
ですから、不倫に対する道徳的批判はあるとしても、それと直接関係のない殺人事件の被害者のプライバシーをこれでもかとさらして叩くマスコミの行為は、死者にムチ打つ「セカンドレイプ」だったのではないでしょうかキョロキョロ
 


では、谷崎さんを貶めるような報道が繰り広げられた背景にはどのような女性観があったのでしょう。

 
サムネイル
 
1960年代の高度経済成長時代を通じて日本では、団塊の世代の多くの若者が、就職のために地方から都会に出てきました。


そして彼ら/彼女らは、やがて結婚し子どもをもうけて都会に定着するようになりました。
 
この時代、「両親と子ども」の核家族が、電化製品に囲まれた団地暮らしのイメージとともに広がっていきます。
 
1964年の団地の暮らし
子どもたちに先に食べさせる妻/母
夫/父はまだ会社か
 
農家であれば妻も農作業に従事しますが、都会ではサラリーマンの夫は外で働き、専業主婦の妻は家で家事育児に専念する「性別役割分業」が広がったのがこの時代でした。
つまりこのころは、「女性は結婚したら家庭に入る」のが当たり前とされたのです。
 
ちなみに、谷崎さんが参加した歯科医師講習会でも、女性は彼女1人だけだったそうです。
 
今では死語(?)になった「家事手伝い」(学校を卒業した娘が結婚の準備として家で母親から家事を教わる)という「肩書き」が女性にあったり、会社に勤めたとしても「腰掛け」と言われたように一時的なもので、職場で前途有望な男性に出会い恋をして、結婚を機に仕事を辞めるいわゆる「寿(ことぶき)退社」が働く女性の憧れでした。
 
 
結婚せずに仕事を続ける女性は、「お局(つぼね)さま」などと揶揄され、若い女性社員からも煙たがられた時代なのです。
 
家庭に入った専業主婦の女性は、夫の稼ぎで生活をやりくりしながら子どもを産み育てること、つまり夫(主人)に仕えて家を守る「良い妻、賢い母」であることが求められました。
 
ですから、谷崎さんのように女性が歯科医という専門職につき、元トラック運転手だった夫の方が歯科技工士見習いとして妻の下で働き、家事育児もほとんど夫がするという「逆転」夫婦は、当時では異例中の異例だったでしょう。
 
そういう場合に「女のくせに」と顰蹙(ひんしゅく)を買うのは、決まって女性の方でした。
事実、スポーツタイプの日産フェアレディを乗り回す谷崎さんは、「えらそうにしている」と近所の評判は良くなかったようです。
 
しかも谷崎さんは仕事だけでなく、服装もオシャレでダンスという趣味を持ち(夫との仲を取り持ったのもダンスでした)、さらには東京には胸ときめかせて会う恋人までいたのです。
 
そのように、家事を夫に任せて愛車でダンスに通うような自己中の女なら、犯罪に巻き込まれても自業自得、私生活や「裏の顔」を暴かれ叩かれても仕方ないと思われたのでしょうか……
 
しかし、もしこれが男女逆であったらどうなのでしょう。キョロキョロ
 
つまり稼ぎの良い歯科医の夫には、医院を手伝いながら家事育児もこなす妻がおり、華やかな趣味をもって、遠隔地の愛人と家庭を壊さない程度の「アバンチュール」を時に楽しんでいる——そういう夫が不倫と直接関係のない殺人事件の被害者になったとして、マスコミは「妻も知らなかった2児の父のもう一つの夜の私生活」と書き立てたでしょうか。
 
被害者にもかかわらず谷崎さんに対して冷たい視線が向けられる中で、ノンフィクション作家の桐島洋子さんは、雑誌『微笑』(1972年8月26日号)で次のように書いています。
 

「彼女も、家にあれば良き妻、子どもたちにはとても良い母親であったのだろう。彼女が東京で知らない男と踊ろうと、デートしようと、非難することはできない。彼女は、何を悪いことをしたのだろう。何もしていない。こんなことがなければ、また、すてきなデートができたものを。とてもすばらしい交際だと思う。中年女性にとっては、相手はある程度インテリジェンスをもった男性でなければ面白くない。だが、たいていの場合、中年女性の浮気相手は、くだらない男が多いものだ。彼女の場合は、大学の同窓で、しかも立派なお医者さま。すばらしいではないか。」

 

夫や子どもたちと谷崎さんとの関係がどうだったのかよく分かりませんので、桐島さんのように「すばらしい」とストレートに言い切ることは小川にはできませんが、少なくとも家族や夫婦のあり方は当事者たちの意向を踏まえて多様性が認められるべきですし、一夫一妻の枠に縛られない「ポリアモリー」(関係者全員の同意の上で、複数のパートナーと関係をもつ恋愛のスタイル)という生き方も人によっては選択肢としてありうるでしょう。
 
日本家族計画協会の「ジャパン・セックスサーベイ2020」という調査によると、男性の不倫(恋人や結婚相手以外のパートナーとの性関係)経験の割合は67.9%、女性は46.3%で、現在不倫している男性は41.1%、女性は31.4%という現実があるのです。

 

これを見ると、不倫経験は男性の方が多いにもかかわらず、叩かれるのは女性の側に偏っているという傾向は、昨今の芸能人の不倫騒動においても見られることです。

 

ましてや谷崎さんの時代には、あるべき性別規範に従わない女性を「女のくせに」と非難する傾向は一層強くあったことでしょうキョロキョロ

 

その結果、男性目線の心ないマスコミ報道が、妻・母を失って悲嘆にくれる谷崎さんの夫や子どもたちをさらに深く傷つけたのではないかと安じ、憤りを覚える小川ですショボーン

 
この事件は朝倉喬司さんの「誰が私を殺したの」と「女性未解決事件ファイル」で知りましたビックリマーク
 



 


読んでくださった方、ありがとうございましたニコニコ飛び出すハート

YouTubeです↓

今回はリクエスト企画ですニコニコ

「生き仏」殺人事件

(闇屋4人殺害事件)

1946-47年

1945(昭和20)年8月15日の敗戦後、不足する食糧や生活必需品のほとんどが政府によって統制され自由な売買が禁止される中、配給物資だけでは生きていけない*都市部の人びとの必要を満たしたのが、米などの物資を違法に売買(闇取引)する市場、いわゆる「闇(ヤミ)市」でした。

 *1947(昭和22)年に、配給物資だけで生活していた山口良忠裁判官が餓死する事件が起きています

 

大阪の闇市「梅田自由市場」

1946年7月1日撮影

朝日新聞デジタル

 

その大阪の闇市を舞台に、4人の闇商人がある内縁の夫婦が仕掛けた詐欺にあって殺され、金品を奪われる事件が起きました。

 

この「闇屋4人殺害事件」は、犯人の男女が逃亡先で近隣の人たちから「生き仏」と呼ばれるような善行を施していたことから、「生き仏」殺人事件とも言われます。

 

【加害者となった夫婦】

4人を殺害するという凶悪な犯罪に手を染めてしまったのは、岩崎治一郎と杉山志づという内縁の夫婦です。

 

岩崎治一郎は、新潟で1899(明治32)年10月3日に岩崎勇松・テリの長男として生まれます。

幼くして両親は離婚、父親とは生別し母親も再婚したため、治一郎は埼玉の母方の祖父母のもとで弟と一緒に育てられます。

 

高等小学校(2年制で現在の中学1・2年に相当)の2年途中で退学した治一郎は、家の農業を手伝っていましたが、1917(大正6)年、17歳で結婚*し1男2女をもうけます。

 *当時の民法では、男性は満17歳、女性は満15歳で結婚できました

 

1919(大正8)年、治一郎は舞鶴海兵団(旧海軍が軍港の警備や新兵・下士官の教育のために設けた陸上部隊)に入団しますが、祖父が亡くなり、再婚相手と死別した母親が実家に戻るなどがあって、2年半ほどで海兵団を退団し、家に戻ります。

 

舞鶴海兵団

 

母が料理屋を始めるというので、祖母の意向もあって治一郎は祖父から相続した農地のほとんどをその資金にするため売却し、自分は自作農から小作農に転落してしまいます。

そのことから妻やその実家とのいざこざがたえなくなった彼は、25歳で離婚して家のことは弟に託し、家を離れて各地を転々としながら人夫や店員として働きました。

 

土木建築請負業者に雇われて働き、やがて自分も建築の下請け業者になった治一郎でしたが、戦争で土木建築が統制されるようになり、左官の「こね屋」(左官が壁に塗るモルタルなどをこねる専門の職人で、自身で塗ることもある)に転業します。

 

そうして静岡県下で働いていた1943(昭和18)年、彼は杉山志づと出会って内縁関係になり、彼女の連れ子(娘)と3人で同棲するようになります。

 

1944(昭和19)年3月、大阪府北河内郡住道町(すみのどうちょう、町村合併により現在は大東市)にあった松下飛行機株式会社(松下電器が海軍の要請で木製爆撃機「明星」を製造するため昭和18年10月に設立)の建築工事現場で働くため、一家で飯場(はんば:土木建築工事などの現場に設けられた作業員の宿泊施設)に移り住みます。

 

木製爆撃機「明星」

敗戦までに4機が製造された

 

しかし、戦争の激化で工事が進まないことからそこでの仕事をやめた治一郎は、1945(昭和20)年2月ごろに住道町大字下三箇(現在の大阪府大東市三箇)に家を得て住むようになります。

 

時折は静岡に出稼ぎに行きながらこれといった仕事もしないうちに敗戦を迎えた彼は、働く意欲を失い、それまでの蓄えや手持ちの衣類を売るなどして生活していました(義理の娘は家を出て水戸で働く)。

 

いよいよ生活に窮した治一郎は、1946(昭和21)年になって仕事を探しますが見つからず、闇物資のブローカーになろうとしましたがそれもうまくいかずに、生活はますます逼迫していったのです。

 

一方、内妻の杉山志づですが、1903(明治36)年6月1日、山梨県南都留郡に杉山房吉・ヤスの長女として生まれます。

 

杉山志づ

 

彼女が9歳のころ、樵(木こり)をしていた父が病気になったため一家は清水市に移り、志づは尋常小学校を3年(現在の小学3年)で中退し子守や女工、女中などをして働きます。

 

1922(大正11)年、ある男性と19歳で内縁関係になった彼女は、翌々年に長女を出産しますが、その後まもなく男性とは別れます。

 

娘だけでなく病気の父親も抱えた志づは、1926(大正15)年から4年間娼妓(しょうぎ:売春婦)として働き、その後に寿司屋で女中奉公しますが、母親まで病気になったことからまた娼妓として働くなど、苦労が絶えませんでした。

 

1940(昭和15)年に彼女は、マーシャル群島のヤルート島(当時日本が委任統治していた中部太平洋ミクロネシアの島で、海軍基地があった)に兵隊の慰問婦として1年行っています。

 

日本経済新聞(2015年3月23日)

 

1941(昭和16)年に帰国した志づは、寿司屋や夜店で働くうちに、1943(昭和18)年に治一郎と出会って内縁関係になったのです。

 

【事件の概要】

 

読売新聞(1947年4月28日)

 

大阪府北河内郡住道町に住んでいた岩崎治一郎(「高橋明」という偽名を使っていた)と杉山志づ(「静子」とも名乗る)は、戦争中に購入した戦時国債(戦費調達のために国が発行した債券)が、戦後のすさまじいインフレ(1945年8月から1949年の間に物価が約70倍に上昇)によって紙屑同然になってしまい、仕事が見つからない中、1946(昭和21)年の春ごろには売り食い生活も限界に来ていました。

 

戦時国債(例)

「大東亜戦争割引国庫債券」(昭和17年)

 

そんな時、治一郎がラジオで、1944(昭和19)年に多額の現金を持って物資の買い出しに行った人が行方不明のままだというニュースを聞きます。

 

それをヒントに犯行を思いついた彼は、1946(昭和21)年6月ごろ、「この節尋常な手段では金を手に入れることはできないから、モンサントサッカリン(サッカリンは人工甘味料で、モンサントはアメリカの製造販売会社)等の品物を取引すると言って客を騙して自宅に誘い込み、殺して金を取ろう。死体は裏庭に埋めておけば世間に判らないで済む」(大阪地裁判決文、( )内は小川の補足)と志づに相談し、彼女も承諾したので2人で準備を進めました。

 

①第一の殺人 1946(昭和21)年7月17日

計画を実行に移した2人は、志づが適当な相手を探してだまし、新聞報道によれば「吉田御殿」と呼ばれていた自宅に誘い込む役をすることにしました。

 

7月14日、大阪市北区曽根崎の闇市で相手を探していた志づは、曽根崎の通称「お初天神」(露天神社:つゆのてんじんしゃ)境内で露天の魚店を開いていた和田五郎さん(当時45歳)に話しかけました。

 

当時の雰囲気をわずかにとどめる

お初天神裏参道

 

しかしその日詐欺を切り出せなかった志づは、16日に再び和田さんを訪れ、「主人がモンサント(サッカリン)を3万円分お世話できる。お金を持って私の家まで来て貰えば品物をお渡しする」と持ちかけたところ、彼はすぐに話に乗ってきたそうです。

 

こうして7月17日の午前10時ごろ、迎えに来た志づに同行して和田さんは、途中で野村銀行(大和銀行をへて現在はりそな銀行)梅田支店でお金を下ろし、12時ごろに治一郎の家に行きました。

 

