アムステルダム・4(蘭[オランダ]) | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

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古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

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 さて、本日は祭日(子供の日)でありますので、国旗掲揚こっきけいようを行いました。


 ときに、一昨日、すなわち、去る5月3日(日)の「アムステルダム・3(蘭[オランダ])」のブログ の最後で、

「(前略)機会がありまして、宜敷(よろし)ければ、続きを記させて頂きます。(後略)」とぉ伝え申し上げまして、誠に有り難いことに、「いいね」を頂きましたので、今回、その続きを記させて頂きます。


 昭和61年(1986年)(菜食を始める前のことです)8月24日【日】~25日【月】のことです。

 そのブログ の上段やや下に、

「(前略)後(のち)ほど、アムステルダムにあるレンブラントの家(蘭[オランダ]語:Museum Het Rembrandthuis)に行きますので、その紹介のときに、更に、レンブラントのことにつきまして述べさせて頂きます。(後略)」と記させて頂きましたように、レンブラントの家にいきました。その家の前で撮影(と)った写真を、下に掲載致します。入り口に、"Museum Het Rembrandthuis"(蘭[オランダ]語で、レンブラントハイス美術館)と記されています。画像をクリック(click)(もしくはタップ)して頂きますと、拡大致します。因(ちな)みに、画家・レンブラント(蘭[オランダ]語:Rembrandt Harmensz. van Rijn)が1639年から約20年間住んでいた家を利用した博物館・美術館であります。


アムステルダム
レンブラントの家(蘭[オランダ]語:Museum Het Rembrandthuis)



 レンブラントは最初こそ宗教画家として出発しましたが、やがて写実的な絵画を描く風俗画家に転向していきます。西洋画の中では、宗教画や神話画も含めた歴史画は、肖像画、風俗画、静物画、そして、風景画よりも、最も評価される、すなわち、価値が高い絵画とされていました。初期の宗教画である「聖ペテロの否認」の写真を、下に添付致します。因(ちな)みに、去る11月19日(水)の「バチカン(ローマ)」のブログ の中段やや下に、「聖ペテロの殉教(逆さ磔)」の絵画を撮影(と)った写真を掲載させて頂きました。


アムステルダム
「聖ペテロの否認」



 そして、ニーウマルクト広場 (蘭[オランダ]語: Nieuwmarkt)に行きました。本の市場が開かれていました。

 御承知のように、江戸時代、日本は鎖国制度を布(し)いていたとされていますが、江戸時代の洋学は最初は蘭(オランダ)語の本による学問、すなわち「蘭学」でありましたね。江戸時代後期に、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、蘭学の私塾として適塾(てきじゅく)(現在の大阪大学医学部の前身)を開きました。 大村益次郎、橋本左内、そして、福澤諭吉などが、ここで学んでいますね。蘭(オランダ)語の本を前にして、そのようなことを考えていました。

 また、たまたま会った日本人男性に誘われて入店した本屋の写真を、下に添付致します。



アムステルダム
本屋



 大道芸として、アコーディオンを演奏している、女性の流しが居(い)ました。その写真を、下に掲載致します。



アムステルダム
女性の流し



 アムステルダムの公衆トイレの写真を、下に添付致します。



アムステルダム
公衆トイレ



 北海道の親戚が農協の団体旅行で、ここアムステルダムに行ったとのことでした。そして、「飾り窓」の見学が、この団体旅行のコース(英語:course)に組み込まれていたとのことでした。ツアー・コンダクター(英語:Tour Conductor)(添乗員)から、リスク(英語:risk)(危険)が多いので、利用しないように言われたとのことでした。また、去る4月29日(水)の「アムステルダム・1(蘭[オランダ])」のブログ の中段やや下に、日本人男性2人のことを言及させて頂きました。2人の広島の日本人男性(社会人)に聞かされたことですが、独(ドイツ)のフランクフルト(独[ドイツ]語:Frankfurt am Main)やデュッセルドルフ(独[ドイツ]語:Düsseldorf)の赤線(あかせん)は有名だが、デュッセルドルフではボラれたとのことでした。ここ「飾り窓」でも、15分間で200ギルダー(蘭[オランダ]語: gulden)(当時の蘭[オランダ]の通貨)を取られたとのことでした。当時の「地球の歩き方(ガイドブック)」にも書かれてありまして、50ギルダーの体験談が記されていました。夜、営業しているそうです。

