今回はリクエスト企画ですニコニコ

おせんころがし殺人事件

1951年

 

毎日新聞(1951年10月11日夕刊)
 
【「おせんころがし」での惨劇】
戦後の混乱がまだ収まらない1951(昭和26)年10月10日の午後6時ごろ、千葉県夷隅郡興津町(いすみぐんおきつまち、現在の勝浦市)にある国鉄(現在のJR東日本)上総興津(かずさおきつ)駅の待合室に、途方にくれたようすの母子連れがいました。
 
1927(昭和2)年開業時のままの駅舎
 
母親は、神奈川県横須賀市田中町(現在の西浦賀)で「蛇屋」(ヘビから滋養強壮のための漢方薬などを製造販売する商売)を営む小林八郎さん(当時42歳)の妻てる子さん(同29歳)で、房総半島にヘビを獲りに行ったまま連絡がとれなくなった夫を、3人の子ども(長女9歳、長男6歳、次女3歳)を連れて探しに来たのです。
 
関東に多いという蛇屋(例)
 
ところが、駅に着いた時には乗るつもりだった最終列車が出てしまっており、どうしたものか困り果てていました。
 
そこに自転車を押した若い男が近づいてきて、どこに行くのかと母親に尋ねました。
彼女が具体的な地名を口にしたかどうかは不明ですが、西の方(館山方面)に行くと言ったのでしょう、その方角なら自分も行くので自転車に子どもを乗せるから一緒に行ってやろうと男が申し出たのです。
 
相手は見知らぬ男ですから当然警戒したはずですが、秋の日はもう暮れかけており、小さな子どもを抱えて心細かったのでしょう、男の誘いに彼女は乗ってしまいました。*
 *第1報の新聞各紙の記事では、助かった長女の話として、母子4人が興津町から小湊町まで歩いて行ったときに向こうから来た男と出会ってトラブルになったと書かれていますが、その後の調べでは、ここに述べるような経緯だったと考えられています。
 
 
男が荷台に長男を乗せて自転車を押し、母親が次女を背負って長女の手を引くというふうにして一行は、「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)」という西は館山へと通じる古い街道(現在は国道128号線がそれに沿って作られている)を歩き始めました。
 
しばらく行くと道は「おせんころがし」と呼ばれる高さ20メートルの断崖絶壁の中腹に作られた狭い道にさしかかります。
 
昭和の絵葉書「おせんころがし」
矢印が道で向こうに見える半島が小湊付近
手前が「孝女お仙の碑」
 
ここで、「おせんころがし」の由来について簡単に見ておきます。
いくつかの異なる伝承があるようですが、碑のそばにある勝浦市の案内板には、一番よく知られている話が書かれています。
 
 

おせんころがし

 

高さ二十メートル、幅四キロメートルにもおよぶこの「おせんころがし」には、いくつかの悲話が残されています。豪族「古仙家」の一人娘お仙は日ごろから年貢に苦しむ領民に心痛め、強欲な父を見かねて説得しましたが聞き入れてくれません。ある日のこと、領民が父の殺害を計画し機会をうかがっているのを知ったお仙は、自ら父の身代わりとなり領民に断崖から海に投げ込まれてしまいました。領民たちは、それが身代わりのお仙であったことを翌朝まで知りませんでした。悲嘆にくれる領民たちは、わびを入れ、ここに地蔵尊を建てて供養しました。さすがの父も心を入れかえたということです。

 

平成十二年三月

             勝浦市

 

上の話のお仙が断崖を投げ落とされたのは碑が建っている付近だったのでしょうが、この事件が起きたのは約4キロメートルに渡って続く「おせんころがし」をさらに西に行った安房郡小湊町(あわぐんこみなとまち:現在の鴨川市)です。
 
 
歩き始めてしばらくすると、男は母親に「やらせろ(性行為をさせろ)」としつこく言い寄り始めました。
 
彼女は男を怒らせないようにいなしながら、ひと気のない「おせんころがし」の暗い道を歩いていたのですが、日が変わって小湊付近まで来たとき、最初から彼女を襲うつもりだった男は、突然自転車を倒し長男の頭を石で殴って崖下に放り投げ、さらに長女の手足を引っぱって崖を突き落としたのです。
 