しばらく取引の話をしてから治一郎は、契約書を書いてくれと紙と万年筆を渡し、和田さんが畳の上にかがんで書こうとした時、彼に飛びかかって首を締め、さらに左官や大工の仕事で使う掛矢(かけや:木のハンマー)で頭を殴打、最後は真田打紐(布製品の梱包やふんどしの紐として使われていたテープ状の紐)を首に巻いて窒息死させ、現金3万円*を奪ったのです。

 *インフレが進んでいたので一概には言えませんが、今の価値では数百万円以上に相当すると思われます

 

ちなみに、治一郎は柔道4段の腕前だったそうです。

掛矢(例)

 

真田打紐(例)

 

そして和田さんの遺体は、計画どおり裏庭に穴を掘って埋めました。

 

②第二、第三の殺人 1946(昭和21)年12月28日

治一郎と志づの2人は手に入れた金で生活していましたが、同年10月ごろ、知人の中西信隆さんからガソリンなら売れる人を探せると言われたことから、闇ガソリンの取引でだまして再び金を手に入れようと考え、志づもそれに同意します。

 

「旧日本軍のガソリンを持っている人を知っている」と中西さんを信用させた治一郎は、中西さんから藤田繁郎さん(同30歳)を紹介してもらい、藤田さんはさらに知人の松近喜久馬さん(同35歳)に話を伝えて、松近さんがガソリンを買い取ることになりました。

 

12月28日、藤田・松近の2人と中西さん宅で落ち合った治一郎は、正午過ぎに自宅に彼らを連れて行きます。

2人を一度に殺害することは難しいので、口実を設けて志づが松近さんを外に連れ出しました。

 

そしてその間に治一郎が、第一の殺人と同じ要領で藤田さんに襲いかかり、掛矢で撲殺し縁の下に遺体を隠したのです。

 

しばらくして戻ってきた松近さんにも、藤田さんは所用で出かけたのでその間に契約書を書いてほしいと同じようにして掛矢で殴りかかり、さらに首を絞め窒息死させて現金2万円と腕時計を奪い、2人の遺体を裏庭に埋めて遺棄したのです。

 

③第四の殺人 1947(昭和22)年4月22日

その後も2人は特に仕事もせずに暮らしていましたが、1947(昭和22)年3月ごろに志づの方から、またサッカリンの取引を装って金品を強奪しようと治一郎に持ちかけ、2人はサッカリンの包に見せかけたものを作るなどして準備を始めます。

 

今度も、志づが神戸の闇市でだます相手を探しました。

 

神戸元町付近の高架下の闇市(1948年ごろ)

神戸新聞(2015年8月30日)

 

志づは、人を介して知り合った名村五三六さん(同21歳位)に、「主人が進駐軍の倉庫係をしているのでモンサント(サッカリン)を12万円分流すことができる」と持ちかけ、名村さんもその気になりました。

 

1947年4月22日、内金として10万5千円を持参した名村さんを志づが午後2時ごろに自宅に連れて行き、これまでと同様に治一郎が掛矢で彼を殴打のうえ紐で窒息死させ、裏庭に埋めました。

 

ところが、2人にとって誤算だったのは、名村さんは用心して現金を持って来ていなかったのです。

 

さらに決定的な誤算は、取引のことを名村さんが実兄の豊二さんに話していたらしく、連絡がつかなくなった名村さんを探して兄が家にやって来たことでした。

 

その場はなんとか取りつくろったものの、犯行の発覚を恐れた2人は、4月25日の早朝、身の回りのものだけを持って逃亡しました。

 

再度やってきた名村さんの兄は、もぬけの殻になった家を見て怪しみ、26日に警察に名村さんの捜索願を出しました。

 

届けを受けた大阪府警四條畷(しじょうなわて)署の警察官が家宅捜索をしたところ、裏庭で4人の遺体を発見し、治一郎と志づの2人を殺人容疑で全国に指名手配したのです。

 

朝日新聞(1947年4月30日)

 

【12年の逃亡と逮捕】

大阪・住道の住まいから逃亡した岩崎治一郎と杉山志づは、東北地方を転々とした後、1947(昭和22)年7月に上京して日雇人夫や手内職をしていましたが、1949(昭和24)年ごろから屑物(廃品)回収業を始めます。

 

バタ屋さんの廃品回収

リヤカーで紙や布、金属類を回収し売った

(「山谷の歴史ときぼうのいえ」)

 

この仕事が順調だったことから、2人は1951(昭和26)年春ごろに東京都文京区小石川町の通称「バタ屋部落」(バタ屋=屑物回収業者)に移り、1954(昭和29)年には近くの防空壕跡の住居で生活するようになります。

 

 

都内に今も残る個人宅の防空壕

朝日新聞デジタル(2021年8月8日)

 

ようやく生活が落ち着いたこともあってか、治一郎と志づは4人を殺めたことへの悔悟の気持ちに駆られたようで、手製の仏壇を自宅に置いて朝晩被害者たちの冥福を祈る毎日を送りました。

 

また治一郎は、近隣住民の世話役となってその福利厚生のために尽力し、また親身になって困っている人の世話を焼いたことから、彼のことを「生き仏」と呼ぶ人さえあったようです。

 

その間も警察は2人の行方を探しており、1958(昭和33)年7月と1959(昭和34)年6月には、警察庁が2人を特別手配の筆頭にあげて追跡捜査しました。

 

読売新聞

*治一郎の顔写真は載っていません

他の記事に、身長5尺4,5寸(約165㎝)、体重18貫(約67.5kg)

で丸顔と書かれています

 

その結果、1959年6月10日、小石川町を管轄する警視庁富坂署に、「以前、小石川後楽園のバタ屋部落にいた時に、隣りに住んでいた夫婦が手配書に似ている」という重要情報が寄せられました。

 

こうして公訴時効まで2年半と迫った1959(昭和34)年8月25日、ついに2人は逮捕されたのです。

 

【裁判と判決】

岩崎治一郎と杉山志づは、大阪に送られて裁判にかけられました。

 

大阪地方裁判所(当時)

 

裁判で検察は、2人に死刑を求刑しました。

 

読売新聞(1960年10月6日)

 

それに対し、大阪地方裁判所で1960(昭和35)年11月28日に開かれた判決公判で西尾貢一裁判長は、被告の2人に無期懲役を言い渡しました。

 

判決文は、「なるほど犯行当時は終戦後間もない頃のこととして、生活面における窮乏が殊の外甚だしく、土木建築業や左官としての経験、技術しか有しない被告人岩崎が、そのような社会情勢の下で困窮したことや、それに基づく被告人らの焦燥、不安の念の一通りでなかったこと、又当時の社会の混乱や、道義観念の著しい低下が、被告人らの道義感覚や常識を著しく動揺させたこと等、想像に難くはない。しかし本件犯罪の重大さや、一般国民がからくも当時の窮乏に堪え、あらゆる辛酸を嘗めていたことを想起すれば右のような事情がさほど被告人らの責任を軽くするものとは考えられない」と2人の罪を厳しく弾劾しています。

 

しかしその一方で、死刑判決を回避したことについて次のように述べています(以下、太字加工は小川)

 

「被告人両名は本件犯行を悔い、逮捕に至るまでの間10年以上にわたり被害者の冥福を祈って来たものであり、その間における被告人らの生活態度も右のような心境にふさわしいものであったから、被告人らが東京で逮捕された時には、その平素を知る近隣の者は、ひとしく意外の感に打たれた程で、またかかる改悛懺悔の情の顕著なことは当公判廷における両名の供述等からも十分これを窺い知ることができるのである。従ってこれらの点よりすれば、被告人両名は、現在では社会人として恐らく普通人以上に道義に基き規範に適った生活をなし得るだけの心構えと能力とを兼ね具えるに至ったものと考えられる。」

 

しかしそれでも「道義の尊厳を明らかにし、社会秩序を維持する見地から、その犯人に対し、なお極刑を以て臨まなければならない場合もなしとはしない」としてさらに検討を加え、概略次のように論じました。

 

①歳月の経過

犯行後逮捕まで既に12年余の歳月が経過し、この犯罪の社会に与えた衝撃がある程度減退し、被告人らの悔悟と相まって被害者・社会の応報感情(犯罪者にそれにふさわしい処罰を与えるべきだとする感情)も幾分かは和らぎ得たものと考えられる。犯行に対する道徳的非難は時間の経過により減退するものではないが、社会秩序の維持を使命とする法においては、この間のわが国の社会状勢の急激な変化も留意し、時間の経過が制裁の必要性を減退させたことを、刑の量定においても十分考慮しなければならない。

 

②公訴時効制度

本件は犯行後12年余で公訴が提起されたが、公訴時効制度の根拠が時間の経過によって可罰性が減少すると考えるなら、公訴時効(当時は15年)を迎えると可罰性がゼロになることとの均衡が考慮されなければならず、時日の流れを無視することの方がより不当であると言える。

 

最後に判決文は、「本件犯罪が兇悪無残なものであることはここに改めて繰返すまでもなく、又被害者の家族の或る者は今日もなお恵まれぬ生活を送っている状態にあって、この犯罪の残した傷痕は深く且つ大きく、心より同情の念を禁じ得ないものではある」としながら、「諸般の点を慎重考慮すると、被告人らに死刑の極刑を科してその生命を奪うよりは、なお少なき余命を全うせしめ、今後も永く被害者らの冥福を祈り、贖罪の生活を続けしめる方が法の趣旨にも適い相当の処置であると考えられる」と述べています。

 

これに対して検察は、量刑不当として控訴します。

 

それを受けて大阪高等裁判所は、1961(昭和36)年7月19日、原判決を破棄して岩崎治一郎を死刑にし、杉山志づは一審通り無期懲役とする判決を下します。

 

大阪高裁の判決文が入手できませんでしたので、どういう理由で治一郎の量刑を見直し死刑にしたかは不明です。

 

この新たな判決は、1962(昭和37)年7月17日に最高裁が上告を棄却したことで確定します。

 

読売新聞(1962年7月17日夕刊)

 

そして、それから5年4ヶ月後の1967(昭和42)年11月16日、岩崎治一郎の死刑が執行されました(享年68歳)。

 

「刑場から 郷土への旅 菊日和」——これが彼の最後の句(決別句)だったそうです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

とても複雑な思いにかられる事件ですショボーン

 

岩崎治一郎と杉山志づが4人もの命を奪ったことは、弁解の余地ない凶悪犯罪です。

 

今のイメージでは、「闇屋」と聞くと密輸業者のように思われるかもしれませんが、そもそも闇市自体が違法取引(自由な売買が違法な闇取引とされていた)の場ではあっても、それなしには戦後の食糧難の時代を人びとが生き延びられない必要悪だったわけです。

 

都会から農村へ食糧を求めての「買い出し列車」

買ってきた芋や米が闇市でも売られた

(1945年11月撮影、朝日新聞デジタル)

 

ですから、仮に彼らが悪どい商売をしていたとしても、殺された4人は自分や家族のために必死に動いていたわけで、殺されても当然とするような理由はなかったはずです。

 

ですから、いくら自分たちが生活に困っているからといって、彼らを計画的かつ無慈悲にだまし殺害したのは、鬼畜の所業と言われても仕方ないのです。

 

しかし、だからと言って治一郎と志づが根っからの悪人だったのかといえば、そうではないと思います。

 

人権など無いに等しい戦前の社会では必ずしも珍しくなかったのかもしれませんが、家庭の事情もあって2人が子どものころからそれぞれに味わった苦労や舐めた辛酸は、今の私たちには想像もできないほどのものでした。

 

特に、小学校を3年でやめざるを得なかった志づは、9歳の時から働きづめに働き、成人してからは病気の両親まで抱えたシングルマザーとして合計6年間娼妓となって身を売り、1年は太平洋の島に渡って兵隊相手の慰問婦までしています。

 

さらに2人が内縁の夫婦となってから、将来のためにとなけなしのお金を出してようやく購入した戦時国債が、敗戦後のインフレで預貯金ともども実質価値を失い消えてしまいます。

 

外崎コウ「生き仏殺人事件」より

(『ザ・女囚』所収)

 

それまでの価値観や社会秩序が崩壊した終戦直後のアノミー状態(精神面でも行動面でも社会の規範が失われた無規範状態)の中で、衣食住にも事欠く2人が、将来への希望を失い「鬼畜」となって犯した罪が4人を殺害して金品を奪う行為だったのではないでしょうか。

 

2人の刑が確定し、妻の志づが無期懲役で刑務所に送られる時、逮捕以来初めて、そして最後の別れに、拘置所の計らいで2人は面会を許されたそうです。

その時の様子を、村野薫さんは次のように書いています。

 

二人は終始決然と、手ひとつ握りあうでなく、岩崎が「お前と二人の人間らしい一生は敗戦の日に終わった。それからの惨めな長い年月を苦労をかけどおしで、これという楽しい思い出はひとかけらも与えずこのような結末を招いて……すまんことをした」と訥々(とつとつ)と詫びれば、妻は「お父さんこそ、長い間やさしくしてもらって、どこへ行っても忘れません」と肩ふるわせ、互いを気遣う心に、傍で見ているものもついつい、もらい泣きする風景だったという。

 

「お前と二人の人間らしい一生は敗戦の日に終わった」——その絶望が彼らを連続強盗殺人の狂気へと駆り立てたのでしょう。

 

彼らが「人間らしい」心をようやく取り戻しかけたのは、東京小石川のバタ屋部落で社会の最下層の人たちと共に暮らし、互いに助け合う生活を始めてからでした。

 

自分たちが犯した罪の重さにおののいた2人は、手製の仏壇を作って毎日朝晩被害者の供養を欠かさず、またわずかでも罪を償おうとするかのように、近隣の世話役となり困っている隣人に親身になって手を差しのべたのです。

