第二百七十四話 卒業(十八歳 男 高校生)
※ 第百八十話 帰り道(十七歳 男 高校生)
第二百十四話 倉庫と猫と防波堤(十八歳 男 高校生)
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第九十七話 ひかる桑畑 その1(31歳 女 カメラマン)
第九十八話 ひかる桑畑 その2(31歳 女 カメラマン)
第百三十三話 猫花書店 稀覯本の巻
第百四十八話 純喫茶猫
第百六十七話 猫花書店 となりの居酒屋の巻
も、よろしかったら。
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いつもと違う雰囲気の教室で、
「君たちはぁ、これからぁ、それぞれの進む道でぇ」
なんていう涙目な担任のことばを、俺は上の空で聞いていた。
卒業式が終わって、もうこの教室に通うことはないと思えば、センチな気分にもなろうってもんだけど、俺はたぶん、みんなとは違う気持ちで、この義務的な時間を過ごしていた。
そうして、右斜め後ろの、奥の席をちらりと見た。
ぽつんとひとつの空席。
モトミヤサチコの姿は、そこにはなかった。
* * * * *
「さて、おまえ明日からどうすんの」
帰り道、同級生のタカシが、卒業証書の筒を振りながら言う。
「どうって、まあ、入学準備とか、部屋探しとか、いろいろ」
俺はそっけなく答えた。
なんとかぎりぎり第一志望に引っかかり、俺は都内の大学へ進むことになった。親があれこれ忙しそうにしているのを見て、引越しってのはけっこう大変なんだなあ、と、他人事のように感じていたのだ。
「いいよなあ東京。俺は県内だもんな。こことあんまり変わり映えしないかもな」
と言って、タカシは筒を放り投げる。今にも雪が落ちてきそうな灰色の空に、黒い筒がくるくると、軌跡を描いた。
新しい生活。新しい土地。いろいろ考えるけど、俺にはどうもピンとこない。いや、たぶん否応なしに、これからその新生活ってものを味わうんだから、今あれこれ考えてもしょうがないか。俺はまたそんなふうに、案外突き放して自分を見ていた。
それというのも、もっと気になることがあったかもしれない。
「そういえば、カジ、あいつどうした、モトミヤ」
タカシが出し抜けに聞いてくる。
同級生のモトミヤサチコは、開校以来の秀才と噂される女子だ。成績は常にトップを走り続け、遂に卒業までその座を誰にも明け渡さなかった。遅刻はしないし服装も完璧。発言も常に冷静だ。普通ならかなり尊敬されてもおかしくないが、あまりの人付き合いの悪さ、そして無愛想さに、クラスの中でも会話をすることは滅多にない。
それに、夜中に裏通りを歩いてただの、隣町の飲み屋にいただの、猫をぞろぞろ引き連れていただの、妙な噂がたっている。担任も生徒指導の先生も、あいつのことはあまり知らないらしい。要するに謎の人物なのだ。
「し、知らねぇよ」
「ええっ、おまえたちまだ付き合ってなかったの」
「だからちがうって!」
そうなんだ。ひょんなことから、俺はモトミヤのボランティア活動(捨てられた動物たちのためのシェルター運営だ)を知り、なんとなく月に一度ほど、手伝いに行くようになっていた。
過去の辛い身の上話も、少しだけ聞いた。そのせいか、クラスの男子の中であいつが話しかけてくるのは、俺だけだ。だからみんなが、妙な勘違いをしている。
しかし、まあよく言って、仲のいい友達、といったところだ。特別何があるわけでもない。俺もそれでいいと思っているし、むこうもさしてそんな関心はないようだ。
「もったいねぇなあ。あいつ考えてみると、けっこうかわいかったからな。前髪パッツンで、ムスッとしてて怖くて近寄れなかったけどよ」
「なんだそれ」
「もう卒業しちまったら、会えねぇんだろ。ほんとに何も知らねぇの」
「ああ」
「冷てぇなあ。おまえくらいしか話し相手いなかっただろうによう。ハーバードだっけ? そんなとこに行こうとするやつは、やっぱ俺たちなんかどうだっていいのかもな」
タカシは、ふん、と鼻を鳴らした。