そして、3歳の次女をおぶったまま命乞いをする母親を男は押し倒し、首を紐のようなもので絞めながらレイプし、次女もろとも崖下に突き落としました。
 
それだけでなく、崖の途中で引っかかっていた母親を、男は降りていって石で頭を殴りつけとどめをさしました。
 
朝になり現場を通りかかった小湊町の誕生寺の僧侶が、崖から落とされながらただ一人命をとりとめて泣いている長女を見つけ、彼女の話から付近を探したところ、母親と2人の子どもの遺体を発見しました。
 
読売新聞(1951年10月11日夕刊)
 
上の読売新聞の記事は、長女を発見した酒井要道さんをお仙の碑に近い(直線距離で350メートルほど)興津町大沢にある九成寺(くじょうじ)の住職と書いていますが、正しくは「小湊山誕生寺」の僧侶です。
ちなみに、「日出山九成寺」の名はお仙の碑の下部に刻まれているそうですから(南房総観光ポータルサイト「房総タウン.com」)、碑の建立に関係したお寺ではないかと思われます。
 
この事件の犯人として最初に疑われたのは、被害者の夫である小林八郎さんでした。
彼を容疑者として指名手配した警察は、10月11日の夜に房総半島内陸部にある千葉県君津郡久留里(きみつぐんくるり、現在の君津市久留里)の旅館にいた夫を逮捕しました。
 
 
読売新聞(1951年10月12日)
 
しかし夫の疑いはすぐに晴れ、次に警察が有力容疑者と見たのは、10月17日に詐欺横領容疑で検挙されていた男でした。
 
読売新聞(1951年10月20日)
 
ところがこの男も事件には無関係と分かり、捜査は暗礁に乗り上げました。このままいけば、事件が迷宮入りした可能性もあったのです。
 
事態が大きく動いたのは、犯人が自ら犯行を自供したからです。
 
【栗田源蔵の罪と罰】
 

栗田源蔵

 

犯行を自供したのは、1926(大正15)年11月3日に秋田県雄勝郡新成村(おかちぐんにいなりむら)の貧しい家に生まれた栗田源蔵(くりた・げんぞう)でした。

 

栗田の不遇な生い立ちについては、この事件を扱った多くの記事にほぼ同じ内容で書かれていますので、ここでは概要にとどめます。

 

病弱な父親と必死に家計を支える母親には栗田に愛情を注ぐ余裕はなく、今で言う「育児放棄」状態で大きくなっても夜尿症が治らず、学校ではいじめにあって小学3年で中退、丁稚奉公先を転々としますがどこも追い出されるようにして辞め、1945(昭和20)年に19歳で軍隊に招集されるも夜尿症が原因で2ヶ月で除隊となりました。

 

戦後は北海道の美唄(びばい)炭鉱で働くうちにそれまでと打って変わった粗暴さを身につけた栗田は、真偽は不明ですが北海道でも4人を殺害したと語っています。

ちなみに、のちに書いた「手記」で栗田は、すでに1944(昭和19)年、知人女性と性行為をしながら首を絞めて殺したと告白しています(下のリスト❶)。本当であれば初めての殺人です。

 

北海道から千葉に来て闇物資のブローカーとなった栗田は、1948(昭和23)年1月に同じ闇屋仲間で「情婦(愛人)」でもあった村井はつさんを、他に愛人ができたことからじゃまになり撲殺したことを自供しています(下のリスト①)。

 

ここで、表沙汰になった限りで栗田が関わったと思われる殺人事件を、「立件された事件」(①〜④の4件7人)と「立件に至らなかった事件」(❶〜❺の5件5人、詳細不明の北海道の件は除外)に分け、リストにしておきます(リスト内は敬称略)

 

<立件された事件>
1948(昭和23)年1月 千葉県駿東(すんとう)郡原町(現・沼津市)
村井はつ(同17歳、交際していた女性)石で撲殺 1953年3月3日白骨遺体発見
1951(昭和26)年8月9日 栃木県下都賀郡小山(おやま)(現・小山市)
増山文子(同26歳)強姦・絞殺し屍姦
1951(昭和26)年10月11日 千葉県安房郡小湊町(現・鴨川市)
小林てる子(同29歳)強姦、長男(同6歳)、次女(同3歳)殺害
1952(昭和27)年1月13日 千葉県千葉郡検見川町(現・千葉市花見地区)
鈴木きみ(当時25歳)と叔母のいわ(同64歳)が殺され、きみは強姦される
 