 

もちろんそれで罪が帳消しになるわけではありません。

2人が逮捕され裁かれたのは、当然の報いと言うべきでしょう。

 

それでは、4人を殺めた「鬼畜」の顔と、わが事のように隣人を助けた「生き仏」の顔のどちらが彼らの素顔だったのでしょうか。

どちらもが彼らの素顔であって、それは人間が誰しも持っている善と悪の二面だと小川は思います。

 

そして、そのどちらの面に人が支配されるかは、本人の意志や努力だけでなく、置かれた情況によって大きく左右されざるをえません。

 

その意味では、加害者である彼らもまた、戦前の社会や、戦争という大きな狂気の犠牲者でもあったでしょう。

 

高裁の判決文が読めていないので、治一郎を死刑にした根拠が妥当だったのかについて、ここでは判断を保留せざるを得ません。

 

しかし、「その生命を奪うよりは、なお少き余命を全うせしめ、今後も永く被害者らの冥福を祈り、贖罪の生活を続けしめる方が法の趣旨にも適い相当の処置である」と地裁の判決文が言うように、彼ら2人が自らの罪の自覚をどう深め、その後仮釈放も視野にどのような贖罪の生活を続けるかを見とどける方が、人はいかにして「鬼畜」にあるいは「生き仏」になるのか、そして人間にとって避け難い罪と罰についてどう考えるのか、彼らの自己反省や生きざまから学べることが私たちに多くあったのではないかと思う小川です。

 

参照資料

・関係する新聞記事

・村野薫『新装版 戦後死刑囚列伝』宝島SUGOI文庫、2009年

 

 

・川島れいこほか『ザ・女囚〜金と男で地獄を見た女たち』ぶんか社、2016年

 

 

・大阪地方裁判所 昭和34年(わ)2764号判決

 

 

 

最後までお読みくださり、ありがとうございましたおねがい

生坂ダム殺人事件

1980年

「犯人よ、

話してくれてありがとう」

1人の青年が2人の覚醒剤常用者に間違って声をかけられ、ついには縛られて生きながらダム湖に沈められたこの事件は、警察が早々に自殺と断定し捜査の幕を引きました。

 

遺族は他殺ではないかと強く主張して、独自に調査をしていましたが、事件から20年たち刑事・民事両方の時効が来るのを待っていた犯人が犯行を告白したことから、ようやく遺族は真相を知ることになります。

 

警察は、自殺だとした当時の判断は誤りだったと認め遺族に謝罪したものの、捜査ミスがあったとは最後まで認めませんでした。

 

事件から24年後の2004(平成16)年、被害者の妹である小山順さんが、遺族の思いを『犯人よ、話してくれてありがとう』と題した本(以下「順さん著書」と略記)に託して出版しました。

そこには、警察発表とは異なる事実や、新聞などでは報道されなかった多くのことが書かれています。

 

 

 

このブログでは、事実関係について「順さん著書」の記述と警察発表や新聞報道を合わせて述べますが、食い違いのあるところはそのことを記しました。

 

【事件の経緯】

1980(昭和55)年3月29日、長野県東筑摩郡生坂(いくさか)村にある東京電力生坂ダムで、放水作業で水位が10センチほどにまで下がったダムの底に、ビニール製ロープで縛られた男性の遺体があるのをダム管理事務所の作業員が見つけ、松本署に通報しました。

 

東京電力生坂ダム

 

警察が所持品などから身元を調べたところ、遺体は3月1日から行方が分からなくなっていた長野県東筑摩郡麻績(おみ)村の会社員・小山福来(よしき)さん(当時21歳)と判明しました。

 

小山福来さんの遺影

 

司法解剖の結果、小山さんの死因は溺死で、同ダムと同じ水が臓器から検出されたため、彼は生きた状態でダム湖で溺れ亡くなったものと考えられました。

 

小山さんが行方不明になった3月1日、彼は午前10時ごろに愛車に乗って家を出、女友だち(A子さんとします)と映画を見たあと食事をして、午後3時ごろ(犯人の証言では午後1時ごろ)に、松本市今井の松本運動公園(現在の信州スカイパーク)の駐車場に車を停めて話をしていました。

 

A子さんのことを家族はよく知らなかったようですが、高校時代からの親友に小山さんは「新しくできた彼女」と言っており、前日の2月29日にも彼は有給休暇をとって日本海を見たいという彼女と一緒に富山まで行っています。

 

「順さん著書」より

 

松本運動公園は、1978(昭和53)年に長野県で開催された第33回国民体育大会(やまびこ国体)の時に整備され、若者に人気のデートスポットになっていました。

 

その時、1台の黒い大型乗用車から降りてきた男が小山さんの車に近づいてきて、話があるから来てくれと言いました。

 

そこで小山さんは、A子さんにすぐ戻るという素振りをして、別の男が運転するその車の後部座席に話しかけてきた男と乗り込むと、車は発進してそのまま行方が分からなくなったのです。

 

A子さんの証言では、彼女は車で後を追ったそうですが、途中の赤信号で停止している間に、男の車を見失ってしまいました。

 

午後5時ごろ小山さんから自宅に、「彼女(A子さん)は寄った? 俺の車を運転して帰ってない?」とたずねる電話があったそうです。

その時の小山さんには特に切迫した様子はなく、寄っていないと家人が答えると電話は切れました。

 

なお、午後7時ごろに男の声で、「白い車に乗った兄さんは帰ったかい?」という不審な電話があったそうですが、それについては犯人はかけていないと言っており、真相は不明なままです。

 

午後7時半ごろ、安曇野郡穂高町(ほたかまち、現在は安曇野市)にあった小山さん行きつけのレストラン「コスモス」のマスターから、小山さんの家に電話がありました。

 

「コスモス」は、彼が以前に勤めていた会社のすぐ近くにあった店で、この店のコーヒーを好んだ小山さんがよく通い、マスターとも親しくなっていたのです。

 

マスターの電話は、いま店にA子さんがやってきて、小山さんが黒い車に乗った2人の男に連れて行かれたまま戻ってこないと言っているという内容でした。

 

驚いた父親の嘉久芳(かくよし)さんと母親のはつ恵さんは「コスモス」に駆けつけ、A子さんが後を追ったという道路の周辺を一緒に探し回りましたが、深夜になっても手がかりがありません。

 

そこで両親は松本警察署に行って事情を話し、捜索願(現在の行方不明者届)を出してからA子さんを家に送って帰ったそうです。

 

ただこの時点で、「遺族の記憶」と「警察の記録」は異なっています。

 

警察によれば、3月1日の午後10時過ぎに、麻績(おみ)村の駐在所に小山さんの母親が来て、「息子が見知らぬ男の車に乗せられ、どこかに連れ去られた」と相談を受けたため、駐在所から松本署に連絡を入れたというのです。

しかも、その時はまだ捜索願は出されず、松本署が願いを受理した記録は3月3日付だというのです。

 

駐在所から連絡を受けた松本署は、隣接署を含め管内にこの情報を回し捜索を始めたと後に弁明するのですが、この段階ですぐに警察が本腰を入れて取り組んだとは思えません。

 

また警察は遺族に、捜査の支障になるので、これ以上A子さんに話を聞こうとしないこと、またマスコミの取材には応じないことを要請し、遺族はそれを守ったことを後に後悔しています。

 

警察が捜査に本腰を入れたのは、3月29日に小山さんの遺体が発見されてからで、初日には118人の捜査員がこの事件に投入されました。

 

ところが、自殺・他殺の両面から捜査を始めた警察でしたが、早くも遺体発見の翌日には、①遺体のロープは本人でも可能な縛り方だった、②公園で小山さんは男と特に争う様子もなく自分から相手の車に乗った、③「死にたい」など厭世的な言葉を周囲に漏らしていた、といった状況(①と③については、後で見るように遺族は強い疑問を抱きました)から、小山さんの死は自殺であって事件性はないと警察は速断してしまったのです。

 

その結果、捜査員の数も3月30日には79人、31日には66人、4月1日には62人と数日たたずして当初の半分近くにまで減らされ、自殺により捜査打ち切りとの方向に進んでしまいます。

 

その背景には、以前にこのブログでも取り上げた「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」が同じ時に重なって起きており、3月5日には長野で2人目の女性が誘拐され、その捜査に長野県警も総力をあげていたという事情がありました。

 

マスコミで連日大きく報道され、若い女性が被害者となった事件に比べれば、1人の男性の不審死は警察にとって優先順位の低い事件だったのでしょうか。

 

後に、犯人の殺害告白によって県警が再捜査を余儀なくされた時、警察の内部関係者と思われる匿名の人物から、遺族と田中康夫県知事(当時)そして県警本部に、当時の捜査状況を暴露し批判する内容の手紙が届いたそうです。

 

それによると、当時の県警捜査一課長が、現場の捜査官の反対意見を押し切り、「自殺」として処理するよう指示したというのです。

 

真偽は不明ですが、県警幹部にすれば世間が注目している「大事件」で手柄をあげる/失態を犯さないことの方が自分たちのキャリアにとって重要だったでしょうし、厳格な階級組織である警察では上からの命令は絶対だったので、ありえない話ではないように思われます。

 

こうして警察は、自殺とはとうてい考えられないと訴える遺族や友人らの声をよそに、小山さんの死は自殺だったと結論して、事実上捜査を打ち切ってしまいました。

 

それに合わせるようにマスコミも小山さんの事件について報道しなくなりましたが、唯一、他殺ではないかという遺族の疑問と執念の独自捜査を報じたのが、遺体発見からちょうど9ヶ月後に出された下の朝日新聞長野版の記事です。

 

朝日新聞(1980年12月29日長野版)

「順さん著書」より

 

この記事を執筆したのは、当時朝日新聞社松本支局にいた鈴木拓也記者で、彼は「順さん著書」にも「解説」を書いています。

 

【20年後の急展開】

 

毎日新聞(2003年10月6日)

 

ところが、殺人事件の当時の公訴時効15年も民事の損害賠償請求の時効20年も過ぎた2000(平成12)年4月14日になって、香川県の高松刑務所に覚醒剤取締法違反で服役していた太田健一受刑者(当時51歳、犯行時は31歳)が、長野県警豊科(とよしな)警察署(現在は安曇野警察署)の署長に宛てて小山さん殺害を告白する手紙を送ったことから、事件は思わぬ展開を見せます。

 

豊科警察署長は太田からの手紙を、捜査を担当した松本警察署に送り、長野県警捜査一課が事件の再捜査に取り掛かりました。

 

手紙が出されてから2ヶ月後の6月には、長野県警の捜査員が高松刑務所に出向き、太田の供述調書を取っています。

供述内容は、当時の状況や犯人しか知り得ないことなどから概ね事実だと考えられました。

 

太田の供述によると、小山さんに公園で声をかけたのは次のような理由からでした。

 

太田と知人男性(B男とします)は覚醒剤の常用者だったのですが、その妄想もあってか、最近変な車に尾行されているとB男が訴えたため、太田は1980年3月1日、それなら探しに行こうとB男に運転させて(太田自身はその時は免許がなかった)自分の黒い日産セドリックを走らせたそうです。

 

B男はノートにいくつか車のナンバーをメモしており、松本運動公園の駐車場に停まっていた小山さんの車を見て似ていると言ったのです。

 

そこで太田が車を降りて、ちょっと話が聞きたいので来てほしいと小山さんに言い、自分の車に乗せました。

小山さんにすれば心当たりのないことだったでしょうが、A子さんを危険な目に遭わせないようにと太田の言うとおりにしたのかもしれません。

 

この時、太田は特に脅すようなそぶりは見せなかったので、警察の事情聴取でA子さんは、小山さんは争う様子もなく自分から相手の車に乗ったと供述したのです。

 

太田とB男は車を走らせながら車内で小山さんと話をしたところ、すぐに人違いだったと分かったので、太田の言うには「7、8分で」公園の駐車場に戻ったそうです。

ところがそこには、A子さんも車もありませんでした。

 

太田らは、A子さんが警察に行ったのではないかと疑い、もし警察ざたになると覚醒剤の使用がばれて面倒になると考え、小山さんを再び車に乗せて走り出しました。

 

A子さんの動向が気になる太田は、小山さんに言って自宅やA子さん宅などに2度電話をさせ戻っているか知ろうとしましたが、彼女の行方は分かりません。

 

途中まで3人は普通に話をし、食事も一緒にした(下の地図の「Y食堂」)と太田は話しています。

 

ところが、たまたまある交番の前を通った時、B男が小山さんの車を見たと言い出したことから、太田はやはりこのまま小山さんを帰すわけにはいかないと考えます。

 

太田は、A子さんの連絡先を教えろと小山さんに迫りましたが、彼女に危害が及ぶことを恐れた小山さんは、それだけはできないと頑として拒否したそうです。

 

小山さん殺害を決意した太田は、南松本駅近くの金物店に寄って洗濯ロープを購入し、麻績村の自宅まで送って行くとだまして小山さんを国道19号線で生坂ダムに連れて行きます。

 ※下図の長野自動車道は、その時はまだ開通していませんでした(1988年開通)

 

「順さん著書」より(加工は小川)

 

車内で太田は、冗談めかして小山さんの首にロープをかけたりしたそうですが、ダム湖の側で車を停めさせた太田がロープで首を絞めてきたので、小山さんは暴れて車外に逃れようとしました。

 

正確な犯行場所はわかりませんが、小山さんと車外に出た太田は絞殺は難しいと考え、ロープで彼の体を縛って生きたまま小山さんをダム湖に投げ落としたのです。

 

「順さん著書」より

 

上の写真は、山の様子などから下図の🟡付近から撮られたものではないかと小川は推定します。

もしそうであれば、遺体発見場所は下図で示したあたりではないでしょうか。

 

 加工は小川

 

とすると、長野自動車道開通以前の当時は、国道19号線はかなりの交通量だったそうですから、小山さんがロープで縛られ投げ落とされたのは、先に書いたように国道からダム湖に沿って走る県道275号線に入ったあたりではないか思われます。

 

国道から県道に入った、上図の🔴付近(現在)

ここから右前方の湾曲部分(遺体発見現場?)