そう、モトミヤは一月から、ハーバード大の願書がどうとか言って、学校にほとんど来なくなっていた。こんな田舎の高校からあのハーバードなんて、ちょっと信じられない。しかし本当にそれをやってのけそうなところが、あいつのすごいところだ。
ともかくあいつは、今日の卒業式に出席できないほど、忙しいらしい。俺が最後に会ったのは、二月にシェルターのようすを見に行って以来。そのときだって、
「じゃあ、何かあったら、メールしてね」
と、メアドを教えていっただけだ。そしてそれから何があったわけでもない。だから俺は、メールをすっかり出しそびれている。
「ほんじゃ、明日の二時だからな。忘れんなよ」
「ああ」
同級生どうしで集まる約束を確認して、俺はタカシと別れ、ぶらぶらと大通りを歩いた。
毎日歩いた田舎町の大通り。人影はまばらで、相変わらずさえない。空の雲はますます暗くなって、街をすっぽり覆ってしまった。あまり楽しげな風景ではないけれど、毎年こんな感じなんだよな、この季節。
それが今日は、やはり少し違って見える。これが卒業の実感ってやつなんだろうか。
ふう、と息を吐いて空を見上げ、視線をもとに戻すと、
「びゃう」
港へと抜ける小道の脇から、一匹の猫が出て来た。
もっさりと毛の生えた、でっかな猫だ。何処かで見たことがある、ような気がする。
猫は小道の角に座って、俺をじいっと見た。
「な、なんだよ」
座って目を細めて、じいっと見た。
そして、くるりと背を向け、
「うきゃっ」
港のほうへと、走っていった。
「お、おい、ちょっとまてっ」
とっさに俺は走り出した。どうしてだか自分でも判らない。
あいつについて行かなきゃ。
そう思ったことだけは間違いない。
「まてってばっ」
猫は時々振り返りながら、まるで俺を呼んでいるかのように、走ってゆく。
だから俺も、ますます真剣に追いかける。
「はあ、はあ、はあ」
そうして猫は、港近くの、ふた昔くらい前の繁華街に入っていった。
昼間だからネオンなんか灯っていない。だからよけいに寂れて、暗い感じがする。
あれ待てよ。
「ああ」
猫がぴたりと止まったのは、一軒の喫茶店だった。
そうだよ確か。
からららん
鈴の音がして、扉が開いた。
出てきたのは、
「おや、いらっしゃい」
...ニット帽を被った、髭もじゃのおじさんだ。
でっかな猫を抱き上げて、機嫌良さそうに俺を見る。
そうだ、あれは確か去年の今頃、モトミヤを駅まで送る途中に、ここに寄ったことがあったっけ。
「君、たしかサッちゃんの...」
「あ、はい、同級生です」
あいつ、親しい人には、サッちゃん、なんて可愛い呼び名で呼ばれているらしい。いつものきつい顔からは想像できないけどな。
「おお、やっぱりな、一度見たことがある。どうだい寄ってくかい?」
「えっ」
突然誘われた。でもな、どうしようかな。
「あ、あのう、モトミヤ...サチコは」
「うん? サッちゃんかい?」
「き、今日はいるんですか」
「いんや、いないよ」
「...そうですか....」
がっかりした。あれ、なんでこんなにがっかりしてんだ俺。
「まあいいさ。ちょうど賑やかになってきたところだ。寄ってきな」
と、やけに嬉しそうに誘われて、俺はおずおずと、古びた喫茶店の中に入っていった。
* * * * *
何もかもレトロな喫茶店の中は、案外賑わっていた。しかも異様な光景だった。
カウンターに並んだ椅子には、あのでっかな猫。そして紫色のへんてこな服を着た女の人と、汚い防寒着を着たおじいさん。
窓際の席には、小さな子どもと中年の男。そして一番隅っこの席には、トレンチコートと中折れ帽を被った怪しげな男。
カウンターの中には、猫を抱いてたニット帽のおじさんと、もうひとり、丸眼鏡をかけた髭面のおじさんがいた。よく似ているから兄弟なのかもしれない。
「さあ、おかけよ」
と言われて、俺はカウンターの隅に腰掛けようとしたら、
「ああだめだ、そこはサッちゃんの席だからね。その隣にしなよ」
なんて言われる。するとすかさず、紫の服の女性が身を乗り出した。
「何なに? マスター、あの男の子、サッちゃんのボーイフレンド?」
えっ。
「さあねえ、俺もよく知らないねえ。でも仲は良さそうじゃないか。ねえ君」
「は、はあ...」