<立件に至らなかった事件>
1944(昭和19)年 知人女性を性行為しながら絞殺(手記)
1947(昭和22)年11月 宮城県松島町
氏名不詳の女性(同22−3歳) 仙台駅前で知り合い殺害
1948(昭和23)年3月 福島県石城(いわき)郡小名浜町(現・いわき市小名浜地区)
霜田ハル江さん(同23歳)絞殺
1951(昭和26)年6月 静岡県田方(たかた)郡函南(かんなみ)(現・函南町)
氏名不詳の若い女性 殺害し十国峠に埋める 遺体発見できず
1952(昭和27)年3月(遺体発見) 山形県米沢市上山裏(かみのやまうら)
氏名不詳の女性 防雪林内で絞殺された女性の白骨遺体が見つかる
 
読売新聞(1953年12月4日夕刊)
リスト❺の事件
自供したが立件に至らなかった
 
栗田が最初に殺人犯として逮捕されたのは、リスト④の事件によってです。
 
「おせんころがし」の事件からわずか3ヶ月後の1952(昭和27)年1月13日、千葉県検見川町(けみがわまち)の鈴木いわさん宅に押し入った栗田は、居合わせたいわさんを出刃包丁で刺し殺し、姪の鈴木きみさんの首を絞め仮死状態で性的暴行をした上で殺害、衣類などを奪って逃走しました。
 
警察は、事件現場に残された指紋と、前科のあった栗田のものとが一致したことから容疑者と見て栗田方を家宅捜索し、鈴木さんから奪った多数の衣料や血のついた包丁が発見されたため、1月17日に窃盗容疑で栗田を逮捕し取り調べたところ、18日に強姦・殺害についても自供したのです。
 
千葉地方裁判所は、1952(昭和27)年8月13日の判決公判で栗田に死刑を言い渡しました。
 
栗田が判決を不服として東京高裁に控訴したため、1952年11月25日に控訴審の公判が開始されました。
 
ところがその直後、1951(昭和26)年に起きた「栃木人妻殺し事件」(リスト②)の手口が栗田のものとよく似ていると追及された彼は犯行を自供、それをきっかけに、迷宮入りすると見られていた何件もの殺人事件の自供を新たに始めたのです。
 
なぜ栗田が余罪を自供したのかよくわかりませんが、控訴はしたものの死刑判決を覆せないだろうと諦めた栗田が、すべて話してスッキリしたいと思ったのでしょうか……。
 
読売新聞(1953年1月8日)
 
警察・検察が捜査を再開したところ、リスト①の事件の被害者村井はつさんの白骨遺体が1953年3月3日に栗田の自供どおり発見されました。
 
読売新聞(1953年3月4日)
 
記事の見出しにある「小平」(「おだいら」ですが、一般には「こだいら」の読みで知られる)とは、1945〜46(昭和20〜21)年にかけて、戦争末期から戦後の混乱に乗じ、食糧の提供や就職の斡旋など言葉巧みに若い女性を誘っては強姦し殺害した連続殺人事件の犯人である小平義雄(1905ー1949)のことです。
 
小平事件を報じる読売新聞(1946年)
(文春オンライン「小平事件」2021.8.22)
 
そしてついに1953(昭和28)年7月に栗田は「おせんころがし殺人事件」(リスト③)も自分の犯行だと認めたため、警察は助かった長女にいわゆる「面通し」をさせて証拠を固めました。
 
こうして、小林てる子さんら母子3人が「おせんころがし」で無惨な死を遂げてから1年10ヶ月、ようやく犯人が突き止められたのです。
 
読売新聞(1953年7月15日)
 
「おせんころがし殺人事件」を含むリスト①〜③の事件で改めて宇都宮地方裁判所に起訴された栗田に対し、1953(昭和28)年12月21日に宇都宮地裁は求刑どおり死刑判決を言い渡しました。
一審で2回の死刑判決を受けたのは、栗田が初めてのことだったそうです。
 
読売新聞(1953年12月21日夕刊)
 
千葉地裁の死刑判決に加え、宇都宮地裁の死刑判決に対しても不服として両方を東京高裁に控訴した栗田ですが、1954(昭和29)年10月21日に控訴を取り下げたため、死刑が確定しました。
 
読売新聞(1954年10月22日夕刊)
 
死刑が確定した栗田源蔵は、宮城刑務所に収監されました。
 
その後、控訴を取り下げながらも「おせんころがし殺人事件」については当日に別の窃盗事件を秋田で起こしていてアリバイがあると言い出し、再審を求める動きをするなど不可解な行動も見られました。
しかし、彼の言う「秋田の窃盗事件」では別の人物が容疑者として逮捕されており、死刑制度の是非についての議論はありましたが、栗田の冤罪を信じる人はほとんどいませんでした。
 