までのどこかが犯行場所か

 

ただご覧のように、今では道路もガードレール・柵も整備され、当時とはかなり様子が違っているように思われます。

 

話を犯行時に戻します。

 

小山さんが投げ落とされるのを見て、そこまでするとは思っていなかったB男は驚き、ダム湖に飛び込み助けようとしたと言うのですが、小山さんがすぐに沈んだので諦めて湖岸をよじ登ってきたそうです。

 

しかし、こうした供述の裏付け捜査は、事件から20年が経過して当時の捜査員が退職したり捜査資料の多くが廃棄処分になっていることなどから難航します。

 

警察は太田と一緒にいたB男の行方を探し出し、2000年6月に最初の事情聴取をします。

 

その後もB男から聴取をしようとしたそうですが、呼び出しに応じなかったり行方をくらませたりしたため、2003年7月にようやくB男から事情聴取をします。

 

その翌月、再び太田を取り調べて2人の供述がほぼ一致していることを確認した警察は、同年10月6日に太田健一を殺人と死体遺棄容疑で書類送検しました。

 

犯行告白の手紙から実に3年半近くが経っていました。

 

ただ、先に述べたように、殺人罪の公訴時効が過ぎていることから、太田は不起訴となり、10月11日に高松刑務所での服役を終えて出所しました。

 

ちなみに、出所後わずか4日目の10月15日、太田はまた覚醒剤取締法違反(覚醒剤の使用)容疑で愛知県警に逮捕されています。

 

【それでも晴れぬ被害者遺族の気持ち】

太田の殺害告白から3年半、小山さんの遺族は長野県警からそのことを一度も知らされないまま、2003年9月30日になって松本署の副署長と総務課長の2人が小山さん宅を訪れました。

 

小山さんの父・嘉久芳さんは事件の4年後に亡くなっていたため、母のはつ恵さんと妹の順さん(事件当時はまだ中学3年生だった)が応対しましたが、副署長らは太田の告白があってからの経緯説明と、新聞に「自殺ではなく他殺だった」との記事を小山さんの顔写真などなく「小さく載せる」と言うだけで、母親の質問には「もう23年も昔のことだからわからない」と繰り返すばかりだったそうです。

 

事件の真相はどうだったのか、そしてなぜあの時に警察は自殺と速断するミスを犯したのか、また犯人の告白からなぜ3年半も遺族に何も知らされなかったのか……という思いが次々に溢れた母親ら遺族は、真相解明に向けて「今度こそ自分たちが納得するまで“戦おう”」(順さん著書)と決意し、無料法律相談に行ったり、松本署に行って太田を取り調べた捜査官に会って話を聞こうとしたのです。

 

この時、母親のはつ恵さんら遺族を無償で支えたのが永田恒治弁護士でした。

 

1994(平成6)年に長野県松本市で起きた、オウム真理教が神経ガスのサリンを撒き、その時点で7人が亡くなった「松本サリン事件」で、第一通報者で自身も被害者であった河野義行さんが、警察のずさんな捜査で容疑者とされ、マスコミも河野さんを犯人同然に報道するという冤罪未遂事件がありましたが、永田弁護士は河野さんの弁護にあたった人です。

 

毎日新聞「平成の事件ジャーナリズム史」⑻より

(2019年3月10日)

 

遺族による真相究明の詳細は省かざるをえませんので、関心を持たれた方は「順さん著書」をぜひお読みいただきたいのですが、ここでは小山さんが自殺とされた点に話を絞って明らかになったことを書いておきます。

 

遺族にとって一番納得いかなかったのは、「他殺である」理由はあっても「自殺である」理由はまったく考えられないことでした。

 

行方不明になる前日の日帰り旅行に続いて、当日もA子さんとデートを楽しんでいた小山さんが、仮にそこで彼女との間にいさかいが起きたとしても、いきなり死のうとするでしょうか。

 

そこで警察は、小山さんが「厭世的な言葉を周囲に漏らしていた」ことをあげ、マスコミもそのように報じました。

 

しかし、母親が尋ねても職場の上司や同僚でそんな言葉を聞いた人は誰もおらず、不思議に思った友人らが小山さんの周辺をさらに聞いて回ったそうですが、そんな言動を見聞きした人はただの1人もいなかったそうです。

 

また、仮に小山さんが自ら死のうと思ったとしても、なぜ生坂ダムまで行かねばならなかったのか。

そもそも車を置いて行った彼がどうやってダムまで行ったのか、歩いて行ったとは考えられませんし(Googleマップによれば、公園からダムまで国道19号線経由で徒歩だと7時間21分かかります)、タクシーに乗ったのなら警察が調べればすぐに分かったはずです。

 

そして決定的なのは、小山さんの身体がロープで縛られていたことです。

 

何としても真相を知りたい遺族は、弁護士を通して太田の供述調書の情報開示を申し出ましたが、不起訴になった者の調書は開示できないと断られました。

重ねて要望したところ、特例として検事が調書の差し障りのない部分を読み聞かせるということになり、母親と順子さんが聞きに行きましたが、その時に遺体や発見場所などの写真(コピー)は見てもよいと言われて閲覧したそうです。

 

ロープで縛られた遺体の状況図は、自殺との警察の発表後にそれを入手したマスコミを通じて母親も見ていたそうですが、状況図と、特に首と手の縛られた部分を遺体の写真を見た記憶から母と妹が再現した図が「順さん著書」に掲載されています。

 

「順さん著書」より

 

この状態を見ても警察は、「自分でもやろうと思えば縛れなくはない」としたのですが、入水自殺をしようとする人が重しを体にくくりつけるのならあり得るとしても、自分の首・右足首・両手首をこのように縛る意味が分かりませんし、第一、両手をこのように重ねてどうやって自分で縛ることができるのか、そのように主張する捜査官が再現して証明したという話は聞きません。

 

また、ロープの結び方は「釣り結び」と呼ばれる釣り人が釣り針に糸をつける結び方で、そのことについては当時から警察は把握し、のちに太田もそれを確認しています。

しかし、自分でチームを作るほどバイク好きだった小山さんに釣りの趣味まであったのかどうかは、少し調べれば分かったはずです。

 

こうした疑問点から、それにもかかわらずなぜ当時警察はわずか1日で自殺と断定したのか、明らかに捜査に判断ミスがあったのではないかと遺族は考え、事実の解明と謝罪を警察に求めましたが、「結果として間違った点は謝罪するが、当時の捜査にミスはなかった」という態度を警察が変えることはありませんでした。

 

納得がいかないと訴える遺族に対して永田弁護士は、警察を相手に裁判を起こすことも考えられると提案したそうですが、身体を病んでいた母親と生活に追われる順さんらに、裁判をする余力はもうありませんでした。

 

2003(平成15)年10月11日に母の小山はつ恵さんは記者会見を開き、他殺であったのが明らかになったことを喜びながらも、警察の当時の捜査と今回の対応に不信と怒りを表明したのは無理からぬことだと思います。

 

毎日新聞(2003年10月11日夕刊、加工は小川)

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

「23年も前のことだから分からない」を繰り返す警察の態度に、母親は太田に直接会って話を聞きたいと考えますが、上の記事にあるように、彼の名前も居場所もなかなか教えてもらえませんでした。

 

ようやく、高松刑務所に彼がいて10月11日に出所すると知った母親は、出所すれば行方が分からなくなるかもしれないと、永田弁護士を通して刑務所に面会の許可を求めます。

犯罪被害者家族の特例ということで面会を許された彼女は、10月9日に高松に向かいました。

 

真実を知りたい一念の母親は、太田を怒らせないように、「小山福来の母です。打ち明けてくれてありがとう」とできるだけ丁寧に話しかけるよう心がけたそうです。

 

最初はふてくされた態度だった太田も次第に口を開き、当日の出来事について質問に答える形で話をしました。

 

その中で母親は、小山さんがロープで首を絞められ「女の電話番号を教えろ」と脅されてもA子さんをかばって最後まで教えなかったために首と手足を縛られてダム湖に投げ入れられたことや、「釣り結び」についても確認しましたが、太田は「警察がなんで自殺にしたのか不思議だった、自分では絶対に縛れないよ」と言ったそうです。

 

また、警察が自分の黒いセドリックを3回も調べに来たのに、生坂ダムの遺体の話は一度も出ず、「警察は自殺にしておきたいんだ、とその時思った」というのです。

 

さらに母親は、同年11月11日にB男の裁判(覚醒剤取締法違反の求刑公判)を傍聴に行き、12月4の判決公判(懲役2年6月の判決)前後に2回、成年も収監する松本少年刑務所に面会に行っています。

 

近親者を事件で失った被害者遺族の悲しみや怒りは、まず事件を引き起こした加害者に向けられ謝罪と罪の償いを求めるのは当然ですが、それと同時に何が起きたのかという真相の解明とさらには事件の再発防止へと向けられるでしょう。

 

特にこの事件のように、他殺にもかかわらず納得できる理由もなく自殺=自己原因とされると、遺族の悲嘆は行き場を失ってしまいます。

 

実は、事件の4年後の父親の死は、頼りにしていた息子(福来さん)の死、借財、体調の悪化が重なり、人生に行き詰まった末の自殺でした。

ですから、遺書はなかったそうですが遺族は自殺であることを納得し、「やっと楽になれてよかったね」(「順さん著書」)という思いでそれを受け入れることができたのです。

 

それだけに、事件における自殺という判断は、慎重が上にも慎重になされるべきでしょう。

 

同じような事例は他にもあり、はつ恵さんと順さんは2003年11月5日に徳島県の三笠さん一家と会ったことが「順さん著書」に書かれています。

 

三笠さん一家は、1999(平成11)年に亡くなった海上自衛官・三笠睦彦さん(当時33歳)の遺族で、その死に多くの不審な点がありながら「自殺」とされてしまったのです。

この「徳島自衛官変死事件」でも、妹の貴子さんが『お兄ちゃんは自殺じゃない』という本を出して、遺族は真相解明を求め続けています。

 

 

 

警察も限りある条件のもとで活動する人間の組織である以上、完璧を求めることができないのは仕方なく、誤りを犯すこともあるでしょう。

 

けれども小山さんの事件での警察の自殺判断はきわめて不自然で、その根拠とされた小山さんの「厭世的な言葉」に至っては捏造だったのではないかと疑われるほどです。

 

ですから、事件当時に警察がどういう誤りを犯したかの解明は、遺族が求める事件の真相解明の一部であり、事件の再発防止にも不可欠なものでした。

 

せっかく真犯人が明らかになりながらも、「結果として自殺と誤ったことについては……」といういかにも官僚的で保身的な「謝罪」にとどまり、警察が犯した誤りについて真相解明されないまま終わったことは、小川としても残念としか言いようがありませんショボーン

 

小山順さんの本のタイトルにある「犯人よ、話してくれてありがとう」という言葉は、先に見たように、高松刑務所で犯人に面会した母のはつ恵さんが、太田に向けた言葉ですが、先にあげた三笠貴子さんからも「私なら犯人に感謝なんてしない」と言われたそうです。

 

兄を失って間もないころは、誰とも知れぬ犯人に対して憎しみの気持ちでいっぱいだったので貴子さんの気持ちはよくわかるとしながらも、この言葉の真意を順さんは次のように書いています。

 

〝兄を殺した犯人に感謝する〟なんて確かにおかしなことです。しかし他殺の真実を教えてくれたのは、警察ではなく、犯人だったのです。23年もの長い間、他殺だと信じ続けてきた私たちに本当の答えを教えてくれた人に、私たちは感謝せずにはおれませんでした。皮肉にも、それが犯人その人だったのです。兄を殺した犯人に対する憎しみは長い間に形を変え、〝どうか犯人に出てきてほしい〟という願いに変わっていました。自殺と断定されたあとは、私たちは警察を頼る気持ちはまったくなくなっていました。〝いつか警察が犯人を見つけてくれる〟などとは一度も考えませんでした。

 

つまりこの言葉には、憎むべき犯人に感謝しなければならない遺族の苦渋と、そうせざるをえないまでに遺族を追い詰めた警察への怒りと諦めが込められているのですショボーン

 

太田の犯行告白には、遺族に真実を教えるというよりむしろ、警察を困らせてやろうという意図があったとも言われます。

それはともかく、この事件では公訴時効が過ぎたことによって太田は真相を告白しました。

 

しかし、2010(平成22)年に殺人罪など重犯罪の公訴時効が廃止されたことは、犯人の逃げ切りがなくなった一方で、時効後に被害者遺族が犯人から事実を聞く可能性も無くなったと言っていいでしょう。

 

ですから、公訴時効廃止によって警察の責任はさらに重くなったと小川は思います。

 

最近では不祥事のニュースも多くありますが、次のような調査を見ても、日本における警察への信頼感は、他の機関と比べるとまだ高い水準にあります。

 

一般社団法人「中央調査社」

「議員、官僚、大企業、警察等の信頼感」調査

(2023年)

 

その信頼に応えて警察は、組織防衛に走るのではなく、理不尽な犯罪で近親者を亡くし苦しむ遺族の方に顔を向けて、犯人の検挙と真相の解明に向けて最大限の努力をしてほしいと小川は望みます。

