死なないから、死なないから
 必ず死なないから
 泣かないで、死なないから
 今は耐えるしかないの
 きっと治るから
 夢見て
 笑って



 初診日が、14年の9月14日になっている。

 僕の記憶では、発症したのは5月なのだが、宮城県、旧・栗原郡 築館町にあった公立病院に救急搬送されたときのカルテが、後に作られた栗原中央病院に引き継がれなかったらしく、そのようになっている。あるいは、まるで覚え違いか。宇多田ヒカルの「光」をスズキ電機?に買いに行った、あの初夏にしてはクソ暑い日の一連のできごとを、僕は今でもはっきりと思い出せる。いや、どうしても忘れることができない。


 その前の晩は、何の異常もなかった。


 あるストーリーの箱書きを大変大量にひらめいて、メモ帳に書くのに必死だった。妹がTVゲームしている向かいで、コーヒーメーカーでこれまた大量に淹れたブラックコーヒーを、小さなカップで20杯?くらい飲んだだろうか?なにせ、やりながらなのでその辺のことは覚えがない。ただ、大量に、飲めるくらい飲んで、すこぶる調子が良かったのは覚えている。それを朝までやって、発売日だったんだろうか、予約していたか、それとも思い付きだったんだろうか?とにかく、宵っ張りの次の朝(この頃はしょっちゅう徹夜していたが、どの作品も箱書きかシナリオどまりだった)、帽子がなくて、じりじり暑いなーと思いながら、一人で自転車に乗って、築館町に向かった。道中、寄り道なし。日射病になるかな?くらいの自覚はあったが、どこもおかしくなかった。

 それが、である。CDショップの前に来たら、急に吐き気と眩暈を覚えた。なんとかCDだけは入手せねばと、根性で「光」を買い、さあ、宵っ張りだったし、具合悪くなりそうだから帰ろう、と思ったとき、

 自転車に乗れずに、座り込んでしまった。


 その直後、店前で大変申し訳なかったのだが、少量の嘔吐。向かいの毛糸店の人まで出てきて、大丈夫?と聞かれ、大丈夫だと答えるしかなく、座り込んだまま。トイレを借りたが解決策にはならず、どこか涼しいところで休もうと、ありがとうございました、すいませんと平謝りしながら(CDはがっちりバッグに入れといた)近所のヨークベニマルまで自転車を引いていった。


 店内に入るが、涼しい以外に何の救いにもならない。オレンジジュースでも飲もうかと思って歩いていた時、同級生に声をかけられた。仲良しでもなんでもない、すぐ人の背中をひっぱたいたりする嫌な女だ。近くに住んでいるのは知っているが、よりによってこんな具合悪いときに…。「○○○ちゃん、結婚したってよ?聞いた?」、知らねえよ。そいつ、人から金借りてから連絡してこなくなったよ。年賀状もよこさないのに知るか。「今具合悪いから」と、口元を押さえながら逃げる。奴には相変わらず人の顔色とか見えないらしいなと思いつつ、自販機でカップジュースを買って飲んだ。しかし、いつもならこれで大体の具合悪いことが治るんだが、いっこうに治らないどころか、悪くなる一方だ。もしかしたら自転車では帰れないかもと、妹に電話するが、出ない。父は会社、母はポリテクカレッジでヘルパーの勉強中。誰も電話に出れない、というか、車を運転して迎えに来れる妹以外、出てもなんにもならんので、仕方ない、薬局で吐き気止めの薬でももらって飲もうと、店内の薬局へ。

 「吐き気止めの薬ってありますか」

 二種類の薬を出され、漢方の薬を処方される。薬剤師さんは僕の顔色を見抜いて、今すぐここで飲む?と一包と水を提供してくれた。
 

 「漢方は効くからねー」
 その頃にはもう青ざめていたであろう、僕は、神にすがる思いで飲んだ。


 だが、症状は一変した。薬剤師さんはレジ袋(ゲロ袋用)を渡してくれて、僕はすぐに吐いた。痙攣が始まり、猛烈な寒気と、心臓が突き破れるような激しい動悸で、目の前がぐるぐる回った。もう一人の薬剤師さんが店の隅に椅子を用意してくれて、それに座り、店員さんが毛布を持ってきてくれた。ガクガク、ブルブル、そして嘔吐。「寒くない?」と訊ねられたのを覚えている。僕は、自転車にカギをかけてなかったかもしれないと店員さんにお願いした…かもしれない。そこから先はだんだん曖昧になっていく。救急車が呼ばれ、救急隊員が来て、名前と生年月日と住所、妊娠してるかとかを質問し、すぐにストレッチャーに載せられて、公立病院に搬送された。最中、血圧が急激に下がって、やばいんじゃないかという話を聞いた。血圧の高い私でも下がることがあるのね、と不思議に思っていたが、後は真っ白だ。公立病院まで時間がかかったのか、かかっていなかったのかさえ、覚えていない。着いたところから始まった。救急室らしきところに運ばれ、何人もの看護婦に意識があるかどうか確認された。なんだか悪いが、アリにたかられている気分だった。その内、一人が今繋がる連絡先について訊ねたので、僕は(当時、家族に心を開いていなかったのと、母がうつだったのをものすごく気にかけていた)誰もいませんと答え、それでも一人くらいはいるでしょとしつこく聞かれ、学校で勉強中の母ならかかるかもしれないけど、母は病気で、気に病ませたり、不測の事態とかに陥らせたくないんです、と言ったら、「大丈夫だから」と電話をかけることになってしまった。私は電話帳から母を呼び出し、後のことは看護婦さんに任せた。女医さんが来て、太い注射が打たれ、私は意識を失った。