こうして1959(昭和34)年10月14日、宮城刑務所で栗田の死刑が執行され、33歳に約20日足らずの人生を虚しく終えたのです。
 
読売新聞(1959年10月16日)

 

サムネイル

小川里菜の目

 
戦前・戦中そして敗戦後まもなくという時代の不運に加え、極貧の家庭に子どもと関わる余裕のない両親からのネグレクト、いじめを受け小学校を3年で中退した学歴のなさ、そしてその結果でもありますが、まともな仕事に就けなかった栗田源蔵の悪行には、本人だけに責任を負わすのは酷と言わざるを得ない同情の余地があったとは思いますショボーン 
しかし、命ごいする女性や3歳・6歳という小さな子どもであっても、自分の欲望を満たすためになら何のためらいもなく命を奪う栗田の冷酷さには、同情の余地を帳消しにして余りある罪深さを感じざるをえません。
 
死刑執行を待ちながら、獄中で栗田は「懺悔録」と題する手記を書いており、そこには立件されるには至らなかった多くの殺人についても書かれていたそうです。
 
内容の一部は『週刊サンケイ』(1970年12月14日号)が掲載したようですが、2度の面会で栗田の信頼を得、手記の書籍化を一任されたという加藤美希雄氏が、栗田の死刑が執行された後の1963(昭和38)年1月、手記に補足・編集を加え、タイトルも『陵辱ーこの罪を負って私は地獄に堕ちる!』(あまとりあ社)にして出版しています。*
 *ミゾロギ・ダイスケ「女性や子どもばかり7人を殺害……日本で初めて二度「死刑判決」を受けた男の歪んだ快楽」(現代ビジネス、2021.11.05)を参照しました
 
 
栗田は立件されなかったものを含めると、10人以上の女性と性的関係を持っては殺害するを繰り返しており、その際に首を絞めて仮死状態にしたり絞殺してから屍姦する猟奇的な行為をしています。
 
その行為について栗田は、まだ幼い頃に近所の高齢男性が「女と睦まじくしているとき、叩いたり、痛めたりすると、凄い……」と言うのを聞いたからだと手記に書き、本にもそれが掲載されているそうです。
 
いわゆるSM行為は本来それによって双方が快感を得て楽しむものであって、一方的に苦痛を与え殺害までしてしまう栗田の行為は、単なる歪んだ性虐待・性犯罪でしかありません。
 
この本を小川は入手できずに読んでいませんが、そうした栗田の行為は、かつて聞いた老人の言葉に刺激され身につけた性嗜好というだけでは説明がつかないものを小川は感じるのです。
 
そこで、2つの可能性を考えてみました。
 
人間が取り結ぶ性関係は単なる生殖欲求に尽きるものではなく、基本は人と人との親密な(intimate=もっとも奥深い)関係性の上に成り立つものだと小川は思います。
ですから、たとえ「遊び」の関係であったとしても、そこには最低限の相互尊重や好ましさの共有が必要でしょう。
そうした親密な関係性を欠いた一方的・支配的な快楽追求は、どのようなものであったとしても性暴力でしかないと小川は思うのですキョロキョロ
 
ということは、栗田のように他者との親密な関係を育む能力・感性を身につける機会を幼少期から持てなかった人間は、人間らしい性行為をしようにもできない可能性が高く、ただ「刺激の強い」行為を求め繰り返すしかないのです。
 
もう1つの可能性は、抑えの効かない性欲の亢進や他者との共感の回路が機能しないなど、何らかの先天的で病的な異常があったのかもしれないということです。
 
栗田がどちらだったのか、両方が作用し合ったのか、あるいは第三の可能性があったのか、これ以上は小川にはわかりませんが、そんな男の身勝手な性欲のはけ口にされて命を奪われた多くの女性たち、とりわけ「おせんころがし」で殺害された母親と小学生にもならない幼い子どもたちのまだ言葉にすらできない無念さに、73年という年月を超えて憤りを禁じえない小川ですショボーン
 
 
GWも後半ですねにっこり
GW中は1日だけ休みがあったので、国際盲導犬デーin神戸に行ってきました🦮
 
 
 
 
 
 
いろいろ可愛い物が売っていたので
購入しました爆笑
 
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FAXで注文ができるそうですニコニコ

 

視覚障害の方々が読み終えた

点字紙を再利用した商品

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取り上げたい事件がたくさんあって、
資料集めもちょこちょこしています。
次もリクエスト企画にしようと思っていますおねがい
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