今回はリクエスト企画です
大久保 清
連続女性殺害事件
1971年
朝日新聞(1971年5月27日夕刊)
【事件の概要】
1971(昭和46)年の3月から5月にかけて、群馬県で10代から20代の若い女性が次々と行方不明になる事件が起きました。
その一人に、群馬県藤岡市の会社員・竹村礼子さん(当時21歳)がいました。
竹村礼子さん
5月9日の午後5時半ごろ、夕食の買い物から帰った礼子さんが、帰り道に中学の美術の先生という人と出会い、絵のモデルになってくれないかと頼まれたので、話を聞きに行ってくると家族に言って自転車で出かけたまま、夜になっても帰らなかったのです。
一緒に住む兄の省(さとる)さん(同35歳)夫婦が心配して心当たりを探しましたが見つからず、日が変わった5月10日午前1時半ごろに藤岡警察署に電話して事情を話しました。
家出と考えた警察は管内の派出所に連絡し、パトカーで若者の集まりやすい場所を警らして回りましたが、礼子さんを発見できませんでした。
一方、省さんが経営する会社の従業員や友人、礼子さんの勤め先の人などが彼女の行方不明を知って集まり、手分けしましたがやはり見つかりませんでした。
しかし、徹夜で妹を探していた省さんが10日の早朝に、多野信用金庫(現在は他行と合併してしののめ信用金庫)の自転車置き場に礼子さんの自転車があるのを発見します。
その足で藤岡署に行き正式に捜索願を提出した省さんが、自転車置き場に戻って見張っていると、午前9時半ごろになってマツダの白い乗用車がやってきました。
車から降りた男は、礼子さんの自転車にまっすぐ向かうと手にはめた軍手であちこちを撫で回しました。
指紋を拭き取っているのではないかと直感した省さんが、男に近づいて「何をしているのですか? この自転車はあなたのものですか?」と声をかけると、驚いた様子の男は口ごもりながらサッと車に乗り込んで逃げ出しました。
すぐに追いかけたものの見失った省さんですが、「群55?285」(?のひらがなは汚れていて読み取れず)というナンバープレートを記憶にとどめました。
省さんは警察に通報しながら、自分でもすぐにマツダの販売会社に行って事情を話し協力を求めたところ、該当する車の所有者は高崎市八幡町に住む大久保清(同36歳)という人物であると分かりました。
一方、警察もナンバー紹介から同番号の車は5台あり、うち同じ車種(マツダのロータリークーペ)は「群55な285」で、所有者は強姦致傷や恐喝など前科4犯の大久保清と突き止め、写真を見た省さんが駐輪場にいた人物だと確認しました。
1968年に売り出された
マツダ・ファミリア ロータリークーペ(同型車)
大久保は、2ヶ月ほど前の3月2日に府中刑務所を出所したばかりでした。
こうして、礼子さんの失踪に関係していると思われる人物が浮かび上がったのですが、危険を察知した大久保は家に帰らず、警察もなかなか身柄を確保することができませんでした。
そこで再び省さんの知人・友人たちが集まって「私設捜索隊」を編成し、警察の指導も受けながら群馬県内はもとより隣接する長野や埼玉まで足を伸ばして白いロータリークーペを探していたところ、5月13日になってようやく前橋市内で該当車を発見し追い詰めて大久保を取り押さえ、警察に引き渡したのです。
この時も大久保は、助手席に女子学生風の若い女性を乗せていました。
朝日新聞(1971年5月24日)
事件関連地図
(筑波昭『連続殺人鬼 大久保清の犯罪』より)
身柄を拘束された大久保ですが、遺体も殺人等の物証もないことからシラを切り続けたため、任意での事情聴取は難航しました。
それでも警察が、礼子さんの自転車に不自然に接触した件と、そのあと逃げ回ったことを追及すると大久保は、たまたま見かけた礼子さんにモデルになってほしいと声をかけ、喫茶店で話をしたあとモーテルに連れ込もうとしたが彼女は逃げ出し、通りかかった車に乗って行ったと釈明したのです。
そして、仮釈放中なので面倒なことになっては困ると思い、自転車の指紋を拭きに行ったのだと。
逮捕しての取り調べが必要と考えた警察は、彼の自供や目撃情報からわいせつ目的の誘拐罪で逮捕状を取り、5月14日に大久保を逮捕しました。
大久保清と警察取り調べ班との2ヶ月半にわたる長い攻防戦の始まりです。
朝日新聞(1971年7月30日夕刊)
逮捕した容疑者は、48時間以内に容疑を固めて検察庁に送るか、それができなければ釈放しなければなりません。
黙り込んだり前言をひるがえしたり嘘の供述をするなど大久保の撹乱戦術に警察は、礼子さん殺害容疑はいったん保留して、明らかになった別の事件での追及に切り替えました。
4月11日に、白い車に乗った中年男に声をかけられてレイプされたと警察に訴え出ていた19歳の女性(上の記事のA子さん)が、テレビのニュースに映し出された大久保の顔写真を見て驚き、警察に連絡してきたからです。
