第百三十三話 猫花書店 稀覯本の巻 | ねこバナ。

第百三十三話 猫花書店 稀覯本の巻

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電車と汽車を数本乗り継いで、僕は小さな港街にやって来た。
昔はニシン漁で栄えたというこの街は、最近過疎化が進んでしまったそうだ。駅前の通りは物寂しく、暗く沈んで見える。
どんよりと曇った空からは、時折雪がちらちらと落ちて来る。
僕はコートの襟を立てて、海から吹き上げて来る風に備えた。

  *   *   *   *   *

駅前の通りを海に向かって歩く。すると、古びた線路の跡に行き当たる。その川沿いの道を右に折れて暫く進むと、崩れかけたアーケード街が大きな口を開けていた。
僕は地図を確かめる。確かにこの中にあるはずだが。しかし中には人の気配が無い。恐る恐る、僕はアーケード街の中へと足を踏み入れた。

大きな目が僕を睨んでいる。いやあれば目薬の宣伝看板だ。
女の子の人形が白目を剥いている。塗装が剥げ落ちて怖ろしい顔になっている。
穴の空いた天井から何かが落ちて来た。見ると病院で使う止血帯のようだ。上でかあかあと鳴き声がする。どうやらカラスが何処からか咥えて来たらしい。薄汚れた止血帯には、所々黒いシミが付いている。
僕はぶるっと身震いをした。こんな処に、本当にあるのか。急に不安になって辺りを見回した。

アーケード街から更に横へと伸びる、細い路地がある。うっすらと雪が積もったその路地の向こうに、ぼんやりと明かりが付いている。
ひょっとして、あれか。
僕は暗いアーケード街から路地に入り、さくさくと雪を踏みしめながら、その明かりに吸い寄せられていった。

  *   *   *   *   *

「古本取扱 出版 猫花書店」

裸電球の明かりの下、僕は硝子戸に書かれた、剥げかけた文字を読んだ。
どうやら此処が、僕の目指した場所のようだ。
ガラス戸越しに店内を見る。ほとんど真っ暗に近いが、店の奥だけ、赤っぽい光が点っているのが見える。どうやら誰か居るようだ。

がらがらがらがら。

「ごめんください」

僕は少し控えめな声で言った。返事が無い。辺りが暗いので手で探りながら進む。黴臭い空気が鼻をもぞもぞと刺激する。

「ごめんください」

また言ってみた。しかし返事が無い。とうとう僕は店の一番奥、昔懐かしい丸い電気スタンドが点いている机の前までやって来た。

「ごめんくださあい」

店の奥に向かって、少し大きめの声で叫んでみる。反応無しだ。
僕はもう一度だけ、ありったけの声で、

「ごめんくだ」

「何か用かね」

「うわっ!」

背後から声を掛けられて、僕は飛び上がった。
僕の後ろに立っていたのは、少し背の丸まった、ごま塩のような髭の男だ。頭にはニット帽を被って、継ぎ接ぎだらけの綿入れを羽織っている。

「あ、あの」
「お客さんかね」

男は丸眼鏡をちょっと持ち上げて、僕を見た。

「は、はい。えっと、この店のご主人で」
「そうだが何か」
「いえ、本を見せていただきに、来ました」
「そうかい、じゃあ、ちょっと待っとくれ」

不景気な声でその男、店主はそう言うと、僕の脇をすり抜けて店の奥に進み、机に納まって胡座をかいた。そうして、手元のスイッチを、ぱち、ぱち、ぱち、とゆっくり押してゆく。
すると、今まで真っ暗だった店内のあちこちに、夕暮れのような明かりが点った。そして暗くてよく見えなかった本棚が、むくむくと起き上がるように姿を現す。

「まあ、ゆっくり見ていっておくれ」

そう店主は言って、机の周りに山積みになっている本を手に取り、読み始めた。僕は鞄を机の横に置かせてもらい、おずおずと本棚へ向かった。

  *   *   *   *   *

僕は呆気に取られた。
整然と並んでいると思われた本棚の中は、無秩序で支配されていた。揃っているのは判型だけで、ジャンルも、年代も、地域も言語も、全てごちゃごちゃなのだ。
今井金吾編『武江年表』上巻の横にはヨハンナ・スピリ『アルプスの山の娘(ハイヂ)』があり、田河水泡『のらくろ中隊長』の横には華雪『静物画-篆刻ノート』がある。かと思えば民俗学研究所編『年中行事図説』の隣にE.T.ホフマン『Lebens-Ansichten des Katers Murr(牡猫ムルの人生観)』の初版本が無造作に置かれていたりする。
漫画もあるし、料理の本もある。ギター教則本も動物図鑑もある。そして全てが混然としている。いったい何なのだ。
見れば見るほど、どう棚見していいのか判らなくなってくる。いや、これだけ整然と並んでいるのだから、きっと何か法則性があるに違いない。そう僕は決め込んで、端から順番に棚を追っていった。