 前述の、去る4月29日(水)の「アムステルダム・1(蘭[オランダ])」のブログ の下段やや上に、宿泊しているホテルのことを記させて頂きました。このホテルへの経路に「飾り窓」がありましたので、社会勉強と思い、昼間の「飾り窓」の写真を撮影(と)りました。この写真を、下に掲載致します。因(ちな)みに、 民家のようですね。この家の前には、川が流れています。このような商売をしている店の前には川が流れていることが多い、と聞かされたことがあります。川が流れている通りでは、営業出来ない商売があるからということが理由にあるようで御座います。

 "Dutch"という言葉は、「オランダ(人、語)の」という形容詞です。御承知のように、「割り勘」のことを、英語では、"go Dutch"、もしくは、"Dutch account(ダッチ・アカウント)"と表現します。英語で、蘭(オランダ)を蔑(さげす)むような表現が残ったのは、英国(イギリス)と蘭(オランダ)のライバル関係があり、英国(イギリス)の反・蘭(オランダ)感情があったからとのことです。同様に、"Dutch wife "という言葉の語源も、蘭(オランダ)人のある行動に対して英国(イギリス)人が軽蔑の意味を込めたことから来ているとのことです。それらの英語表現が残っているのですね。

 因(ちな)みに、写真の右下に、前述致しましたように、昭和61年(1986年)8月25日【月】と日付が入っております。前述致しましたように、画像をクリック(click)(もしくはタップ)して頂きますと、拡大致します。この日の午前中です。周囲には、ほとんど人がいません。後述致しますように、この日のぉ昼にアムステルダムを発(た)ちます。


アムステルダム
「飾り窓」



 宿泊していたホテルに戻り、昭和61年(1986年)(菜食を始める前のことです)8月25日【月】の午前11:15に、そのホテルを出て、アムステルダム中央駅(蘭[オランダ]語:Station Amsterdam Centraal)に向かいました。宿泊したホテルを出るときに、ホテルの女性従業員が合掌のような仕草(しぐさ)をしましたので、当方も合掌しました。東南アジアのタイでは、合掌による挨拶がありますね。同様と思われたのかもしれません。

 駅に向かう途中、ものすごい雨でした。漸(ようや)くアムステルダム中央駅に到着しました。英国ではユーレイル・パスを用いることは出来ませんので、この駅からユーレイル・パスを使い始めることになります。そのため、この駅で、ユーレイル・パスを使い始める日付のスタンプ(英語:stamp)を押してもらうことになります。因(ちな)みに、ユーレイル・パスのことは、去る1月24日(土)の「アテネ(ギリシャ)へ」のブログ の中段やや下に記させて頂きました。
 前述のスタンプを押してもらうことと、日本に絵葉書を送ることで悪戦苦闘しました。日本では何でも無いことでも、異国では、想像以上の手間が掛(か)かります。やっとプラット・ホーム (英語:platform)に入ったのが12:10でした。しかし乍(なが)ら、発車が遅れて、12:51迄待ちました。日本の鉄道は、誠に有り難いことに、時間に正確ですね。痛感致しました。海外に行くと、日本の良さがわかると言われますが、このことも一例ですね。列車で独(ドイツ)方面に向かいますが、この列車の写真を、下に添付致します。


アムステルダム
アムステルダム中央駅で停車中の列車



 ところで、上記のように、アムステルダムには一泊しました。前述にように、上の列車でドイツ方面に向かいます。機会がありまして、宜敷よろしければ、続きを記させて頂きます。


 本日も、最後(まで)ぉ読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)