大久保の面通しをした彼女から「間違いない、この男です」との証言を得た警察は、大久保を強姦致傷容疑で5月15日に再逮捕し、動かぬ証拠を突きつけられると弱い大久保は、このレイプ事件についてはあっさりと自供しました。
その上で礼子さん殺害についても再び厳しく追及された大久保は、16日になって彼女を殺したとの自供をようやく始めました。
ところが、遺体を埋めたと自供した場所を本人同行で捜索しますが見つかりません。
嘘の場所を教えたのです。
そうしている間の5月21日夕方、群馬県立榛名公園の管理人から、近くにある榛名富士東側の山林で埋められている女性の遺体を発見したとの通報が警察にありました。
榛名公園から望む榛名富士
管理人は、5月の初めに白っぽい車の男がスコップを持って立っていたのを礼子さんのニュースを見て思い出し、念のためにと山林を調べ、土が盛り上がっているところを掘ると遺体が見つかったのです。
警察の調べでこの遺体は、3月31日から行方不明になっていた高崎市立高校3年生の津田美也子さん(同17歳)で、絞殺されたものと判明しました。
朝日新聞(1971年5月22日)
警察は、さらに遺体が埋められている可能性を考え、現場付近を警察犬も使って捜索しながら、大久保への尋問を続けましたが、彼は黙秘の態度を変えません。
そこで警察は、大久保が府中刑務所を出所してから身柄を拘束されるまでの間(3月2日〜5月14日)に行方不明になった若い女性20人のうち、事件に巻き込まれた可能性のある7人(女子高校生2人を含む)をリストアップし、公開捜査しながら大久保を追及することにしました(リストのうち須藤節子さんは捜索の過程で所在が判明)。
朝日新聞(1971年5月23日)
それに対して大久保は、リストにない女性5人をドライブに誘ってモーテルや野外でレイプしたと自供しましたが、殺害については先に自供した礼子さん以外は黙秘して語りません。
そこで警察は、行方不明者以外に大久保に声をかけられた女性がいないか探したところ、最終的に確認されたのは127人ですが、150人にものぼる女性が浮かび上がってきました。
朝日新聞(1971年5月25日)
上の記事にあるように、大久保は一人でいる女性を狙って白い新車で近づき、「道を教えて」などと声をかけて立ち止まらせ、中学/高校の教師や画家などと自己紹介(名前も偽名)しながらモデルになってほしいと頼むのが定番のスタイルだったようです。
大久保の態度はあくまでも紳士的で、人懐こい笑顔に丁寧な口調、服装は画家を意識してでしょうベレー帽にルパシカ(ロシアの民族衣装の上衣)か赤シャツが多く、車の後部座席には絵の具やカンバス(油絵を描く画布)あるいは小説や詩の本を小道具として置いていました。
ちなみに、大久保はルパシカを4着もっていたそうですが、そのうち2着は妻の手作りだったのは皮肉です。
ルパシカ(例)
そうして女性を車に誘い込むことに成功すると大久保は、まず喫茶店で絵画や文学、登山などについて言葉巧みに語って女性の気を引き、脈があると思うとモーテルに連れ込んだり山林など人気のない場所に停めた車内や野外で性関係を持つことを繰り返していました。
その時に、女性が関係を拒んで抵抗すると、態度を豹変させた大久保は殴りつけるなどの暴力を振るってレイプし、何人かは殺害にまで及んでいたのです。
話を取り調べに戻します。
大久保が竹村礼子さんの殺害について詳細な供述をしたのは、5月26日のことでした。
自分が自供しないで抵抗するのは、信頼していた友人や兄に裏切られ酷い仕打ちを受けたせいでこんなに悪い人間になってしまったことを示すためだと言う大久保に、取り調べに当たっていた警察官が心境の変化を読み取って同情的な態度を示すと、考えさせてくれと言ってから10分後に、礼子さんの強姦・殺人・死体遺棄について全面自供したのです。
詳細は省きますが、先に述べたような形で大久保は「絵のモデルになってほしい」と礼子さんに声をかけます。
買い物帰りだった彼女がいったん家に帰り戻ってくると、大久保は彼女の自転車を信用金庫の駐輪場に停め、車に乗せて喫茶店で話をした後、モーテルに連れ込もうとしますが礼子さんに拒絶されます。
別の場所で彼女を襲おうと考えた大久保は、近道を通って家に送ると騙して妙義山へ向かう農道に入り、人気のないところに車を止めてキスしようとしました。
「私の父は刑事だから、変なことをすると言いつける」ととっさの嘘をついて逃げ出した彼女をつかまえ、みぞおちと首を殴りつけた大久保は、ぐったりした礼子さんをレイプしました。
事が終わって大久保が立ち上がると、彼女は大声で「助けて!」と叫びながら逃げようとしたので、大久保は脱がせた下着を彼女の首に巻きつけて力一杯しめつけ殺害したのです。
車に積んでいたスコップで桑畑と農道の境に穴を掘り遺体を埋めてから帰宅した大久保は、翌朝、自転車に残っている指紋が気になって信用金庫の駐輪場に行き、礼子さんを夜通し探していた兄に見つかったのです。