 

それが、自殺と片づけられた小山福来さんや、23年も苦しんだ遺族の無念の思いに応える唯一の道ではないかと小川は思うのですキョロキョロ


関川誠/藤澤英一『実録完全犯罪』 宝島社 2006年

 最後に、順さんの著書に関して一つ言いたいことが小川にあります。


この本では、小山さんの両親の馴れ初めから彼の誕生、さらに順さんの兄への思いが50ページ近くを割いて書かれています。


それに対してこの本の書評の中には、事件に直接関係ないことが多く書かれているというものがありました。

しかし、それは違うと小川は思います。


なぜなら、1人の人間の生命は、親やきょうだいや友人・知人など多くの人との関係によって成り立っており、それだけ多くの人がその人の生と死によって喜びや悲しみに翻弄されるのです。


小山福来さんの命の重みも、順さんが家族について書いたことを読んで初めて、小川は具体的に受け止めることができました。


それなしには、母のはつ恵さんがどうしてあれほど真相解明に執念を持ち続けたのかも、ただ頭だけの理解にとどまったに違いないと思う小川ですショボーン


 

 

 

読んでくださった方、ありがとうございますおねがい

今後とも宜しくお願いいたします飛び出すハート



今回はリクエスト企画ですニコニコ飛び出すハート

大久保 清

連続女性殺害事件

1971年

朝日新聞(1971年5月27日夕刊)

 

【事件の概要】

1971(昭和46)年の3月から5月にかけて、群馬県で10代から20代の若い女性が次々と行方不明になる事件が起きました。

 

その一人に、群馬県藤岡市の会社員・竹村礼子さん(当時21歳)がいました。

 

竹村礼子さん

 

5月9日の午後5時半ごろ、夕食の買い物から帰った礼子さんが、帰り道に中学の美術の先生という人と出会い、絵のモデルになってくれないかと頼まれたので、話を聞きに行ってくると家族に言って自転車で出かけたまま、夜になっても帰らなかったのです。

 

一緒に住む兄の省(さとる)さん(同35歳)夫婦が心配して心当たりを探しましたが見つからず、日が変わった5月10日午前1時半ごろに藤岡警察署に電話して事情を話しました。

 

家出と考えた警察は管内の派出所に連絡し、パトカーで若者の集まりやすい場所を警らして回りましたが、礼子さんを発見できませんでした。

 

一方、省さんが経営する会社の従業員や友人、礼子さんの勤め先の人などが彼女の行方不明を知って集まり、手分けしましたがやはり見つかりませんでした。

 

しかし、徹夜で妹を探していた省さんが10日の早朝に、多野信用金庫(現在は他行と合併してしののめ信用金庫)の自転車置き場に礼子さんの自転車があるのを発見します。

 

その足で藤岡署に行き正式に捜索願を提出した省さんが、自転車置き場に戻って見張っていると、午前9時半ごろになってマツダの白い乗用車がやってきました。

車から降りた男は、礼子さんの自転車にまっすぐ向かうと手にはめた軍手であちこちを撫で回しました。

 

指紋を拭き取っているのではないかと直感した省さんが、男に近づいて「何をしているのですか? この自転車はあなたのものですか?」と声をかけると、驚いた様子の男は口ごもりながらサッと車に乗り込んで逃げ出しました。

 

すぐに追いかけたものの見失った省さんですが、「群55?285」(?のひらがなは汚れていて読み取れず)というナンバープレートを記憶にとどめました。

 

省さんは警察に通報しながら、自分でもすぐにマツダの販売会社に行って事情を話し協力を求めたところ、該当する車の所有者は高崎市八幡町に住む大久保清(同36歳)という人物であると分かりました。

 

一方、警察もナンバー紹介から同番号の車は5台あり、うち同じ車種(マツダのロータリークーペ)は「群55な285」で、所有者は強姦致傷や恐喝など前科4犯の大久保清と突き止め、写真を見た省さんが駐輪場にいた人物だと確認しました。

 

1968年に売り出された

マツダ・ファミリア ロータリークーペ(同型車)

 

大久保は、2ヶ月ほど前の3月2日に府中刑務所を出所したばかりでした。

 

こうして、礼子さんの失踪に関係していると思われる人物が浮かび上がったのですが、危険を察知した大久保は家に帰らず、警察もなかなか身柄を確保することができませんでした。

 

そこで再び省さんの知人・友人たちが集まって「私設捜索隊」を編成し、警察の指導も受けながら群馬県内はもとより隣接する長野や埼玉まで足を伸ばして白いロータリークーペを探していたところ、5月13日になってようやく前橋市内で該当車を発見し追い詰めて大久保を取り押さえ、警察に引き渡したのです。

この時も大久保は、助手席に女子学生風の若い女性を乗せていました。

 

朝日新聞(1971年5月24日)

 

事件関連地図

(筑波昭『連続殺人鬼 大久保清の犯罪』より)

 

身柄を拘束された大久保ですが、遺体も殺人等の物証もないことからシラを切り続けたため、任意での事情聴取は難航しました。

 

それでも警察が、礼子さんの自転車に不自然に接触した件と、そのあと逃げ回ったことを追及すると大久保は、たまたま見かけた礼子さんにモデルになってほしいと声をかけ、喫茶店で話をしたあとモーテルに連れ込もうとしたが彼女は逃げ出し、通りかかった車に乗って行ったと釈明したのです。

そして、仮釈放中なので面倒なことになっては困ると思い、自転車の指紋を拭きに行ったのだと。

 

逮捕しての取り調べが必要と考えた警察は、彼の自供や目撃情報からわいせつ目的の誘拐罪で逮捕状を取り、5月14日に大久保を逮捕しました。

 

大久保清と警察取り調べ班との2ヶ月半にわたる長い攻防戦の始まりです。

 

朝日新聞(1971年7月30日夕刊)

 

逮捕した容疑者は、48時間以内に容疑を固めて検察庁に送るか、それができなければ釈放しなければなりません。

 

黙り込んだり前言をひるがえしたり嘘の供述をするなど大久保の撹乱戦術に警察は、礼子さん殺害容疑はいったん保留して、明らかになった別の事件での追及に切り替えました。

 

4月11日に、白い車に乗った中年男に声をかけられてレイプされたと警察に訴え出ていた19歳の女性(上の記事のA子さん)が、テレビのニュースに映し出された大久保の顔写真を見て驚き、警察に連絡してきたからです。

 

大久保の面通しをした彼女から「間違いない、この男です」との証言を得た警察は、大久保を強姦致傷容疑で5月15日に再逮捕し、動かぬ証拠を突きつけられると弱い大久保は、このレイプ事件についてはあっさりと自供しました。

 

その上で礼子さん殺害についても再び厳しく追及された大久保は、16日になって彼女を殺したとの自供をようやく始めました。

 

ところが、遺体を埋めたと自供した場所を本人同行で捜索しますが見つかりません。

嘘の場所を教えたのです。

 

そうしている間の5月21日夕方、群馬県立榛名公園の管理人から、近くにある榛名富士東側の山林で埋められている女性の遺体を発見したとの通報が警察にありました。

 

榛名公園から望む榛名富士

 

管理人は、5月の初めに白っぽい車の男がスコップを持って立っていたのを礼子さんのニュースを見て思い出し、念のためにと山林を調べ、土が盛り上がっているところを掘ると遺体が見つかったのです。

 

警察の調べでこの遺体は、3月31日から行方不明になっていた高崎市立高校3年生の津田美也子さん(同17歳)で、絞殺されたものと判明しました。

 

朝日新聞(1971年5月22日)

 

警察は、さらに遺体が埋められている可能性を考え、現場付近を警察犬も使って捜索しながら、大久保への尋問を続けましたが、彼は黙秘の態度を変えません。

 

そこで警察は、大久保が府中刑務所を出所してから身柄を拘束されるまでの間(3月2日〜5月14日)に行方不明になった若い女性20人のうち、事件に巻き込まれた可能性のある7人(女子高校生2人を含む)をリストアップし、公開捜査しながら大久保を追及することにしました(リストのうち須藤節子さんは捜索の過程で所在が判明)

 

朝日新聞(1971年5月23日)

 

それに対して大久保は、リストにない女性5人をドライブに誘ってモーテルや野外でレイプしたと自供しましたが、殺害については先に自供した礼子さん以外は黙秘して語りません。

 

そこで警察は、行方不明者以外に大久保に声をかけられた女性がいないか探したところ、最終的に確認されたのは127人ですが、150人にものぼる女性が浮かび上がってきました。

 

朝日新聞(1971年5月25日)

 

上の記事にあるように、大久保は一人でいる女性を狙って白い新車で近づき、「道を教えて」などと声をかけて立ち止まらせ、中学/高校の教師や画家などと自己紹介(名前も偽名)しながらモデルになってほしいと頼むのが定番のスタイルだったようです。

 

大久保の態度はあくまでも紳士的で、人懐こい笑顔に丁寧な口調、服装は画家を意識してでしょうベレー帽にルパシカ(ロシアの民族衣装の上衣)か赤シャツが多く、車の後部座席には絵の具やカンバス(油絵を描く画布)あるいは小説や詩の本を小道具として置いていました。

 

ちなみに、大久保はルパシカを4着もっていたそうですが、そのうち2着は妻の手作りだったのは皮肉です。


ルパシカ(例)

 

そうして女性を車に誘い込むことに成功すると大久保は、まず喫茶店で絵画や文学、登山などについて言葉巧みに語って女性の気を引き、脈があると思うとモーテルに連れ込んだり山林など人気のない場所に停めた車内や野外で性関係を持つことを繰り返していました。

その時に、女性が関係を拒んで抵抗すると、態度を豹変させた大久保は殴りつけるなどの暴力を振るってレイプし、何人かは殺害にまで及んでいたのです。

 

話を取り調べに戻します。

 

大久保が竹村礼子さんの殺害について詳細な供述をしたのは、5月26日のことでした。

 

自分が自供しないで抵抗するのは、信頼していた友人や兄に裏切られ酷い仕打ちを受けたせいでこんなに悪い人間になってしまったことを示すためだと言う大久保に、取り調べに当たっていた警察官が心境の変化を読み取って同情的な態度を示すと、考えさせてくれと言ってから10分後に、礼子さんの強姦・殺人・死体遺棄について全面自供したのです。

 

詳細は省きますが、先に述べたような形で大久保は「絵のモデルになってほしい」と礼子さんに声をかけます。

 

買い物帰りだった彼女がいったん家に帰り戻ってくると、大久保は彼女の自転車を信用金庫の駐輪場に停め、車に乗せて喫茶店で話をした後、モーテルに連れ込もうとしますが礼子さんに拒絶されます。

 

別の場所で彼女を襲おうと考えた大久保は、近道を通って家に送ると騙して妙義山へ向かう農道に入り、人気のないところに車を止めてキスしようとしました。

 

「私の父は刑事だから、変なことをすると言いつける」ととっさの嘘をついて逃げ出した彼女をつかまえ、みぞおちと首を殴りつけた大久保は、ぐったりした礼子さんをレイプしました。

 

事が終わって大久保が立ち上がると、彼女は大声で「助けて!」と叫びながら逃げようとしたので、大久保は脱がせた下着を彼女の首に巻きつけて力一杯しめつけ殺害したのです。

 

車に積んでいたスコップで桑畑と農道の境に穴を掘り遺体を埋めてから帰宅した大久保は、翌朝、自転車に残っている指紋が気になって信用金庫の駐輪場に行き、礼子さんを夜通し探していた兄に見つかったのです。

 

自供にもとづいて警察は、5月27日の早朝から妙義山麓に大久保を連れて行き、彼の指し示した場所から変わり果てた礼子さんの遺体を発見しました。

 

朝日新聞(1971年5月27日夕刊)

 

その後も警察は、すでに遺体が発見された津田美也子さんの殺害と、行方不明の他の6人の女性についてあの手この手と苦心しながら大久保の追及を続けました。

 

その結果、6月4日に美也子さん殺害を全面自供したものの、他の女性については殺害したことは認めながらも遺体を埋めた場所についての供述を拒み続けたため取り調べは長期戦になり、最後の2人の遺体が発見されたのは、7月30日になってのことでした。

 

朝日新聞(1971年7月30日夕刊)

 

3月2日の仮出所後、大久保は、親に頭金を出してもらいローンで購入した新車を、1日約170㎞というタクシー並みの距離を走行しながら女性を物色しては約150人(確認された人数は127人)に声をかけ、うち30人余りを車に誘い込んで10数人と性的関係を持った(もっと多いとする記事もある)と推定されています。

 

朝日新聞(1971年7月30日夕刊)

 

そのすべてがレイプではなく合意の上での行為もあったようですが、レイプした場合もその後で女性をなだめたりお金を渡したりして次に会う約束をするなど、警察沙汰にならないよう大久保なりに細心の注意を払っていたようです。

 

大久保の自供によると、殺害された8人のうち竹村礼子さんを除く7人は、彼の車でそれまでに複数回ドライブをしていたとのことです。

 

それがどうして殺害に至ったのかについて大久保は、親や身内に警察官や検察官がいると言って自分を威嚇したり、自己紹介の名前(渡辺哉一)や職業(教師、画家)などがすべて嘘なだけでなく、前科があることまで調べて嘲笑(あざわら)うような態度をとったからだと言っています。

 

大久保が警察・検察への恨みを持っていたのは確かですが、殺害時の被害者とのやりとりが彼の供述通りなのかは分かりません。

 