小一時間見て、僕はようやく、ひとつの規則性に気が付いた。
棚のひとつひとつには、必ず「猫」とタイトルのついた本が一冊だけ、真ん中に挟み込まれている。それぞれの判型に合わせて、あつらえたかのようにぴったりと。
だが、それが一体何を意味しているのかが全く推理出来ない。時間ばかりが過ぎてゆく。
ふう、と溜息をついて店主を見遣ると、店主は湯気の立つ大きな湯呑みを両手に持って、ふうふうと吹いていた。どうやら猫舌のようだなと、妙なところに僕は可笑しみを覚えながら、その様子を眺めていた。
すると店主は僕の視線に気付いたのか、こちらをちらりと横目で見る。そうして、ずずず、と茶らしきものを啜って、

「何か見つかったかね」

と呑気に訊く。駄目だ。いくら見ていても判らない。ここは店主に頼むとするか。僕は店主に歩み寄り、

「あのう、探している本が、見つからなくて」

と言った。

「そうかい。探しているのは何だね」

そう言って店主はまた茶を啜る。玄米茶の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
僕は依頼主から聞いてきたとおりの内容を伝えた。すると店主はむくりと立ち上がり、背後の棚を開けた。そこには大量の和本が、きっちりと揃えて重ねられていた。

「ええと...。うん、これだな」

店主はぼそりと呟き、一冊の和本を持って来て、机の上に置いた。

「これでいいかね」

その表紙には、すらりと細長い黒猫の絵が描かれていた。
僕は身震いした。

「はい、これです。泉鏡花『黒猫』の私家版」

装幀と挿絵の美しさから、コレクター垂涎の品と言われてきた。しかし私家版で何冊刷られたかも判らない。そしてまだ一冊しか見つかっていないのだ。
こんな田舎の、こんな鄙びた古本屋で、この本に会うなんて。

「本当にあったんですね」

そう呟くと、店主は上目遣いに僕をじろりと見た。

「何だい、誰かに聞いて来たのかね」
「ええ。以前此処に来たことのあるお客さんから。猫と名の付く本ならあそこへ行ってみろと」
「ふうん」
「あの、差し支えなければ、この本、どうやって手に入れたか教えていただけませんか」

僕の不躾な頼みに、店主は一瞬顔を顰め、口元をひん曲げてそっぽを向いたが、それでもぼそぼそと話してくれた。

「なあに、昔網元だった大きな家が潰れてね。全財産あらかた売りに出したのさ。その時これが見つかった。まあ一束いくらで買ったから、安いもんさ」
「網元の家に、こんな貴重なものが」
「なんでも、先々代の叔父だったかが、えらく文学に入れ込んでたそうでね。恐らくその叔父さんが持ち込んで来たんだろう」
「その叔父さんて人は、その後どうなったんですか」
「東京の大学まで出たんだが、まあ時代の流れってやつだろうが、共産主義にかぶれちまって、昭和八年に特高警察に捕まったんだと」
「それで」
「出て来たさ。屍体になってな」

店主は煙草に火を点けた。安煙草の臭いが靄のように立ち上る。

「その叔父さんてえ人は、この田舎町に図書館を作ろうと思ってたらしい。金持ちも貧乏人も、誰もが本を読めるようにってね」
「じゃあ、この本はもともと図書館に行くはずだったんですか」
「いや、傑作なことに、その先々代の網元ってのが、忘れちまってたのさ。叔父さんの言い残した事をね。だから今の今まで、こんなふうに、古本屋の隅で埃を被る羽目になったってわけさ。まあ、私が買わなかったら、これも焚き付けくらいにしかならなかっただろうね」

なんと皮肉なことだ。
こんな古い本に、そんな因縁があったなんて。

「どうだい、状態はいいだろう」
「そうですね」
「しかし、こんな田舎町まで古本探しに来るなんて、よっぽど物好きだねえ、あんたも、その依頼主ってのも」
「はあ...」
「その依頼主は、この本を、大事にしてくれそうかね」