自供にもとづいて警察は、5月27日の早朝から妙義山麓に大久保を連れて行き、彼の指し示した場所から変わり果てた礼子さんの遺体を発見しました。
朝日新聞(1971年5月27日夕刊)
その後も警察は、すでに遺体が発見された津田美也子さんの殺害と、行方不明の他の6人の女性についてあの手この手と苦心しながら大久保の追及を続けました。
その結果、6月4日に美也子さん殺害を全面自供したものの、他の女性については殺害したことは認めながらも遺体を埋めた場所についての供述を拒み続けたため取り調べは長期戦になり、最後の2人の遺体が発見されたのは、7月30日になってのことでした。
朝日新聞(1971年7月30日夕刊)
3月2日の仮出所後、大久保は、親に頭金を出してもらいローンで購入した新車を、1日約170㎞というタクシー並みの距離を走行しながら女性を物色しては約150人(確認された人数は127人)に声をかけ、うち30人余りを車に誘い込んで10数人と性的関係を持った(もっと多いとする記事もある)と推定されています。
朝日新聞(1971年7月30日夕刊)
そのすべてがレイプではなく合意の上での行為もあったようですが、レイプした場合もその後で女性をなだめたりお金を渡したりして次に会う約束をするなど、警察沙汰にならないよう大久保なりに細心の注意を払っていたようです。
大久保の自供によると、殺害された8人のうち竹村礼子さんを除く7人は、彼の車でそれまでに複数回ドライブをしていたとのことです。
それがどうして殺害に至ったのかについて大久保は、親や身内に警察官や検察官がいると言って自分を威嚇したり、自己紹介の名前(渡辺哉一)や職業(教師、画家)などがすべて嘘なだけでなく、前科があることまで調べて嘲笑(あざわら)うような態度をとったからだと言っています。
大久保が警察・検察への恨みを持っていたのは確かですが、殺害時の被害者とのやりとりが彼の供述通りなのかは分かりません。
しかしいずれの場合も、関係をばらされることを恐れたり、自分に対して生意気で見下した態度をとっていると思って激昂したことが、殺害への引き金になったようです。
【大久保清とはどういう人物だったのか】
大久保清(以下、「大久保」とは彼のこと)は、1935(昭和10)年1月17日に群馬県碓氷(うすい)郡八幡村(現在の高崎市八幡町)に3男5女の第7子(三男)として生まれました。
長兄は幼くして亡くなり、内向的な次兄を性格的に親が嫌ったため、特に母親が大久保を溺愛し、大きくなってからも「僕ちゃん」と呼んでいたそうです。
家の跡取りとして娘より息子を偏愛する時代でもあったのでしょう。
大久保の祖母は、江戸時代に中山道の宿場町として栄えた安中(あんなか:現在の群馬県安中市)で芸者をしていた人で、客のロシア人との間に生まれた婚外子が大久保の母親です。
ですので、母親はロシア人とのハーフ、大久保はクウォーターになります。
彼のややエキゾチック(異国風)な風貌も、女性を誘う時の小道具の一つとなりました。
10歳の時に母親は、小学校の用務員をしていた男性(大久保の祖父)の養女となり、大久保の父親は、20歳で大久保家の婿養子になる形で大久保の母親と結婚したのです。
父親は、鉄道省(のち国鉄から現在のJR)の機関士でしたが、1949(昭和24)年の人員整理の時に、ヤミ米運びで検挙歴があったことから息子(大久保の次兄)と一緒に解雇されたので、農業と闇屋で生計を立てました。
その後、自宅敷地内に5軒の貸家を新築し有料駐車場を作るなどして家計にゆとりがあったようで、大久保が不始末をしでかすたびに親がお金を出して示談で済ますことを繰り返しました。
なお、この父親は性的に慎みがなく、大久保が小学1、2年生のころまで子どもが見ていてもかまわず妻と性行為をしたり、近所の娘をレイプしたり(妻がお金を渡して収める)、息子(大久保の次兄)の妻にまで(最初の妻と再婚後の妻の両方で、最初の妻は夫が戦地に行っている間に)手を出すような男でした。
父親の常軌を逸した性欲と性行動は、おそらく性格異常から来ているのではないかと思われますが、大久保はその素因を受け継いだようです。
真偽は不明ですが、後に父親が大久保の妻にも手を出したと母親が疑い、信心していた新興宗教の関係者にその話を漏らし噂になったことで、妻は大久保との離婚の意志を固くしたようです。
また、戦争中の禁欲生活の反動もあってでしょうか、戦後の混乱の中で欲望が解き放たれた社会の空気は子どもにも影響を与え、アメリカ兵がばら撒くチョコレートやチューインガムに群がり、日本人娼婦を連れて彼らが野外で性行為するところを一緒に覗きにも行ったと大久保の友人が証言しています。
性に放縦(ほうじゅう:勝手気まま)な父親の気質を受け継いだ大久保は、そうした環境にも刺激されてか、早くも小学6年生の時(1946年)に3歳ぐらいの幼女をアメリカ兵にもらったお菓子で誘って麦畑に連れ込み、女性器に石を入れてもてあそぶという「イタズラ」の域を超える行為をしています。
