バチカン(ローマ) | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

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古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

 去る10月28日(火)の「スイス(海外のこと)」のブログ でぉ伝え申し上げましたように、学部生の頃(昭和61年[1986年]の夏・菜食を始める前のことです)、エコノミー(英語:economy)(経済的)に、シンガポール航空を用いて、往路、東京(成田・8月19日【火】午後6時30分発)からロンドン(英国)(翌々日・8月21日【木】午前6時55分定刻通り着・日本との時差はサマータイムで、8時間)迄、途中、シンガポールで、ほぼ丸一日のトランジット (英語:transit)(一時寄港)があり、シンガポール8月20日【水】現地時間・午前0時着・同日午後8時25分発、南回りで、トータルで、44時間25分でした。

 シンガポールでは、今は無いオベロイ・インペリアルホテル(利用しませんでしたが、ホテル内のレストランが日本人に好まれているとのことでした。)という中堅のホテルに宿泊しました。このホテルの写真を下に掲載します。



バチカン
中堅のホテル




 当時、英仏海峡トンネル(イギリスと欧州[ヨーロッパ]大陸[フランス]間のドーバー海峡[英仏海峡]を結ぶ鉄道用海底トンネルのこと)がありませんでしたので、英国(イギリス)から欧州(ヨーロッパ)大陸に渡るには船を用いました。そこで、ロンドンからアムステルダム(オランダ語:Amsterdam)(蘭:オランダ[オランダ語: Nederland])迄、バスと船による片道(eurolines)を申し込みました。

 8月23日【土】午後7:30~10:00迄、ロンドンからバスに乗り、車内でぐっすり眠りましたので、残念でしたが、ロンドンの夜景は見逃しました。そして、船に乗り換えました。

 8月24日【日】前0:00~2:30迄、船内でぐっすり眠り、途中、寒くて起きました。午前1:30~2:30迄、床で寝ていました。急に寒くて起きました。

 午前2:30~3:30迄、某・ガイドブックがないことに気が付き、驚き捜しました。ガイドブックを一冊のみ持って、初めての海外一人旅であり、欧州(ヨーロッパ)への旅も初めてであり、しかも、往復の格安航空券だけで自由旅行をすることも初めてで御座いましたし、事前にほとんど読んでいなくて、某・ガイドブックを一冊のみ持って、欧州に来ましたので、紛失したとなると、今後の旅に影響が出ると思われました。振り返りますと、バスの前の座席の背後に備えられている網袋の中に入れたまま、乗り換えてしまったのですね。

 捜すために午前3:30~4:10迄掛(か)かり、諦(あきら)めの境地に達しました。

 しかるに、このときの日記で、「今日程、感激したことはありません。神様ありがとうございます。一度手離(てばな)した某・ガイドブックが手許(てもと)に戻るということは到底(とうてい)常識では考えられないことです。バスがフェリーに乗ること自体、奇跡に近いことです。まして、自分がまた再び同じ席に戻って、手許に某・ガイドブックが戻るというのは正(まさ)しく奇跡です。」と書かれてありました。

 すなわち、通常の考えですと、英国(イギリス)内と蘭(オランダ)国内では、違うバスが用いられると思われました。ロンドンからのバスがそのままフェリーで運ばれたのですね。しかも、フェリーで運ばれている間、バスの清掃が行(おこな)われていたら、某・ガイドブックは処分されていたでしょう。自分がまた再びバスの同じ席に戻って、前の座席の背後に備えられている網袋の中に、某・ガイドブックを見付けることが出来ました。過去に戻ったような有り難さでした。バスに乗車した人々がまた英国(イギリス)内と同じ席に着くのも、誠に有り難いことでした。

 日本人がエスカレーターを利用する際、片側に寄るマナーも素晴らしいと言われていますね。ロンドンの地下鉄のエスカレーターでも同様のことを目に致しました。


 途中、午前7:00に、ロッテルダム(オランダ語: Rotterdam)に立ち寄りました。簡易な食堂だからでありましょうが、トラベラーズ・チェック(T/C)が使えませんでした。バスで、蘭(オランダ)に入国したばかりであり、当然のこと乍(なが)ら、銀行に立ち寄っていませんので、当時の蘭(オランダ)の通貨であるギルダー(蘭語: gulden)を持っていませんでした。それで、朝食はお預(あず)けになりました。ロッテルダム、バス、そして、簡易な食堂の写真を下に掲載致します。