しかしいずれの場合も、関係をばらされることを恐れたり、自分に対して生意気で見下した態度をとっていると思って激昂したことが、殺害への引き金になったようです。

 

【大久保清とはどういう人物だったのか】

 

 

大久保清(以下、「大久保」とは彼のこと)は、1935(昭和10)年1月17日に群馬県碓氷(うすい)郡八幡村(現在の高崎市八幡町)に3男5女の第7子(三男)として生まれました。

 

長兄は幼くして亡くなり、内向的な次兄を性格的に親が嫌ったため、特に母親が大久保を溺愛し、大きくなってからも「僕ちゃん」と呼んでいたそうです。

家の跡取りとして娘より息子を偏愛する時代でもあったのでしょう。

 

大久保の祖母は、江戸時代に中山道の宿場町として栄えた安中(あんなか:現在の群馬県安中市)で芸者をしていた人で、客のロシア人との間に生まれた婚外子が大久保の母親です。

ですので、母親はロシア人とのハーフ、大久保はクウォーターになります。

彼のややエキゾチック(異国風)な風貌も、女性を誘う時の小道具の一つとなりました。

 

10歳の時に母親は、小学校の用務員をしていた男性(大久保の祖父)の養女となり、大久保の父親は、20歳で大久保家の婿養子になる形で大久保の母親と結婚したのです。

 

父親は、鉄道省(のち国鉄から現在のJR)の機関士でしたが、1949(昭和24)年の人員整理の時に、ヤミ米運びで検挙歴があったことから息子(大久保の次兄)と一緒に解雇されたので、農業と闇屋で生計を立てました。

 

その後、自宅敷地内に5軒の貸家を新築し有料駐車場を作るなどして家計にゆとりがあったようで、大久保が不始末をしでかすたびに親がお金を出して示談で済ますことを繰り返しました。

 

なお、この父親は性的に慎みがなく、大久保が小学1、2年生のころまで子どもが見ていてもかまわず妻と性行為をしたり、近所の娘をレイプしたり(妻がお金を渡して収める)、息子(大久保の次兄)の妻にまで(最初の妻と再婚後の妻の両方で、最初の妻は夫が戦地に行っている間に)手を出すような男でした。

 

父親の常軌を逸した性欲と性行動は、おそらく性格異常から来ているのではないかと思われますが、大久保はその素因を受け継いだようです。

 

真偽は不明ですが、後に父親が大久保の妻にも手を出したと母親が疑い、信心していた新興宗教の関係者にその話を漏らし噂になったことで、妻は大久保との離婚の意志を固くしたようです。

 

また、戦争中の禁欲生活の反動もあってでしょうか、戦後の混乱の中で欲望が解き放たれた社会の空気は子どもにも影響を与え、アメリカ兵がばら撒くチョコレートやチューインガムに群がり、日本人娼婦を連れて彼らが野外で性行為するところを一緒に覗きにも行ったと大久保の友人が証言しています。

 

性に放縦(ほうじゅう:勝手気まま)な父親の気質を受け継いだ大久保は、そうした環境にも刺激されてか、早くも小学6年生の時(1946年)に3歳ぐらいの幼女をアメリカ兵にもらったお菓子で誘って麦畑に連れ込み、女性器に石を入れてもてあそぶという「イタズラ」の域を超える行為をしています。

 

今なら大問題になるところですが、被害者の親が抗議にやってくると大久保の母は、最初は「僕ちゃんがそんなことをするはずない」と言い張り、シラを切れなくなると「子どものお医者さんごっこに大人が目くじらを立てることはない」と居直って謝ることもせず大久保をかばったそうです。

 

しかしそうした行為は1回だけのことではなく、何度も同じようなことを繰り返したため、大久保は地域で要注意少年とみなされていました。

 

大久保が八幡村国民学校(今の小学校に相当)に入学したのは1941(昭和16)年4月で、同年12月8日の真珠湾攻撃で日本は対米英戦争に突入します。

 

大久保のどことなく西洋人っぽい風貌は、それまで子どもたちの間で羨ましがらることもあったようですが、日米が開戦すると手のひらを返したように「アイノコ」「敵国アメリカの血が入っている」と蔑みといじめの対象になります。

 

また大久保は、敗戦後にGHQ(占領軍総司令部)の命令で、それまで絶対のものとされた教科書の軍国主義的・皇国史観的な記述を墨で黒く塗りつぶした世代です。

 

そうした戦中戦後の価値観の転倒を体験した大久保は、確かなものは何もなく個人が自由に振る舞えば良いと我流に解釈したアナーキズム(無政府主義)・ニヒリズム(虚無主義)に共鳴し、大杉栄(明治から大正時代のアナーキストで、関東大震災の混乱に乗じ憲兵に殺害される)や金子文子(大正時代のアナーキストで大正15/1926年に大逆罪で収監中に獄死)の本などを持っていたそうです。

 

彼が警察や検察に敵意を抱き、取り調べに抵抗したのには、後で述べる個人的な恨みに加え、権力と闘う反逆者の自己イメージを持ちたかったことがあったようです。

 

小学校時代の大久保は勉強嫌いで、学年が上がるほど成績も悪くなりました。

1947(昭和22)年4月に八幡中学校に進みますが、図工が比較的良かった以外は成績不良で、特に数学と外国語は劣等だったそうです。

 

その一方、口がうまく体裁を取りつくろうのが巧みで、人を騙したり陰でサボったりするのは得意でした。

また、強い者には従順で下級生など弱い者には支配的に振る舞う二面性があり、カッとなりやすい性格だったそうです。

 

このころから、弱い者相手に「ボディ」と称して拳でみぞおちを殴るマネをすることが多く、後にそれを女性に対する暴力で実際に使うことになります。

 

中学を卒業した大久保は、父親の闇屋と農業を手伝っていましたが、1952(昭和27)年に群馬県立高崎商業高校豊岡分校定時制に入ります。

しかし、半年も経たずに退学した彼は、東京板橋区の電器店に住み込みで働きに出ます。

ところが、近所の銭湯の女風呂を何度ものぞいて捕まり、店を解雇されてしまいます。

 

当時、横浜の電器店に嫁いでいた姉のもとに引き取られた大久保は、義兄の計らいで神田の電機学校にも通いますが勉強に身が入らず、親からの送金で「赤線」(1958/昭和33年の売春防止法施行まで存在した売春地域、警察が地図上で赤い線で囲っていたことからできた呼称)通いに精を出し、ついにはなじみの売春女性と店外でお金を払わず性行為をしようとしてトラブルになり、帰郷します。

 

1953(昭和28)年4月、電気関係の知識も技術もほとんど身についていなかったにもかかわらず、口のうまい大久保は親にお金を出させて、実家に「清光電器商会」というラジオの販売・修理の店を出します。

 

同年2月にテレビ放送が始まったばかりで、まだラジオ全盛時代でしたけれど、修理の腕が悪い大久保は、「鳴らないラジオを売った」など客にクレームをつけられて評判がガタ落ちになり、修理部品を買う金もなくなって知り合いの大きな電器商のところに行っては8回にわたって部品を万引きするようになります。

 

万引きはすぐにバレて逮捕された大久保ですが、親がすぐに弁償をして示談したため、彼は不起訴処分になります。

 

店を閉じた大久保は、1955(昭和30)年7月、大学生になりすまして17歳の女子高生を強姦し逮捕されます。

事件となった大久保の最初の性犯罪です。

 

しかしこの時は、性犯罪が「イタズラ」と軽く見られていた時代に加えて初犯ということもあり、裁判での判決は懲役1年6月、執行猶予3年という軽いものでした。

 

この時すでに大久保は、性犯罪について身勝手な「自論」を述べています。

 

つまり、声をかけた自分に女性がついてきたのだから、それは性行為に同意したということで、その時になって拒否するから仕方なく暴力を振るったけれど、自分のやったことは強姦ではなく合意の上(和姦)だった、ところが「約束」を破ってレイプされたと騒いだ女は嘘つきで、女性の言い分だけを取り上げた警察とともに、不当に自分を犯罪者にしたというのです。

これが、先に述べた警察と女性に対する個人的な恨みです。

 

そんな「理屈」は当然筋が通らないのですが、母親だけは「そうとも、女は魔物というからの。経験のない若い僕ちゃんが騙されるのも無理はない」とかばったそうです。

 

そんな大久保ですから懲りるはずはなく、同年12月にまた女子高生の強姦未遂事件を起こします。

さすがにこの時は懲役2年の実刑判決となり、先の事件の執行猶予が取り消されて、合わせて3年6月の懲役刑に服することになりました。

 

長野県の松本刑務所に収監された大久保は、受刑者仲間から暴力を振るわれたようで、早く出たい一心で「模範囚」を演じたことが功を奏し、刑期を半年縮めて仮釈放されました。

 

釈放されてからも大久保の「ガールハント」は止むことがありませんでした。

 

性犯罪被害者が被害を訴えやすくなってきたのは最近になってのことで、当時は、特に女性の場合、性犯罪に遭ったことが世間に知られると被害者の方が恥をさらされるということで、泣き寝入りする人が多かった時代ですから、この時すでに大久保による強姦被害にあった女性が何人もいたのではないかと思いますが、事実は分かりません。

 

そうした中、1960(昭和35)年4月にまた大久保は強姦未遂事件を起こします。

 

被害者は20歳の女子大学生で、いわゆる「60年安保」の反対運動で注目を集めた全学連(全日本学生自治会総連合)の学生活動家を装った大久保が声をかけ、ゆっくり話をしようと自宅を下宿と偽って彼女を連れ込んだのです。

 

2階の自室に入ると、それまで政治の話をしていた大久保が豹変して彼女に襲いかかり、驚いた女性は激しく抵抗しました。

その時、大久保の両親は在宅していて様子に気づいていたようなのですが、しばらくは見て見ぬふりをしていました。

しかし、女性があげるあまりの大声に両親がたまらず部屋に入ったことで事は未遂に終わりました。

 

この時も、親が女性側にお金を払うことで示談となり、大久保はなんとか不起訴処分となりました。

 

母親に泣きつかれた大久保は、それからしばらくはおとなしくしていましたが、また「ガールハント」を始めます。

 

1961(昭和36)年3月、大久保は前橋市の書店で一人の女性(B子さん)に声をかけます。

その時は誘いを断って帰ったB子さんですが、後日また声をかけられ、仕方なく喫茶店に同行しました。

大久保が女性とよく利用した前橋市の喫茶店「田園」

彼女に惹かれるものがあったのか、大久保はそこで「結婚を前提にした交際」を申し込み、B子さんがそれなら家に来てほしいと言うので、それから彼は群馬県渋川市の彼女の実家に何度も訪ねて行きました。

「渡辺許司(きよし)」という偽名を使い、専修大学生と偽っての交際でしたが、大久保は彼女もその家族も巧みな話術で信用させてしまうのです。

 

さすがに結婚話が具体的になってくると偽名ではすまないので、自分は大久保家に養子に行って名前も「清」にすると取りつくろったそうです。

ただし、性犯罪の前歴は隠したままでした。

 

こうして1962(昭和37)年5月5日、27歳の大久保は、20歳のB子さんと結婚しました。

 

翌年(1963)長男が誕生しますが、新婚早々から大久保は、農業や母親が家でしている雑貨店を手伝うこともせずに「ガールハント」に出かけ、結婚をほのめかして大久保が関係を結んだ女性が、約束を真に受けて家を訪ねてきたことも1度や2度ではなかったそうです。

それについて妻のB子さんが何か言おうものなら、大久保は逆ギレして殴りかかる始末でした。

 

大久保の母親は、「僕ちゃん」には甘やかしてブラブラすることを許しながら、「嫁」を下女のように扱う姑で、B子さんに農作業をさせながら「嫁いびり」も相当なものだったようです。

 

なお、このころ大久保は、能天気にも「谷川伊凡(イヴァン)」の筆名で『頌歌(しょうか)』と題した詩集を自費(と言っても親の金)出版しています。

 

1964(昭和39)年9月、生活に不安を抱いた妻が、牛乳販売店の権利を安く譲り受けられるよう親戚に頼み、大久保もあまり乗り気でないながら親に諸費用を出してもらって自宅の以前の電器店を改装し牛乳販売を始めました。

 

始めてみると大久保は意外に熱心に働いたようですが、日中働くと夕方から風呂に入り、「共産党関係の秘密の出版の仕事」などと嘘を言って毎夜のように「ガールハント」に出かけていました。

時には「成田闘争」(成田空港建設に伴う土地収用に抵抗する地主・農民を左翼学生らが支援した運動)に参加すると言って、女性と旅行に行くこともあったようです。

このような彼の「左翼」ぶりは、反逆者の気分と見せかけだけのもので、実体は何もありませんでした。

 

比較的順調に行っていた牛乳販売ですが、1965(昭和40)年6月に、大久保が配達した牛乳の空き瓶2本が盗まれるという事件が起きます。

盗んだ少年は、別の牛乳販売店の家族でした。

 

当時は、空き瓶の数で売り上げがカウントされる仕組みだったのでしょうか、空き瓶が盗まれると売り上げが減ることに怒った大久保は、少年を捕まえて販売店に怒鳴り込み、店主である少年の兄に2万円を出させ、警察沙汰にすると脅して後日さらに金銭を要求したのです。

 

店主が警察に訴えたことで、大久保は恐喝と恐喝未遂(後日分)で逮捕・起訴され、懲役1年、執行猶予4年の判決を受けます。

この件をきっかけに、大久保の婦女暴行2件の前歴が妻に知られてしまうのです。

 