店主はそう言って、僕をじっと見た。丸眼鏡の奥で、小さな目が光る。

「はい、きっと大事にすると思いますよ」
「そうか。それじゃあまず、あんたの言い値を聞こうか」
「えっ」
「私ゃ古本の相場なんてえものには興味無いんでね。欲しい人が欲しい金額で買ってくれりゃいい」
「そうですか...」

鞄の中には、依頼主から託された現金が入っている。金に糸目は付けないと、依頼主は言った。
しかし、本なりの値段ってもんがあるだろう。僕は頭の中でそろばんを弾いた。

「二十万...で、どうでしょうか」
「二十万か」

店主は、ふう、と煙草の煙を、天井に向かって吹いた。

「いいだろう。あんたに売るよ」
「そうですか、ありがとうございます」

店主は机の中から一枚の柔らかそうな和紙を取り出し、本をふわりと包んだ。そうして段ボール板で本を挟み、麻紐でくるくると縛って、

「はいよ」

と僕に突き出す。僕はお金を支払って、そうっと鞄の中に本を仕舞い込んだ。

「それにしても、こんな処で商売していて、大丈夫なんですか」

僕は思いきって訊いてみた。

「大丈夫かどうかは判らないがね。なんとか喰っていけるよ。世の中にゃあんたみたいな物好きがけっこういるもんでね」

そう言って店主はクククと笑った。

「そうですか」
「いや、もちろん普通の本を買いに来る人だっているさ。漫画とか小説とか」
「えっ、この本棚で、欲しい本を見つけられるんですか」
「まあねえ、これは私の頭ん中みたいなもんだからね。言ってくれりゃすぐ探すよ」

なるほど。この店主の頭の中は、どうやらカオスが渦巻いているらしい。あの猫の本は記憶の目印みたいなものなのだろうか。

「それに、通ってくれりゃだいたい判るようになるしね」
「そうなんですか」
「そうさ。例えば...」

そう店主が言いかけたとき、

がらがらがらがら

「こんにちは」

そう言って、高校生くらいの女の子が入って来た。

「おう、いらっしゃい」

店主は親しそうに声を掛ける。女の子は本棚の隅っこをじっと見つめ、ひょいと一冊の本を取り出した。そうして、

「これください」

迷いもせずに、店主の処へ持って来た。
フランツ・シュミット『ある首斬り役人の日記(Das Tagebuch des Meister Franz, Scharfrichter zu Nürnberg)』。しかもビブリオフィーレン叢書、もちろんドイツ語だ。僕は唖然としてその女の子を見た。
しかし女の子はさも当然という顔をしている。眉あたりで切りそろえられた前髪が、仄明るい光に照らされて光る。
店主も全く意に介さず、表紙を眺めてひと言。

「はいよ。五百円ね」

ちゃりんと五百円玉が机の上で音を立てる。

「どうもありがとう」

そう言って、女の子は本を鞄にしまうと、すたすたと出ていってしまった。

「ほらな」
「本当だ。あの子、いったいどういう子なんですか」
「うちの常連さんさ。それ以外のことは判らないね」
「はあ...」

生返事をして店主を見ると、何時の間にか、その横に一匹の猫が座っていた。
ふさふさの長い毛を膨らませて、僕をじっと見ている。何だか少し怖ろしい。

「あんた、また来るかい」
「え?」
「もしまた来るなら、隣の店で飲んでいきなよ。私ゃ夜は居酒屋をやっててね」
「はあ...」
「面白い人間が、たんまり来るよ。あんたならきっと気に入るさ」

店主は気色悪い笑顔を浮かべた。僕は少し引きつった笑いを返し、

「そ、そうですね。次にはぜひ」
「うん。待ってるよ」
「では」

そそくさと店をあとにした。

「にゃーう」

後ろで猫が、低い声で鳴いた。

  *   *   *   *   *

「やれやれ」

僕は思いきり息を吐き出した。ともかく仕事は終わった。さっさと帰るとしよう。
身体を思い切り伸ばし、腕を下ろしたとき、

「みゃーう」

猫の鳴き声がした。

「びゃう」
「にゅー」
「まーおう」

「え?」

僕は立ちすくんだ。
猫花書店の周りは、猫で一杯だった。
向かいの焼き鳥屋の屋根の上。
路地の突き当たり。
そして書店の看板の上。

「みゃあーーーーおう」
「なーう」
「ぐるみゅー」

「ひゃあっ」

僕は怖ろしくなって、一目散に逃げ出した。暗いアーケード街を、脇目もふらずに走り抜けた。

その時は、また此処に戻ってくることなど、考えもしなかったのだ。



(ひとまず)おしまい






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