「あらそう。けっこういい男じゃなーい」
と、その女性は茶色い髪の毛を揺らしてにやりと笑う。そして、
「あたしナターシャ。占い師。金運健康恋愛その他なんでもお任せよっ。早速みてあげましょうか」
「えっ、ちょちょちょっと」
「ふうん、成績優秀、運動もそこそこ。でも恋に関してはからきしダメねえ。もっと積極的にいかなきゃ」
大きなお世話だ。って、
「なっ、なんでわかるんですか」
「そりゃあなた、プロだもの、ねえマスター」
「そうだねえ、ははは」
ははは、じゃないだろ。
「じゃあさ、サッちゃんとの相性見てあげましょうか。ほら左手だして」
「いやいやいやいやいや、けっこーですっ」
「なによー、そんなに拒否らなくてもいいじゃない。天下の大占い師ナターシャさまが見てあげようってのに。ねえマスター」
「大占い師は大袈裟じゃないのかい」
何なんだこの人たちは。俺が呆気に取られていると、隣に座ってたおじいさんが言った。
「で、少年、君はサッちゃんの送別会に来たのかい」
「は?」
「送別会だよソウベツカイ」
「...あの、今日、ソウベツカイなんですか」
「おやおや、マスター、少年は知らなかったみたいだね」
「まあいいじゃないか。少しでも賑やかなほうがいいからね」
そうだったのか。
「あらー、サッちゃんも罪つくりねー。ボーイフレンドに教えたげないなんてさ。少年、ちゃんとメールとかしてあげてたの? サッちゃんに」
またあのナターシャという人がからんでくる。
「いえ、べ別に...」
「どうして? メアド知ってんでしょ?」
「まあ、でででも、これといってメールする理由が...」
「だあっ! それだからダメなのよう。何でもかんでも理由をつけてやりとりするのっ。そうでなきゃ、あああたしには興味ないんだわ、ってなっちゃうじゃないの」
「...そんなもんですか」
「そんなもんよう。女心がわからない男は困るわー。ねえマスター」
「さあねえ、そんなもんかねえ」
ニット帽のおじさんは、にこにこしながら言う。
俺は少し反省していた。やっぱり、何かしら連絡してあげればよかった。学校にたいして友達もいないあいつのことだから、何か期待してくれていたのかもしれない。
「まあいいさ、あと二時間もすれば、サッちゃん来るんだしな。おい少年、ちょっと手伝ってくれ」
と、丸眼鏡のおじさんが俺に声をかけた。
「はあ」
「テーブルをセットするからさ。あと飾り付けもね」
「あたしも手伝うっ」
「どれ、わしも」
「じゃ俺も」
「ぼくもやるー」
「...任せろ...」
お店じゅうのお客が集まって、何やらわいわいと始めた。
俺は母親に、「遅くなる」とだけメールして、その賑やかな面々の中に、引き込まれていってしまったのだ。
* * * * *
からんからんからん。
「こんばんわー」
すっかり飾り付けが済んだ喫茶店に入って来たのは、シェルターで活動するボランティアのおばさんたちだ。たまに手伝いに行くと、なぜか俺はけっこう可愛がられていた。
「あらカジ君! 来てたのねえ」
「どうも」
俺はぺこりと頭を下げる。しかしまさかこんなことになろうとは。
「サッちゃん喜ぶわよー。連絡がないし、カジ君にもう会えないかもしれないから残念だって言ってたもの」
「えっ、そうなんですか」
「ほら少年! あたしの言ったとおりじゃないのっ」
またナターシャさんがからんでくる。怒ったような顔してるが、目が完全に笑っている。
「で、もうそろそろ来るんだろ」
ニット帽のおじさんが言うと、おばさんたちは、親指をたてて片目をつむった。
「ばっちりよ。みんなでびっくりさせてあげましょう。ささ、みんな隠れてっ」
そうしてみんな、椅子の陰やらテーブルの下やらに身を隠す。手渡しでクラッカーが配られる。
「来たよっ」
からんからんからん。
「こんばん...」
「おめでとーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
ぱん、ぱぱんぱんぱんぱんぱん
真っ黒なキャスケットに真っ黒なコート。真っ黒なマフラーに真っ黒なブーツ。
そんな服装のモトミヤの上に、色とりどりの、クラッカーの紙テープが降り注ぐ。