今なら大問題になるところですが、被害者の親が抗議にやってくると大久保の母は、最初は「僕ちゃんがそんなことをするはずない」と言い張り、シラを切れなくなると「子どものお医者さんごっこに大人が目くじらを立てることはない」と居直って謝ることもせず大久保をかばったそうです。
しかしそうした行為は1回だけのことではなく、何度も同じようなことを繰り返したため、大久保は地域で要注意少年とみなされていました。
大久保が八幡村国民学校(今の小学校に相当)に入学したのは1941(昭和16)年4月で、同年12月8日の真珠湾攻撃で日本は対米英戦争に突入します。
大久保のどことなく西洋人っぽい風貌は、それまで子どもたちの間で羨ましがらることもあったようですが、日米が開戦すると手のひらを返したように「アイノコ」「敵国アメリカの血が入っている」と蔑みといじめの対象になります。
また大久保は、敗戦後にGHQ(占領軍総司令部)の命令で、それまで絶対のものとされた教科書の軍国主義的・皇国史観的な記述を墨で黒く塗りつぶした世代です。
そうした戦中戦後の価値観の転倒を体験した大久保は、確かなものは何もなく個人が自由に振る舞えば良いと我流に解釈したアナーキズム(無政府主義)・ニヒリズム(虚無主義)に共鳴し、大杉栄(明治から大正時代のアナーキストで、関東大震災の混乱に乗じ憲兵に殺害される)や金子文子(大正時代のアナーキストで大正15/1926年に大逆罪で収監中に獄死)の本などを持っていたそうです。
彼が警察や検察に敵意を抱き、取り調べに抵抗したのには、後で述べる個人的な恨みに加え、権力と闘う反逆者の自己イメージを持ちたかったことがあったようです。
小学校時代の大久保は勉強嫌いで、学年が上がるほど成績も悪くなりました。
1947(昭和22)年4月に八幡中学校に進みますが、図工が比較的良かった以外は成績不良で、特に数学と外国語は劣等だったそうです。
その一方、口がうまく体裁を取りつくろうのが巧みで、人を騙したり陰でサボったりするのは得意でした。
また、強い者には従順で下級生など弱い者には支配的に振る舞う二面性があり、カッとなりやすい性格だったそうです。
このころから、弱い者相手に「ボディ」と称して拳でみぞおちを殴るマネをすることが多く、後にそれを女性に対する暴力で実際に使うことになります。
中学を卒業した大久保は、父親の闇屋と農業を手伝っていましたが、1952(昭和27)年に群馬県立高崎商業高校豊岡分校定時制に入ります。
しかし、半年も経たずに退学した彼は、東京板橋区の電器店に住み込みで働きに出ます。
ところが、近所の銭湯の女風呂を何度ものぞいて捕まり、店を解雇されてしまいます。
当時、横浜の電器店に嫁いでいた姉のもとに引き取られた大久保は、義兄の計らいで神田の電機学校にも通いますが勉強に身が入らず、親からの送金で「赤線」(1958/昭和33年の売春防止法施行まで存在した売春地域、警察が地図上で赤い線で囲っていたことからできた呼称)通いに精を出し、ついにはなじみの売春女性と店外でお金を払わず性行為をしようとしてトラブルになり、帰郷します。
1953(昭和28)年4月、電気関係の知識も技術もほとんど身についていなかったにもかかわらず、口のうまい大久保は親にお金を出させて、実家に「清光電器商会」というラジオの販売・修理の店を出します。
同年2月にテレビ放送が始まったばかりで、まだラジオ全盛時代でしたけれど、修理の腕が悪い大久保は、「鳴らないラジオを売った」など客にクレームをつけられて評判がガタ落ちになり、修理部品を買う金もなくなって知り合いの大きな電器商のところに行っては8回にわたって部品を万引きするようになります。
万引きはすぐにバレて逮捕された大久保ですが、親がすぐに弁償をして示談したため、彼は不起訴処分になります。
店を閉じた大久保は、1955(昭和30)年7月、大学生になりすまして17歳の女子高生を強姦し逮捕されます。
事件となった大久保の最初の性犯罪です。
しかしこの時は、性犯罪が「イタズラ」と軽く見られていた時代に加えて初犯ということもあり、裁判での判決は懲役1年6月、執行猶予3年という軽いものでした。
この時すでに大久保は、性犯罪について身勝手な「自論」を述べています。
つまり、声をかけた自分に女性がついてきたのだから、それは性行為に同意したということで、その時になって拒否するから仕方なく暴力を振るったけれど、自分のやったことは強姦ではなく合意の上(和姦)だった、ところが「約束」を破ってレイプされたと騒いだ女は嘘つきで、女性の言い分だけを取り上げた警察とともに、不当に自分を犯罪者にしたというのです。
これが、先に述べた警察と女性に対する個人的な恨みです。
