「水花火」
「いる?」
通りすがりの雨が残した小さな湖には空が映り込んでいる、わずかに吹いた微風がその湖を波打たせていた。
「ねえ、いる?」
座りこんで鏡面になった水のなかを覗き込むと私が映っていた。波紋に揺れる私は不安そうな表情をしていた。それはまるで母を探す迷い子のようにさえ思えた。
水はただそこにあるだけで、この世界のありとあらゆるを内包する海になる。その透きとおりと深み、生命の根源である液体は濁され、澱んでしまっても、いずれ、初めて目を開けた子供の水晶体のように鏡面へと還元される。
「いるんでしょう?」
唇が震えていた、絞り出した声はどこにも届かないような気がした。泡のように一瞬だけ宙を舞い、そしてそのまま消えてゆく。
「いるよ。ここにいる」
声が聞こえる。懐かしい声、はしゃぐわけでも再会の喜びを感じさせるわけでもない。
「ずっといたんだ。ここにだっているし、南へゆけば海にもいる、それに……」
彼女は私とは違う。波間にはにかんだ笑顔を浮かべているのが見えた。揺れるその姿はか細く儚げな少女のままに見える。でも、彼女はすでに数百年間、この世界を見続けている。
「ほら」
水たまりと正対する天を指し示す。
「雨のなかにもあたしはある」
久しぶりの晴天だった。青のなかを真白が浮いている。彼はつい昨日までは雨雲のなかにもいた。すべての水に彼女は存在している。
「久しぶりね」
「うん……あまり元気そうじゃないね、君は」
「そんなこと、ないよ」
元気なふりに慣れてしまうと本当に元気なときのことがよく分からなくなる。老いというには早すぎるけれど、生きて年齢を重ねている以上、確実に老いてゆく。
履き慣れたスニーカーの爪先が水たまりに触れている。磨り減り、縫い目に染み込んだ汚れは落ちない。
思い出したように吹いた生暖かい風は水の表面を掬い、波立たせ、アスファルトについたままの私の指をなでる。
「なにを話せばいいか、それが分からないんだ」
雨傘を杖のようにした老夫が私と水のすぐそばを過ぎる。その背中から届く黄色い声と声は少しずつ近寄り、私と老夫を追い抜いてゆく。
向かう先の坂道はまだらに薄い次の季節の雲に繋がっていた。
「なにも話さなくていいの。あたしがそうであるように……」
「やがては皆、水になる、でしょ」
何度も何度もそう聞いた。そして、なにを訊いても帰ってくる答は同じだった。それはきっと結論でも結果でもなく、流れてゆくすべての結実なんだろうと思っている。そこにいない私には想像するしかない。
「考えても答はないから。答があるのなら、それは考えるほどの問いではないの」
「相変わらずだね」
変わらないということは流れ着いた対岸にいるから。彼女はもう流れることはない。どこかの水として静かに揺れるだけだ。
「そろそろ大人にならなきゃ」
私は呟く。何度、そう呟いたことだろう。何度、それを繰り返すんだろう。
「もう君には会えなくなるんだろうな……」
水たまりを見つけるたびに立ち止まり、そこに誰かを探した自分と別れる。過去を過去と手放そうとして、何度、私たちはつまづくのだろう。
思い出したようにふいに強い風が通りを抜けて行った、汗に濡れた髪が背中のほうへ流れた。
夏はもう短く、残り少ないけれど、髪を短く切ろうとなぜか思った。
それからクローゼットに置き去りにしたままの去年の夏の線香花火のことを思い出した。
もし湿ってなかったら……今夜、バケツに水を張って火を点けてみよう。
そのとき、私は少しだけ進んでいるはずだと声には出さず、そこには浮かばないだろう少女の照れた笑顔を思い浮かべた。
「どういう事やねん?」って言われそうな内容であることは本人も気づいてるんやで……。
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