絶句するモトミヤに、祝いのことばが飛んでくる。
「サッちゃん卒業おめでとう」
「おめでとー」
「おめでとうサッちゃん」
「...み、みなさん、どうしたんですか」
「どうしたって、お祝いだよお祝い」
「卒業祝いと、ハーバードの合格の前祝いだ」
「わーい、おいわい、おいわい」
黒い手袋で口を覆うモトミヤの目から、すぐにほろほろと、涙の粒が落ちた。
「ほら少年っ」
どん、とナターシャさんに押されて、陰に隠れていた俺は、モトミヤのまん前に立った。
「...カジ君」
「お、おう」
モトミヤは、目を大きく見開いた。ちょっと見ないうちに、なんだかオトナっぽくなってるような気が。
黒い服装のせいか、白い肌がいっそう白く見える。
小さな口が微かに震えて。
だめだ、まともに見れない。
「おうじゃないわよっ! 何かほかに言うことないのっ」
「そうだそうだ」
「ほらほらっ」
って言われても...。
二秒ほど迷ったあげく、俺はぼそっと、呟くように、言った。
「お、お、おめでとう」
「ぶははははははは」
「少年っ! いいわいい味出してるっ」
「ともかく、めでたいめでたい」
「さあ、みんな、乾杯しようか」
そうして、妙に賑やかな、そして妙にへんてこな取り合わせの送別会が、始まったのだ。
* * * * *
「おほん。それでは、サッちゃんに、ひとりずつプレゼントとおことばを...」
丸眼鏡のおじさんの発声で、みんながプレゼントを渡し始めた。
「サッちゃん、ありがとう、あなたのおかげで、シェルターはこれからも頑張っていけるわ」
ボランティアのおばさん代表が、大きな包みを渡して、モトミヤを抱き締めた。
「生涯勉強だ。それさえ忘れなきゃ、サッちゃんはいい学者になれるよ」
防寒着のおじいさんは、小さな箱を渡して、モトミヤの肩を叩いた。
「サッちゃんがいなくなると、寂しいよ。ぜひこれを使い続けておくれ」
ニット帽のおじさんは、茶色のコーヒーカップを、モトミヤの手にそっと持たせた。
「サッちゃん、げんきでね」
小さな男の子は、似顔絵らしきクレヨンの絵を、モトミヤに渡した。
「これは幸運のお守りよ。あたしが保証するから。大丈夫、きっとうまくいくわ」
ナターシャさんは、紫色の小さな水晶玉を渡し、モトミヤの頬にキスをした。
「うん、げ、げんきで、いて、くださいっ、ぐずっ」
すっかり涙目になったトレンチコートの怪しげな男は、あまりにでっかなバラの花束を渡したので、モトミヤがよろけそうになった。
「これは、サッちゃんには是非読んでほしいんだ。折に触れて、読み返しておくれ」
丸眼鏡のおじさんは、小さな本をむきだしのまま、モトミヤに手渡し、頭を撫でた。
「ありがとう、皆さん、ありがとう」
半泣きになりながら、モトミヤはみんなにお礼を言った。
「さあ少年! 最後はあんたの番よっ」
「えっ、お、俺?」
突然指名されて、俺はビビった。だいたいプレゼントなんて、持ってない。
「い、いやあの」
「いいからいいから、さあっ」
ナターシャさんは俺を、モトミヤの前に引きずっていった。
どうしよう。
モトミヤは、呆けた顔で俺を見ている。
「って、ぷ、プレゼントって」
「ばっかねえ、あんたがあげられるものなら、何でもいいのよこの際」
「この際?」
「そうよっ。第二ボタンでもハンカチでも、なんならアイのキッスでもいいのよっ」
「えええええっ」
そんなことできるわけないだろ。
いかん、みんな俺に釘付けだ。
モトミヤは俺を見ている。
どうするんだ俺。
第二ボタンなんて、あいつが喜ぶとも思えない。ハンカチだって。
ましてや。
「あ、あのちょっと」
俺がおたおたしていると。
すうっと、白い手が伸びて来た。
「...えっと」
白くてちいさな手を、俺に伸ばして、モトミヤは、にこりと笑った。
「お、おう」
俺はそろそろと手を伸ばし。
ちいさなその手を、軽うく、握った。
「ありがとう」
「...ああ」
そういえば。
前にもこんなことが、あったな。
そうだ、あれは暑い夏の日だ。
防波堤を歩いて。
「がんばってね」
「あたしもがんばるから」
この白い手を。
「ンもうじれったいわねッ」
どん、とナターシャさんが、モトミヤを突き飛ばした。
俺は夢中で受け止めた。