店主に訴えられた大久保は、相手の「牛乳瓶泥棒」も窃盗事件として取り上げろと警察に強く求めましたが、少年が空き瓶2本を盗るという微罪だからでしょうか、警察は取り合わなかったようです。

そのことで大久保は警察に対する恨みと敵意をさらに募らせることになります。

 

この事件で評判を落とした大久保の店は販売不振におちいります。

ちょうどそのころ、2人目の子ども(長女)が生まれました。

 

執行猶予になったものの働く意欲を失った大久保は、また強姦事件を立て続けに起こします。

 

1966(昭和41)年12月に、16歳の女子高生を当時使っていた車の中でレイプします。

さらに1967(昭和42)年2月に、20歳の女子短大生をやはり車内でレイプしました。

この事件で逮捕された大久保は、前年の女子高生への犯行も発覚したため、裁判で懲役3年6月の判決を下されます。

それによって先の恐喝事件の執行猶予が取り消され、合わせて4年6月の懲役刑となって東京の府中刑務所で服役することになりました。

 

今回も早く出たい一心の大久保は模範囚を演じ、1971(昭和46)年3月2日に仮釈放されて自宅に戻ります。

 

服役中に妻から離婚を申し込まれた大久保は、出所するまで待ってくれと引き延ばしていましたが、妻は離婚するつもりで子どもを連れて渋川の実家に帰ってしまっていました。

 

父親がB子さんに手を出したという話は服役中のことで、B子さん自身は否定したようですけれど、かつて自分の妻が父親の性暴力被害に遭った次兄は、B子さんに家に戻らないよう強く忠告しました。

 

出所後、大久保は妻の実家に何度も足を運んで復縁を求めますがB子さんの意志は固く、家には戻りませんでした。

 

女性に対して無分別に思える大久保の、妻への執着が何だったのかはよく分かりません。

 

ただ、大久保にとって女性とは、母親のように溺愛して自分に仕えてくれる存在か、あるいは愛情とは関係なく自分の性欲を満たすための道具かのいずれかでしかなかったように思われます。

とすれば、妻とはこの二つの役割を同時に果たす、大久保にとって誠に都合のよい存在だったということなのでしょう。

 

その妻が自分に背を向けたことは、大久保にとっては裏切りであり、またプライドを傷つけられたことでしょう。

そこで大久保は、妻と裏で糸を引いていたと思った次兄への憎しみをつのらせ、いつか彼らを殺そうと思ったようです。

 

そうした暗い情念を心に秘めながら、仮釈放中の身なので担当の保護司には「更生」しているふりを大久保は見せていました。

言葉巧みに外見をつくろうのは、子どものころから身につけている得意の処世術です。

 

仮出所の可否判断に影響するのでしょう、獄中で大久保は出所後の生計について室内装飾品の販売店を起業するという計画書を作成していました。

電器店、牛乳販売店に次ぐ3度目の起業になりますが、今回は仮出所のために体裁を取りつくろっただけで初めからまったくやる気がなく、具体的にどうするつもりかと妻に聞かれた彼が、「とりあえず家にあるものを売る」と答えたので、彼女は呆れたそうです。

 

しかし、販売営業のためと称して犯罪の凶器となったマツダファミリア・ロータリークーペの頭金を親に出させています。

 

この「かっこいい」車を走らせ、起業などそっちのけに「ガールハント」に明け暮れる毎日を送っていた大久保は、先に見たように出所からひと月も経たない3月31日に群馬県多野郡で最初の殺人(女子高生の津田美也子さん)を犯します。

 

その後、殺人にまでは至らない強姦・和姦を恐らく何十件と繰り返しながら、5月13日に竹村礼子さんの件で身柄を拘束されるまで、立件できただけで8人もの女性を殺害したのです。

 

死体遺棄現場の検証に立ち会う大久保

 

【裁判と判決】

8件の殺人・死体遺棄とA子さんへの婦女暴行致傷の計9件の罪で起訴された大久保清の初公判は、1971(昭和46)年10月25日、前橋地方裁判所で行われました。

 

 

朝日新聞(1971年10月25日夕刊)

 

罪状認否を求められた大久保は、9件すべてについて起訴事実を「間違いありません」と全面的に認めました。

 

裁判所は大久保の心理鑑定をすることにし、1972(昭和47)年4月から10月まで半年がかりで中田修教授(東京医科歯科大学犯罪心理学教室)に小田晋・福島章・稲村博の3人が助手として加わり行われました。

 

鑑定結果は、大久保は精神病ではないが発揚性(気持ちの高ぶり)、自己顕示性、無情性(思いやりや同情の欠如)を主徴とする異常性格(精神病質:サイコパシー)で、性的・色情的亢進を伴う、というものでした。

 

精神病質者(サイコパス)とは、一般の人と比べて著しく偏った考えや行動をとり、対人コミュニケーションに支障をきたすパーソナリティ障害の一種とされます。

精神病質者には下のような特徴が見られるそうですが、確かに大久保のケースに該当するものが多いように思います。

 

「刑事事件弁護士ナビ」参照

 

ただこれらは直ちに犯罪と結びつくわけではなく、サイコパスがすべて猟奇的犯罪者というのは誤ったイメージです。

 

大久保の場合は、こうした素因に環境的経験的な要因が加わって、抑制の効かない性犯罪や連続殺人をするに至ったものと思われます。

 

1973(昭和48)年1月8日に開かれた求刑公判で広瀬哲彦検事は、「8人もの若い女性を殺害したことに対しては、死をもってつぐなわしめるべきであります。それが正義でありましょう」と述べて死刑を求刑しました。

 

それに対して、「反逆者」を気取り「男として立派に死んで見せる」とうそぶいていた大久保は、死刑の求刑にも平然とした態度を崩しませんでした。

 

朝日新聞(1973年1月8日夕刊)

 

そうして裁判は結審し、1973(昭和48)年2月22日の判決公判で前橋地裁の水野正男裁判長は「被告人を死刑に処す」と言い渡しました。

 

朝日新聞(1973年2月22日夕刊)

 

裁判長は判決文の「量刑の理由」において、次のように述べています。

 

(被告人は)これ迄も性犯罪を数度に亘り犯し、服役もしながら、その性的放縦を矯(た)めようとせず、刑務所を仮出獄後月余を経ずして連日の如く女漁りを行い20歳前後の多数の女性を極めて巧妙な手段を用いて誘い、これら女性を、その多くは欺き、時には極めて荒々しい暴力を振いつつ自己の性欲を満たし、しかも自己の非を発(あば)かれるおそれの感じられる女性は、必死に逃げ、あるいは哀願するのをかまわず、残酷にその生命を奪うという、自らの利益と欲望のためには、何物を犠牲にしても顧みないという、冷酷にして利己的そして矯正は不可能とみるほかない被告人の性格が明確に認められるものといわざるをえない。

 

また、大久保が犯行を正当化しようとして語った身勝手な動機についても、裁判長は次のように一蹴します。

 

被告人は、本件犯行につき、改悛の情を示すところまったくなく、それどころか、被告人が声をかける迄は全く没交渉であった女性を殺害したことをもって、権力に対する反抗を示したものと称し、その事由として十数年前の強姦事件の被害者の虚偽の供述という歪曲誇張した事項を持ち出し、かつ、これをここに至って挙行した事由としては、既に母がその非を認め、被告人も悟り、それ故怨恨は消え去っていたはずであり、しかも、それが女性殺害と結びつく関連性などない兄に対する憤怒を述べ立てるなど、自己の醜さをおし隠し、その所為を虚偽で固めて、美化しようとする異常な程の自己顕示性がみられ、かかる被告人の犯行後の態度は、自らのうちの人間性を自ら抹殺するものといえるのである。

 

そして、府中刑務所を出所後の家族関係が大久保の希望どおりでなかったとしても、その原因は本人の再々の非行にあるので、「出所後はあらゆる条件を克服して自力更正すべき」であったにもかかわらずその努力を怠り、「かかる状況下自己の欲望のおもむくまま、何ら責められるべき理由もない8名もの女性を殺害したうえ死体をその発見を防ぐためすべて土中に埋没し、他一名に対し強姦致傷の所為に及んだ被告人の行為は、まさに天人ともに許すことができないもの」と裁判長は断じました。

 

この判決に対して大久保は控訴せず、控訴期限が切れた1973年3月9日に死刑が確定しました。

 

朝日新聞(1973年3月9日)

 

大久保清の死刑は、1976(昭和51)年1月22日に東京・小菅の東京拘置所で執行されました。

それでも、彼が殺害した最年少の女性はまだ16歳の若さで命を断たれたのに対し、大久保は41歳まで生きながらえたのです。

 

朝日新聞(1976年1月23日)

 

裁判では終始虚勢を張り、「立派に死んで見せる」と豪語し、被害者・遺族への謝罪の言葉も態度も一度たりと示さなかった大久保ですが、死刑当日の朝、これから死刑を執行すると告げられた彼は体をガタガタ震わせ、腰が抜けたようになって失禁し、刑務官に両腕を抱えられて何とか「絞首台」にたどり着き、「最後の言葉」も残せぬ状態のまま刑を執行されたと伝えられています。

 

首に縄をかけられた時、大久保の脳裏に、自分が無慈悲にも絞殺した女性たちの最後の苦悶の表情が、チラとでも浮かんだでしょうか。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

両親、特に母親による溺愛・甘やかしが助長したとはいえ、父親から受け継いだであろう異常なまでの性欲と性への囚われという素因なしには起こらなかったのではないかと思われる事件です。

 

分かっただけで8人もの女性を殺害し、何十人にも上る性暴力被害者が訴えることもできずに涙をのんだのではないかと思われるこの事件で、大久保が犯した罪の重さは改めて言うまでもありません。

 

ただ、大久保の自己正当化の理屈には、当時はもちろん今日でも少なからぬ人(多くは男性)が共有しているのではないかと思われるものがあります。

 

たとえば、誘われて自分から車に乗り込んだのは、性関係に同意したのも同じだという言い分です。

それには、「デートに応じたのだから」「部屋で2人きりになったのだから」などいくつものバージョンがあるでしょう。

 

かつて刑法で「強姦罪」と言われたものは、2017(平成29)年に「強制性交等罪」と改められ、さらに2023(令和5)年に「不同意性交罪」と再改正されました。

 

かつての「強姦罪」は、「暴行または脅迫」による「(狭義の)性交」で、被害者が「親告(自ら訴え出る)」してはじめて加害者の罪が問われる、被害者にとって非常にハードルの高いものでした。

しかも、「暴行または脅迫」とは被害者が抵抗できない程度のものとされましたから、殺される覚悟で抵抗しないと強姦とは認められない可能性があったのです。

 

それが「強制性交等罪」では、罪となる行為が狭義の性交(性器の挿入)からオーラルセックス(口腔性交)などの性的行為にも広げられ、また「親告罪」でなくなり罰則も強化されました。

 

そして昨年施行された「不同意性交罪」では、「暴行または脅迫」から「相手の同意の有無」へと問題のポイントが移され、罪となる行為の対象もさらに広げられ、またたとえ夫婦であっても同意のない性交は罪になると改められたのです。

 

ここでの「同意」について、小川が大学の授業で見せてもらったとても分かりやすい解説動画があります。

それは、イギリスのテムズバレー警察署が2015年に「Consent is Everything(同意がすべて)」と題したキャンペーンの一環として作成したものです。

 

セックスの誘いを紅茶の誘いに例えた分かりやすくユーモラスな動画ですので、よろしければぜひご覧になってください(字幕付)。

 

 

 

またこの事件では、高校生を含む若い女性たちがいとも簡単に大久保の誘いに乗り、中には同意の上で性行為をしていたことに驚いた人が多くありました。

 

 

確かに小川も、どうしてこんなに簡単に見知らぬ男の車に乗るのだろうと不思議でもありましたショボーン

 

しかし考えてみると、そこにはいろいろな要因や1970年代初頭の時代背景があったでしょう。

 

1960年代の後半に欧米の若者を中心に起こった、既存の価値観や文化に疑問を抱き束縛から自由な生き方を求めた多様な動き(アメリカから世界に広がった「ヒッピー」が有名です)が、日本の若者にも影響を及ぼしました。

 

ビートルズの長髪が日本の若い男性にも流行(はや)り、吉田拓郎が「僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら(…)結婚しようよ」と歌ったのは1972(昭和47)年のことでした。

 

そうした新しく吹いた「自由の風」は、「女なんだから」「女のくせに」と言われて行動や生き方、役割が制限されてきた女性たちの多くにとって、歓迎されるものだったのではないでしょうか。

 

「フェミニズム」の難しく真剣な議論もありましたが、ごく普通の若い女性にとって自由とは、「はしたない」というオトナの顰蹙(ひんしゅく)をよそに、若い脚をこれ見よがしに出した「ミニスカート」や「ホットパンツ」で街を闊歩するファッションで実感されるものだったでしょう。

 

性の意識や行動においても欧米で「フリー・ラブ」と呼ばれた「自由の風」が吹き、男の性が野放しにされる一方で女性にのみ厳しい禁欲的な性道徳が課せられてきたことへの反発から、あえて性的に自由に振る舞おうとする若い女性もいたでしょうし、1970年代後半から80年代にかけて急増する女子中・高生の性非行を先取りするような現象もあったでしょう。

 

詳しくは触れられませんでしたが、そうした時代背景を抜きにして、大久保も悪いが引っかかった女性も女性だと安易に言うのは、傷つき命まで奪われた被害者にも落ち度があったと追い打ちをかけ、死者を鞭打つことになると小川は思います。

 

ただ、彼女たちの自由で積極的な行動が、大久保のように女性を性欲のはけ口としか思わない男に利用され、餌食にされたのは悔やまれる事実です。

 