オランダ
ロッテルダム


オランダ
バス、そして、簡易な食堂




 トラベラーズ・チェック(以下、T/Cと記させて頂きます。)のことを言及させて頂きましたので、因(ちな)ませて頂きますと、この欧州(ヨーロッパ)旅行のとき、初めてT/Cを利用しましたので、よくわからず、米ドル($)のT/Cを持って行きました。これは米国に行くのでしたらいいのですが、欧州(ヨーロッパ)の西側諸国に行く場合は、2回両替するということになります。その度に手数料(英語:commission)(コミッション)(銀行に支払う手数料もあります)をとられることになり、T/Cのい取りレートのこともあり、計算しますと、一万円の元金が8,500円位になることがありました。

 そこで、翌年の欧州旅行では、その国で使い切れるだけの通貨のT/Cを持って行くことにしました。例えば、当時、英国のUKポンド(英語: pound sterling)(£)、ドイツマルク(独語: Deutsche Mark, DM)、そして、フランス・フラン(仏[フランス]語:Franc français)等のT/Cを日本で購入しました。西(スペイン)のペセタ (peseta)や伊(イタリア)のイタリア・リラ(Lira italiana)のT/Cを購入するためには、それぞれの国の銀行の日本国内支店に行く必要がありました。

 御承知のように、日本円(¥)は、日本国内で一番強いです。よって、日本円(¥)で外貨を購入するのでしたら、日本国内で行うことが一番得です。但し、外貨のT/Cを使い切れない場合は、帰国後、その外貨のT/Cを再度、両替するというかたちで日本円(¥)に戻さなければなりません。そこで、前述致しましたように、使い切れるだけの外貨のT/Cを持って行くことにしました。現在でしたら、前述の独、仏、西、そして、伊はユーロ(EUR)導入済みの欧州連合加盟国ですから、これらの国々に旅行する場合は、一つの通貨を考えるだけで済みますね。

 当時、日本円(¥)は強かったので、日本円(¥)のT/Cも持って行きました。これでしたら、たとえ、使い切れなくても、T/Cを購入するときの1%の手数料(commission)(コミッション)のみで、帰国後、日本円(¥)に戻すことが出来ました。更に、リスク(英語:risk) はありますが、日本円の現金も少し持って行きました。


 ときに、8月24日【日】午前10:15、アムステルダムに到着しました。英国と欧州(ヨーロッパ)大陸とでは時差が1時間ありますので、自分の時計より1時間早く着き、あせりました。

 このようなことは、イスタンブールからアテネ迄、格安航空券であるオリンピック航空(当時、英語名:Olympic Airlines、現在、Olympic Air)(ギリシャの航空会社)に搭乗しましたときにも、時差が1時間あり、同様の思いをしました。

 日本国内を旅行致しましても、時差は御座いませんので、このようなことは慣れていません。また、遠距離の国際線に搭乗致しますときは、予(あらかじ)め予想していますが、隣国で、時差が1時間位ですと、うっかり致しますね。


 また、同じくハプニング[happening]と致しましては、アムステルダムに到着致しましたときに、バスに預けた荷物がありませんでした。車掌にきくと、ダム広場のholland international officeにあるとのことでした。そこで、5分歩いて行くと、ラッキー(誠に有り難いことに、)ありました。日本ですとバスに預けた荷物は降車する際に受け取りますので、ここでもそのつもりでいました。


 因(ちな)みに、当時は、東京駅の丸の内駅舎はオランダのアムステルダム中央駅をモデルにしたと云われていました。アムステルダム中央駅の写真を下に掲載致します。



オランダ
アムステルダム中央駅



 以上が旅の初めで御座いまして、主に、ユーレイル・パス(当時、欧州[ヨーロッパ]以外の地域で購入出来る、欧州の鉄道のパスのこと。日本にも、日本以外の地域で購入するパスがあると聞きました。)を用いて、二学期が始まる9月9日【火】迄、欧州(ヨーロッパ)中を旅しました。


 旅の終わりは9月9日【火】のバチカンで御座いました。バチカン迄は遠い道程(みちのり)で御座いましたが、バチカンが本日の主な内容で御座います。なお、伊(イタリア)のヴェローナに行きたいと言う学生が居ました。それで、ヴェローナは シェイクスピアの名作の「ロミオ と ジュリエット」の舞台であるので、行きたいと思うのであろうと推測されました。


 昭和61年9月7日【日】の午前5:00に、ローマ・テルミニ駅(伊語:Stazione di Roma Termini)(後日、この駅の構内を夢で見ました。映画でも撮影されている構内です。)に着きました。この駅に関しましては、到着した当初、不思議と想像していた程の感慨は御座いませんでした。