 目が覚めたのは、病室ではなく、看護婦たちの集まるところだった。何でこんな狭いところに。点滴が打たれていて、半分の意識で、看護婦たちの愚痴のようなものを聞いていた。“ナースのお仕事”ってドラマがあるけど、あれって面白くないだけでなく、全然嘘っぱちだな、と思った。

 病院の壁は真っ白で、蛍光灯は明るくて、時間の経過がわからない。看護婦か医者に、検査の結果、何も異常はないが、入院するかと聞かれて、しないと答えた。両親が来て、点滴が終って帰ろうと部屋を出たら、真っ暗だった。帰りに、救急車を呼んでくれたあの薬剤師さんにお礼を言いに行った。救急の心得のある人だったと、父が教えてくれた。


 食事はとらず(とても食べられなかった)、二週間分の胃薬をもらっていたので、それを気休めに飲んだが、気持ち悪さは変らなかった。吐き気が残り、その日はすぐ寝ることにしたが、そういえば買ってあったとCDの存在を思い出し、バッグから取り出して、CDラジカセで聴いてみることにした。気持ち悪くて死にそうだったのに、宇多田ヒカルの声が、闇を貫く光のように耳元に流れ込んできて、「あ、生きれる」と単純にそう思った。途端に、放り出してあった作品のアイディアがひらめいて、その晩は、ネタが切れるまでメモ帳にシナリオを書いていた。「光」を聴きながら。この歌は一生忘れない歌になった。


 それから、何週間かは(この辺は曖昧)気持ち悪さと吐き気に悩まされ、新しい栗原中央病院の内科に通ったのだが、最初のクマみたいな、東岡と言ったかどうかは忘れたが、そのムカツク医者に、一蹴され、次の医者にも(なぜか会うたびに医者が変る)睡眠導入剤を処方されたりするだけで、基本的に胃薬。全く良くならない、ドクターショッピング(望んで医者を変えていたわけではないのだが)状態になり、ある日、院長にこう言われた。

 「これって内科の病気じゃないんだよねえー」

 その日の診察費は、300円。

 バカにされてるような気がした。

 だったら最初からそう言え。

 家に帰って、昔買った精神病の本を読み、パニック障害のことを知った。これだと思い、精神保健センターに電話するか迷ったが、中央病院にメンタルケアセンターがあることを知り、そこへ行ったのだが、水曜日は午後休診で空振り。木曜にようやく診察を受けた。

 「パニック障害ですね」

 やっぱり。と僕はつい漏らしてしまった。

 んで、パキシルやらを処方されたのだが、特に重大な副作用はなく、以後、頓服のホリゾンとともに、飲み続けるお守り薬となった。そこから、人前で見せられないほどのひどい吐き気発作(私のパニック発作はそうだった)と、時々の動悸に悩まされることになった。同時に、嘔吐への異常なまでの恐怖感、情緒不安定とも闘わなければならなかった。特にひどかったのは吐き気発作で、僕の性分で、追いつめられるたび不死鳥のように蘇り、新しい就職先で頑張るのだが、そのつどこの吐き気発作が薬でも抑制できなくなり、仕事ができなくなるを繰り返し、僕は、その辺のフリーターに比べたら大したことはないものの、3ケ月単位で職を転々とした。うまく行っていて、好きだった仕事も、辞めることになる悔しい思いをした。だから僕はボーナスなんてもらったこともないし、月8万以上の月給をもらったこともない。親が働いているとはいえ、よくやってこれたなとつくづく思う(今の障害年金の方がよほど安いが)。


 今?今は、そんな昔が嘘みたいに何もない。メンタルケア科が閉鎖になり、大崎市古川緑ヶ丘病院に転院するまで、吐き気発作はしつこかったのだが、どういうわけか、病院が変ってしばらくしたら、何事もなかったかのように、吐き気発作は消えた。原因は結局なんだったのか、医者もそうだが、僕自身も解らない。まるでダメな恋人と別れたみたいな感じだった(恋人なんかいませんが)。


 今、パニック障害でお悩みの皆様に言えることは、パニック発作がどんなにつらくても、絶対死なないから、安心して向き合ってくださいということです。いつ治るかはわかりませんし、いつまでもくすぶる可能性もあれば、僕みたいにふっと消えてなくなってしまう可能性もあります。でも、そのことに怯える前に、あなたは命にかかわらない代わりに、命がけで苦しむ、この病気にかかったからこそ、人に優しく、自分のため、誰かのために自分の経験を活かせるという、人生の宝物をいただいたと思ってください。

 昔の勤務先の上司の息子さんの主治医が言っていたそうですが、この病気にかかった人(精神疾患全体にいえるかもしれません)たちがたどる道はふたつ、経験を糧にして外に出て行くか、病気に飲み込まれて内へ内へとこもるかのどちらかだそうです。僕もそう思います。


 この病気に関しては、何度も後悔させられたけれど、その間に得られた、たくさんの人たちとの絆(今はもう繋がってもいないけれど)が、僕を強く、優しくさせてくれた。家族と打ち解けることができたのも、きっかけはこの病気にかかったからだと思う。もしこの病気にかからず、ただ夢から逃げ出して転職を繰り返していたら、読者の皆さまにも会えなかったことでしょう。


 これは、僕が、唯一、一番ひどかったが、一番感謝している病気です。


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エッセイ 「僕の病歴ですが、なにか?」目次

はじめに

カルテ0 誰が誰を差別するんだ?

カルテ1 パニック障害でしたが、なにか?

カルテ2 うつ状態でしたが、なにか?

カルテ3 過食状態でしたが、なにか?

カルテ4 糖尿病ですが、なにか?
カルテ5 統合失調症ですが、なにか?

カルテX 大事なことを、一つか二つ