そんな「理屈」は当然筋が通らないのですが、母親だけは「そうとも、女は魔物というからの。経験のない若い僕ちゃんが騙されるのも無理はない」とかばったそうです。
そんな大久保ですから懲りるはずはなく、同年12月にまた女子高生の強姦未遂事件を起こします。
さすがにこの時は懲役2年の実刑判決となり、先の事件の執行猶予が取り消されて、合わせて3年6月の懲役刑に服することになりました。
長野県の松本刑務所に収監された大久保は、受刑者仲間から暴力を振るわれたようで、早く出たい一心で「模範囚」を演じたことが功を奏し、刑期を半年縮めて仮釈放されました。
釈放されてからも大久保の「ガールハント」は止むことがありませんでした。
性犯罪被害者が被害を訴えやすくなってきたのは最近になってのことで、当時は、特に女性の場合、性犯罪に遭ったことが世間に知られると被害者の方が恥をさらされるということで、泣き寝入りする人が多かった時代ですから、この時すでに大久保による強姦被害にあった女性が何人もいたのではないかと思いますが、事実は分かりません。
そうした中、1960(昭和35)年4月にまた大久保は強姦未遂事件を起こします。
被害者は20歳の女子大学生で、いわゆる「60年安保」の反対運動で注目を集めた全学連(全日本学生自治会総連合)の学生活動家を装った大久保が声をかけ、ゆっくり話をしようと自宅を下宿と偽って彼女を連れ込んだのです。
2階の自室に入ると、それまで政治の話をしていた大久保が豹変して彼女に襲いかかり、驚いた女性は激しく抵抗しました。
その時、大久保の両親は在宅していて様子に気づいていたようなのですが、しばらくは見て見ぬふりをしていました。
しかし、女性があげるあまりの大声に両親がたまらず部屋に入ったことで事は未遂に終わりました。
この時も、親が女性側にお金を払うことで示談となり、大久保はなんとか不起訴処分となりました。
母親に泣きつかれた大久保は、それからしばらくはおとなしくしていましたが、また「ガールハント」を始めます。
1961(昭和36)年3月、大久保は前橋市の書店で一人の女性(B子さん)に声をかけます。
その時は誘いを断って帰ったB子さんですが、後日また声をかけられ、仕方なく喫茶店に同行しました。
大久保が女性とよく利用した前橋市の喫茶店「田園」
彼女に惹かれるものがあったのか、大久保はそこで「結婚を前提にした交際」を申し込み、B子さんがそれなら家に来てほしいと言うので、それから彼は群馬県渋川市の彼女の実家に何度も訪ねて行きました。
「渡辺許司(きよし)」という偽名を使い、専修大学生と偽っての交際でしたが、大久保は彼女もその家族も巧みな話術で信用させてしまうのです。
さすがに結婚話が具体的になってくると偽名ではすまないので、自分は大久保家に養子に行って名前も「清」にすると取りつくろったそうです。
ただし、性犯罪の前歴は隠したままでした。
こうして1962(昭和37)年5月5日、27歳の大久保は、20歳のB子さんと結婚しました。
翌年(1963)長男が誕生しますが、新婚早々から大久保は、農業や母親が家でしている雑貨店を手伝うこともせずに「ガールハント」に出かけ、結婚をほのめかして大久保が関係を結んだ女性が、約束を真に受けて家を訪ねてきたことも1度や2度ではなかったそうです。
それについて妻のB子さんが何か言おうものなら、大久保は逆ギレして殴りかかる始末でした。
大久保の母親は、「僕ちゃん」には甘やかしてブラブラすることを許しながら、「嫁」を下女のように扱う姑で、B子さんに農作業をさせながら「嫁いびり」も相当なものだったようです。
なお、このころ大久保は、能天気にも「谷川伊凡(イヴァン)」の筆名で『頌歌(しょうか)』と題した詩集を自費(と言っても親の金)出版しています。
1964(昭和39)年9月、生活に不安を抱いた妻が、牛乳販売店の権利を安く譲り受けられるよう親戚に頼み、大久保もあまり乗り気でないながら親に諸費用を出してもらって自宅の以前の電器店を改装し牛乳販売を始めました。
始めてみると大久保は意外に熱心に働いたようですが、日中働くと夕方から風呂に入り、「共産党関係の秘密の出版の仕事」などと嘘を言って毎夜のように「ガールハント」に出かけていました。
時には「成田闘争」(成田空港建設に伴う土地収用に抵抗する地主・農民を左翼学生らが支援した運動)に参加すると言って、女性と旅行に行くこともあったようです。
このような彼の「左翼」ぶりは、反逆者の気分と見せかけだけのもので、実体は何もありませんでした。
比較的順調に行っていた牛乳販売ですが、1965(昭和40)年6月に、大久保が配達した牛乳の空き瓶2本が盗まれるという事件が起きます。
盗んだ少年は、別の牛乳販売店の家族でした。
当時は、空き瓶の数で売り上げがカウントされる仕組みだったのでしょうか、空き瓶が盗まれると売り上げが減ることに怒った大久保は、少年を捕まえて販売店に怒鳴り込み、店主である少年の兄に2万円を出させ、警察沙汰にすると脅して後日さらに金銭を要求したのです。