それを自由を単に束縛のないこととしか考えず内容を問わない形式的な自由の落とし穴だったと反省するなら、そうならないためには、ただ欲情のおもむくままに行動する自由から一歩踏み出し、先に見た「同意」もそのための必要条件でしょうが、自分も相手も共に幸せにできる行為こそが本当の「自由な性」だと捉えて、性別を問わずみんなが賢く悔いなく生きなければと思う小川ですショボーン


 

参照資料

・新聞の関連記事

・筑波昭『連続殺人鬼大久保清の犯罪』新潮OH!文庫、2002

・下川耿史『殺人評論』青弓社、1991

・別冊宝島編集部『死刑囚 最後の一時間』宝島文庫、2008

・前橋地裁 昭和46年(わ)280号判決

 

 

 
仕事から帰宅して、雑誌を読んだり行政書士の勉強をしながら、2週間かけて大久保清のブログを書きました😺
読んでくださった方、ありがとうございます🙏✨
 

教えていただいたこの事件

ブログにまとめてみましたニコニコ

広島大学部長殺人事件

1987年

朝日新聞(1987年7月22日夕刊)

 

1987年(昭和62年)7月22日午前8時半ごろ、広島大学東千田(ひがしせんだ)キャンパス(現在は東広島市に移転)にある総合科学部1階の学部長室で、岡本哲彦学部長(教授、当時61歳)が血まみれで死んでいるのが発見されました。

 

岡本学部長が21日夜に帰宅しなかったため、心配した母親のスミ子さん(同80歳)が朝になって大学に連絡し、職員が学部長室を見に行って遺体を発見したものです。

妻の富子さん(同60歳)は海外旅行中で不在でした。

 

広島大学総合科学部棟(当時)

学部長室は1階の右角

 

岡本哲彦学部長

 

岡本学部長は、7月21日に広島厚生年金会館で開かれた高校2年生対象の大学公開説明会に出席したあと大学に帰り、別棟にある助教授の研究室で午後7時から午後9時すぎまでゼミの学生や卒業生ら10数人と酒を飲んで雑談してから学部長室に戻ったと見られています。

 

学部長室の見取り図

 

岡本学部長は、胸2カ所と背中2カ所を両刃の特殊なナイフで刺されており、うち背中の1カ所が肺にまで達する致命傷でした。

 

また、横向きに倒れた遺体の首から下には毛髪が混じった砂が一直線にまかれ、周囲には本人のメガネ、入れ歯、タバコの吸い殻、灰皿が半円を描くように等間隔で並べられていたそうです。

 

このように宗教儀式めいたことがなされていたため、当時この事件を「オカルト殺人」と呼ぶメディアもありました。

 

朝日新聞(1987年7月23日)

 

当時、広島大学では中核派と原理研究会(統一教会)が対立しており、それに絡んで大学とももめていたことから、犯人をめぐっていろいろな憶測が流れたようです。

 

警察は、数ヶ月前から学部長の自宅に不審な無言電話がかかっており、事件現場の学部長室内に物色の跡がないことから怨恨の疑いで捜査を進め、午後10時以降に大学に入るには教官が持つ磁気のIDカードが必要なため、学内関係者が関与しているのではないかと容疑者の特定を急ぎました。

 

その結果、人事のことなどで学部長に不満を持っていたとされる同学部助手(現在の助教に相当)の末光博(同44歳)を、9月30日から任意で呼び出し事情聴取していましたが、10月2日に殺人容疑で逮捕しました。

 

朝日新聞(1987年10月2日夕刊)

 

加害者の末光博

 

末光博は広島県の農家に生まれ、広島県立三原高校を卒業して広島大学理学部に入り、1966(昭和41)年に同大学院理学研究科に進学、修了後の1970(昭和45)年11月に総合科学部の前身である広島大学教養部に助手として採用されました。

1972(昭和47)年2月には、理学博士の学位を取得しています。

 

専門は素粒子物理学(核子(陽子と中性子)と核子間の相互作用の研究)で、指導教授である小此木久一郎教授のもとで助手を務めてきました。

小此木教授の愛弟子とも言える末光は、人柄は温厚で学生にも親切に接し、周囲からの評判は良かったようです。

 

また私生活での彼は、妻(同35歳)との間に1男2女の子どもにも恵まれていました。

 

しかし、助教授(現在の准教授に相当)への昇任の機会に恵まれなかった末光は、同年4月には自分より1歳若い助手が先に助教授になる中、17年間いわゆる「万年助手」に甘んじて来ました。

 

そんな彼にとって、またとないチャンスが巡ってきます。

1988(昭和63)年3月末で、基礎科学研究講座の彼と同じ専門分野である素粒子物理学の2人の教授が定年退官を迎えることになったのです。

 

末光は、今度こそと助教授になる期待を膨らませましたが、同年7月8日に開かれた後任教員の公募要領を決める人事教授会で、学部長の専門分野と同じ超伝導に関係する物性物理学(材料物性と電波物性)専攻の助教授または講師を公募することが決まったのです。

 

この決定は、2名のうち少なくとも1名は退官する教授と同じ素粒子物理学での採用と思われていた学部内でも、意外なものと受けとめられました。

 

最後のチャンスと期待していた末光は衝撃を受け、昇任の機会を完全に断たれたと思い絶望したようです

 

ただ、すでに1年ほど前からから殺意を抱いていたという末光は、「人事のことだけで殺したのではない」と供述しているように、7月8日の決定で突然犯行を決意したのではないようです。

しかしこの人事の決定が、殺人に至る最後で最悪の引き金になったのは間違いありません。

 

7月21日の夜、犯行準備を整えた末光は学部長室に忍び込み、廊下と部屋の明かりを消した暗闇の中で、岡本学部長の帰りを息をひそめて待っていました。

 

午後9時半過ぎ、部屋に戻ってきた学部長が明かりをつけたのと同時に、末光がゴムハンマーで彼の顔面を激しく殴打しました。

その時、メガネと入れ歯が吹っ飛んだそうです。

 

そうして末光は、用意していた刃渡り20センチの手作りの刃物(学内の工作室で、研究用の金属ヘラを両刃ナイフのように自分で加工したもの)で学部長を刺殺したのです。

 

倒れた学部長の遺体に彼は、恨みからと警察の捜査を撹乱させるため、持参した砂(大学のグラウンドの砂に自分の研究室に落ちていた学生らの毛髪と石灰を混ぜたもの)を遺体の首から足にかけてまき、さらに灰皿に洗面所で水を汲んで、これも憎しみから顔にかけたそうです。

 

殺害現場とされる写真

 

外に人の気配がなくなったのを見計らった末光は、いったん自分の研究室に戻ったあと、文学部棟裏の焼却炉に返り血のついた服と凶器のナイフを捨て、車で自宅に帰りました。

 

事件で学内は大騒ぎとなりましたが、末光は夏休みが明けた後も普段と変わらず勤務を続けていたそうです。

 

逮捕された末光は、「学部長は大学のためにならない人物」「人事のことだけで殺したのではない」「はめられた」などと供述しました。

 

また彼は、留置場の洗面台に頭を打ちつけて自殺を図り、全治2週間の裂傷を負っています。

 

殺人罪で起訴された末光被告に対し広島地方裁判所の中村行雄裁判長は、1989(平成元)年5月12日の判決公判で、懲役14年(求刑は懲役15年)を言い渡しました。

 

毎日新聞(1989年5月12日夕刊)

 

末光被告は、潔く刑に服したいとして控訴せず、刑が確定しました。

 

なお彼は、逮捕後の1987年11月25日に同大学を懲戒免職になっています。

 

一方で、亡くなった岡本哲彦教授のご遺族の意志と寄付に基づいて設立された岡本奨学基金により「岡本賞」が設けられ、平成元年度(1989)から優秀な成績をあげた総合科学部の学生・院生に授与されているそうです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

仮釈放なしに刑期満了まで刑務所で務めたとしても、20年ほど前に末光博は出所し社会復帰しているはずです。

 

今年で81歳になるはずの末光が、出所後どのような人生を送っているのかは分かりませんが、大学で理不尽に扱われているとの不遇感をつのらせた末の犯行を、今ではどのように振り返っているのでしょうか。

 

また、第二の被害者とも言うべき末光の妻と子どもたちのその後も気にかかりますショボーン

 

詳しい事情が分かりませんので推測になりますが、小川が気になった事件の背景について2点あげておきます。

 

まず、研究費の配分や人事に不満を抱いていた末光の恨みが学部長へと向けられた背景についてです。

 

そこには、国立大学に多い「講座制」、すなわち教授が実権を握り助教授ー講師ー助手を徒弟関係のように従える旧態依然とした権力構造があり、各講座のピラミッドの頂点に学部長がいたということです。

 

岡本哲彦教授は、1982(昭和57)年から5年間その学部長の地位にありました。

 

学部の新規採用人事は、教養部が総合科学部に改組された1974(昭和49)年以降は公募制になったそうですが、通常の教授会は助手まで全教員が出席するのに対して、人事教授会は教授のみが出席し、そこでの決定にはいわゆる根回しによって学部長の意向が強く反映されていたようです。

 

したがって、末光と同じ素粒子研究の2人の教授の後任に、大方の予想に反して岡本学部長の専門と同じ分野である超伝導に関係する物理学の研究者での募集が決められたのも、学部長の意向によるものだったでしょうキョロキョロ

 

ただそれは、岡本学部長の個人的な利害からではありません。

政府・文科省が誘導する日本の科学技術研究の中心が次第に地道な基礎科学から応用科学へ、つまり産学協同と言われるようなより実用的で企業の儲けにつながる研究へとシフトし、そうした研究に予算が多く配分されるようになったことを反映していたと思われます。

 

逆に、末光が取り組んでいたような素粒子の研究などはいわば日陰に追いやられ、研究予算も人員も削られてきていたのでしょう。

 

この事件を知った時、小川は、末光には広島大学でのポストに固執せず、他大学に移って昇任する道はなかったのだろうかとふと思いましたが、基礎科学研究を軽視する傾向は広大だけではないので、そうした道も閉ざされていたのではないかと思い返しました。

 

そうしたことから末光の気持ちの中には、自分の冷遇への恨みは単に個人的なものではなく、岡本学部長は悪しき時流に迎合した「大学のためにならない人物」だという「義憤(道に外れたことに対する怒り)」が主観的にはあったのかもしれません。

 

しかしもちろん、仮に末光の怒りに「一理」があったとしても、それは学部長を殺害して解決すべき問題でないことは明らかです。

 

そう考えると、妻と3人の子どもへの責任を負う身でありながら、また失職させられるまでに追い詰められていたわけでないにもかかわらず、殺人という暴挙に走った末光には、いったん思い込むと視野が狭くなり周りが見えなくなる性格的偏り(研究者にありがちなのめり込みタイプ)があったのではないかと思えてきます。

 

そのように、思い込みにとらわれて自分を追い詰めがちな末光だからこそ、彼の不満や苦しみを第三者に受けとめてもらい、問題解決に少しでも資する形でそれを表出する道はなかったのだろうかと小川は思います。

 

たとえば、もし末光の研究の価値や意義が根拠なくおとしめられ、研究費が不当に削られ、また不合理な昇進差別が長年にわたってなされていたのであれば、それは大学におけるパワーハラスメント、いわゆるアカデミックハラスメント(略称アカハラ)に当たる可能性があります。

 

労働社会学が専門の矢野裕子氏が、この事件を事例として、大学教員の昇進差別とそれに対する労働組合の対応可能性を聞き取り調査した研究ノート(2022)によると、質問に応じた労働組合の幹部の多くが末光の事例を労組として取り組む課題になると認識し、「本事件は昇進差別と日常のパワハラの複合的人権問題」であり「「労働安全法」や「労働契約法」を踏まえてパワハラ是正の団体交渉を申し入れる」などの対応が考えられると回答しています。

 

パワハラ防止法と言われる改正労働施策総合推進法が2019(令和元)年に制定され、翌2020(令和2)年から大企業に対し、2022(令和4)年からは中小企業においてもハラスメント対策の強化が義務化されました。

 

この事件はそれより30年以上も前の出来事ではありますが、男女の雇用や待遇の均等な確保を求める男女雇用機会均等法が事件前年の1986(昭和61)年に施行されており、性別に限らず職場での不公平な待遇は不当との認識は生まれ始めていたのではないでしょうか。

 

教職員組合にも加入していた末光が、自分の不満や怒りを自分ひとりの問題として抱え込まず、公の場で問題として提起していたら、直ちに是正に向かうことは難しくとも、少数かもしれませんが彼の声に耳傾ける人も周囲にいたのではないかと思います。

 

そうして、自分の訴えが他者によって受けとめられ共有されたなら、「学部長を殺して恨みを晴らす」という短絡的で的外れな行動に末光が走ることを防ぎえたかもしれません。

 

それができなかったのは、末光自身の自閉的な性格傾向に加え、自分の待遇について他人に不満を漏らすことを恥と感じる大学研究者としての孤高な(自分は他とかけ離れて高い位置にいると思う)プライドがあったのかもしれませんが、末光が自らを追い込んだ孤立が、この事件におけるもう一つの重要な背景としてあったのではないかと思う小川ですショボーン

 

 

参照資料

・新聞の関連記事

・矢野裕子「労働社会学の観点からみる大学教員昇進差別ー広島大学教員殺人事件を事例としてー」京都西山短大『西山学苑研究紀要』17号、2022年

・「広島大学教授殺人事件~助手17年間の怨み(1987年)」広島の事件事故問題レポート、2013年10月10日

 
 
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