 大阪の人に会い、情報を聞きました。日本でも地図は購入致しておりましたが、まず、現地のローマの地図を買いました。

 2人の日本人に紹介されて、修道院に行きましたら、夏休みで御座いましたので、皆、帰省しているとのことで、修道院の寮を開放していて、部屋が空いているとのことで、快く泊めてくれました。女子寮に泊まることになりました。日本で女子用の部屋のみが空いていると言われましたときには、遠慮致しましたが、海外でしたので、他に宿泊する当てもなく、受けさせて頂きました。英語は通じませんが、なかなか優しいシスターでした。

 当時、伊(イタリア)では、義務教育で、英語の授業が週に一回とのことであり、一般的に、英語を通じさせることは難しいかと存じました。


 ローマ・テルミニ駅から、バチカン市国迄は64番のバスを用いました。このバスの番号を覚える程、何回も利用しました。


 そして、愈々(いよいよ)バチカン美術館 (Musei Vaticani)に入場しました。当時、バチカン美術館の日本語のガイドブックは置いていなくて、英語のガイドブックを購入しました。このガイドブックに、所要時間別の観覧順路が書かれてありましたので、下に添付致します。



バチカン
バチカン美術館のガイドブック


バチカン
バチカン美術館のガイドブック



バチカン
バチカン美術館のガイドブック



 D(黄色)の所要時間5時間の観覧順路を進みました。因(ちな)みに、撮影・可とのことでした。 まず、燭台の画廊(The Gallery of the Candelabra)




バチカン
燭台の画廊




 タペストリー(tapestry)(壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種)の画廊(The Gallery of tapestries )



バチカン
The Gallery of tapestries




 地図の画廊(The Gallery of Maps)


バチカン
地図の画廊


バチカン


バチカン





 ラファエロの間(伊[イタリア]語:Stanze di Raffaello)「聖ペテロの放免



バチカン
聖ペテロの放免



 バチカン美術館内のシスティーナ礼拝堂(伊[イタリア]語: Cappella Sistina)(充分に御承知のように、教科書にも掲載されている、ミケランジェロによる「最後の審判[伊【イタリア】語:Giudizio Universale]」の、有名な壁画がある礼拝堂です。この礼拝堂で、「コンクラーヴェ(ラテン語: Conclave)(教皇選挙)」が行われます。因(ちな)みに、昨年3月、新・ローマ法王・フランシスコ1世が選出されましたね。)の天井画に旧約聖書の絵が描かれています。

 「最後の審判」等の壁画・天井画は、長年のすすで汚れていましたが、日本の支援により1981年から1994年迄に修復作業が行われました。壁画・天井画は洗浄され、約四百数十年前、ミケランジェロが製作した当時の鮮やかな色彩が蘇(よみがえ)りました。下の「最後の審判」の壁画の写真は、修復作業完了前に撮影されました。因(ちな)みに、御承知のように、「最後の審判」の壁画は、フレスコ画です。





バチカン
「最後の審判」の壁画



バチカン
システィーナ礼拝堂の天井画




 この天井画の中に、ヤハウェの神(御承知のように、創世記第一章の天地創造の神ではありません。ユダヤ教の神で御座います。)がアダムに、指と指を合わせて、息吹きを入れている画が御座います。下に、このシスティーナ礼拝堂の天井画の写真を掲載致します。




バチカン
システィーナ礼拝堂の天井画


バチカン
システィーナ礼拝堂の天井画




 下の写真は、システィーナ礼拝堂から見たサンピエトロ広場です。140体の聖人像に囲まれています。




バチカン
サンピエトロ広場



 システィーナ礼拝堂に居(い)ましたら、日本人の神父さん(固有名詞は控[ひか]えて、わかっておりますが、敢[あ]えて割愛させて頂いた方[ほう]がいいと考えさせて頂きました。今迄、機会ある毎[ごと]に、この神父さんのことは感謝の気持ちを伝えて参りました。おそらく、現在では、201人いる枢機卿の中の、かつての1人であるかと思われます。)が見えて、数人の日本人と共に、普段、観覧者が入(はい)れない所に案内してくれるとのことで御座いました。そして、そこの写真を自由に撮影していいとのことで御座いました。すなわち、聖書で有名な「聖ペテロの殉教(逆さ磔)」と「聖パウロの回心」の絵画で御座います。それらの写真を下に掲載致します。




バチカン
「聖ペテロの殉教」



バチカン
聖パウロの回心」



バチカン
聖パウロの回心」



バチカン
聖パウロの回心」




 平成13年夏、京都でのボランティアの帰りに、浄土宗総本山の知恩院(ちおんいん)に行きました。目的の(ひと)つは、「浄土三部経」の(ひと)つである「仏説・観無量寿経」に()かれている「上品上生」の来迎を表した「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を拝見するためでした。しかしながら、普段は 拝観すること (かな)わないのですね。