店主が警察に訴えたことで、大久保は恐喝と恐喝未遂(後日分)で逮捕・起訴され、懲役1年、執行猶予4年の判決を受けます。
この件をきっかけに、大久保の婦女暴行2件の前歴が妻に知られてしまうのです。
店主に訴えられた大久保は、相手の「牛乳瓶泥棒」も窃盗事件として取り上げろと警察に強く求めましたが、少年が空き瓶2本を盗るという微罪だからでしょうか、警察は取り合わなかったようです。
そのことで大久保は警察に対する恨みと敵意をさらに募らせることになります。
この事件で評判を落とした大久保の店は販売不振におちいります。
ちょうどそのころ、2人目の子ども(長女)が生まれました。
執行猶予になったものの働く意欲を失った大久保は、また強姦事件を立て続けに起こします。
1966(昭和41)年12月に、16歳の女子高生を当時使っていた車の中でレイプします。
さらに1967(昭和42)年2月に、20歳の女子短大生をやはり車内でレイプしました。
この事件で逮捕された大久保は、前年の女子高生への犯行も発覚したため、裁判で懲役3年6月の判決を下されます。
それによって先の恐喝事件の執行猶予が取り消され、合わせて4年6月の懲役刑となって東京の府中刑務所で服役することになりました。
今回も早く出たい一心の大久保は模範囚を演じ、1971(昭和46)年3月2日に仮釈放されて自宅に戻ります。
服役中に妻から離婚を申し込まれた大久保は、出所するまで待ってくれと引き延ばしていましたが、妻は離婚するつもりで子どもを連れて渋川の実家に帰ってしまっていました。
父親がB子さんに手を出したという話は服役中のことで、B子さん自身は否定したようですけれど、かつて自分の妻が父親の性暴力被害に遭った次兄は、B子さんに家に戻らないよう強く忠告しました。
出所後、大久保は妻の実家に何度も足を運んで復縁を求めますがB子さんの意志は固く、家には戻りませんでした。
女性に対して無分別に思える大久保の、妻への執着が何だったのかはよく分かりません。
ただ、大久保にとって女性とは、母親のように溺愛して自分に仕えてくれる存在か、あるいは愛情とは関係なく自分の性欲を満たすための道具かのいずれかでしかなかったように思われます。
とすれば、妻とはこの二つの役割を同時に果たす、大久保にとって誠に都合のよい存在だったということなのでしょう。
その妻が自分に背を向けたことは、大久保にとっては裏切りであり、またプライドを傷つけられたことでしょう。
そこで大久保は、妻と裏で糸を引いていたと思った次兄への憎しみをつのらせ、いつか彼らを殺そうと思ったようです。
そうした暗い情念を心に秘めながら、仮釈放中の身なので担当の保護司には「更生」しているふりを大久保は見せていました。
言葉巧みに外見をつくろうのは、子どものころから身につけている得意の処世術です。
仮出所の可否判断に影響するのでしょう、獄中で大久保は出所後の生計について室内装飾品の販売店を起業するという計画書を作成していました。
電器店、牛乳販売店に次ぐ3度目の起業になりますが、今回は仮出所のために体裁を取りつくろっただけで初めからまったくやる気がなく、具体的にどうするつもりかと妻に聞かれた彼が、「とりあえず家にあるものを売る」と答えたので、彼女は呆れたそうです。
しかし、販売営業のためと称して犯罪の凶器となったマツダファミリア・ロータリークーペの頭金を親に出させています。
この「かっこいい」車を走らせ、起業などそっちのけに「ガールハント」に明け暮れる毎日を送っていた大久保は、先に見たように出所からひと月も経たない3月31日に群馬県多野郡で最初の殺人(女子高生の津田美也子さん)を犯します。
その後、殺人にまでは至らない強姦・和姦を恐らく何十件と繰り返しながら、5月13日に竹村礼子さんの件で身柄を拘束されるまで、立件できただけで8人もの女性を殺害したのです。
死体遺棄現場の検証に立ち会う大久保
【裁判と判決】
8件の殺人・死体遺棄とA子さんへの婦女暴行致傷の計9件の罪で起訴された大久保清の初公判は、1971(昭和46)年10月25日、前橋地方裁判所で行われました。
朝日新聞(1971年10月25日夕刊)
罪状認否を求められた大久保は、9件すべてについて起訴事実を「間違いありません」と全面的に認めました。
裁判所は大久保の心理鑑定をすることにし、1972(昭和47)年4月から10月まで半年がかりで中田修教授(東京医科歯科大学犯罪心理学教室)に小田晋・福島章・稲村博の3人が助手として加わり行われました。
鑑定結果は、大久保は精神病ではないが発揚性(気持ちの高ぶり)、自己顕示性、無情性(思いやりや同情の欠如)を主徴とする異常性格(精神病質:サイコパシー)で、性的・色情的亢進を伴う、というものでした。