ふわりと細い髪の毛が揺らぎ、俺の鼻をくすぐった。
一瞬だけ。
俺の身体を、モトミヤがぎゅう、と抱き締めた。
「わーい」
「ひゅーひゅー」
細くて小さい肩に手をかけたまま。
俺はすっかり、動けなくなってしまった。
モトミヤも、俺の胸に顔をつけたまま動かない。
「ええぞええぞー」
「いやンもう見てらんない」
外野に冷やかされながら、俺たちは、どうしてよいやら判らず。
そのままじっと、立ち尽くしていたんだ。
細くて柔らかい髪の毛は、ずっと俺の鼻を、弄んでいた。
* * * * *
「じゃあねー」
「またねえー」
「おい少年! サッちゃんを頼んだぞ」
「送りオオカミになるんじゃないぞ」
「シゲちゃん、オクリオオカミってなに」
「いやなんだその...まあなんでもいいじゃねえか」
やいのやいの言われながら、結局、俺は送別会のあと、モトミヤを駅まで送ることになった。
両手にどっさりプレゼントを抱えたモトミヤは、少しうつむき加減で、ゆっくりと歩く。
「あの...ごめんな」
俺はまず謝ることにした。
「どうしたの」
「いやあの...連絡しなくて、さ」
「ううん、いいよそんなこと」
「でもさ、あの俺、気が利かなくてさ」
「大丈夫だってば」
モトミヤは顔を上げずに、呟いた。
「明日、アメリカに発つんだ、あたし」
「えっ、そうなのか。もう合格」
「ううん、合格発表は四月になってから。でも、どのみち向こうで暮らすことになるから」
「そ、そうなのか...。じゃあやっぱり」
やっぱり、何も連絡しなかったのは、悪かったな。
「大丈夫」
黒いマフラーに顔を埋めるようにして、モトミヤは、俺に向き直った。
「なんとなくさ、あたし、会える気がしてたんだ」
「へ?」
「おかしいよね。でも絶対、会えると思ってたんだ」
黒い帽子と、黒いマフラーの隙間。
そこから見える、透き通るような白い顔は、少しだけ、赤みを帯びているように見えた。
小さな丸い目が、時折俺をちらちらと見る。
「ねえ、あたしたち、友達、で、いいよね」
「ん?」
「あの学校で、あたしのたったひとりの、友達、で、いいよね」
「...おい...」
「ねえカジ君」
モトミヤの腕から荷物が落ちて。
その腕は、俺の身体に、抱きついた。
「いいよね」
「...ああ」
俺はようやく、こいつの寂しさが、判ったような気がして。
軽く、ほんとうに軽く、肩を包んだ。
「ありがとう」
ゆっくりとモトミヤの身体が離れる。
長い睫がまたたいて、涙の粒が、ぽんと飛んだ。
「荷物、持ってやる」
「いいよ」
「いいから」
それから駅まで、俺達は何も喋らず、ただ歩いた。
互いの歩調を感じながら、ゆっくりと。
ゆっくりと並んで、歩いた。
* * * * *
「じゃあ、行くね」
「おう」
「元気で」
「モトミヤも、な」
「うん」
「風邪引くなよ」
「うん」
「メールするからな」
「あたしも、手紙書く」
「おう」
「じゃね」
また白い手が差し出され、俺はしっかりと、それを握った。
「カジ君」
「ん?」
「猫、好き?」
「は?」
「ねえ、好き?」
なんだろう、だしぬけに。
「ああ、まあ、普通にな」
「...よかった」
そうしてモトミヤは、にっこりと。
たぶん俺しか見たことのない笑顔で。
「ありがとうね」
と言った。
手を握る力が、ぎゅっと強くなり。
「じゃ」
モトミヤは、大きな荷物を両手に抱えて、改札口へと、走っていった。
柔らかな、くすぐったい感触に包まれて。
ぼんやりとしたまま、俺はその後ろ姿を見ていた。
何か言い忘れているような気がしていたけれど。
また会えるさ。
それは、確信に近かった。
「なあお」
背後から鳴き声がして、ふと振り返る。
なんだ、何もいないじゃないか。
そうして、また改札に目をやる。
すると。
「あっ」
あれは尻尾。黒猫の。
黒い尻尾が。
すうと、改札を横切った。
「...ああ」
「発車しまーす」
じりじりじりじりじりじりじりじり
発車のベルが鳴る。
「ねえ、猫、好き?」
「ああ、普通にな」
俺のこころに、不思議なぬくもりを残して。
モトミヤサチコは、旅立っていった。
おしまい
いつも読んでくだすって、ありがとうございます