 上記のように、バチカンでは、誠に有り難いことに、普段、観覧者が入(はい)れない所に案内してもらいました。感謝の印と致しまして、今迄、これらの写真は、去る10月07日(火)の「ボランティア・地域医療」のブログ で記させて頂きました、母校の医学部と某・看護の大学が主催しています地域医療研究会の学部生の方々(かたがた)、そして、10名以上の友人の方々(かたがた)にプリントして、更に、説明を添えて差し上げて参りました。以下の写真も、差し上げました。普段、観覧者が入(はい)れない所の写真で御座います。パオリーナ礼拝堂(The Paolina chapel)の写真が御座います。





バチカン


バチカン



バチカン
パオリーナ礼拝堂




バチカン
パオリーナ礼拝堂





バチカン
パオリーナ礼拝堂






バチカン





 日本人の神父さんから、ローマ教皇の乗るエレベーターと伺いました。一緒に、と勧められました。この写真を下に掲載致します。



バチカン
エレベーター



バチカン


 バチカンの(スイス)衛兵隊には採用基準があるとのことでありまして、

・カトリックのスイス市民

・年齢は19歳から30歳まで
・身長は1.74メートル以上

・言語・三ヶ国語以上話せること(御承知のように、スイスの公用語は、ロマンス語[ロマンシュ語]、独[ドイツ]語、仏[フランス]語、そして、伊[イタリア]語で御座いますので、当たり前で御座いますかね。)

と伺いました。他にもあるかと存じます。





バチカン
スイス衛兵



バチカン
スイス衛兵


 右の方(かた)は、前述した数人の日本人の中の一人で、たまたまシスティーナ礼拝堂で、神父さんにより一緒になった確か宮城県仙台の方(かた)です。

 絵画で遠近法はよく知られていますが、この建物も遠近法が用いられています。両側の柱の太さが奥へ進む程、細くなっています。そのため、実際よりも奥行があるように見えます。


 神父さんによりますと、明後日迄居(い)れば、ローマ教皇・ヨハネ・パウロ2世に拝謁(はいえつ)させてくれるとのことで御座いました。

 しかるに、この翌日、フィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)から帰国する予約が入っていて、既にリコンファーム(英語:reconfirmation)(予約の再確認)も済ませていました。仮に、帰国を先延(さきの)ばしにすると、持っているのは格安航空券で御座いますから、オープン・チケット(帰りの予定が決まっていない航空券)になると、時期が夏ですから、何時(いつ)帰れるかわからないと思われました。しかも、復路・シンガポールで、往路と同様にトランジット (英語:transit)(一時寄港)がありますので、そのために、前述の中堅のホテルを予約していました。

 去る10月11日(土)の「海外のこと」のブログ で、この翌年の夏、パキスタン航空を用いた経験を記させて頂きましたが、この帰国を先延(さきの)ばしにしなかったという判断は適切でした。

 もう一人の日本人の方(かた)は、滞在出来るとのことで御座いましたので、後日、誠に有り難いことに、写真を送ってもらいました。それ以後、この方(かた)とは、直接会うことは御座いませんでした。その写真を下に掲載致します。9月10日【水】撮影になっています。




バチカン
ローマ教皇・ヨハネ・パウロ2世



バチカン
ローマ教皇・ヨハネ・パウロ2世



 神父さんによりますと、前述のヤハウェの神がアダムに、指と指を合わせて、息吹きを入れている、旧約聖書の天井画の絵を、映画E.T.の監督・スティーブン・スピルバーグは、自らの映画に取り入れているとのことで御座いました。
 また、ローマ帝国の第5代皇帝である暴君・ネロの話しになりました。

 なお、後日 この神父さんに 感謝の 国際便の便りを送りました。ところが、届かずに 下の画像のように 戻ってきてしまいました。また、ロンドンで お世話になった 日本人男性への 感謝の 国際便の便りも、届かずに 下の画像のように 戻ってきてしまいました。

 


上記のように、届かずに 戻ってきた そのこの神父さんへの感謝の 国際便の便り 



上記のように、届かずに 戻ってきた 日本人男性への 感謝の 国際便の便り



 当時、伊(イタリア)の通貨はイタリア・リラ(Lira italiana)でした。
 9月9日【火】、伊(イタリア)・ローマを去る際に、前述の修道院の寮に二泊させてもらった年配のシスターに宿泊代を支払うときに、同・シスターから、伊語で、「チャオ!」と言われたのが、年配の方から言われたにもかかわらず、可愛らしくて、印象的で御座いました。
 今、想起致しますと、マザーテレサ氏の表情に似ていたような気が致しました。唯々感謝。(^-^)