精神病質者(サイコパス)とは、一般の人と比べて著しく偏った考えや行動をとり、対人コミュニケーションに支障をきたすパーソナリティ障害の一種とされます。
精神病質者には下のような特徴が見られるそうですが、確かに大久保のケースに該当するものが多いように思います。
「刑事事件弁護士ナビ」参照
ただこれらは直ちに犯罪と結びつくわけではなく、サイコパスがすべて猟奇的犯罪者というのは誤ったイメージです。
大久保の場合は、こうした素因に環境的経験的な要因が加わって、抑制の効かない性犯罪や連続殺人をするに至ったものと思われます。
1973(昭和48)年1月8日に開かれた求刑公判で広瀬哲彦検事は、「8人もの若い女性を殺害したことに対しては、死をもってつぐなわしめるべきであります。それが正義でありましょう」と述べて死刑を求刑しました。
それに対して、「反逆者」を気取り「男として立派に死んで見せる」とうそぶいていた大久保は、死刑の求刑にも平然とした態度を崩しませんでした。
朝日新聞(1973年1月8日夕刊)
そうして裁判は結審し、1973(昭和48)年2月22日の判決公判で前橋地裁の水野正男裁判長は「被告人を死刑に処す」と言い渡しました。
朝日新聞(1973年2月22日夕刊)
裁判長は判決文の「量刑の理由」において、次のように述べています。
(被告人は)これ迄も性犯罪を数度に亘り犯し、服役もしながら、その性的放縦を矯(た)めようとせず、刑務所を仮出獄後月余を経ずして連日の如く女漁りを行い20歳前後の多数の女性を極めて巧妙な手段を用いて誘い、これら女性を、その多くは欺き、時には極めて荒々しい暴力を振いつつ自己の性欲を満たし、しかも自己の非を発(あば)かれるおそれの感じられる女性は、必死に逃げ、あるいは哀願するのをかまわず、残酷にその生命を奪うという、自らの利益と欲望のためには、何物を犠牲にしても顧みないという、冷酷にして利己的そして矯正は不可能とみるほかない被告人の性格が明確に認められるものといわざるをえない。
また、大久保が犯行を正当化しようとして語った身勝手な動機についても、裁判長は次のように一蹴します。
被告人は、本件犯行につき、改悛の情を示すところまったくなく、それどころか、被告人が声をかける迄は全く没交渉であった女性を殺害したことをもって、権力に対する反抗を示したものと称し、その事由として十数年前の強姦事件の被害者の虚偽の供述という歪曲誇張した事項を持ち出し、かつ、これをここに至って挙行した事由としては、既に母がその非を認め、被告人も悟り、それ故怨恨は消え去っていたはずであり、しかも、それが女性殺害と結びつく関連性などない兄に対する憤怒を述べ立てるなど、自己の醜さをおし隠し、その所為を虚偽で固めて、美化しようとする異常な程の自己顕示性がみられ、かかる被告人の犯行後の態度は、自らのうちの人間性を自ら抹殺するものといえるのである。
そして、府中刑務所を出所後の家族関係が大久保の希望どおりでなかったとしても、その原因は本人の再々の非行にあるので、「出所後はあらゆる条件を克服して自力更正すべき」であったにもかかわらずその努力を怠り、「かかる状況下自己の欲望のおもむくまま、何ら責められるべき理由もない8名もの女性を殺害したうえ死体をその発見を防ぐためすべて土中に埋没し、他一名に対し強姦致傷の所為に及んだ被告人の行為は、まさに天人ともに許すことができないもの」と裁判長は断じました。
この判決に対して大久保は控訴せず、控訴期限が切れた1973年3月9日に死刑が確定しました。
朝日新聞(1973年3月9日)
大久保清の死刑は、1976(昭和51)年1月22日に東京・小菅の東京拘置所で執行されました。
それでも、彼が殺害した最年少の女性はまだ16歳の若さで命を断たれたのに対し、大久保は41歳まで生きながらえたのです。
朝日新聞(1976年1月23日)
裁判では終始虚勢を張り、「立派に死んで見せる」と豪語し、被害者・遺族への謝罪の言葉も態度も一度たりと示さなかった大久保ですが、死刑当日の朝、これから死刑を執行すると告げられた彼は体をガタガタ震わせ、腰が抜けたようになって失禁し、刑務官に両腕を抱えられて何とか「絞首台」にたどり着き、「最後の言葉」も残せぬ状態のまま刑を執行されたと伝えられています。
首に縄をかけられた時、大久保の脳裏に、自分が無慈悲にも絞殺した女性たちの最後の苦悶の表情が、チラとでも浮かんだでしょうか。
両親、特に母親による溺愛・甘やかしが助長したとはいえ、父親から受け継いだであろう異常なまでの性欲と性への囚われという素因なしには起こらなかったのではないかと思われる事件です。
分かっただけで8人もの女性を殺害し、何十人にも上る性暴力被害者が訴えることもできずに涙をのんだのではないかと思われるこの事件で、大久保が犯した罪の重さは改めて言うまでもありません。
ただ、大久保の自己正当化の理屈には、当時はもちろん今日でも少なからぬ人(多くは男性)が共有しているのではないかと思われるものがあります。
たとえば、誘われて自分から車に乗り込んだのは、性関係に同意したのも同じだという言い分です。
それには、「デートに応じたのだから」「部屋で2人きりになったのだから」などいくつものバージョンがあるでしょう。
かつて刑法で「強姦罪」と言われたものは、2017(平成29)年に「強制性交等罪」と改められ、さらに2023(令和5)年に「不同意性交罪」と再改正されました。
かつての「強姦罪」は、「暴行または脅迫」による「(狭義の)性交」で、被害者が「親告(自ら訴え出る)」してはじめて加害者の罪が問われる、被害者にとって非常にハードルの高いものでした。
しかも、「暴行または脅迫」とは被害者が抵抗できない程度のものとされましたから、殺される覚悟で抵抗しないと強姦とは認められない可能性があったのです。
それが「強制性交等罪」では、罪となる行為が狭義の性交(性器の挿入)からオーラルセックス(口腔性交)などの性的行為にも広げられ、また「親告罪」でなくなり罰則も強化されました。
そして昨年施行された「不同意性交罪」では、「暴行または脅迫」から「相手の同意の有無」へと問題のポイントが移され、罪となる行為の対象もさらに広げられ、またたとえ夫婦であっても同意のない性交は罪になると改められたのです。
ここでの「同意」について、小川が大学の授業で見せてもらったとても分かりやすい解説動画があります。
それは、イギリスのテムズバレー警察署が2015年に「Consent is Everything(同意がすべて)」と題したキャンペーンの一環として作成したものです。
セックスの誘いを紅茶の誘いに例えた分かりやすくユーモラスな動画ですので、よろしければぜひご覧になってください(字幕付)。
またこの事件では、高校生を含む若い女性たちがいとも簡単に大久保の誘いに乗り、中には同意の上で性行為をしていたことに驚いた人が多くありました。
確かに小川も、どうしてこんなに簡単に見知らぬ男の車に乗るのだろうと不思議でもありました
しかし考えてみると、そこにはいろいろな要因や1970年代初頭の時代背景があったでしょう。
1960年代の後半に欧米の若者を中心に起こった、既存の価値観や文化に疑問を抱き束縛から自由な生き方を求めた多様な動き(アメリカから世界に広がった「ヒッピー」が有名です)が、日本の若者にも影響を及ぼしました。
ビートルズの長髪が日本の若い男性にも流行(はや)り、吉田拓郎が「僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら(…)結婚しようよ」と歌ったのは1972(昭和47)年のことでした。
そうした新しく吹いた「自由の風」は、「女なんだから」「女のくせに」と言われて行動や生き方、役割が制限されてきた女性たちの多くにとって、歓迎されるものだったのではないでしょうか。
「フェミニズム」の難しく真剣な議論もありましたが、ごく普通の若い女性にとって自由とは、「はしたない」というオトナの顰蹙(ひんしゅく)をよそに、若い脚をこれ見よがしに出した「ミニスカート」や「ホットパンツ」で街を闊歩するファッションで実感されるものだったでしょう。
性の意識や行動においても欧米で「フリー・ラブ」と呼ばれた「自由の風」が吹き、男の性が野放しにされる一方で女性にのみ厳しい禁欲的な性道徳が課せられてきたことへの反発から、あえて性的に自由に振る舞おうとする若い女性もいたでしょうし、1970年代後半から80年代にかけて急増する女子中・高生の性非行を先取りするような現象もあったでしょう。
詳しくは触れられませんでしたが、そうした時代背景を抜きにして、大久保も悪いが引っかかった女性も女性だと安易に言うのは、傷つき命まで奪われた被害者にも落ち度があったと追い打ちをかけ、死者を鞭打つことになると小川は思います。
ただ、彼女たちの自由で積極的な行動が、大久保のように女性を性欲のはけ口としか思わない男に利用され、餌食にされたのは悔やまれる事実です。
それを自由を単に束縛のないこととしか考えず内容を問わない形式的な自由の落とし穴だったと反省するなら、そうならないためには、ただ欲情のおもむくままに行動する自由から一歩踏み出し、先に見た「同意」もそのための必要条件でしょうが、自分も相手も共に幸せにできる行為こそが本当の「自由な性」だと捉えて、性別を問わずみんなが賢く悔いなく生きなければと思う小川です
参照資料
・新聞の関連記事
・筑波昭『連続殺人鬼大久保清の犯罪』新潮OH!文庫、2002
・下川耿史『殺人評論』青弓社、1991
・別冊宝島編集部『死刑囚 最後の一時間』宝島文庫、2008
・前橋地裁 昭和46年(わ)280号判決
仕事から帰宅して、雑誌を読んだり行政書士の勉強をしながら、2週間かけて大久保清のブログを書きました😺
読んでくださった方、ありがとうございます🙏✨